ガンダムAGE解説を終えて


 甘く見ていた、というのが正直な感想です。
 AGE解説の第1話を投稿したのが2012年の10月。当初は長くても1年ほどで終わると高を括っていたのが、書き進めるほどに書きたいことが膨らんでいき、気が付けば1年半以上。数えてませんが、書いた分量は軽く単行本何冊分かに相当するでしょう。よもやこんな大仕事になるとは思っていませんでした。
 そして自分の中の引きだしをこれほど総ざらえする事になるとも、当初は思っていませんでした。結果的にこのAGE解説では、筆者=私がこれまでガンダムについて見たり読んだり考えたりした事を、ほとんどすべてつぎ込む事になりました。
 仮に私の、AGEの展開を逐一歴代ガンダムに結び付けて解釈する見方読み方がまったくこじ付けの穿ちすぎであったとしても、これほど多くの歴代ガンダムのテーマや問題意識に何らかの形で連関させられるフックを持っているという事は、AGEという作品の多様性の証左です。疑似家族の問題からテロリズムから、はては宇宙海賊にデビルガンダムまで、これほど歴代ガンダム作品のモチーフやテーマを幅広く、また偏らずに取り込もうとした作品はありませんでした。


 見ようによっては、私は単にAGEをダシにして歴代ガンダム論をしていた、とも言えます。しかし仮にそうだとしても、AGEほど、偏りなく俯瞰的にすべてのガンダムを論じられる「ダシ」は、どこにも存在しませんでした。少なくとも私にとっては。


 本文中に何度も書いたように、AGEは出来の良い作品ではありません。純粋な娯楽として見る限り、盛り上げ所でつまずいてばかり、エンタメロボットアニメとしては致命的とも言える欠点を抱えた作品です。そのことに異論はない。
 ただ、AGEがやって見せた歴代ガンダム作品の批評的な総括と、いくつかの新しいテーマ・問題意識の提示は、今後生まれるであろう新しいガンダムシリーズ作品にとって、必ず有用なヒントになり得るだろうと、私は信じています。
 この作品が持つ意外な豊穣さを、一人でも多くの方に伝えられたなら望外の喜びです。



 なお。
 今回のAGE解説につきまして、言及した作品名、キャラクター名、MS名などから逆引きできる索引を作りました。いろいろ迷いましたが、こちらを試しに有料で公開してみたいと思います。
 本文はすべてフリーで読めるので、こちらは事実上の投げ銭という事になります。もしここまでの記事の内容に報いてくださる方がいらっしゃいましたら、是非よろしくお願いします。
 また、せっかく有料という形をとるので、索引の他にも、この度の全解説記事に出て来たキャラクター名、MS名を数え上げ、最も多く言及された人物、MSのトップ10なども紹介しています。この記事で、特に多く名前の登場した人物は一体誰だったのか、気になる方も是非どうぞ。
 お値段は300円。
https://note.mu/zsphere/n/n92159c23fa10
↑こちらからお願いします。購入に際してnoteというサイトへの無料登録が必要なのが若干煩雑ですが……よろしければ、ということで。



 最後になりましたが。
 この解説記事を書くにあたって、様々なサービス、ウェブ上の記事、読者の方々のお世話になりました。
 バンダイチャンネルは作品の視聴、場面の確認、スクリーンショット撮影で大いに助けられました。必要なスクリーンショットのためにいちいちレンタルビデオ店に出向く、などという事をしていたら、間違いなくこの記事は完結しなかったでしょう。一応その御恩に報いるべく、この記事執筆中は有料会員に登録させていただいておりました(笑)。
 また、ガンダムAGE作中セリフにつきましては、MAZ@ブログさんの台詞集を使用させていただいておりました。こちらのお蔭で、執筆時間の大幅な短縮が叶いました。
 その他、初代ガンダム逆シャア、∀のセリフはこちら、その他ガンダムシリーズのセリフについてはこちらなども参考にさせていただきました。大変助かりました。


 また、当ブログにコメントをくださった方、読みに来てくださったすべての方にも感謝いたします。間違いなく、この連載を完結するためのモチベーションを保つことが出来たのは皆様のお蔭です。ありがとうございました。


 それでは。ガンダムシリーズが今後もますます発展する事を祈って。

 機動戦士ガンダムAGE 第49話「長き旅の終わり」

     ▼あらすじ


 ゼハート・ガレットの戦死を知ったラ・グラミス司令ファルク・オクラムドは、最強のXラウンダーであるゼラ・ギンスと、その搭乗MSヴェイガンギアの出撃を命じる。しかしヴェイガンギアはシドを取り込んで暴走、逆にラ・グラミスを攻撃してセカンドムーン崩壊の危機を招いてしまう。
 一方、これを機にフリットはプラズマダイバーミサイルでセカンドムーンを撃ち「ヴェイガンを殲滅」しようとするが、キオの必死の説得によって、敵味方全軍へセカンドムーン救済のための協力を要請する。キオ・アスノは暴走して見境なく攻撃をかけるヴェイガンギア・シドに対してFX−バーストを発動させ、これを撃破、パイロットのゼラ・ギンスを救出するのだった。
 これによって長い戦いは終わり、AGEシステムとEXA-DBの技術の応用によって火星圏からマーズ・レイが払拭され、ガンダム記念館に展示されるAGE-1はフリット銅像と共に、ついに「救世主」となったのだった。




      ▼見どころ


 ついに、ついに最終話です。アスノ家三世代にわたる、ヴェイガンとの戦いに終止符が打たれます。
 一体この最終話において、何が起こったのか。全49話にわたってAGEという作品が何を示したのか。ゆっくりと一つ一つ、確認していきましょう。
 まず何よりも押さえておかなければならないのは、ガンダムAGE最終決戦において残った「最後の敵」が、AGEにおいては二人いた事です。一人はもちろん、ヴェイガンギアを操るゼラ・ギンス。そしてもう一人は――フリット・アスノです。
 劇中に登場した順序とは多少前後しますが、まずはフリットを巡るやり取りを見ていきます。



      ▽最後の敵:フリット・アスノ


 以前書いたように、フリットが公言する「ヴェイガン殲滅」は、歴代ガンダムにおいては敵役が掲げるような目的・目標でした。
 無差別大量虐殺は決して正当化されず、それをした者は無条件に「倒すべき敵」認定をされる。それは宇宙世紀か非宇宙世紀か、公式作品か外伝作品かに関わらず、歴代ガンダムシリーズが共有してきた数少ない倫理基準です。ジオン公国コロニー落としから、ティターンズのG3ガスやコロニーレーザー、最近では『ガンダムSEED地球連合軍の核攻撃や『SEED Destiny』のレクイエム、アロウズオートマトンメメント・モリなどなど。アナベル・ガトーのカッコよさに大きな焦点を当てた『0083』ですら、その目的が地球へのコロニー落としである故に、主人公はガトーではなくそれに対抗する連邦のパイロット、コウ・ウラキでした。
 基本的にこの件についてだけは、歴代ガンダムを見渡してもほぼ例外がありません。


 そして今、ヴェイガンギアの攻撃が途切れた事で、フリットはその大量虐殺へと手をかけようとします。



「私はこの日のためにやってきたのだ……これで、我々の勝利だ!」


 プラズマダイバーミサイルを持ち出して、それをセカンドムーンへと向けるフリット。キオ編で描かれたように、セカンドムーン内部には多くの非戦闘員がおり、フリットがこれを発射すれば紛れもなく無差別大量虐殺となります。そしてここで、



 アイキャッチ
 CMに入る前の「引き」に当たる部分ですが、ここで主人公側のピンチではなく、むしろ主人公の一人が攻撃をしてしまうかもしれないというハラハラ感で「引き」を作っているわけで、最後までなんとも捻くれた構成です。


 フリット・アスノは、少年時代にUE=ヴェイガンの襲撃によって家族を失い、また初めて心を許した相手であるユリン・ルシェルをも失いました。そのほかにも、第30話の解説で触れたように、ヴェイガンは軍事基地や戦闘員よりも、市街地や非戦闘員を積極的に狙うテロリスト的な性格を強く持つ勢力であり、そういう意味で「無差別大量虐殺」を最初にやっているのは間違いなくヴェイガンの側です。そこは斟酌されなければなりませんが……しかしだからといって、ここでフリットの行為は正当化されてはいません。
「無差別大量虐殺をした者が無条件で倒すべき敵になる」ならば、両軍がお互いに大量虐殺を実行したらどうなるかといえば、「どちらも敵になる」という事を示したのが『ガンダムSEED』シリーズです。連合とザフト、双方が互いを大量破壊兵器で攻撃しようと画策した結果、キラ・ヤマトラクス・クラインたちはそのどちらの味方にもならず第三勢力化したのでした。そのひそみに倣う限り、フリットがこの引き金を引いてしまえば、その瞬間にキオたちとフリットは決裂せざるを得なくなります。
 そのようなフリットを止めるために、キオとアセムがプラズマダイバーミサイルを構えるAGE-1の元へ駆けつけます。



 そして、このシーン。
 キオは身を挺して、プラズマダイバーミサイルの前に立ちふさがります。そして既に考察ブログなどで指摘している方もいるように、この場面でキオがAGE-FXにとらせた、両手を広げるこのポーズは、



 かつてフリットが、第3話で、デシルのゼダスからノーラの住民を守るためにAGE-1にとらせたポーズそのものでした。
 そして第24話解説で書いたように、アセム編においてはロマリーが、ゼハートを守るためにこのポーズをしています。アセム編の中で唯一、「ゼハートがたとえヴェイガンであっても庇う」、という意志を見せたロマリー。その髪色を継ぐキオ・アスノが、ここでセカンドムーンを守るために、両手を広げるこのポーズをして見せている事になります。
 敵と味方の境界が、ここで大きく反転します。フリットにとっては、自身がデシルと同じ襲撃者の立場に立たされた事になり、その衝撃は大きく。一方のキオにとっては、この瞬間フリットこそが「立ち向かうべき敵」になっています。
 実際、ここはキオが単に祖父に泣きついている、というようなシーンではありません。よく見るとわかるように、



 両手を広げて一見無防備なAGE-FXですが、その左右にCファンネルが展開されています。これは攻撃意志です。キオは孫として祖父にただ懇願しているように見えますが、それが聞き遂げられなかった場合の決意をも、フリットに見せています。
 同時に、これは歴代ガンダムでも珍しい、ビット、ファンネルの使い方でもあります。遠隔操作できる攻撃端末だからこそ、攻撃の意志を留保したまま、「両手を広げて何かを庇う」という意志表示のジェスチャーを機体に行わせて伝えることが出来る。これは、ファンネルやビットのような攻撃端末についての、キオ独自の使い方です。歴代ガンダム作品に、ビットおよびファンネルをこのように使用した者は(私の記憶する限り)居なかったはずです。
(念のため付け加えますと、「Xラウンダー能力で直接伝えれば良いじゃん」、と思われるかも知れませんが、テレパシーによる意思疎通に依存したコミュニケーションの限界は、歴代ガンダムでも、またAGEでは月面のジラード・スプリガン相手のやり取りでも、既に示されています。その上で、ビットやファンネル的なものを意思疎通に役立てる、地味だけれど新しい工夫をキオは示しているという事です)


 そして、キオとアセムによってフリットの説得が行われます。



「やめてじいちゃん!」
「何をしている!? そこをどけ!」
「もうやめようよ!」
「みんなで探すんだ。一緒に生きていく道を」
「できるものか! ヤツらは我々から何もかも奪っていった。わたしは誓ったのだ! 大切なものを守るために、救世主になってみせるとっ…!」
「火星圏の人たちだって苦しんだんだ。生きるためにもがいてきたんだよ!」



「ヤツらだって血の通った人間だ。死の恐怖に押し潰されないよう地球を呪い、そして、地球を奪うという希望がなければ生きていけなかった」
「これがじいちゃんがなろうとした救世主なの!?」
「私は! 私が守れなかった者たちのためにやってきたのだ!」



「違う! 絶対に違う! その人たちだって、そんなこと望んでない!」


 キオは火星での経験を、アセムはゼハートとの対話を通して得たものを、それぞれフリットへの言葉として展開しています。段取りじみてしまいそうなところですが、テンポが良いのでそうとは思わせない場面作りがなされています。


 そして、肝心なキオの説得の言葉。
「復讐なんて、死んだ人たちは望んでいない」というのはこの手の説得シーンのいわば常套句であり、ありきたりなセリフです。これで鼻白んだ人も少なくないかもしれません。しかし、再三これまで述べてきたように、AGEという作品においては一見ありきたりに見える展開にこそ、考察の余地があります。
 キオがここで「違う! 絶対に違う!」と否定していること。それはフリットの「守れなかった者たちのためにやってきた」という言葉でした。守れなかった者たち、というのがつまり戦いの過程で死んでいった者たちだとすると、そうした者たちのために戦ってきたというフリットは、実は非常に似て来てしまっています――終盤のゼハートに。
 第48話解説で述べたように、ゼハートやフラムは、これまでの作戦で犠牲になった兵たちがいる故に、今さらプロジェクト・エデンを断念するわけにはいかないと言い聞かせて戦い、そして破滅してしまったのでした。実は、フリットもそれと同じ瀬戸際まで来ていたのです。



 フリットが幻視した、ブルーザー司令やドン・ボヤージ、ウルフ、グルーデックなどの死者たちの姿。この場面は実は、



 ゼハートを責めたてる死者たちと、紙一重です。
 キオの言う「その人たちだって、そんな事望んでない!」というセリフは、フリットを、ゼハートが落ち込んだ「死者のプレッシャー」から切り離す言葉でした。
 その上で、では「守れなかった者たち」のために戦ってきたというフリットの言葉を否定するならば、では彼はなぜ戦い続けて来たのか。キオは第44話で、以下のように言っています。



「じいちゃんは憎しみに駆られているだけじゃないか! そんなの救世主じゃない!」
 つまり、フリットは個人的な憎悪によって戦っているだけだ、という指摘です。そして最終話で、キオのXラウンダー能力を契機にフリットとユリンの会話が展開されますが、そこで二人の間に交わされた会話にも、フリット自身の気持ちの問題が提示されます。



「あいつらだって苦しいのはわかってるさ、でも……!」
「ヤツらはユリンを、それに……この僕だって君を……!」
「僕はユリンを守れなかった!」



「ありがとう、優しいフリット……でも、もういいんだよ……」
「いいんだよ……許してあげて。みんなを、そして……あなた自身を……


 フリットは、ユリンをはじめとする、戦いの中で死んでいった人たちを「守れなかった」事に対する自責の念から、戦っていたと半ば告白しています。そしてそれを、ユリンが「もういいんだよ、許してあげて」と応えている。
 そう、ここに来て、話はフリットの内面の葛藤、フリット個人の感情の問題に帰着しています。


 第44話の解説にて、初代ガンダムが主人公を一介の兵士に設定したことから、戦争全体を問う事が困難になった事を踏まえ、Zガンダム以降では主人公が敵軍の主導者と直接会話を交わすなどして、戦争を指揮する側を問うという問題意識を持つようになった、と述べました。では、そのような場面を描くことで、ガンダムの主人公たちは戦争の主導者のどのような問題点を炙り出そうとしたのでしょうか。
 結論から言えば、富野監督の手になるガンダム作品において、敵軍を指揮する指導者たちは、大義として語ってきた戦争目的の中に、個人的な感情があるのではないか」という事を暴露されてきました
 パプテマス・シロッコは言います。



「天才の足を引っ張ることしか出来なかった俗人どもに、何が出来た? 常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ!」


 シャア・アズナブルは言います。



「命が惜しかったら、貴様にサイコフレームの情報など与えるものか」
「なんだと?」
情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか? しかし、これはナンセンスだ」
「馬鹿にして! そうやって貴様は、永遠に他人を見下すことしかしないんだ」
 このシャアのセリフは、かつてナナイ・ミゲルに指摘された「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」という私情を、半ば肯定してしまっています。


 さらに、コミック『機動戦士クロスボーンガンダム』の中で、トビア・アロナクスと交戦したクラックス・ドゥガチはこのように言います。

「そうだとも! 真の人類の未来? 地球不要論!? そんなものは言葉の飾りだっ! わしが真に願ってやまぬものは唯ひとつ! 紅蓮の炎に焼かれて消える 地球そのものだ──っ」


 そして、『∀ガンダム』最終決戦にて、ギム・ギンガナムは言います。



「あなたが戦う力を守ってこられたのは、ディアナ様をお守りするという誇りがあったからでしょう !?」
「その誇りをくれたのがディアナなら、奪ったのもディアナなのだ。ねぎらいの言葉ひとつなく 、地球へ降りたんだよ!」


 劇場版では、このギンガナムのセリフに対して、ロランは「甘ったれがぁ!」と応じます。


 富野ガンダムの「最後の敵」たちが、皆、このように「振りかざした大義の陰に隠れた私情」を吐露し、あるいは指摘され、その末に敗れていく展開になっている事は、富野由悠季監督がガンダムで描いてきた重要な問題意識の表れと見る必要があります。
 『ガンダムAGE』においては、キオ・アスノがこの役割を担っています。第39話では、キオはイゼルカントと対話を重ねる事で、イゼルカントに失った息子ロミの姿を思い起こさせ、「人類の未来のため」という公人としての主張にヒビを入れています。
 そして、最終決戦でキオ・アスノが、歴代ガンダム主人公が担ってきた役割を果たすのは、祖父フリット・アスノに対してでした。キオもまた、フリットの「皆をヴェイガンから守るため」という戦う目的の陰にある、フリット自身の気持ちを浮き彫りにする事に成功したのでした。


 しかし。
Zガンダム』以降の富野ガンダムにおいて、自分の私情を大義にすり替えて人々を戦いに駆り立てていた指導者たちは、その事を暴露される事で戦いに敗北し、死んでいくという展開に追い込まれました。90年代までのガンダムならば、フリットもまたその仲間入りをせざるを得なかったかも知れません。


 しかし。キオ・アスノゼロ年代ガンダム世代です
 第47話解説で触れたように、ゼロ年代ガンダムの主人公たちは、その時代性から、敵や味方の内面感情の問題に多く向き合わざるを得ませんでした。21世紀の戦争には、根強い憎悪感情の影響がより大きいからです。
 そうであるが故に、キラ・ヤマトアスラン・ザラキラ・ヤマトシン・アスカなど、互いの感情に決着をつけ、やがては和解していく事に物語の大きな重点が置かれていました。
 キオ・アスノをその系譜に位置付けるならば、戦いの主導者の内面に個人的な感情の問題を見つけた先に、まだ出来る事があります。私的な感情問題に向き合い、粘り強く説得していくという方法を、キオの世代は持っていました。


 一方、ゼロ年代ガンダム世代のウィークポイントは、そうした感情を巡る問題を解決していくやり方が、戦争という大状況になかなかアクセスできない事でした。キラやラクスたちは、連合とザフトの戦争状況に介入していきますが、彼らがどれほど卓越した戦力と能力を持っていると言っても、結局戦争という行為全体を止めるには至っていません。SEEDシリーズに対して批判的な視聴者が、「結局は対症療法的に目の前で起こった状況に介入しているだけ」と指摘しているのは、その意味では正しい。
 「思いだけでも、力だけでも駄目なのです」。キオもまた、人一倍の「思い」を持ちながら、それを大状況を変えられるほどの「力」に変えられずに迷走して来ました。AGE-FXは作中でもかなり強力な戦力として描写されていますが、しかし両軍の戦闘を終わらせるには程遠い。そしてまた、キオには戦闘以外で戦争の進行をどうにかできるような言葉の力、行動の力――すなわち政治力も持ち合わせていません。
 そんなキオが最後に成し遂げた事、それは、「力」を持つ身内に向き合ってその感情問題を解き放ち、自らの「思い」を通す事でした。



「しかし、私が撃たなくとも、まもなくセカンドムーンは崩壊する」
「だったら助けようよ!」
「方法は1つだ。あの球体構造物をセカンドムーンから直接切り離すしかない!」
「あれだけの数だ。どう考えても……まさか!」
「やれるよ、みんなが力を合わせれば!」


 そしてここで、フリットはアルグレアスに協力を仰ぎ、連邦、ヴェイガン両軍に協力要請の呼びかけを行います。



「聞こえるか、地球圏と火星圏の全ての戦士たちよ。私の声が届いている、全モビルスーツに告ぐ。戦闘をやめて聞いてほしい。このままでは、ヴェイガンの移動コロニーセカンドムーンは崩壊し、多くの命が失われる。これを救うには、誘爆を始めている球体ブロックを、切り離すしかない。もはや時間はない。ここにいる全ての者たちの協力がなければ、間に合わないのだ。地球連邦軍と、ヴェイガン全ての戦士たちに告ぐ」



「多くの命を救うため、君たちの協力を要請する!」


 この呼びかけの最中、フリットはセカンドムーンに撃ちこむつもりだったプラズマダイバーミサイルを、機体から見て上へ、虚空へ発射します。この爆発がフリットの呼びかけを強調する信号弾のような役割を果たし、なおかつフリット世代にとっての最後の一撃、



 ファーストガンダムのラストシューティングのオマージュにもなっています
 この瞬間、殺傷のための大量破壊兵器が、セカンドムーン救済の呼びかけの合図に変わりました。その意味の反転は、核兵器を月面都市を救うために使った『∀ガンダムロラン・セアック



「人の英知が生み出した物なら、人を救って見せろ!」
 この場面を思い起こさせます。
 プラズマダイバーミサイルが使い方次第でその意味を大きく変えたと同時に、この瞬間が「ヴェイガン殲滅」を掲げたフリットの意志が反転した瞬間でもありました。そしてフリットの呼びかけは確かに、キオ・アスノには実現できない「力」を持っていました。


 「Blinking Shadow」のさわKさんが、このフリットの呼びかけを詳細に分析して、連邦ヴェイガン双方のメンツを巧妙に立てつつ、両軍が自然に休戦に至れるよう慎重に選ばれた言葉だった事を考察されています
 第30話の解説で、フリットがゲーム世代のキオ相手にあえて「魔王」という言葉を使うなど、相手の立場に合わせて使う言葉を選ぶ柔軟性を持っている、という事を書きましたが、この両軍への呼びかけはより繊細な、フリットの「言葉選び」の結果です。
 そして、このように最適な言葉を選び、人を説得する能力こそが「政治力」の一端であり、キオ・アスノが持っていなかった、経験を重ねたフリットならばこその力の発露なのでした。


 最終回で何が起こったのか。
 キオがフリットの精神を解放し、そしてフリットが持てる力でキオの思いを実現した。そのように読み取る事が出来ます。


 フリット編において、人類が一度もUEを撃退できなかった状態から、フリットはAGEシステムとガンダムによってどうにか五分の状態まで持ち込みました。
 続くアセムがMSクラブで殺し合いではない競技としてのMSを扱い、そのお蔭でヴェイガンの代表であるゼハート・ガレットと交流し、また父とは違う生き方を見つけていきました。しかしアセムがそのような生き方を選ぶ事ができたのは、フリットが奮起して連邦側にそれほどの余裕を持たせたからでもあります。
 次いでキオはフリットの元で戦いを覚え、やがて火星圏の実情を見る事で地球とヴェイガン双方の事を考えられるようになりました。そこで賛同者の少ないキオなりのやり方、意志の通し方を一人ずっと応援し続けたのがアセムです。それはアセム自身が独力で父フリットと違う生き方を見出し貫く経験をしていたからこそ、キオに対して「やってみろ」と言う事が出来たという事です。
 最終的に、キオによってフリットが精神的な重荷から救われ、キオの意志にフリットが応じる事で事態が収束に向かう。


 フリットの勝ち取ったものでアセムが救われ、アセムの育んだものでキオが救われ、そしてキオがフリットを救う。それが、ガンダムAGEの描いた「三世代の物語」です。


 しかし、フリットの呼びかけで収束に向かいかけた連邦とヴェイガンの戦争は、まだ余談を許しません。キオ・アスノが最後に立ち向かう敵が、もう一人いたからです。



      ▽最後の敵:ゼラ・ギンス


 話は少し遡ります。ゼハート・ガレットの戦死を知ったラ・グラミス司令ファルク・オクラムドは、事態を打開するためにゼラ・ギンスの出撃を命じます。



「ゼラ・ギンスの力、今ここで見せてもらう……!」
 ここまで、何度か姿だけは登場していたゼラが、最終回冒頭でついに出撃します。乗り込むのは



 ヴェイガンギア。
 機体名に「ヴェイガン」を含むところから、ちょうどファーストガンダムにおける



 ジオングを彷彿させます。
 もっとも、その外見はあからさまに異様です。これまでのヴェイガンMSとも似通っておらず、また歴代ガンダムでもこれと似たデザインの機体を探すのは難しいでしょう(個人的に、富野監督の『オーバーマン キングゲイナー』に登場するオーバーマンにどことなくデザインコンセプトが似ている気がするのですが、デザイン関係にはうといのでどこがどうとはあまり言えず)。
 そしてパイロットのゼラ・ギンスですが、何やら大仰な説明は再三されています。この回でも



「イゼルカント様の遺伝子を受け継ぎ、最高のXラウンダー能力を有する、人の心を持たぬ戦士……」
 とオクラムドの発言があります。
 それにしても、プロジェクト・エデンが「人が人であるための」世界を手に入れる計画であるのに、その切り札が「人の心を持たぬ」者である辺りに、イゼルカントという人の奇妙な一貫性が見え隠れしています。ヴェイガンはXラウンダー能力を強制的に引き出すミューセルのような危険な道具を使い、Xラウンダー能力を持ったパイロットたちを実戦投入したりしていますが、その割にイゼルカント本人は「Xラウンダーはむしろ人の退化した姿」などと言ったりするわけで、彼にとっての理想郷の住人から遠い存在ばかりをあえて重用している事になります。その真意は、もはや人それぞれの解釈にゆだねるしかないかと思いますが……。


 重要なのは、このゼラ・ギンスがキャラクターとして動き始めたのは実質この最終回から、という事です。当然、キオたち連邦側とも、ヴェイガンの中ですらほとんどゼラとの接触がなく、事実上の初登場人物がいきなり「最後の敵」になってしまっているのでしたフリットやアセム、キオたちの誰とも因縁らしい因縁もなく、彼が最後の敵でなければならない必然性のようなものも感じられません。
 この辺り、エンターテインメント的な盛り上がりに欠けると批判されるのは仕方がないところです。


 で、例によって「なぜこのような構成になっているのか」という話をするわけですが。
 ゼラのセリフは極めて少ないのですが、その数少ないセリフは、歴代ガンダムを見て来た視聴者にとっては既視感のあるものではなかったでしょうか。



ガンダム……倒す!」


 また、セカンドムーン救済のために連邦とヴェイガンが協力し始め、キオに「もう戦いは終わったんだ」と言われた際にも、



「終わっていない……ガンダムと全ての連邦軍モビルスーツを、殲滅……!」
 淡々と答えています。
 このような形で、「人の心を持たず」、ただ敵MS(ガンダム)の倒す事だけを刷り込まれたキャラクターは、洗脳状態の強化人間の描写などによく使われていた表現でした。
ガンダムZZ』では、ジュドー・アーシタに懐いてはしゃいでいたエルピー・プルが、洗脳状態でキュベレイMk−II に乗って現れ、ジュドーを戸惑わせます。



「お前は敵だ……!」
 このような、刷り込みによって戦闘を強制されたパイロットたちは、歴代ガンダムにおいては利用される存在でした。そして、大抵は使い捨てにされるような末端兵であり、大局に影響を及ぼす存在ではありませんでした。フォウ・ムラサメキリマンジャロ基地でジャミトフ・ハイマン脱出のための盾にされたり、先のエルピー・プルも戦闘中に地球の重力に引かれて戻れなくなるとグレミー・トトにあっさり見捨てられたりしています。
 ゼラもそうした系譜に連なる存在なのですが、しかし最終盤の切り札として登場した彼は、解き放ったヴェイガン側にすら制御不能になり、むしろセカンドムーン崩壊の危機という自滅のきっかけを作ってしまいます。
 一体、この展開は何を示唆しているのでしょうか。


 実のところ、鍵になるのは「主人公たちと何の因縁もない」という事だと思うのです。
 ゼラは、アスノ家の人たちと何の接触もありませんし、ガンダムと戦った事はもちろん接触した事もない。ゼラ個人にガンダムを目の敵にする理由はありません。
 これはフリットに象徴されていた問題とは全く別の問題です。その個人には相手と敵対する理由になるどんな実体験も存在しないのに、なお相手を敵視し排斥しようとする意志。不合理なようですが、現代に照らしても決して無視できない問題です。


 たとえば、ヨーロッパに生まれヨーロッパで暮らす(多くは生活の苦しい)キリスト教徒が、インターネットなどでイスラム教過激派の発する情報や思想に触れて自らもイスラム過激派になる、というケースが近年問題視されていたりします。
 また(ややこしくなる上にガンダムから離れすぎるので、あまり日本と近隣諸国との話はここではしたくないのですが)先の大戦を生身で経験した世代はどんどん少なくなってきているにも関わらず、日本とアジア諸国やその住民の間では未だに先の大戦の問題が大きなウェイトを占めています。


 歴代のガンダム作品においては、基本的に戦争はどういう形であれ戦闘が収束し、停戦の形に漕ぎ着けられればそこで話は一区切り、ストーリーも終了となっていました。「戦いを終わらせる」ことが多くの作品において目的として語られている以上、それは当然のことのように見えました。
 しかし実際には、一つの戦争が終わったとしても、それまで対立していた人々、勢力、国々の間にはなおも難しい問題が残り続けます。時には、消え去らない反感が暴発する事もあります。
 宇宙世紀ガンダムにおいて、『0083』に描かれたようなジオン残党の度重なる活動が、視聴者に違和感なく受け入れられたのも、「戦争が終わったから何もかも万事解決」というわけにはなかなかいかない、という事を薄々知っていたからでしょう。
ガンダムUC』において、ガランシェールの艦長を務めるスベロア・ジンネマンは言います。



「怨念返しの何が悪い! 俺たちの戦争はまだ終わっちゃいないんだ!!」


 そして、ロニ・ガーベイは言います。



「子供が親の願いに呑まれるのは、世のさだめなんだよバナージ……私は間違っていないッ!」
「それは願いなんかじゃない、呪いだ!!」
「同じだ!! 託されたことを為す、それが親に血肉を与えられた子の……血の役目なんだよッ!! お前のその力も、親の与えたものだろうに!!」
「……!」
「これは……! 私の戦争なんだァーー!!」


 アニメ版のロニは、自らではなく、両親が理不尽に殺された事の復讐のためにシャンブロを駆り、町を蹂躪します。既に連邦とジオンとの戦争は公的には終わっていたとしても、それだけですべてが終わるわけではない。特に、21世紀の戦争においてはその事が顕著です。『ガンダムUC』もまた、そうした現代的な問題には鋭敏に反応し、このような脚本へと結実させています。


 既に連邦とヴェイガンの間には休戦が半ば以上成立し、「戦いは終わった」にも関わらず、「ガンダムと連邦MSを殲滅する」というゼラ・ギンスの意志だけが遊離し、ようやく端緒を見つけることが出来た「戦いの終り」に対して大きな脅威となっていきます
 しかもそこに、



 シドが融合します


 第45話解説にて、シドを試みに「膨れ上がる軍需産業の隠喩」ではないかと述べました。個々の国が戦争をする事情以外に、構造的に戦争へのバイアスをかけるシステムとしてのEXA-DBとシド。
 これも数ある解釈の一つに過ぎませんが、上記のような「怨念返しの気分を抱えている勢力」に「武器を融通する事で利潤をあげる勢力」が加担して事態が悪化する、といったような事は、わりとよく耳にするパターンです。
 たとえば、ヴェイガンギア・シドをそういうメタファーとして読んでみる、という見方もアリなのではないかと。


 なお、ガンダムAGEが単に表面的な戦闘の収束だけでなく、その先の「戦後処理」までが「戦いを終わらせる事」であると認識していたという点については、後に述べます。


 いずれどのような解釈をとるにせよ、このヴェイガンギア・シドとゼラ・ギンスが、キオ・アスノにとっての最後の敵となりました。フリットは、このゼラへの対処をキオに一任。この物語最後の戦闘が繰り広げられます。
 そして、この戦闘は極めてスリリングで手に汗握る内容のものです……ただしエンタメとしてではなく、物語上の意味において、ですが。


 残念ながらこれも認めざるを得ないところなのですが、この最終決戦もことさら歴代ガンダムに比べて、その戦闘描写や段取りの面で盛り上がったり、熱くなれたり、というほどの内容になっていません。作画は終始素晴らしいのですが、物語を盛り上げる細かな段取りに失敗し続けています。
 たとえば、ヴェイガンギアに挑もうとするキオに、海賊船バロノークから新しい武器が撃ち出されます。



 その名もダイダルバズーカ、とロディさんは自信満々に言うのですが……。


 この武器、劇中でとうとう一発も命中しません。ヴェイガンギア・シドに痛打を与える事はもちろん、セカンドムーンからラ・グラミスを切り離す役に立っているカットもありません。そのまま、ゼラとの戦闘の最中に破壊されてしまいます。
 いくらなんでもあんまりな展開で、わざわざ尺を割いて鳴り物入りで登場させた武器や新装備の扱いとしては酷いと言わざるを得ません。正直に言えば、こういうところで視聴者を楽しませ熱くさせる展開にもう少し気配りさえしていれば、AGEという作品の世評ももう少し高かったはずで、こういうところについてはただ残念と言うしかないです。
 なんでこんな変な事になっているかというと、おそらくは、後述するようにエピローグでAGEシステムが重要な役割を果たすため、「ディーヴァは沈んだけれどAGEシステムはまだ使える」事を劇中に示しておくためだったのではないかと筆者は考えています。
 まぁそれにしても、もう少しやり方はあったはずですが。


 そのような内容でありながら、何が「スリリング」なのか――といえば、これはキオ・アスノの物語上の立ち位置が最終決戦の展開に大きくかかっているからです。この点を考えるには、フリット編第8話、ファーデーンで起こった出来事を重ねて見る必要があります。



 第8話解説で詳しく見たように、フリットはザラムとエウバといういがみ合う二つの勢力に対して、「ぼくたちの本当の敵はUEだ!」と説得し、協力してUEを撃退する中でこの両勢力を和解させる事に成功しました。これは少年フリットにとって輝かしい成功体験なのですが……しかしザラムとエウバを和解させるために共通の敵としてUE=ヴェイガンを置いた結果、今度は「連邦vsヴェイガン」という対立軸の中心に位置してしまい、そこから逃れる事が出来なくなってしまいました。


 お分かりでしょうか。
 シドと融合することで暴走し、友軍機をも攻撃し始めたヴェイガンギアは、やがてヴェイガンにとっても危急の問題となり、



 ついにオクラムドからアルグレアスとフリットへ、ヴェイガンギア・シドへの対応が依頼されるまでになりました。
 やがてAGE-FXとヴェイガンギア・シドが激戦を繰り広げる中、連邦軍MSはもちろん、



 ヴェイガン所属のMSまでがヴェイガンギア・シドを攻撃。
 これを見たウェンディが



「ヴェイガンのモビルスーツたちまで、キオの味方に……!」
 と喜んでいるのですが。
 しかしこの状況が極めてマズイ状況である事は、先にファーデーンでのエピソードを思い浮かべた上で見ていただければ、感じていただけると思います。
 たしかに、かつて敵だったヴェイガンのMSまでが、キオの味方になって一緒に攻撃を仕掛けてくれてはいます。しかし結果として、キオが連邦とヴェイガン双方に「ぼくたちの本当の敵は、ゼラ・ギンスだ!」という形で和解をさせてしまったら……ゼラを共通の敵にする事で連邦とヴェイガンを和解させるという構図になってしまったら、生まれるのは「第二のフリット・アスノ」です。そのような形で和平をもたらし、その和平を止め置く楔としてゼラ・ギンスを排除してしまうならば、キオはこれ以降連邦とヴェイガンの平和状態を脅かす者に対して排除の姿勢で臨むしかなくなります。
 そうなれば、第47話解説で批判的に書いた、対イノベイド戦後のソレスタルビーイングが陥ったのと同じ罠にハマり込むことになります。キオがどれほど優しく配慮したとしても、連邦とヴェイガンの協調体制を脅かす者が現れるたびに、第28話でフリットが吹かせた粛清の風と意味的に同列の事を繰り返さざるを得なくなる、そんな恐れが出てくるのです。
 さらに、連邦とヴェイガン双方に包囲されたゼラの前に、



 FXバースト状態で登場。
 かつてザナルド・ベイハートのザムドラーグと交戦した際、キオは怒りにまかせてこのFXバーストを発動させ、あわやザナルドを殺す寸前まで行ってしまいました。コントロールが難しく「不殺」の戦いに支障が出かねないFXバーストを使用する事で、キオがゼラをどうするのか、どうしてしまうのか、ギリギリまで分からない演出になっています。
 そのままAGE-FXはヴェイガンギア・シドに正面から突っ込み、敵機体を両断、ヴェイガンギア・シドは爆発四散してしまいます。
 果たしてゼラ・ギンスは――



 そう、生きていました。
 なぜゼラが生きているかと言えば、もちろん、キオ・アスノが「不殺」の戦いを最後まで貫き通したからです。そうであるがゆえに、ゼラの排除と引き換えに対立する勢力を和解させるという、「第二のフリット」の構図から脱け出る事ができました。
 これまで、アセムとウェンディ以外にほとんど誰も共感してくれず、実行しても誰に感謝される事もなく、ただひたすら挫折だけをキオにもたらしていた「不殺」が、最後の最後でキオを「フリットが陥った罠」から救ったわけです。いわば最終話のこのタイミングで初めて、キオの三世代編を通しての取り組みが報われる事になったのでした。
 同時に、これはフリットにも出来なかった事をキオが成し遂げたという事であり、



「キオがやりましたね!」
「ああ、あれがキオ・アスノだ。わたしの孫だ……!」


 と、フリット自身も孫バカっぷり全開で称賛するのでした。目じり下がりまくりです(笑)。


 以上が、ガンダムAGE全49話の最終決戦、その顛末でした。
 やはり戦闘シーンへ割かれた時間的な猶予が少なく、各キャラクターのアクション的な見せ場という意味では物足りないところだと思います。そこは惜しい所です。
 それでも、AGEという作品が油断ならないのは、ちょっとしたセリフの端に、あるいはストーリーの展開に、歴代ガンダムを踏まえた多様なテーマやモチーフを織り込んでいく周到な脚本があるからでした。視点を変えて、角度を変えて見る事で多様な顔を見せるこの作品は、再視聴、再々視聴時にも意外な発見があったりします。一般的な見方ではないでしょうが、場面場面で見せるキャラクターの細かな表情の変化や、セリフ回しの変化に注目する事で味わいが出てくる、そんな作品なのだと思います。
 それでは最後に、エピローグを分析しながら、AGEという作品が見出した着地点を浮き彫りにしてみようと思います。



      ▽エデン


 ゼラ・ギンスと接敵する直前、キオ・アスノはXラウンダー能力による感応でイゼルカントと最後の対話をします。



「人は、良き未来を築かねばならない。なぜ、お前にはわからないのだ?」
「やり方が間違っているんです! 人が人を選んで理想郷を築くなんて!」
「人が人であるためだ……!」
「今だって、人は人です!」
「んんっ?」
「地球圏の人たちも、火星圏の人たちも、精一杯生きてるんだ!」


 争いを繰り返す現状の人類は「人らしい人」ではない、ゆえに「人らしい人」を選別するというイゼルカントの思想を、キオは「今だって、人は人です」という言葉で否定します。
 第24話解説で指摘したように、連邦、というよりアスノ家においてはAGEシステムを介してガンダムが「進化」しますが、一方ヴェイガンにおいては人間が「進化」するとされています。イゼルカントの人類選別は、過酷な環境に曝す事で人間を「進化」させ、進化した者たちを選別するというものでした。
 しかし既に何度も確認したように、宇宙世紀ニュータイプをはじめ、「人類が進化をする」という思想は結局は優生思想化し、差別や対立を生むために歴代ガンダムにおいて断念された考え方でした。キオが「今だって、人は人です」と応えているのは、宇宙世紀ガンダムで言えば第34話解説で引用したトビア・アロナクスの手紙の内容を再確認するセリフであると言えます。
(なお、このような「環境に適応した新人類による理想郷」を否定するメッセージは、宮崎駿も独自に描いており、富野監督と同じ世代のアニメーターの思想的な比較の面で非常に面白いところです。コミック版『風の谷のナウシカ』において、ナウシカがシュワの墓所の提示した理想郷に抗って述べたセリフは、まさにキオの言う「今だって人は人」という結論と軌を一にしています)


 それでは、イゼルカントの思想にNOを突きつけたキオたちは、どのような対案を示したのか。エピローグで語られるのは、正にその事です。



「ここに1つの戦いが終わった。こののち人類は、AGEシステムとEXA-DBの情報を集約し、マーズレイを無効化するイヴァースシステムを開発した。それによって火星圏は、安全に住める場所に変わり、人類はついに、全人口を許容できる居住空間を手に入れたのだ。ラ・グラミスの戦いから実に37年後のことであった……」


 さらりと述べているので見逃してしまいそうになりますが、マーズレイの無効化を成し遂げるための技術の基礎になったAGEシステムも、EXA-DBも、共に兵器に適用される軍事技術体系です。AGEシステムは



「生物の進化の仕組みを応用した、モビルスーツの再構築システムじゃ」
 あくまでMSに適用される技術です。またEXA-DBも



「コロニー国家戦争以前のあらゆる兵器情報を網羅した巨大データベースだ」
 というアセムの説明を信じる限り、あくまで兵器のデータベースです。
 これらいずれも、本来はテラフォーミングに使用できるような技術に関する体系ではなかったわけです。
 つまりエピローグで語られる「イヴァースシステム」とは、軍事技術の転用なのでした。


 なぜこれが重要なのかと言うと、初代ガンダムからクロスボーンガンダムまでで完全に断念された「人類の進化」に代わって、では何が、戦争や人口問題といった人類史上の大問題を解決する糸口になるのかという富野監督の新たな問題意識、その模索の過程で生まれた新しいアプローチが、ここで再びクローズアップされるからでした。
 もちろん私は、『∀ガンダム』の話をしています。


 ニュータイプという超越的な能力によって、戦争や環境問題、人口問題を解決しようという希望が断念された事を踏まえて。『∀』でミリシャとムーンレィスの戦争解決の重要なキーとして描かれたのは、一つはディアナとキエルの入れ替わりによる相互理解、そしてもう一つが、(モビルスーツに代表される)機械・道具の使い方を変えるセンス、でした。
 実際劇中で主人公機である∀ガンダムは、軍事兵器でありながら、牛を運ぶ、線路の代わりになって鉄道を渡す、洗濯をする、といった多様な使われ方をしていきます。ギンガナムとの最終決戦においても、



「ターンAはホワイトドールといわれて、人々に崇められてきた物なんです。その本体が機械であれ ば、使い方次第ではみんなの為にだってなります」
 とロランは主張しています。


 軍事技術であるAGEシステムとEXA-DBによって、火星圏でヴェイガンの民を悩ませていた問題を解決する事。それは、ゼロ年代ガンダムが引き継がないまま来てしまった『∀ガンダム』の問題意識が、久しぶりに継承された、という事でもあるのです。


 しかもAGEシステムの転用という展開には、もう一つどんでん返しがあります。
 AGEシステムは既に見たように、MS、それもガンダムを「進化」させるためのシステムです。ガンダムAGEにおいては全49話を通して、たった一度の例外を除き、AGEシステムがガンダム以外の何かに適用された事はありません。このシステムが火星圏の環境整備に応用されたという話が唐突にならないのは、そのたった一回の例外があるからです。その一回とは?



「グルーデックのヤツ、ディーヴァの戦闘能力をAGEシステムによって上げられないかとぬかしよった」
「本来、AGEシステムはガンダム専用の進化システムなんじゃ。戦艦に使えるかどうかはわからん……」


 そう、ディーヴァにフォトンブラスターを増設した、フリットミンスリーでの改造だけが、AGEシステムをガンダム以外に使った唯一の事例です
 だとすれば、皮肉なことに、ヴェイガンへの復讐のためにグルーデック・エイノアが発案したこの事例が、結果的にヴェイガンを救うきっかけになった、と言う風に見る事ができます。


 一体、このガンダムAGE解説記事を通して、何度「皮肉」という表現を使ったでしょうか。特にフリット編に登場する人たちは、その思い入れが強いほどに、行った言動がかえって逆効果となるという裏腹を何度となく繰り返してきました。不法に戦力を集めるなど、ありとあらゆる手段を使ってまでヴェイガンへの復讐と反撃を企図したグルーデックの発想が、数十年後にヴェイガン救済の糸口になったというのも極大の皮肉です。
 しかし、フリット世代の元に最後にやって来た皮肉だけは、どこか救いがあるように思えます。フリット・アスノがその生涯のほとんどを費やしたヴェイガンへの復讐心を翻し、大量破壊兵器であるプラズマダイバーミサイルが敵味方両軍への呼びかけの合図に姿を変えたように、グルーデックの復讐心もまた時代を超えて、ヴェイガン再生への祝福に姿を変えたかのようです。


 この、火星圏の環境整備は、ラ・グラミス戦から37年後の事だと説明されます。
 『ガンダムAGE』が「100年の戦い」を謳ったにも関わらず、その三分の一以上の期間がストーリー上でほぼ「スキップされた」事も、放映当時に批判点の一つとして挙げられていました。
 しかしむしろ、最終決戦後、火星圏の整備までを「戦い」の期間に数えた事は、この作品の戦争観に関連して非常に重要だと筆者は考えています。
 歴代のガンダム作品はどれも、最終決戦の収束を持ってストーリーを終了させています。仮にエピローグ的なパートがあったとしても、それは戦いが終了した先の後日談としてであって、「戦争」というテーマに対する結論が出るのと物語上で最終決戦の戦闘が収束するのとは、大抵の場合ほぼ同時でした。
 最終決戦の終息から、エピローグまでに37年もの時間が必要であると見るAGEの戦争観は、過去のガンダム作品と比較して、異例です。
 このような点も、実は極めて現代的な問題意識に則して理解すべきだと筆者は考えています。


 第28話解説で指摘したように、21世紀の戦争、「テロとの戦争」においては、テロリストの組織はトップダウン式の統率は相対的に希薄で、ボトムアップ式の性格を強く持っています。従って、米軍がたとえテロ組織のトップであるオサマ・ビンラディンを討ち取る事が出来たとしても、それで戦争が終わるとは限りません。
 敵のボスを倒しても戦闘が終わらず、また和平交渉などもテロリスト相手にするわけにはいきません(どのような形であれテロリストの要求を呑むような事をすれば、それは「一般市民を攻撃する事で主張を通す」事が手段として肯定されてしまい、同様の行為によって目的を達成しようとする者たちを勢いづけてしまう事になります。どんな危機的状況でもテロリストの要求を呑まない、というのはテロ対策の鉄則です)。
 では、21世紀の戦争、テロとの戦いはいつ終わらせる事が出来るのか。織田信長のように、あるいはかつてのフリット・アスノのようにすべての敵を一人残らず殲滅するのか。他に手はないのかといえば……1つ考えられます。


 彼らをテロ行為に駆り立てている理由、経済的問題や宗教的問題など色々ありますが、そうしたテロを生み出す環境条件の方を改善してしまう、という道です。
 敵に施しをするなんてバカみたいなようですが、別に慈善事業ではありません。20世紀帝国主義の、独裁者が国民を駆りたてて起こした戦争なら、独裁者を排除すれば戦いは止まるかも知れません。が、テロリストは、彼らをテロに駆り立てる切迫した理由がある限り、後から後から新たに生まれてくるのです。あの米軍が、イラク戦争開戦以来10年以上かけてもなお、テロ根絶の糸口すら見いだせていない、それほどに。
 だとすれば、原因を断つ、というのも現実的な取り組みでしょう。


 ヴェイガンも同じです。たとえイゼルカントが、ゼハートがいなくなったとしても、その住民たちがマーズレイに脅かされている限り、再び過激な挙に出る可能性は常に存在している事になります。第30話解説で確認したように、ヴェイガンは極めてテロリスト的な勢力です。実際、想像をたくましくするならば、イヴァースシステムによってマーズレイが克服されるまでの37年間の間にも、ヴェイガンによる小規模な事件が起こっていたという想像は容易です。


 だからこそ、「ヴェイガンとの戦い」が「終わった」と本当の意味で言えるのは、マーズレイという「ヴェイガンを過激化させた原因」の除去が完了した時点だったという事です。


 繰り返しになりますが、歴代ガンダムで、「戦いの終わり」をこのような観点で明言した作品はあまりありません。TV放映されたガンダム作品の中では事実上初めてと言ってしまっても良いでしょう。
 もちろん、多くの視聴者は、特に気にせずにスルーした事だったろうと思います。特に強調されているわけではないので、そこが弱いと言われればその通りです。
 しかしどうあれ、AGEという作品は歴代ガンダムの問題意識を踏まえ、さらに新しい問題意識を加えるという仕事を果たしています。この作品がガンダムシリーズに導入したいくつかの新しい観点やテーマは、(AGEという作品自体の評価にはつながらなくとも)今後作られるだろう新たなガンダム作品に示唆を与える役割は、果たしていくのではないかと筆者は感じています。また、本稿もそのために、ほんのわずかでも貢献できる事を願っています。



 イヴァースシステムによって、火星圏のテラフォーミングが進み、赤かったこの惑星が地球と同じ緑色に描かれます。
 地球というエデンを得るために始められたヴェイガンの戦いは、AGEシステムとEXA-DBによってヴェイガンの住んでいた場所をエデン化する事によって幕を閉じました。それは同時に、「人を選別する」イゼルカントの方法から、技術をもって環境や仕組みを改善する方法へのシフトでもあります。イゼルカントに「人が人として生きられる未来」を託されたキオたちは、そのような形でヴェイガンのエデンへの願いをも実現した事になります。
 これが、長い旅の果てにAGEという物語が至った、ひとつの結論だったのでした。



      ▽“救世主”ガンダム


 最後に、火星圏の環境改善が整ったのと同じ時期、AGE-1を展示した「ガンダム記念館」が建てられ、そこにフリット・アスノ



 銅像が建てられた事が述べられます。


 小説『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の中で、ブライト・ノアが「歴代のガンダムは、連邦軍にいても、いつも反骨精神をもった者がのっていたな」と言う場面がありますが、ガンダム作品の主人公にそのような精神が託される事が多い事と比して、いかにも権威的な「銅像」というのはイメージ上、不似合いに感じられるのでしょう。この銅像もどちらかというと揶揄の対象になる事が多いです。まぁ、それも仕方ない。


 もっとも振り返ってみれば、フリット・アスノは誰も対抗できなかったヴェイガンMSに匹敵するマシンとその運用システムをほぼ独力で作り上げる超一流のエンジニアで、しかも地球連邦の対ヴェイガン反攻作戦で多大な軍功を上げ続けた凄腕パイロット、一時は連邦軍総司令として軍全体の練度を飛躍的に向上させた名指揮官、艦隊を指揮すれば敵軍の思惑を見破り的確に自軍を動かす名将、その上最終決戦における連邦とヴェイガンの和平の立役者でもあるわけです。こうして書き出してみるととんでもない活躍をしてきた人物なわけで、まぁ放っておいても銅像の一つくらいは立ちそうな人だったのでした。
 むしろ先述の「Blinking Shadow」さわKさんも以前指摘していたように、この銅像が少年時代でも、また連邦軍総司令をしていた壮年時代でもなく、キオ編以降の老年の姿である事が重要なのでしょう。それはつまり、ヴェイガンとの和平のきっかけを作ったという業績が最も大きく評価された故の事と見なせるからです。


 そして同様に、ここで「ガンダム記念館」に展示されているのがAGE-1であるというのも面白いポイントです。
 たとえばAGE-FXなど、三世代の機体を並べた絵をここに持ってくることもできたはずですが、この「ガンダム記念館」には



 AGE-1しか描かれていません。
 さらに言えばこの施設名も、宇宙世紀ガンダムに何度か登場した「MS博物館」という言い方をしていない。
 これはうがった見方ですが、「ガンダム記念館」に展示されているというAGE-1は、恐らく宇宙世紀の「MS博物館」に展示された機体のように、「兵器」として飾られているのではないのでしょう。これが博物館であれば、MSはあくまで戦時中の「兵器」としての姿と意味を保存するための施設であり、たとえば『F91』で博物館の展示品であったガンタンクR−44をロイ・ユング将軍が持ち出して再び使用したように、やはり戦いのために使うモノという意味を維持し続ける事になります。
 このラストシーンのAGE-1について、筆者はむしろ別な意味が託されていると見たいのです。第1話解説で書いたように、AGE-1が初代ガンダムRX-78ガンダムのデザインを踏襲しているとするならば、この直立して展示されている姿は、あるいは……



 2009年夏、お台場に現れ話題をさらった、1/1ガンダムを重ねる事が出来るのではないかと。
 この実物大ガンダムを現実に東京に出現させるというプロジェクトに関わった富野監督は、その過程でこのように述べた、といいます。

富野氏自身は、実物を観る前は「あんなオモチャカラーが18mになったらみっともない」と思っていたそうだが、実物を見て180度変わったそうだ。「オモチャカラーのガンダムは兵器ではなかった。あの色は、政治論や経済論などを超越できる色であり、あの色の上に立って物事を考えられるようになれれば、我々は1万年を乗り越えられます」と熱く、熱く語った。
             (富野由悠季監督が語る「ガンダム30周年」


 このガンダムAGEのラストシーンに描かれたAGE-1が、上記のような意味のもと、お台場の1/1 ガンダムのオマージュを含んでいる、と見たら行き過ぎでしょうか。
 劇中のわずかな描写だけで両者を結び付けるのは無理かも知れませんが、しかし、筆者はあのAGE-1に、上記の富野監督の言葉を重ねたいのです。マーズレイを克服したAGE世界の住人たちが見せた結末に、「1万年を乗り越えられます」という言葉はいかにも相応しいと思えるからでした。
 オモチャカラーのロボットを、そこに託された子供じみた理想論と共に実体化して見せること。政治論や経済論を超えて、「誰もが願いながら口にすることができなかった言葉」を現実にしていくこと。
 ガンダムが“救世主”になる事があるとすれば、つまりそういうことだと思うのです。
                                     《了》


※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第48話「絶望の煌めき」

     ▼あらすじ


 ラ・グラミス攻略戦が熾烈を極める中、ゼハートはガンダムを討つため、フラム・ナラにディグマゼノン砲の射線への誘導を命じる。それはフラム自身を犠牲にする決断だった。フラム、そしてレイルも覚悟の上でガンダムを射線上におびき出すべく、決死の戦いを展開する。
 一方、味方を犠牲にしてでもディーヴァとガンダムを狙うヴェイガンの意図を察したフリットは、ディーヴァを囮にして連邦艦隊の損害を抑える作戦を決意。ディーヴァクルーは海賊船バロノークに移譲させ、フリット、アセム、キオの三人はギリギリまでディグマゼノン砲を引きつけ、ダークハウンドの加速で辛くも砲撃を逃れる。
 そんな中、ジョナサンとオブライトは身を挺してレイル、フラムを撃破。一方、多大な犠牲を払いながらガンダムを撃破できなかった事を知ったゼハートはガンダムレギルスで出撃するが、アセムとの戦いに敗れ、かつての友と最後の言葉を交わして散って行ったのだった。




      ▼見どころ


 最終決戦もいよいよ終盤、主要人物が続々退場していく第48話。
 順を追って見ていきますが、エンタテインメントとして本来強調されるべきところが萎み、ストーリーを盛り上げるセオリーは外され、代わりに皮肉な展開が十重二十重に脚本の中へ練り込まれている、実にAGEらしい捻くれたストーリーになっています(笑)。
 一体、この最終決戦の場で何が起こったのか。解きほぐしてみたいと思います。
 特にこの回、互いの作戦を読み合い、大きな決断をするゼハートとフリットの対比を軸に見ていくと、整理がしやすいのではないかと思っています。二人がそれぞれ、重要な何かを犠牲にして、それを代償に成果を挙げようとしました。その違いは何だったのか。



      ▽ゼハートの支払った代償


 この回、ゼハートはラ・グラミスのディグマゼノン砲の再発射を行います。一度撃てばしばらく発射は無理と思われていましたが、セカンドムーンのエネルギーを直接取り込むことで半ば無理やり再使用する事が可能とのこと。
 戦場は混戦状態であり、今発射すれば味方をも巻き添えにするとオクラムドに指摘されますが、ゼハートはそれでも発射を強行。
 さらに、今や最大の障害であるガンダムを排除するため、これまでゼハートの右腕として働いてきたフラムにガンダムを引きつけさせ、その犠牲と共にガンダムを撃破しようとします。



「フラム、ディグマゼノン砲の射線上にガンダムをおびき出してくれ。ディーヴァと共に一挙に叩く」
「……ガンダムごと、ですか?」
「ヤツらの侵入を阻止し、連邦軍の勝機を叩き潰す」




「わかりました」


 この両者の無言の睨み合いは、実に長めの時間が取られています。
 後述するように、ゼハートがガンダムレギルスに乗ってアセムと対決するシーンの尺が短く、本放送当時視聴者の不満点として挙げられていましたが、それほど物語の尺に余裕がないにも関わらず、このゼハートとフラムの無言のシーンにはかなり潤沢な時間が割り当てられています。そういうところも、AGEという作品の性格、ねらい、見どころをよく表していると思います。


 また、この会話の少し前、こんなカットが挟まれています。



 作戦中、恐らくは眠気を催したらしい様子をゼハートは見せます。
 考えてみれば、ゼハートは対シド戦で能力を酷使し、それからほとんど間をおかずにこのラ・グラミス戦に臨んでいます。一時は出撃もしていました。
 既に散々見てきたように、この戦いはゼハートが全霊を込めて臨んでいる、「エデン」に辿りつくための最も大事な戦いです。このゼハートの「眠気」は、従って気の緩みのためのものではないでしょう。そうであるが故に、ゼハートの心身両方への過大な負担が察せられるカットになっています。
 そしてこの疲れのせいもあってか、彼は白昼夢のようなものを見る事になるのですが……。


 これまでのAGEの展開でたびたび示されて来たように、ゼハート・ガレットは部下を大事にしてきた指揮官です。フラムの回想の中に出てくる、戦死した部下の名前を知っておけという話もそうですが、アセム編などでは



 自ら身を挺して部下を守るシーンもありました。
 そのようなゼハートにとって、味方、そして部下を犠牲にする作戦を自ら実行するというのは余程の変節であるという事はお分かりになるかと思います。
 では、なぜゼハートは変節したのかというと、



「わたしは、お前のエデンへの想いを信じている。その思いに偽りはないはずだ」



「この俺を陥れたお前が、まさか、この程度で怖気づいているわけないよなぁ!?」


 ゼハートの見た白昼夢の中で、ドール・フロスト、ダズ・ローデン、デシル・ガレットなどゼハートと関わって死んだ者たちが、プレッシャーをかけるセリフを次々と並べていきます。
 歴代ガンダムで、こうして死者が現れて言葉を発していくシーンはいくつもありますが、このように生者を追い詰める、ネガティブな言葉のために出てくるケースは稀なように思います。この辺りも、AGEらしいところです。
 ともあれ、つまるところ自軍・味方の命が大切だからこそ、これまでの犠牲を無にするわけにはいかない、そのためには味方を犠牲にしてでもプロジェクトエデンを成し遂げるしかない……というのが、ゼハートの追い込まれたジレンマになってしまっているのでした。
 この問題自体は、第41話の時点でフラムが口にしています。キオに「戦いをもうやめよう」と言われた際の返答です。



「これまでの戦いでどれだけの犠牲が払われたと思っている!? 話し合いなんてもはや不可能なのよ!」
 ここまでの戦いで、「プロジェクトエデン」達成のために多くの犠牲が出たゆえに、今さら途中でやめるわけにはいかない、とゼハートもフラムも口にしています。
 しかし問題は、過去の犠牲に報いるために、是が非でもラ・グラミス戦での勝利を得ようとした結果、ゼハートにとって貴重な腹心の部下を、そして貴重な自軍戦力を捨て駒にする決断を、してしまっている事でした。
 特に、この重要な決断をするにあたって、ゼハートは圧倒的に孤独です。  第41話解説で書いたように、ヴェイガンには組織的なフォローアップの態勢がなく、どのような戦局も、その持ち場についている個人の力でどうにかするしかない。それはヴェイガンの総指揮と言えども同じなのでした。
 そして、どのような逆境も、そこを持ち場にしている者の人間力だけでどうにかするしかないとすれば、徹底的に追い詰められた状態で取れる手段は「捨て身」くらいしかなくなってしまいます。
(この、圧倒的なプレッシャーの前に追い詰められていくゼハート、というのを段階を追って綿密に描き直しているのが、OVA『Memory of Eden』です。同作内では、アセム編のラストにあたるダウネス攻防戦終了直後から、この死者たちに囲まれる脳内会議の模様が何度も出てきます。かなりな力の入れようで、デシルの新録音声はゼハート、アセムに次いで多いんじゃないかと思えるくらいですw)
 いずれにせよ、そうしたヴェイガンという組織の苦境の中で、フラム・ナラ、レイル・ライトといった優秀な人材が消尽されていくのでした。


 この、ゼハートの決断は、AGE作中において極めて皮肉な描かれ方をしています。
 敵味方が入り乱れている混戦状態で、まさかディグマゼノン砲を発射する事はないだろうというアルグレアスに対して、フリットは敵は撃つつもりだと見抜きます。そして、



「ヤツらは味方ごと、ディーヴァとガンダムを潰すつもりだ! 忘れるな、相手はヴェイガンだ!」
 ……と言い放つのでした。
 特にキオが火星でヴェイガンの実情を見てから、フリットのヴェイガン観は偏った極論として描かれてきました。「ヤツらは人間じゃない」などの発言は、キオをはじめ多くの登場人物から否定的に見られています。
 一方ゼハートは、少なくとも味方に対しては、部下の損耗を気に掛ける、AGE作中でも比較的良心的な上官として描かれてはいます。
 ところが、切羽詰って味方を犠牲にする作戦をとった事で、ゼハートたちは結果的にフリットのイメージするヴェイガン像に、急激に重なってきてしまうのでした。少なくともこの時のフリットの発言に、反対できる者はいなくなっています。


 AGEという作品の、「100年の物語」という長いスパンが生きているのが、こういうところでした。
 三世代編のフリットは過激派で頑固な老人ですが、視聴者はフリット編における彼が苦悩しながらも頑張った、それなりに良いヤツだったことを見て来ています。
 同様に、視聴者はゼハート・ガレットがアセムらと友情を育んだ心優しい青年である事も知っています。今、味方や部下を犠牲にする非情な作戦を実行しようとしているのは、他ならぬその心優しい青年なのでした。
 単なる過去の回想ではなく、実際に視聴者がその様子を目撃してきたという構成になっています。それはつまり、過激な発想や言動を行う人物であっても、それを「他者」として、ただの「悪役」として、容易に排除できないという事でもあります。単純に悪者を決定してそれをやっつける、というカタルシスのあるストーリーにはなりませんが、そうであるがゆえにかえって重要です。21世紀が憎悪の戦争の時代だとすれば、分かり合えない相手を単純に「悪」「他者」であると決めつけてしまう思考は、事態を悪化させる方向にしか作用しないからです。それは『ガンダムSEED』シリーズが嫌と言うほど描いた情景でもありました。


 とはいえ、ゼハートの下したこの決断は、やがて厳しい現実をゼハートに突きつけてくる事になります。
 その点を見る前に、一度フリット・アスノに目を転じましょう。ゼハートがフラムやレイル、そして自軍兵力を犠牲にする決断をしたのと同時に、フリットもまたいくつかの大切なものを犠牲にする決断をしていました。何を犠牲にしたのか、それはゼハートとどう違ったのか。



      ▽フリットの支払った代償


 さきに引用したセリフの後、フリットはアルグレアスにこのように告げています。



「ディーヴァが前進する限り、ヤツらはそこを狙ってくる。よって……ディーヴァを囮にする! その他の艦艇は退避させろ!」
 そう、彼はディーヴァを犠牲にする事で、それ以外の連邦艦艇、戦力をディグマゼノン砲の射線から逃がす選択をとったのでした。
 フリットのこの決断が、彼自身にとってどれだけ重いかは少し想像してみれば分かるかと思います。ディーヴァはアンバット攻略戦に至るまで、人類がUEに対抗しうるほとんど唯一の戦力であり、いわば反ヴェイガンの象徴とも言える艦でした。またフリット個人にとっても思い出深い艦でしたし、ある意味で彼のかつての名声・栄光の象徴でもあったはずです。
 またディーヴァにはAGEビルダーもあるわけですから、戦略的にも重要なはずですが、これを犠牲にするというのも英断でしょう(ただしこれについては、後に微妙にアヤがつきますので難しいですが)。


 さらに、ディーヴァを囮にするにあたって乗組員を退艦させるのですが、その際に手配したのが



 海賊船バロノークです。
 あれほど海賊を毛嫌いしていたわけですが、フリットはそうした私情も持ち込みません。「見えざる傘」を持つバロノークこそこの状況に適任であるという冷静な判断を下しています。
 このような一連の判断、決断は、強調されているゼハートの決断に比べると若干地味ですが、しかし対照的で重要です。


 ゼハートは、味方を犠牲にして、敵であるディーヴァとガンダムの撃破を目論みました。
 一方のフリットは、ディーヴァを犠牲にして、味方連邦艦隊の被害を最小限に抑える事を目指しました。
 ゼハートが、プロジェクトエデンという重責に追い詰められて味方を犠牲にする博打めいた作戦を実行した一方、フリットは自らの私情を抑制して、理性的に、現状取り得る最適な方法を即座に実行しました。


 さらに皮肉な見方をしてしまえば、フリットはヴェイガンの殲滅という非人道的な目的を掲げているのに、こうした戦術のレベルでは味方兵の損害を抑える判断が出来ている一方、ヴェイガンと共にエデンという理想郷を追い求めているはずのゼハートは、味方兵をそのために捨石にする判断をしてしまっているわけです。ここには、何重にも折り重なった、実にAGEらしい皮肉があります。


 最終決戦の最中、勝利を掴むために何かを犠牲にしなければならないという形で、同じタイミングに重要な決断をしたゼハートとフリットですが、両者の結末の相違が生じたのはこういう部分での差だったのかも知れません。


 そして、いよいよ戦況が猖獗を極めます。



      ▽フラムの最期


 ゼハートの命を受けたフラム・ナラは、自身が犠牲になるのを承知で、ガンダムの誘導とディグマゼノン砲射線上での足止めに文字通り死力を尽くします。



「あんなに優しい人だったゼハート様が……」
「この戦いかが終われば、ゼハート様は、優しいゼハート様に戻る。私はあの人を、あの人の優しい心を守りたい……!」


 そして、身を賭して戦うあまり、同じXラウンダーであるキオにプレッシャーとして作用



 AGE-FXを圧倒します。
 このシーンはもちろん、『Zガンダム』終盤のハマーンvsシロッコ戦に見られたようなプレッシャー合戦といったところでもありますが、巨大なフラムの生霊(?)がMSを手玉に取るかのような構図は、



 ほとんどカテジナ・ルースのこの場面です。
 無論、カテジナのこのシーンがウッソとクロノクルの二人が自分を取り合っている、と悦に入るシーンであるわけで、フラム・ナラの置かれた状態とはかなり違います。あえて言えば、『Vガンダム』的な狂気の領域にまで届きつつあるフラムの心情の描写といったところでしょうか。


 散々なのはキオで、前話でグルドリンに圧倒されて以降、主人公らしい見せ場がほとんどありません。FXバーストでザナルドを撃退したといっても、怒りに我を忘れて自分の信条を破りそうになるような、苦いシーンでした。そして今回もフォーン・ファルシアに押されるばかりです。
 結局、ディグマゼノン砲の照準をギリギリまで引きつけるべくアスノ三世代ガンダムが戦うのですが、最終的にフラムやレイルを撃破するのはアビス隊、特にオブライト・ローレインだったのでした。


 ここで、フラムを撃破するのがキオでもアセムでもフリットでもなく、オブライトであるという展開も、良し悪し含め視聴者の予想を裏切るものでした。フラムがMSに乗るようになって以降、最も戦場でセリフを交わしていた相手はキオですし、またファルシアというMSとの因縁が深いのはフリットです(オープニングでも、AGE1グランサがファルシアを、ダークハウンドがギラーガを押しのけ、AGE-FXがシドのシルエットと対峙するというカットがあります)。しかし、とどめを刺したのは、そうした「因縁の相手」ではありません。
 こうした傾向は、AGEという作品にわりと一貫したものです。ユリンの死という因縁があるにも関わらず、デシル・ガレットを撃破したのはフリットではなくアセムでした。また、第31話「戦慄 砂漠の亡霊」で味方を撃墜されるという因縁を持ったグラット・オットーとゴドム・タイナムですが、オットーはダークハウンドに撃破され、さらにゴドムは部下を撃墜した因縁の相手のどちらでもなく、セリックに撃破されています。
 例によってエンタテインメントとしての盛り上がりには寄与しませんが、この作品らしいリアリズムではあります。現実の戦場においては、そうした「因縁の相手」と早々何度も再戦する機会があるとは考えにくいからです。
 こうした、エンタメの王道展開から意図的にシナリオをずらしていく感覚は、フラムやレイルの死そのものにもあります。彼女たちが命がけでガンダムをおびきだしたにも関わらず、そのガンダムを討ち果たす事ができません。したがって



「エデンを、どうかその手に」というフラムの最後の願いも、あっけなく裏切られてしまう事になります。言ってみれば彼女たちは無駄死にをしたわけで、その展開は視聴者に対しても何とも言えない感慨をもたらします。
 しかし、エンタテインメントの縛りで言えば、主要キャラクターが死ぬ際には必ずそれに見合った「意味」や、それと引き換えに事態を動かすといった成果、はたまた信念を貫くといった「カッコよさ」などを描かざるを得ません。でなければ視聴者には肩すかしになってしまうからで……しかしそればかりになってしまうと、「命を投げ出せば必ず何事か成し遂げられる」というメッセージが不自然に強調される事になります
 実際には、命を投げ出してもその方法次第ではまるで効果が上がらない事など珍しくありません(たとえば、第二次大戦中の神風特攻隊ですが、大戦末期に特攻した航空機の相手艦への命中率は10%前後だったそうです。また、命中しても甲板を多少凹ませただけに終わったケースもあったり)。


『Vガンダム』終盤に対する感想で、「オデロ・ヘンリークを殺す必要は別になかった」というものがネット上では散見されます。オデロの死のシーンに関するウェブ上の談話、ニコニコ動画でのコメントなどでは必ずそう発言する者が一人はいるのを見る事ができたりするわけです。
 が――現実の戦争で、「シナリオ上の必要や必然性のある者だけが死ぬ」などという事はありません。当然の事ですが、事情も都合も関係なく死ぬ時は死ぬのが戦場です。


 AGEは確かに、エンタメとして盛り上がるツボを外しているのですが、それは一面でこうした戦争ドラマのツボ、戦場を舞台にしたエンタメ作品のセオリーをそのまま踏む事を拒んでいるから、という風にも映ります。
 そうであればこそ、AGEはフリットの、アセムの、キオの失敗を生々しく描くことができましたし、それに仮託して歴代ガンダム作品の批評的総括を語る事ができた――と筆者は見ているのでした。
 フラムの無駄死に(という形で現れたゼハートの失敗)もまた、同様です。



 一方のオブライトの死についてですが、これはやはり、ディーヴァが沈んだのと同じタイミングであった事が重要であると見るべきでしょう。
 第27話の解説で書いたように、オブライトとレミ・ルースにとってのディーヴァは、「疑似家族の器としての家」でした。レミが戦死した後も、オブライトはその意志を持ち続け、父アセムの件で戸惑うキオを勇気付けたりしています。
 そして、血縁のある実際の家族に比べて、同じ場所での共同生活によって育まれる疑似家族の絆は、より強く場所に依存しています。疑似家族の器である艦が無くなってしまえば、離れ離れになりやすい。それはホワイトベースのクルーが、『Zガンダム』時点ではバラバラに暮らしていたのと同じようなものです。
 ゆえにディーヴァという器と共に、疑似家族的絆を象徴していたオブライトは散る事になるのですが、ここでもオブライトがフラムたちを足止めする事によって、本物の家族であるキオたちアスノ家のガンダムが離脱する事が出来ているというのは面白い点です。第35話の解説で、AGEにおいては疑似家族的な絆が、血縁関係のある本当の家族の絆を補佐・留保するセイフティーゾーンとして機能していると書きましたが、この点は最後まで貫かれていると見る事もできるでしょう。


 一方のフラムは、死の間際に、Xラウンダー能力によってか、ゼハートと言葉を交わします。



「すまなかった。詫びても許されないことはわかっている。しかし……私はこの計画を成功させる。お前の兄、ドールにも報いてみせる!」
「兄のことはもう……。私は、あなたのもとで戦えたことを誇りに思います」
「フラム……私は……」
「ゼハート様……エデンを、どうかその手に」
「約束する。私は必ず、エデンにたどり着いてみせる!」


 ……という「約束」が、わずか数分後に破綻するわけなので、何とも言えないシーンではあります。
 一方のフラムにしても、先に引用したように、「ゼハートの優しい心」を取り戻すために戦っているつもりなのに、結局最後の瞬間、「エデンを、どうかその手に」という、ゼハートのプレッシャーをますます強化する言葉を伝える事しかできません。ゼハートがディグマゼノン砲発射を決意する直前、ドールやデシルが「自分たちのような犠牲を出した以上は必ずエデンに到達しろよ」と詰め寄って、それによってゼハートが追い詰められていたわけです。フラムまでがこのように言い残してしまっては、そういう亡霊たちの仲間入りをしたも同然です。
 しかし、ヴェイガンという組織においては、このようになるしかない。プロジェクトの「責任」が一点に集中しフォロー体制がないヴェイガンにおいて、状況が切羽詰まった結果がこうした事態を招いています。
 さらに後述するように、フラムには、このような言葉をかけるしかなかった側面もあります。それについては、次項で。


 なおこのシーン、OVA『Memory of Eden』ではフラムがゼハートにキスするカットがあるのですが、TV版ではただ



 ゼハートの手を頬に寄せるだけです。
 ここでも、OVA版のように最後に一線を越える、という方がドラマチックではありますが、TV版は頑なにそこを抑制します。これも、TV版AGEにおいて描かれてきたテーマと照らせば、この方が整合する描写だったと思います(この点も後述します)。結局「司令官と部下」というラインを超えないまま、フラム・ナラはディグマゼノン砲の閃光の中に消えていくのでした。
 そして。



      ▽ゼハートを救ったもの


 ディグマゼノン砲が放たれた事によりディーヴァを含む連邦艦隊に打撃が与えられます。その報告を聞いたゼハートは



「当然だ……私を慕い、愛してくれている者まで犠牲にしたのだ。必ずたどり着いてみせる……!」
 同時にこの一撃は、造反の色を見せていたザナルドとその艦隊をも同時に葬り去る一撃でした。これで態勢を立て直し戦局を握るかと思いきや



ガンダムです!」
「な、何だと……!?」



「わ、私は……何をやっているのだ!?」


 まさに、すべてを投げ打っての乾坤一擲の賭けに敗れた瞬間でした。
 将ゼハートの、戦略的な敗因については既に様々な考察があります。ザナルドの造反を招き味方軍との連携を欠いた事、有能な部下の喪失、ディグマゼノン砲のターゲットをガンダムに定めた事、など。その辺りの詳細な分析は、他の方に譲ります。
 いずれにせよゼハートの采配は失敗しました。その落胆の度合いは察するに余りあります。そして追い詰められたゼハートは、ガンダムレギルスに乗り自らガンダムを討ちとりに出撃するのですが。



「わかっている!!」
「何としてもガンダムは墜とす!」
「この戦いに勝利して見せる!」


 ここからが、半ば揶揄の対象として有名な、ダークハウンドによる1ミニットキル、わずか1分ほどで決着がつくゼハートとアセムの戦いです。相変わらず、尺に余裕のないAGEという話なのですが……ここで二人の戦いが即刻終わってしまった原因は、シナリオ上からは明確に察せられるように描かれています。鍵になっているのは、そのセリフの応酬です。ゼハートと接敵したアセムは、まずこう詰め寄ります。



「ゼハート、味方を犠牲にしてまで、お前は何をやっているんだ!?」
 この問いかけ自体が、実に皮肉です。何をやっているのかって、他でもないガンダムを討つために味方を犠牲にしたのに、当のガンダムに乗っている相手からこう言って責められるのですから堪りません。
 当然、言い返すのですが……



「必ず、やり遂げねばならないのだ! 人の感情など、とうに捨てているっ!」
「人であることを捨ててまでやる大儀に、何の価値がある!」
「貴様に何がわかるっ!」



「人が人であるためのエデンじゃなかったのか!」


 アセムにそう言われた瞬間、



 虚を突かれたような、ゼハートの表情。
 既に指摘されている方も多くおられますが、この瞬間に、アセムとゼハートの勝負はついています。目を見開いたゼハートのカットの直後から、ガンダムレギルスはほぼ一方的にダークハウンドの攻撃を受け続け、そのまま撃破されてしまっているのでした。


 それにしても、この会話も壮絶です。何といっても、ヴェイガンの一番の理想、その本質部分をよりによって地球種であるアセムに正されてしまったのですから
 アセムがこのように言えたのは、無論のこと、アセム編最終決戦のダウネス内部にて



 この時にゼハートの口から直接、その目指すところを聞いていたからでした。
 ゼハートが、イゼルカントの口から「プロジェクトエデンの真意」を聞かされ、「人類の光になれ」という(この解説記事の言い方で通すならポエム化した)意志を引き継ごうとした結果、もともとゼハート自身が理想としていた本来の「プロジェクトエデン」、本来の行動目的が有耶無耶に分からなくなっていきました。
 アセムの一言は、そんなゼハートにとっての本来のプロジェクトエデン、その目的を思い返させる内容でした。
 そして思い返したと同時に勝負は確定しました。「人が人であるためのエデン」を求めるためには、味方軍(や自分自身)を犠牲にして進む事は矛盾でしかないからです。瞬時にそう悟れるだけの聡明さを、この人物はちゃんと持っています。


 レギルスを大破させられた後、アセムとの間に最後の会話が交わされます。短いですが、非常に重要な会話になっています。



「やっと……俺に追いついたな。たいしたものだ……」
「ゼハート!」
「全てがこぼれ落ちていく……どうして、つかめないんだ……!」
「つかめないものだったある。俺たちは人間なんだから」
「……」
「お前は敵である俺を何度も助けてくれた。戦士である前に、人間だった」


 まず、ゼハートの一人称が「私」から「俺」に変わっているところ。ヴェイガン代表という公人から、私人のゼハートの顔で発言している事がひとつ。
 第二に、アセムが「俺たちは人間なんだから」と言っているところ。パッと見たところでは、相田みつを的「人間だもの」な事を言っているように見えますが、注意すべきはこのセリフを宇宙海賊キャプテン・アッシュが言っているという事です。
 この宇宙海賊が、歴代ガンダム上では当然『クロスボーンガンダム』のオマージュに当たる事は既に記しました。で、同作後半の重要キーワードこそが「人間」だったことを思い返さねばなりません。たとえば、最終決戦でのトビアのセリフ


「安心したよドゥガチ あんた……まだ人間だっ ニュータイプでも、新しい人類でも……異星からの侵略者でもない! 心のゆがんだだけのただの人間だっ!」


 トビアがクラックス・ドゥガチに向けて放ったこの言葉は、一見、地球の破壊という理解不能な思想を持った、地球圏に住む人とは価値観も感覚も違った「新しい人類」のように見えるけれども、そうではなかった、という文脈で使われています。
 アセムのセリフは、これを下敷きにしていると読めます。トビアのセリフに引き寄せるなら、「Xラウンダーでも、人類の光でも、異星からの侵略者でもない」ただの人間だ、という含意ではないでしょうか。
 アセム編を通して、「Xラウンダーと非Xラウンダー」という二項対立、優劣関係から抜け出して、「非Xラウンダーでも強いパイロット = スーパーパイロット」になったアセムは、ここでかつてのライバルであり優劣の「優」であったXラウンダー、ゼハートをも同じ「俺たちは人間」であると言う事で、真の意味でこの二項対立を退けています。第34話解説で述べた、『クロスボーンガンダム』という作品の「ニュータイプとオールドタイプという二項対立の解除」を読み込むならば、この瞬間にアセムは本当に「スーパーパイロット」となる事が出来たとも言えます。
 だからこそ、ゼハートも「やっと俺に追いついた」と口にしたのでしょう。



「お前たちと過ごした。モビルスーツクラブでの毎日……あの時、私は満たされていた……お前は、力を持った私に嫉妬していたのだろう? しかし、本当は……俺はお前がうらやましかったんだ……俺も……愛する人と子をつくり、お前のように生きたかった……」


 第37話解説で書いたように、連邦とヴェイガンの対比軸の一つに、コールドスリープなどを使用して個人が長く時間を過ごすヴェイガンと、世代を重ねる連邦というものがありますが。ここで、同じ少年時代を過ごしながら、現在の年齢にギャップのあるアセムとゼハートが向かい合い、このように会話が流れる事でより鮮明に浮かび上がります。
 そしてやはり、ゼハートもまた世代を重ねる事、そのような生き方を羨んでいたと告白するのでした。「家庭を持つ事」はAGEにおいて極めて重要な価値と見なされています。しかし、ここで表明されているのは、必ずしも復古調の、昭和以前の大家族を維持していたような社会、コミュニティを称揚しているわけではないように思えます。
 ここでもゼハートが「私」と「俺」を使い分けている事に注意しましょう。
 「私」は公人としてのゼハート、プロジェクトエデン推進のために従事する戦士ゼハートです。それに対して「俺」は私人としてのゼハートでした。ゼハートが羨んでいたのは、アセムが連邦特務隊、あるいは海賊という公人としての顔の他に、愛する人と子を」つくるという私人としての顔を持っていた事だったのでしょう。
 ゼハートには私人としての行動や立場が極めて希薄でした。彼には公人として「プロジェクトエデンを完遂する」という目標しか無かった。だからこそ、フラムも最後に「エデンを、どうかその手に」というますますプレッシャーになる言葉しかかけられなかった。本当は私人としてのゼハートに語りかけたかったのに、彼に私人の顔がほとんどなかったのです。

 公人としての自分に大きくアイデンティティを偏らせていたゼハート、しかもそうまでして実現しようとしていた計画で挫折してしまったこの瞬間に、アセムはそれでも声を賭けます。



「ゼハート……お前がいたからここまでやれたんだ!」



「……ありがとう、アセム……!」


 すべてを失ったゼハートに対して、なぜアセムのこの言葉が慰めとなり、彼の精神を解放するほどの力を持ったのでしょうか。
 「ここまでやれた」とは「どこまで」でしょう。ゼハートは自らの目的を果たす事に惨めに失敗しています。あるいは、「ここまでやれた」とはアセムがXラウンダーであるゼハートを超えられた事を指すのでしょうか。そのように解釈する事もできますが、これに先立つ回想シーン、MSクラブでの会話では、ゼハートの働きによってマシンが完成し、「これで優勝できる!」と皆が喜んでいるところが描かれています。つまり、ゼハートの頑張りがMSクラブ全体の成功をもたらした、というシーンです。ゼハートを乗り越える事でアセムが成長できた(アセム一人が強くなった)、という事を喜んでいるという解釈とは、どうも噛み合いません。
 ここでアセムが言っているのは、ゼハートの頑張りによって何か成果が得られた、という事です。それは何か。


 実はこの件に関して、過去の解説記事で、意味深なサジェスチョンを出したことがありました。
 第17話「友情と恋とモビルスーツ」の解説で、この回のモビルスーツ模擬バトルコンテストの大会ナレーションが『Gガンダム』冒頭のナレーションに近い事を指摘し、アセムたちが殺し合いの戦争ではなく、スポーツとしてのMS試合を経験していた事が、『Gガンダム』のガンダムファイトと重ねられる事で強調されているのではないか、と述べておきました。
 フリットにもキオにも存在しない、この「スポーツとしてのMS戦」「競技としての戦い」という経験を今はアセムとゼハートだけが共有しています。その経験が、すべてを失ったゼハートの心を最後に救ったのだと筆者は見ています。


 基本的に、戦争で負けた敗者に対して、かけられる慰めの言葉など存在しません。
 目的を果たすために、膨大な人的・物理的なリソースを投入して、そのようにして取り組んだ戦争というものに負けてしまったら。そこには喪失しかありません。目的も達成されず、さらに多くのものを失って、得られるものもなく。ましてそのまま死にゆくならなおさらです。ゆえに、乾坤一擲の賭けに破れたゼハートには、たとえイゼルカントでもかける言葉を持たなかったでしょう。
 しかし、競技の世界にはあります。敗れた者をなおも称える事のできる言葉が。



「良いファイトだったぞ……!」


Gガンダム』の世界においては、ただ単に相手を負かす、試合に勝つというだけではなく、その戦いの質を良いものにしようという価値観が存在していました。競技であるがゆえに、それが観客を楽しませる興行の側面を持っている事もあるでしょう。同時にそこには、互いに実力を出し合う事でより高いレベルの試合を成し遂げるという、勝敗だけにこだわらない目的を設定する事をも可能にしていました。
 劇中、ドモン・カッシュとアレンビー・ビアズリーが意気投合したのも、この価値観を共有する事が出来たからです。



「見せてやろうぜ! 俺とお前で究極のファイトを!」


 戦争という身も蓋もない殺し合いと奪い合いの世界では、負けてしまえばそれまでです。しかし競技の世界であれば、勝敗に関わりなく達成できるものがある。互いに全力を出して戦ったという、その戦いの姿勢自体です。
 ラ・グラミス攻略戦に参加している者たちの中で、アセムとゼハートだけがそういう世界を知っています。だから、アセムだけがゼハートに最後に言葉をかける事ができました。「お前がいたからここまでやれた」。それはつまり、二人で繰り広げた戦いが「良いファイトだった」という賛辞だったのでした。


 実は、ルナベース攻略戦の最後、ジラード・スプリガンの散り際にも同じ事が言えます。Xラウンダー能力の暴走によって見境を失くし、その末に惨めに討たれたジラード・スプリガンには、彼女を必死に説得しようとしていたキオですら何の言葉もかける事ができません。ただ一人、死に行くジラードに言葉をかけたのはゼハートでした。



「フッ、無様な最期……連邦のことも彼のことも……結局、わたしは何もできなかった」
「いや、そんなことはない。お前は自分が信じた正義に殉じて戦い抜いた。わたしはお前のことを戦士として認めている」
「ありがとう……」
 このゼハートの発言の真意も、同じだったのでしょう。『Gガンダム』にならって言えば、ゼハートもジラードにこう言っているのです、「良いファイトだったぞ」と。
 戦争をやっているフリットにとっては、軽薄な遊びにしか見えないかもしれないスポーツとしてのMS戦。歴代ガンダムの中で、一つだけシリアスではないふざけた作品のように見える『Gガンダム』のガンダムファイト
 しかし、「競技としての戦い」を知っているアセムとゼハートだけが、無様に散っていく敗者に言葉をかける事ができる。


 また、ゼハートの文脈で見れば、『ガンダムW』のトレーズ・クシュリナーダも関わらせて考えても良いかも知れません。
 第34話解説の後半で述べたように、ゼハートにはトレーズのオマージュと見られるセリフがありました。なぜ、という事ですが、トレーズ・クシュリナーダの思想もまた、ここで死に行くジラード・スプリガンにゼハートだけがただ一人言葉をかける事が出来た理由に大きなヒントをもたらしてくれるように思えます。
 上記記事で引用したように、トレーズは「私は、人間に必要なものは絶対的な勝利ではなく、戦う姿、その姿勢と考えます」と表明しており、さらにはむしろ敗者こそが戦う姿においてより純粋だとして「私は敗者になりたい」とまで言っています。
 そのように、一人一人が懸命に戦う姿こそが重要だと認識しているからこそ、人が操縦しない無人機、モビルドールの導入に強く反対し、「モビルドールという心なき戦闘兵器の使用を行うロームフェラ財団の築く時代は、後の世に恥ずべき文化となりはしないでしょうか」と主張したりもしたのでした。
 Gガンダム的な「競技としての戦い」とは違う文脈で、トレーズもまた「戦いにおいて勝敗より重要なもの」を規定している人物です。もちろんそれは、現実の戦争においては理想論にすぎません。実際には、特に近代戦においては戦いは「勝利こそすべて」とならざるを得ません。
 しかし、戦いの場に勝敗を超えた価値をあえて見出すからこそ掬えるものがあるとトレーズは一貫して述べています。だからこそ、最終決戦において、ガンダムたちに無残に敗れて死んでいったOZのパイロットたちの名前を挙げながら、決然とこう言う事ができたのでした。



「だが、君もこれだけは知っていてほしい。彼等は決して無駄死になどしていない」


 このようなトレーズの思想は、ゼハートがジラードにかけた言葉「いや、そんなことはない。お前は自分が信じた正義に殉じて戦い抜いた。わたしはお前のことを戦士として認めている」に通じるものがあります。
 AGEという作品においては、無様に敗れて死んでいく戦士たちを、このような90年代ガンダムにインスパイアされた言葉だけが慰め、称える事ができるのです



 まるでシャア・アズナブルのように、赤いMSに乗り仮面をかぶった敵役として登場したゼハート・ガレットは、結局シャアと同じように一時は全軍を率いる総司令の位置に立つ事までしながら、「エデンにたどりつく」という肥大化して正体の掴めなくなった理想と目的に追い立てられ、無残に散ってしまいました。それは、『ガンダムUC』では決して描かれる事の無かった、シャア・アズナブルという人物のネガティブな側面の戯画化であったかも知れません。シャアもまた、「人類すべてをニュータイプにする」という遠大な目標のために性急な方法に走り、生き急いだ人でもあったからです。


 そのようなゼハート・ガレットという人物を、最後に癒したのが上に述べたような賛辞の言葉、慰めの言葉だったとしたら、これはこれでガンダムシリーズの偉大な遺産の一つなのだと思います。歴代ガンダムを並べた時に、『Gガンダム』からの3作は宇宙世紀ガンダムのリアリズムからも離れ、まるで迷走しているかのようにも見えます。しかし、90年代ガンダムが描いた到達点というのも確かにあって、それをこういう形で取り入れる事も出来ると、AGEという作品は示してくれたように思います。
 出撃したゼハートがアセムと戦い、散るまでの劇中シーンは恐ろしく短い。ながら見をしていたらあっという間に終わってしまって拍子抜けする事でしょう。しかしその短い中に、これだけの濃縮された意味が、メッセージが盛り込まれているという事は、改めて強調させていただきたいと思います。


 さて、ついにゼハートが散り、AGEの物語も残り1話となりました。
 ここまで長い長い解説記事を積み重ねてきた上で、AGEという物語の終着点はどのように見えるのか。あともう少しだけ、お付き合いをいただきたいと思います。
 それでは、次回。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次