機動戦士ガンダムAGE 第47話「青い星、散りゆく命」

     ▼あらすじ


 ラ・グラミスを巡る最終決戦、造反に近い行動をとるザナルドを詰問するゼハートだが、ザナルドはゼハートの計画を無視して自軍を展開させ、ゼハートをイゼルカントの後継者と認めないと発言する。
 一方、強力なMAグルドリンをなんとか撃退したセリックは、敵ヴェイガン艦内部に擱座。ディーヴァのフォトンブラスター砲の射線内であるため離脱を促すが、セリックは無理と判断しナトーラに決断を迫る。苦渋の決断の末、ナトーラはフォトンブラスターを発射し、ザナルド艦隊の多くを撃破、連邦軍は突破口を開く。
 一方、戦場でディーン・アノンと再会したキオ。ディーンのMSを無力化し一時は和解しかけるが、現れたザナルドによりディーンは撃破されてしまう。怒りのあまりキオは自ら禁じていたFXバーストを発動、あわやザナルドを殺害する寸前で我に返り、呆然とするのだった。




      ▼見どころ


 いよいよストーリーも佳境に入ってきました。この回のサブタイトルは、『Vガンダム』終盤、やはり最終決戦付近につけられた「消える命、咲く命」からのインスピレーションでしょう。『ガンダムSEED Destiny』にも「残る命、散る命」のサブタイトルがあります。この辺りを安直と見る向きもあるでしょうが、過去ガンダム作品の総まくりを根本に据えているAGEらしい部分でもあるように思います。
 とはいえ、その内容はと言うと、極めて苦いものです。特にこの回は、主人公キオの信念と意志の限界を二重三重に突き付ける、かなり重いシナリオになっています。爽快感からは遠いですが、しかしゼロ年代ガンダム、あるいは「不殺」問題への批判という意味ではかなり意欲的な内容を含んでいます。
 というわけで、順を追って解説していきたいと思います。



      ▽キオとゼロ年代ガンダム世代の失敗(2)


 第45話の解説で、80〜90年代ガンダム、つまりアセムの世代が取り組んだテーマと、その限界について述べました。
 簡単におさらいしますと、主人公が「一介の兵士」に過ぎない「リアルな戦争」を描く事で、結果的に戦争を「一介の兵士にはどうしようもない前提」にしてしまったファーストガンダム世代への反省から、『Zガンダム』以降では主人公と敵軍の総大将が直接言葉を交わすといった非リアルな状況を描いてでも、戦争全体、戦争の原因、戦争という現実をどう考えるべきかといった巨視的なパースペクティブを取り入れようとしてきました。
 しかしその結果、人類全体を巡る極めて抽象的な議論に終始する事が多くなり、理屈だけでは割り切れない人間の不合理さや、闘争本能といった個々人の感情的・内面的な要素によって、構築した理想が言ってみれば「机上の空論」になってしまった、という事です。
 一言で言えば、



「君の歌は好きだったがね、しかし世界は歌のように優しくはない!」
 ……という事なのでした。


 こうした事態というのは、現実の戦争についてもある程度当てはまります。少なくとも冷戦崩壊まで、戦争というのはイデオロギー的な対立の結果、外交や国家間パワーゲームの一環として戦略的に考える物でありましたし、そうであればこそ第28話の解説で書いたように、「戦争はいつ終わりにすれば良いのか?」に対して「そんなの停戦協定を結んだ時に決まってるじゃないか」と言う事ができました。
 しかし冷戦の終結後、特に9.11同時多発テロ後の世界は、必ずしもそうした構図だけで語れるものではありません。
 イスラム原理主義的な組織の対アメリカ攻撃が彼らの口から「ジハード(聖戦)」として語られている事をはじめ、宗教的な感情、あるいは端的な憎悪が駆動する戦争が、21世紀の世界の各所に見られるようになっています。


 その結果でしょう、『ガンダムSEED』シリーズにおいても、また『ガンダム00』セカンドシーズンにおいても、主に戦争を駆動している者というのは、ナチュラル(あるいはコーディネーター)に対する差別意識と憎悪、あるいは非イノベイターに対する差別意識などといった、感情的な動機を強調されるキャラクターばかりが描かれています。
 特に『00』では、少なくともファーストシーズンまでは、AEU、ユニオン、人革連それぞれの代表が、大国のトップらしい打算と戦略を見せていたはずだったのですが、セカンドシーズン開始までの間に、そうした人々はキレイさっぱり登場しなくなっています。
 ティターンズが掲げた「地球至上主義」、ジオン・ズム・ダイクンが掲げた宇宙移民者独立を目指す「ジオニズム」、ノーブリス・オブリージュを掲げるロナ家の「貴族主義」、あるいはザンスカールの掲げる「マリア主義」、そしてサンクキングダムの掲げる「完全平和主義」……。Zガンダムエゥーゴが説く、地球環境保全のために人が宇宙へ上がるべきだという主張も一種の主義と言うべきものでしょう。80〜90年代ガンダムを彩った様々な「主義」は、ゼロ年代以降のガンダムからは消え去ってしまっています。良くも悪くも、21世紀の世界は「主義」によって収集がつくような時代ではなくなっているのです。


 そのような時代にあって、ガンダム作品の主人公たちはどのような行動原理で活動するのでしょうか。
 たとえば、『ガンダムSEED』序盤において、主人公キラ・ヤマトを含むヘリオポリスの学生たちは、一度はアークエンジェルから降りても良いという許可を得て、他の避難民と共にランチに乗りかけます。しかし、直前の戦闘で父親の死を目にしたフレイ・アルスターは一計を案じ、自らは志願して艦に残ると言い始めます。その結果……



「フレイの言ってたことは、オレも感じてたことだ。それに、彼女だけ置いていくなんて、できないしさ
アークエンジェル、人手不足だしな。この後落とされちゃったら、やっぱりなんかやだしよ」
トールが残るんなら、あたしも
みんな残るってのに、俺だけじゃな


 このように言い合って、彼らは戦場に残ることにします。何度見ても戦慄するのは、それが自分自身の生き死にを左右する決断であるにも関わらず、サイを除いて彼らの口からほとんど「軍に志願する意義」についての言葉が出て来ていない事です。サイたちは単に「友達が(あるいは恋人が)残るから自分も残る」というだけなのでした。
 そして、一時は避難民用ランチに乗りかけていたキラ・ヤマトも、結局同じ理由でアークエンジェルに残る事になります。このような形で残った彼らが、後に戦地にて地獄を見る羽目になるのでした。

 あるいは、『SEED Destiny』にて、オーブのユウナ・ロマ・セイランからカガリを奪還したアークエンジェルのキラたちは、その後大西洋連邦に派遣されたオーブ海軍が戦闘に加わる事を止めようと、再三にわたり事態に介入していきます。
 当初、私はこのアークエンジェルの戦闘への介入を、『ガンダムW』の完全平和主義や、あるいは後発の『ガンダム00』の紛争根絶のような、とにかく戦争は良くないという理想の元に戦争行為自体を止めようとしていたのだと理解していましたし、このブログでも過去にはそのような解釈による記事をあげたりしていました。
 しかし今回、この解説記事のために『SEED Destiny』の総集編を改めて通しで見ているうちに、どうも違うという事に気づいたのでした。彼らは、ファーストシーズンのソレスタルビーイングがやっていたように、発生したあらゆる紛争に無作為に介入していたわけではありません。あくまでもカガリ・ユラ・アスハの意向の元に、オーブの戦闘参加を止める目的で戦場に現れていたのです。
 特に、こうした戦闘介入をアスラン・ザラ咎められた際の、キラの発言は極めて象徴的です。
「仕掛けてきているのは地球軍だ。じゃあお前達はミネルバに沈めと言うのか!」「だから戻れと言った。討ちたくないと言いながら、何だお前は!」とアスランに詰め寄られたキラは、こう答えるのです。



「分かるけど……君の言うことも分かるけど……でもカガリは、今泣いているんだ!」


 現にザフトミネルバは地球軍に攻撃を受け、やむをえず反撃をしているのにそれを咎められても困るという、一理を認めざるを得ないアスランの言い分に対して、キラは「カガリは今泣いている」という、一人物の感情を持ち出して反論するのです
 これは、「気持ちがどうだろうと、とりあえず迫りくる敵に応戦して生き延びるしかない」というファーストガンダム世代はもちろん、「戦争という大状況を大局でとらえて少しでも理想に近い世界モデルを提示する」80〜90年代ガンダム世代にとっても、言語道断の言い分に見えます。戦争というのは基本的に国家という巨大な体制同士のパワーゲーム、あるいは駆け引きであって、そこに一個人の感情を持ち込んでも話にならない、ということになるからです。
 しかし。国家の利益を最大化するための植民地戦争、そしてイデオロギーの対立によって生じた冷戦、といった20世紀的な戦争と違って、21世紀の「憎悪の戦争」、宗教的感情や急進的な敵対感情・差別感情が駆動する現代の戦争においては、国家間のパワーゲームだけを追っていても戦争の原因を解決する事ができません。それが、前々回の解説記事で述べた「80〜90年代ガンダム世代の失敗」でもありました。であればこそ、SEED Destiny』は全話を通して、オーブ防衛戦で家族をなくしたシン・アスカの憎悪感情を清算し、キラとシンが和解する事でストーリーが終了したのでした(本放送時のラストにはこのシーンはなく、のちにスペシャルエディションなどで追加されたシーンではありますが)。


 これは『ガンダム00』のファーストシーズンからセカンドシーズンへの移行にも顕著に見られる変化です。44話の解説で一度見たように、ファーストシーズンのソレスタルビーイングは世界からあらゆる紛争を根絶すべく全方位に戦いを仕掛け、メンバーたちもイオリア計画の推進のために行動していました。アレルヤ・ハプティズムがかつて自分の所属していた超人機関の破壊・同朋の殺害を自ら立案したように、この頃はガンダムマイスターたちは私情を抑えてでも「世界を変える」ために行動しています。
 ところが、既に見たように彼らのこの行動は結局アロウズという新たな抑圧を生んだだけで、「世界の歪み」を根絶する事に失敗してしまいました。
 そこで続くセカンドシーズンではどうなったかというと、



「今のソレスタルビーイングは、私情で動いているとわたしは推測します」
 とアロウズの士官が言うとおり、なのでした。
 セカンドシーズンのソレスタルビーイングは、アロウズの打倒というシンプルな目標に重点を移しており、たとえば



 抵抗組織カタロンとも事実上の協力関係を結んでしまったりします。
 ファーストシーズンのソレスタルビーイングであれば、カタロンといえども「戦争を仕掛ける者」であれば攻撃しなければならなかったはずなのですが、セカンドシーズンのかれらはそういった原理では動いていないのです。
 個々のガンダムマイスターにしてもスタンスの変化は顕著で、特にアレルヤなどは完全に「マリーを取り返す」ことが序盤の戦う動機になってしまっており、「私情で動いている」としか言いようがない状態だったりします(笑)。
 刹那もまた、ガンダムに対して怒りをぶつける沙慈と和解し、また沙慈がルイスを取り戻す事にかなりのリソースを割いており、かつてマクロの世界情勢に影響を与えようとしていたソレスタルビーイングが、セカンドシーズンに入ってからは極めてミクロな領域に問題意識を絞っています。アロウズが倒すべき敵として提示されるのも、彼らが分かりやすく、虐殺や横暴といった感情的嫌悪をかきたてる行為をする連中だからです。劇中、そうした「憎むべき非人道的行為をするから」以外に、アロウズを討たねばならない理由というのは説明されません。

 こうした、ファーストシーズンとセカンドシーズンそれぞれにおける、ソレスタルビーイングの行動原理の違いというのは意識的に見ておく必要があります。これはおそらく、単にセカンドシーズンになって物語をまとめきれなくなったとか、テーマ性がブレたとかいった問題ではありません。『SEED』シリーズも含め、ゼロ年代ガンダムの問題意識というのは正に「そこ」にあったのです。普遍的な戦争のメカニズムや、世界のしくみ、平和をもたらすための理想像を求めるよりも、目の前の人物が抱えている私的で感情的な問題をひとつひとつ解決していく、という事です。
 そしてもちろん、こうした姿勢にも、長所と短所があります。


 ゼロ年代ガンダムのこうした問題意識は、90年代にガンダムシリーズに持ち込まれ、『SEED』シリーズで本格的に描かれた「不殺」問題とも密接に関わっています。
 そもそも、「不殺」というテーマを提示した週刊少年ジャンプ連載のコミック作品『るろうに剣心』から、この推移はうっすらと描かれてきました。かつて、時代を開くために、日本国の行方を左右する戊辰戦争に身を投じていた剣心は、そこで挫折した後、「目に映った人を守る」ために逆刃刀で不殺の剣を振るうようになるからです。
 『剣心』作中でも再三描かれているように(そして前回のガンダムAGEでセリックがキオに言い聞かせたように)、戦いの場で相手を殺さないといった制限を科す事は、自ら不利なハンディキャップを負うようなものです。完遂するためには相手よりも高い技量が必要になりますし、そのような戦い方を戦闘員に徹底している軍、といった設定は想像しにくいことです。結局、「不殺」というのは個人的な取り組み、可能な人物が可能な限りの範囲で行う信条に過ぎない、という事になります。


 『るろうに剣心』において、主人公の剣心がもし「不殺」を破れば、再び人斬りに舞い戻ってしまうという制限が強調されていた事から、ガンダムシリーズにおける「不殺」もどこか「破るわけにはいかない決まり」のように理解されていたフシがあるように思いますが、ガンダムシリーズにおいて描かれた「不殺」はそのような絶対のルールではなく、努力目標として描かれていた事には注意すべきです。
 現に、



「俺はキラ程上手くないと言ったろうが!」
 というように、バルドフェルドはキラたちと共に戦っていますが、敵機を完全に撃墜しています。むろんその事を、キラたちが咎めたりはしません。
 また、「こんな事したら普通に敵兵が死ぬだろう」とよく突っ込まれる



 こういうシーン。
 そりゃあ軍艦の艦橋をぶった切ればクルーは死ぬに決まっています。とはいえ、MSと違い、内部のクルーを殺傷せずに艦船を無力化する方法など早々あるはずもなく、むしろ艦橋だけを狙って破壊するのは、最も犠牲が少なくて済むやり方かもしれない、とも言えます。
 むしろ、キラたちは「可能な範囲内で」「不殺」を実行しているのであって、「何が何でも絶対殺してはいけない」というドグマにしているわけではない、と理解した方が良いように思います。


 というように見て来た時、SEEDで描かれた「不殺」が、存外現実的な範囲で描かれていると言って良いように思えます。もちろん、キラ・ヤマトという設定的に極めて高い能力を持っている事が前提ではありますが。
 しかし、90年代への反省と21世紀の時代背景から、キャラクターの感情面をメインに押し出して作られた主人公たちの行動原理ですが、これもまた重要な問題点を孕んでいます。AGEのこの回、キオ・アスノの空回りが描いているのは、恐らくはそうした「ゼロ年代ガンダムの反省点」である、と見る事ができます。
 特に強調されているのが、キオの「不殺」に対するスタンスのブレです。


 前回、第46話にて、キオはウェンディに「キオは戦うために戦場に行くんじゃないから」と言われ、「僕は僕なりのやり方で、戦いを終わらせる」と答えています。そしてそのためにガンダムの新しい機能であるFXバーストの使用を拒否します。



「お前もしかして、FXバーストモードを使いたくないのか?……やっぱりそうそうなんだな。敵とはいえ、ただ見境なくやっつけるのは嫌だってのか? お前死にたいのかよ!? やられないためには、やるしかないんだぞ!?」
 ここで、あくまでもキオを心配してこのように忠告しているウッドピット、というのが個人的に好きなところだったりします。さらに、その少し前、セリックも。



「敵を救おうとするあの戦い方、やめてもらいたい」
「あんな戦い方をしていれば、おまえ自身が危険なんだ!」
「いいかキオ?お前が守らなきゃいけないのは敵じゃない。自分であり、味方だ。そのためには敵を倒さないといけないんだよ……! 敵だって本気なんだ!」


 このセリフなども、AGEという作品の性格を端的に表していて非常に面白いのですが。つまり、セリックはキオの上官にあたるのですけれども、ここで部隊長として命令するという形ではなく、あくまで「やめてもらいたい」と、キオと対等な立場で説得をしようとしているのでした。コメント欄でも指摘がありましたが、フリット編でエミリーにちゃんと本音を話すグルーデック以来、子どもを「子ども扱い」しないというこの作品の特異性が、こういうシーンにも出ています。
 もちろん、軍人としては、ここは命令してでもやめさせるべき所かもしれませんが……。


 とはいえ、この時点では、キオの「敵を殺さない」戦い方は、本人も周りも、理性的・積極的に採用した「僕なりのやり方」であるとセリフで示されています。
 ところがつぶさに見ていくと、この第47話、戦闘シーンの合間に奇妙なカットが入っている事に気づきます。
 ヴェイガン艦から、新型に乗ったXラウンダー部隊が出撃して来た際、迎撃しようとしたキオの攻撃が、敵機を撃墜しそうになります。その瞬間、Xラウンダーの能力が発動した時のエフェクトと共に



 怯える敵兵の様子が現れ、



 それを感知したキオの驚くような表情が入り、



 同時にAGE-FXのビームサーベルの切っ先が敵機のコクピットを逸れ、危うくその腕だけを斬り落としたのでした。
 このカット、一体なんでしょうか?
 キオの卓越したXラウンダー能力によって不殺な戦い方が実現されている……というだけの描写では、おそらくありません。それなら、(フリットがノーラ脱出時、ユリンの力を借りて敵機の動きを察した時の描写のように)敵機の動きだけを予見したように描けば十分です。明らかにキオはこの瞬間、敵兵の怯えを感じた事で反射的に切っ先を変えています。
 筆者が思うに、わざわざこんなカットを入れたのは、キオの「不殺」を実行させているものが単に理性的・倫理的な意志だけなのではなく、敵兵の死や恐怖を感じてしまうXラウンダーの生理的嫌悪や恐怖の影響があるという事を示すため、であるように見えます。


 キオの行おうとしている戦い方は、戦争という現実に対する論理的洞察とか、地球連邦とヴェイガンの関係性への理解とかから演繹的に導き出したものというよりは、彼が個人的に経験し感じた事から導き出されたものでした。火星から帰ってきて以降、キオが口にしていたのは基本的に「もうやめよう」「僕たちは分かり合えるはず」という単純な内容に過ぎません。
 AGE-FXに乗ってからのキオの行動原理が、彼個人の感情に根差していた事は、ディーンに対してセリフからも確認できます。



「僕は……誰にも死んでほしくないんだ……! みんなに生きていてほしいんだ……僕を嫌っても構わない。僕を憎んでも構わない。それでもディーンに生きていてほしいんだ!!」

 キオの「不殺」の理由として、劇中セリフの中では最もその真情に近いものでしょう。
 もちろん、こうしたキオの感情は、当然の思いですし、この少年らしい優しさの表明でしょう。44話でアセムが「誰もが願いながら口にすることができなかった言葉」と表現した、そんなキオらしさの表れでもあります。


 しかし。AGEのシナリオは、そんな主人公キオの信条=真情であっても、無条件に是とすることをしません。キオの優しさが、裏返しの危険性を抱えている事を冷酷に暴露していきます。
 すなわちこの直後、



 ディーンの乗るMSがザナルドの手によって破壊され、ディーンが死亡。



「戦えぬモビルスーツなどごみも同然。それを排除しただけだ」
 ザナルドが平然と言い切るのを聞いたキオは、



「お前を絶対に許さない!」
 自ら禁じていたFXバーストモードを起動。



 あわやザナルドを殺害するところでした。
 ここまでの解説を読んだ方なら、このシーンで何が起きたのか、少し整理して見る事ができるのではないかと思います。
 キオの行動原理、戦い方がキオ自身の感情面に深く根ざしているとしたならば、もし一度その「感情」が怒りや憎悪の側に振れてしまえば、簡単に歯止めを失ってしまう、という事なのです。キオのような、初登場以来一貫して心優しい少年であったようなキャラクターでも、感情が負の方向に振りきれてしまう時が来ないとは限りません。


 何が問題なのか。それは、誰を許して誰を許さないかの基準が、感情という不安定な尺度で決まってしまう可能性がある事です。


 『ガンダムSEED』シリーズでは、ムルタ・アズラエルパトリック・ザラ、ロード・ジブリールなど戦争を主導していた人物たちは結局キラたちが手を下す前にほぼ死亡しており、キラやアスランたちがそうした人物に対して倫理的にどのような対処をするかという答えは宙吊りのままで終了していました。
 最後、ギルバート・デュランダルとは直接対峙し、自らの手で撃とうとするものの




 それすら、レイ・ザ・バレルが最終的には果たしてしまいます。
 そうでなくとも、デュランダルを討った後で訪れる混迷の時代を君はどうするつもりなのかと問われて、「覚悟はある」としか答えられないキラ・ヤマトには、地球連合とプラントという世界情勢に対して具体的にどうするべきという方策を持ち合わせているわけではないように見えます
 ちょうど、「互いが分かり合えれば戦争なんかしなくても済む」というキオに対して、



「それはいつだ!? 今日か? 明日か!? 1年後か? 100年後か?」
 とディーンに詰め寄られて答えられなかったのと、符合するかのようでした。


 そして、再び『ガンダム00』セカンドシーズンのラストを思い起こさねばなりません。
 刹那たちが「分かり合える」事を強調しつつ、しかし結局分かり合えなかったリボンズやサーシェスを排除するしかなかった、という話は第43話の解説で述べました。
 そのような結末の後、エピローグ的な部分で以下のような沙慈たちの会話、そして刹那のモノローグが挿入されます。



「世界がどうなるか、それは誰にもわからない。でも、どうにでもなれると思うんだ。過去は変えられなくても、未来は変えられる。僕たちが望む世界へ……!」
「もし、間違ってしまったら?」
「悲しいすれ違いが起きて、戦いになってしまったら、 きっと彼らが立ち上がる。すべての矛盾を抱え込んでも、きっと……!」



「俺たちはソレスタルビーイング。戦争根絶を目指す者。世界から見放されようとも、俺たちは世界と対峙し続ける。武力を行使してでも、世界の抑止力となって生きる……だから俺たちは、存在し続けなければならない……未来のために!」


 カッコいい事を言っているように見えますが、これ、大問題の発言です
 ファーストシーズンの時のように、その組織の理由も出自も主義も問わず、とにかく戦闘行動をしたものを漏らさず攻撃するというのなら、そこに「正しいか、間違っているか」という倫理的な判断の必要性はありません。
 しかしセカンドシーズン以降のソレスタルビーイングは、そのような組織ではありませんでした。そして、ユニオン、AEU、人革連といった大国が並列していた状況と違い、地球全体の統一政権が成立した状態において、戦闘を鎮圧するという事は「現政権に対するレジスタンス行動を許さない」事と半ば以上同義になる可能性があります。
 実際、沙慈とルイスの会話で、ルイスは「(私たちが)間違ってしまったら……?」と聞いているのに、沙慈は「悲しいすれ違いが起きて戦いになってしまったら」と、露骨に前提条件を変えて話を誘導しています。この会話からは「現政権が間違いを犯してしまっていて、それに反対する側に義がある可能性」が排除されています。
 極端な話をするならば、単純に最終決戦後の世界で起こる/起こった戦闘を「抑止」あるいは「武力を行使」して鎮圧するならば、その行為自体は、実はアロウズがやっていた事と本質的に変わりはありません。それにも関わらず刹那のモノローグが「正しそう」に見えるのは、「現政権に関わっているのがマリナ・イスマイールカティ・マネキンであること」、彼女たちが比較的良心的に描かれた人物だったことに負っています。アロウズのような間違いを起こさなそうな人物たちだ、という印象くらいしか、刹那たちの今後の行動を支える正当性はありません。
 しかし、これがいかに危ういかは、わざわざ書きたてるまでもないでしょう。政権に関わっているのはマリナ・イスマイールたちだけではありませんし、それに彼女たちもいつその「感情」が負の方向に振れるかも知れません。そのような事が絶対に起こらないと断言できるでしょうか。


 フリットが(そしてアムロが)直面した、とにかく目の前に脅威が迫っているという「状況」ではなく。アセムが(そして80〜90年代ガンダムの主人公たちが)模索した、「あるべき世界像」でもなく。キオとゼロ年代ガンダム主人公たちは、戦争を駆動する感情、また戦争の中で翻弄される感情に向き合い、そこをケアしあるいは克服する事に重点を置いてきました。しかし、ここにもまた限界があったと見るべきでしょう。たとえ確固とした一つの人格の中でさえ、気持ち、感情というのは時々刻々と変わっていくものですし、そのような不安定なものに「正しさ」を保証させる事は困難だからです。少なくとも――単独では。


 もちろん、Z以降のガンダムというのは、戦争を主導する大人たちに対して、しがらみを持たない少年主人公が直観的にその歪みや欺瞞を指摘する、という構図を大なり小なり持っており、そういう意味で「感情」によって行動すること自体がまったく否定されているわけではありません。
 しかし結果として、ディーンの死と、対ザナルド戦は、キオに自身の立脚しているものの脆弱さを強く自覚させました。これもまた、AGEという物語が最終的に終着点を見出すための、重要な通過点だったのです。



 以下は余談になりますが、この「感情」というキーワードは、実は80〜90年代の富野ガンダムにおいて断続的にスポットが当たってもいました。
Zガンダム』最終決戦にて、次々とメインキャラクターが戦死していくのを敏感に感じたカミーユがたまらず叫びだすシーンがあるのですが。その直後、同じニュータイプとしてカミーユのそうした様子を感じたパプティマス・シロッコが、このように言うのです。



「生の感情を丸出しで戦うなど、これでは人に品性を求めるなど絶望的だ」


 この、感情を抑制せねばならないという発言は『F91』にもあり、



「感情を処理できん人類は、ゴミだと教えたはずだがな」



「ナディア、人が旧来の感情の動物では、地球圏そのものを食いつぶすところまで来ているのだ、なぜそれが分からん」
「人類はかほどに情念を抑えなければならない時代なのだよ」


 このように並べると、「感情を抑制する」というのは憎まれ役の敵キャラが言っている事で、かえって否定される思想のようにも見えます。
 が、後者の「感情が抑制できなければ地球圏そのものを食いつぶしてしまう」という危機感は、この時期の富野ガンダム通奏低音になっていたようです。『逆襲のシャア』の中で、シャア・アズナブル



「しかし、このあたたかさを持った人類が、地球さえ破壊するんだ!」
 と言っているのも、同様の問題意識からであると見る事ができ、話はそう簡単ではありません。
 また確かに、カミーユの「感情」をしたり顔で非難していたシロッコは、最終的にはそのカミーユによって撃墜されてしまうのですが。しかし、そのようにニュータイプ能力と感情の爆発によってシロッコを打ち破ったカミーユが、結果的に精神崩壊してしまうわけで、こちらもやはり、話はそう単純ではなさそうです。
 特に、「Zの発動」として有名なシロッコ撃墜シーンは、キオのザナルド撃破とも微妙に重ねられているようにも見えます。FXバースト発動前後に、



 キオ自身の怒りが奔るような、こんなカットが挟まれますが。
 このカットは、カミーユ・ビダンが「俺の体をみんなに貸すぞ!」のシーンで呼び出された死者たちの中の、



 この辺りのカットと似ているように思えてなりません。
 そうして見てみると、ザナルドの駆るザムドラーグもシルエットのボリュームがジ・Oと似ており、かなり重ねあわされて描かれていると言えるかもしれません。


 一方、『ガンダムZZ』では、最終決戦の際にカミーユの思念が、



「その君の勘から発した、君の怒りと苛立ちは、理由になる……!」
 と発言してジュドーを支援していたりするので、やはりこの辺りの解釈判断は一筋縄にはいかないと考えるべきかもしれません。


 その上で、80〜90年代の富野ガンダムが問題意識の一つとして抱えていた「感情」という要素は、翻ってAGEという物語のラストを読み解くのに、今一度重要なカギを与えてくれている、と筆者は見ています。
 この点については、最終話の解説にて、述べていく事にしましょう。



 とりあえずこの第47話についてですが……以前ルナベース戦に合わせて解説した「人は分かり合える」問題、そしてここまで説明してきたゼロ年代ガンダムの感情問題と、キオ・アスノが何に失敗したのかという話をここまで縷々進めてきました。
 そろそろ次の話題へ……と行きたいところなのですが、この回にはもう一つ、看過できない問題が示唆されています。キオ・アスノのもう一つの失敗です。
 つまり――キオはセリック・アビスの戦死という出来事に立ち会えていないのです。



      ▽セリックの戦死を巡って


 ラ・グラミス攻略戦の最中、戦場にゴドム・タイナムの搭乗したMAグルドリンが登場、AGE-FXに襲い掛かります。
 セリックはこのMAの特徴を瞬時に見抜き、キオを下がらせて自身が対応、見事にグルドリンを撃沈するのですが、



 その爆発の影響でMSのコントロールを失い、ヴェイガン艦内部に機体が擱座してしまいます。
 おりしもディーヴァは不利に傾く戦局に突破口を開くためフォトンブラスターを充填していたところ、発車すればセリックも巻き込んでしまいます。ナトーラは逡巡しますが、セリック自身に説得され、意を決してフォトンブラスターを発射。



「長い休暇がとれそうだ……」
 ……と、セリックが物語から退場していきます。
 そして、ナトーラやフリット、ディーヴァのブリッジクルーはもちろん、アビス隊の小隊員たちもセリックの死を見守っているのに、キオだけが(先述の通り)この出来事に気づきすらしていないのでした。結局、直後にディーンと遭遇したキオは、セリックの死について何のコメントもリアクションも行わないままになってしまいます。
 ここにも、キオという少年のウィークポイントが端的に示されています。そもそもキオがセリック戦死の現場から離れたのは、「不殺」の戦い方を巡る意見の相違、そして(恐らくは)そのような戦い方ゆえ、グルドリンに後れをとったキオをディーヴァ直援に送ったセリックの判断のためでした。(補足すると、キオは基本的にCファンネルでヴェイガンMSの頭部を切り離す事で相手を無力化し、「不殺」のまま戦い続けています。そうすると、グルドリンのような形状の敵に対しては対応が大変難しい事になります)
 言ってみれば、グルドリンにとっさに対応できなかった事でキオは現場を離れさせられた、もっと言ってしまえば一時的に戦力外判定されたわけで、その結果セリックの死に立ち会えなかったという事は、ある意味で最後の瞬間に「アビス隊」でいられなかったという事でもあります。
Zガンダム』では、味方、仲間の死を感じられないという事は、最も強い疎外の表現になっていました。



「レコアさん、貴女にはカツの声が聞こえなかったの?」
「カツ? カツがどうしたの?」
「死んだわ」
「えっ?」
「ヘンケン艦長も死んだ。貴女は何も感じなかったの?」
「そうか、あの時……」
「みんなは感じたのよ。そしてみんな、あの二人の為に心の中で泣いたわ。でもね、レコアさん。貴女が死んでも誰も泣いてくれないんじゃない? それでいいの?」


 仲間の死を「感じ」られなかったという事は、それだけ心が離れている証拠として語られています。
 またAGE劇中においても、ゼハートなどは主にアセム編で、戦死した部下の事は必ず認識していました。
 このように眺めて来た時、セリックの死という一連の出来事にキオが参加できなかったという事実は、思ったより強い断絶の表現であるという事が分かります。


 これもコメント欄で指摘して下さった方がいましたが、キオは「人は分かり合う事が出来るはずだ」とずっと主張してきているのですけれども、その割に一番近しい人であるフリットや、セリックたちとの意思疎通に少なからず失敗し続けています



「僕にはじいちゃんがわからない。前はあんなに優しかったのに……今はじいちゃんが考えてることが理解できないんだ」
 こう言っちゃなんですが、「人は分かり合える」と主張していた人物のセリフとは思えません(笑)。しかし第43話解説で縷々述べたように、これが「人は分かり合える」という思想の限界でもあります。
 同様に、同じ部隊に属しているにも関わらず、キオにはセリックたちともあまり親密に話しているシーンがありません。


 一方、皮肉にもそうした現実の人間関係に配慮を見せ、きちんと関係性を構築出来ているのはフリットの方だったりします。ヴェイガン殲滅発言を繰り返してディーヴァクルーからの信用を落としているようですが、セリック戦死シーンでフリットが見せた言動は、それを補って余りあります。
 というのも、ナトーラがフォトンブラスター発射を逡巡している間、連邦軍は明らかに不利な立場に置かれています。敵艦はフォトンブラスター射線上から離れ始め、また刻一刻と味方も追い詰められている状況です。
 そんな中で、フリットはナトーラが決断するのを、



 無言で見守っているのでした。
 これは単に、「味方には優しい」とかいうレベルの言動ではありません。フォトンブラスターの発射を遅らせるほど味方の損害が大きくなる局面なのです。フリットが本当に、ヴェイガン殲滅と味方の損害だけを気にかけている人物であるならば、ナトーラの決断を待たずに自ら発射の命令を出す事も可能だった筈です。しかし、フリットはそれをしません。
 ここでフリットは、ナトーラの心の整理ができるまでの時間を、無言で見守っているのです。
 そしてフォトンブラスター発射の後には、



 セリックに向けて敬礼。



 ディーヴァのブリッジクルーがそれに倣います。
 このような行動が出来るフリット・アスノという人物は、世間で言われているほど「老害」ではないように思えます。


 敵と味方の感情的な融和を目指しつつ、現実の人間関係はうまくいっていないキオ。敵の徹底的な殲滅を掲げる過激な意志の持ち主ながら、現実の人間関係や組織運営においては細やかな配慮で人を率いる事ができるフリット
 セリックの死は、この二人の対照的な立ち位置を明らかにしています。


 そしてAGEという物語の結末をどこへ運ぶかは、この対照的なキオとフリットの対話、そこで互いの長所と短所をどのように折り合わせるかという一点に収斂していくのでした。


 その結末は、いよいよすぐそこまで近づいて来ています。



 ……というわけで、今回の解説はここまでとします。
 他にもこの回は、ついに登場したMAグルドリンの大活躍など、アクション的な見どころも多かったりします。ここまでAGEは、歴代ガンダムのお約束を律義に取り入れて進んできました。大気圏突入イベント、前半と後半の主人公機交替もAGE3からAGE-FXという形でこなしていますが、巨大MAも忘れていなかったという事のようです。
 まぁ、巨大MA大好きな筆者ですが、グルドリンのデザインは「お、おう……」という、リアクションに戸惑う感じがなくもなかったり(笑)。この辺も、ヴェイガンという勢力の設定の元ネタの一つである『クロスボーンガンダム』の木星帝国っぽい、バッドテイストなデザインなのでしょうかね。ガングリジョあたりが近いのでしょうか。


 また、メカの面ではAGE-FXのFXバーストが初お披露目だったのですが、上記の通りキオのシナリオ的な失敗と強く結びついているため、あまり爽快感のあるシーンにはなっていません。見た目も、過去ガンダムシリーズに比してそんなに独創的なエフェクトや演出があったとは言えないわけで、この辺ロボット活劇アクションとしてのAGEにとってはツライ部分でもあります。
 ここまでの解説記事で見て来たように、AGEに登場するガンダムはどれも、過去のガンダム作品へのオマージュによって、ガンダム各世代を通覧するという作品的なテーマに強く結びついています。結果として、AGEという作品を単体で見た時に、この作品の主人公機に固有のカッコいい武装や設定が少なく、たとえば『Gジェネ』や『エクストリームバーサス』のようなガンダム総登場系のゲームに出た場合に、見栄えの点で苦しくなりそうだなという懸念はあったりします。
 まぁそれでも、これを執筆している現在、『エクストリームバーサス』内でAGE1タイタスやAGE2ダブルバレッドはちゃんと活躍しているようなので、とりあえず安心していたりもしますが。


 そんなわけで、長かったAGE解説も残りあと少し。ここで気を抜かないよう、頑張りたいと思います。もうしばらくのお付き合いをお願いいたします。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第46話「宇宙要塞ラ・グラミス」

     ▼あらすじ


 ついにラ・グラミス攻略戦を開始する連邦軍と、迎え撃つヴェイガン。キオとウェンディ、セリックとナトーラ、ゼハートとフラムたちが、それぞれ出撃前最後の会話を交わす。
 そしてついに戦端が開かれる。ヴェイガンはダミーの艦船で連邦を油断させ、ラ・グラミスのディグマゼノン砲を発射、連邦軍に多大な損害を出させる事に成功する。しかしそこで、不満を募らせていたザナルド・ベイハートがゼハートらへ反旗を翻す。
 仲間の復讐に燃えるゴドム・タイナム、そして新兵として出撃するディーン・アノン。戦局は混迷を極め始めていた。




      ▼見どころ


 いよいよ最終決戦開始です。この回は、以降最終話まで目白押しな各種出来事をスムーズに進めるため、状況を準備する段取り回という印象があります。
 とはいえ、ただ淡々と段取りをこなしているわけでもありません。各所に、キャラクターの心情や成長を示すような細かなセリフや演出が見られます。そういう意味で、じっくりと視聴すれば確実に何かしらの発見のある内容です。
 この辺り、パッと見のインパクトが牽引するインターネット時代の作品人気の取り方とはどうしても逆方向なコンセプトになってしまうのですが……。
 ともあれ、この解説記事はいつも通りに、淡々と進めていきたいと思います。今回は歴代ガンダムに対する言及は抑え目で、AGEとしてのストーリーをメインに眺めていくことになると思います。恐らく、次回以降が否応なく盛りだくさんに大量の解説をせざるを得なくなるので、今回は短めに。
 細かな人間模様などは後に回して、とりあえず今まで当記事で追ってきた組織運営の問題などを軽く見ていきましょう。



      ▽何度目かの、組織論のはなし


 これまで何度か、連邦とヴェイガンの組織論の話をしてきましたが、両者を比較するのはこれが最後になると思います。
 特に注意を要するのは、連邦軍の指揮系統の描写です。既に見た通り、



 第44話にて、このラ・グラミス攻略戦における全艦隊の指揮が、フリット・アスノに託された事が描写されていました。
 ところがこの回、連邦軍の各艦艇を激励し、指示を出しているのは



 アルグレアスです。旗艦アマデウスに乗っているのも彼で、フリットはディグマゼノン砲が発射された後、突破口を開くために突撃するディーヴァの方に乗っているわけでした。恐らくは、このような人物配置の上で、フリットの意向をアルグレアスが全軍に伝える、という態勢を取っていたらしい事が推定されます。しかし、なぜでしょうか。
 これは、劇中の様子を見ていればわかります。



「フン……ヴェイガン殲滅の舞台が整ったということだなぁ」
 最終決戦を前に、フリットのヴェイガン殲滅発言は最高潮に達しており、その過激な物言いはディーヴァクルーをも辟易させています。もしフリット自身が連邦艦隊全体への指揮を直接飛ばしていたとしたら、このような過激な発言が全軍に広まってしまいます。武装の一般民まで虐殺すると捉えられかねない発言(というかフリットは事実そのつもりなのですが)が指揮官の口から出たとなると、これは連邦軍全体の混乱、士気の低下を起こす可能性もあります。
 一方で、



「そうか! 中央の敵艦隊はダミーだ。全部隊に退避を命じろ!」 フリットは、ヴェイガンがディグマゼノン砲を使用するために用いた戦術を、誰よりも早く見抜いています。この時は、結局味方軍の損害を避けるのにあまり役立ちませんでしたが、このようにフリットの戦局を読む非凡な能力は過去にも度々描かれています。連邦としては、この能力を捨て置くのも損失です。
 だとすれば、最適な方法は、まさにアルグレアスが取ったやり方でしょう。フリットの戦局判断は存分に活かしつつ、全軍への通達は自分がクッションとして間に入る事によって、フリットの発言の過激さを和らげる。

 これが、歴代ガンダム史上でも極めて珍しい、アルグレアスという人物の優秀さの描写です。つまりは――「副官」としての優秀さ。
 過去のガンダム作品においても、単純にパイロットとして、あるいは指揮官として優秀な人物は大量に登場して来ました。が、それらは大抵、個人としての能力が優れているという事であり、そうした人物を補佐したり、フォローしたりという方向で優秀な人物というのはあまり登場した事がありませんでした。筆者が唯一思い浮かべられるのは『逆襲のシャア』のナナイ・ミゲルくらいでしょうか。いずれにせよ、歴代ガンダムにおいても、地味ながら極めて珍しい特徴です。
 これはヴェイガン側においても、キオ編までのフラム・ナラがそのような「有能な副官」として機能していました。しかし、武人気質で成果主義であるヴェイガンという組織の特質に合わせ、彼女は結局はパイロットとなってしまいます。同様にゼハートのサポートについていたレイル・ライトも、この回、MSで出撃しています。
 実は、ルナベース戦においても、このラ・グラミス攻略戦においても、このように副官としてサポートに着くはずだった有能な人物がMSで現場に飛び出してしまった事が遠因となって、ヴェイガンは戦局を不利にしてしまっています。
 ルナベース戦においては、フラムが出撃してしまった事で戦局全体を把握できる者がおらず、



 ディーヴァからの砲撃をきっかけに陸戦隊の侵入を許してしまっています。
 さらに、



 ルナベース司令官アローン・シモンズが勝手に逃走する事も阻止できず、またセリック・アビスが持ちかけた降伏勧告に対しても、ゼハート自らが関わることができませんでした。
 今回始まったラ・グラミス攻略戦においても同じことで、もしレイルやフラムが母艦で戦局全体を見ていたならば、



 ザナルドの動きをもっと早く察知できたはずです。
 特に、フラムはかつて、他ならぬザナルドからゼハート監視のために送り込まれた人物なのですから、そうした立場を利用すればザナルド造反の動きを早めに察したり、牽制したりする事も出来たのではないでしょうか。フラム・ナラ、レイル・ライトという優秀な人材が前線に出てしまった事の弊害は、実はかなり大きいように思います。


 このように見て来たとき、「一時は退役していたフリットに艦隊指揮を任せる」という危うい組織体制で、なおかつディグマゼノン砲により大損害を受けるという窮地に陥りながら、連邦軍側が総崩れにならずに作戦を継続できたのは、地味ながら副官に徹しているアルグレアスの功績が大変大きいことが察せられることと思います。
 以上の点について言えば、『ガンダムAGE』が示そうとした事は極めて明瞭だと筆者は思っています。つまり、「アルグレアスのような人物がいなければ、組織はうまく回らない」という事です。AGEは歴代ガンダムの中でも、そのようなメッセージを初めて明確に打ち出した作品だと思うのです。
 富野監督について言えば、彼は組織を描くのが非常に巧みな作者でした。初代ガンダムがそれまでのアニメと別格のリアリズムを生み出す事ができたのは、オスカ、マーカのようなオペレーター、テム・レイやモスク・ハンのような技術士官、タムラさんのような軍艦内で料理を作るコックといった、それまではあまりスポットが当たらなかったけれど、軍隊が軍隊として機能するためには絶対必要だった人々を律義に描いてきたからでした。そういう意味で、富野監督の組織描写は別格に巧みです。しかし一方で、富野監督には、いわゆる官僚的な組織体制に対するかなり根強い反感と疑心があり(『逆襲のシャア』の中で、アムロがシャアに言い放ったセリフの中でも「官僚主義」は否定的に使われています)、シャアやハマーンをはじめとするヒロイックで強権的な組織体制の華々しさが描かれる一方、地球連邦軍連邦政府のような組織は常に否定的に描かれてきました。
 そのせいか、歴代ガンダムに、アルグレアスのような、組織運営において人を補佐する能力の優秀さが強調された人物というのは、実はほとんどいないのです。しかし現実の組織運営においては、こうした人物も重要でしょう。


 先日も、日本の政府が給与体系に成果主義(成果をどれほど挙げたかによって勤務時間などをフレキシブルに変えられる)を取り入れる事を検討しているというニュースが入りました。しかし、あげた成果によって人を評価する場合、ホームランバッターは有効に評価できますが、送りバントや犠牲フライに職人的な技量を持つバッター(私が子供の頃、応援していた野球チームにそういう選手がいましたw)を評価する事はできません。
 そのように考えて来た時に、アルグレアスのような人物の有能さをきちんと描いておくというAGEの作風は、今の時代にやはり相応の意味を持っていると言えると思うのです。
 私が、アセム編でアルグレアスが初登場した時から、当記事で一貫してアルグレアスに注目を促してきたのも、そうした意味があるからなのでした。


 さらに、この回は連邦とヴェイガンの、別な問題も対照的に浮き上がらせています。
 44話あたりから、イゼルカントの後継者として、あるいはヴェイガン最強のパイロットという触れ込みで登場してくるのが、



 ゼラ・ギンスという少年です。
 この回、イゼルカントは眠っているそのゼラ・ギンスに語りかけるように、告げます。



「本来わたしの座は、お前が受け継ぐはずだった……だが、わたしのDNAを受け継ぐお前にわたしの魂まで移すことはできなかった。魂はゼハートが継いだ。お前は最強のパイロットとして、ゼハートともに力を尽くすのだ。よいな、ゼラよ……」
 この、ゼラというキャラクターについても、AGEという作品は十分な時間を割けていません。そのため、このように再三顔見せの機会を設けてもなお、いざ彼がアスノ三世代の前に登場した時には、やはり唐突感が否めない感じになってしまっていましたが……。
 ともあれ、ここで問題なのは、イゼルカントが「DNAの継承」よりも「魂」を問題にしている事です。「魂」というのは抽象的な表現ですが、要するにプロジェクト・エデンなどイゼルカントの思想に共感し、意志を継いでくれる、という程度の意味でしょう。つまり、イゼルカントは遺伝子のつながり(象徴的に言えば血のつながり)よりも、意志や思想を受け入れてくれるというところで後継者を選んだ、と言っているのです。
 これは、実質的に救世主ガンダムの所有権であるAGEデバイスを血縁に従って継承させていったフリット・アスノと明確な対照をなしています。特に、そのようにして後継者に選んだアセム、キオがいずれもフリットの思想であるヴェイガン殲滅に明確に反対の姿勢を示している事が、です。
 その上、連邦軍総司令であるアルグレアスもまた、能力的にはともかく思想的にはフリットの意志を継ぐ人ではなく、なんやかやで結局フリットはあの老齢でありながら連邦軍の指揮を執り続ける事にもなっています。


 どちらが優れているという話ではありません。
 つまりこれは、後継者をどうするかという問題です。フリットのように、血縁に沿って年功序列に後継者を決めていくのは混乱がありません、が、現代において子供が同じ思想や考え方を継いでくれるとは限りません。そこに納得ができなければ、前代がいつまでも後継者に役目を移譲できない、といった問題が出る可能性もあります。
 一方、能力によって、そして思想や意志の面で共感してくれる者を抜擢するならば、上記のような混乱や問題は発生しません。後継者への役目の移譲もスムーズに進むかも知れません。ただしその代わりに、前代が恣意的に後継者を選んだ結果、



 年功序列の順番で飛ばされた「選ばれなかった」身内の不満が、思わぬ混乱を呼んだりするかも知れません。


 この辺りも、「三世代の物語」とする事で、ガンダムAGEという作品が過去ガンダムにあまり類例のないテーマを取り入れる事が出来た側面であったのだと思います。
 現実にも、たとえば初代ガンダムを生み出した富野由悠季監督や、その同世代で日本のアニメ普及に甚大な功績を残した宮崎駿監督など、いずれも70代となり、時に後継者をどうするのかといった話が界隈を賑わす事もあります。アニメを視聴する層にとっても、後継者問題というのは決して他人事ではなくなりつつあるわけで、AGEの問題意識というのはそうした部分とリンクさせても面白い側面があります。


 そしてもう一つ。以前この解説記事で指摘した事が、あらためて対比として登場してくる事も確認しておきたいと思います。
 この第46話、最終決戦を前に、連邦側はアルグレアスが、ヴェイガン側はゼハートがそれぞれ自軍を鼓舞する演説を行っています。その内容を比較してみると……この記事をここまでお読みの方は、何となく察せられるのではないかと思います。
 まずはアルグレアスの演説から。



「諸君、我々はついに決戦の時を迎えようとしている。ヴェイガンとの戦いは、今日まで長きにわたり続いてきた。親から子、そしてさらに世代をこえてもなお、我々がヴェイガンに脅かされてきたことは、それぞれが身をもって知るところだ
 だが我々は今、この場所にいる。それは我々がどれほどの傷を負っても、決してあきらめることなく、戦い続けてきたからにほかならない。たどり着いたこの場所で、我々は必ず勝利を収めなければならないのだ!
 ヴェイガンの地球侵略の拠点となっている要塞ラ・グラミスは、かつて我々の総司令部、ビッグリングを壊滅させ、甚大なる被害をもたらした。今こそ我々は、憎きラ・グラミスを攻略し、ヴェイガンの手から地球を守る! そして勝利とともに、この戦争に終止符を打つのだ!
 諸君の健闘を祈る!」


 続いて、ゼハートの演説。



「ついに決戦の時が来た! この戦いは、我々ヴェイガンが未来へ進むための唯一の道だ! 我々は何があろうと、この道を全力で突き進む! 行く先にある新たな未来、エデンを手に入れるのだ!
 戸惑うことはない。この道は、イゼルカント様が築いてくださった確かなるものだ。勝利は目の前にある! エデンをこの手に!」


 いかがでしょうか。
 アルグレアスの演説が、これまでの戦争の経緯、攻略する対象に関する情報、そして戦いの具体的な目的(地球を守る)を順を追って整然と語っているのに対し、ゼハートの演説にはそうした具体性がありません。「この戦いがヴェイガンが未来へ進むための唯一の道(理由は述べない)」、「この道は確かなものだ(イゼルカントが進めてきたものだから)」というのがゼハートの言っている事です。なぜそのように断言できるのか、という説明を決定的に欠いていることが、アルグレアスの演説と比較すると見えてくるのではないでしょうか。
 そう、第44話の解説クワトロ・バジーナラクス・クラインの演説を比較したのと、ほとんど同じ構図になっているのでした。「ポエム化」の問題を、ここでも確認することが出来ます。
 イゼルカントから、極めて抽象化された言葉でしか説明されなかった「プロジェクト・エデン」を、当然の事ながらゼハートも抽象的に語るしかありません。そして具体的で合理的な説明が不可能だからこそ、「これが唯一の道」「戸惑う必要はない」「確実な道だ」といった、強迫的に言い聞かせるような言葉が立て続けにその口から出てきます。


 こうした、様々な側面で連邦とヴェイガンは対照的に描かれていきます。ガンダムAGEという作品の結末は、個々の登場人物が行動した結果であると同時に、こうした組織形態の強い影響によってもたらされた結末でもある、という描かれ方がされているように見えます。そうした視点から物語を再度点検してみるのも、AGEという作品の鑑賞法の一つです。



      ▽“恋人未満”たち


 最終決戦を前にした最後の会話といえば、こうした戦場ドラマにおいて最も重要なシーンの一つです。AGEにおいても、この第46話にそうした会話シーンがあちこちに配されています。具体的には、3組。
 1組目は、ナトーラ・エイナスとセリック・アビスです。



「帽子を深くかぶっているのは力み過ぎている証拠」
「えっ?」
「きつく締めているのは、自分を律しなければならないという焦りの表れだ」
「……なんでもお見通しなんですね」


「戦場のホームズ」などとも呼ばれているセリックの、ナトーラの心境を些細な服装の乱れから言い当てる場面はこれまでもありました。ここでセリックも言っているように、彼のホームズに比せられるほどの洞察力は、部隊の隊長として、部下の様子を把握するために発達した能力でした。新米艦長であるナトーラにとって、セリックの洞察とアドバイスは大きな心の支えとなっていたらしく、このシーンの最後、



「君は君らしい艦長になればいい」
「セリックさん……」
 ……と、思わず階級ではなく「さん」付けで呼んでしまったりしています。


 そして、次にキオ。



「でもねキオ、わたしはキオが行くのを止めない。キオは戦うために戦場に行くんじゃないから」
「僕は僕なりのやり方で、戦いを終わらせる」
「うん……無事に帰ってきてね」
「うん」


 ウェンディ・ハーツという人物は、フリット編におけるエミリー、アセム編におけるロマリーと比べても、さらに圧倒的に出番の少ないヒロインでした。特にキオとの会話シーンも多くはないのですが……ここでウェンディは、キオの意志を汲んで、多くを語らずに送り出しています。
 彼女は、キオがヴェイガンに連れ去られた際にも「キオは必ず帰ってくるもの」「どうしてだかわからないけど、私わかるの」と言っていたり、表面的な関係性が見えないわりに、キオとの精神的なつながりは強いように描かれています。



 そしてこの二人の会話は、キオの手にウェンディが手を重ねるカットで終わります。


 最後に。



「わかっています。ゼハート様は、必ずエデンにたどり着きます。私の命に代えても、必ず」
「フラム……忘れるな。お前は私にとって、大切な部下だ」



「部下……それでいい……」


 この場面、呼び止められたフラムの表情など、明らかに「良い雰囲気」なのですが、ゼハートは結局「大切な部下」という以上の踏み込みをしないままなのでした。


 『ガンダムAGE』という作品の特異さの一つに、こういったような、恋愛表現の極端な抑制があります。特に平成に入ってからの地上波放映ガンダム作品が、『SEED』のフレイ・アルスターとか、『00』セカンドシーズン冒頭のスメラギさんなど、割と露骨に性愛表現を用いていた事と比べて、その抑制ぶりは際立っています。
 もちろん、AGEという作品が、これまでに比べて低年齢層視聴者へのガンダムの普及を狙った作品である以上、当然の事ではあるのですが……しかしここで、ナトーラとセリック、ゼハートとフラムが「恋人未満」な状態のまま最終決戦を迎えてしまうというのは、AGEという作品の性質を割り引いても、奇妙な抑制があります。
 というのも、たとえばアセム編の最終決戦前には



 レミ・ルースがオブライトのプロポーズを受諾したりしていますし、またジラード・スプリガンの回想シーンに



「レイナとなら、昔からの夢をかなえられる気がするんだ。あったかい家庭を持つっていうね」
 なんていう、わりと直接的な発言が出たりもしています。


 こういう戦場を舞台にした物語のセオリーとして、最終決戦前最後の会話というのは一番劇的なタイミングであり、ついついキャラのセリフや行動が甘くなってしまうものです。あの、ハリウッド映画的な演出が大嫌いで是が非でも「ハリウッドがよくやる絵は使わない」富野由悠季監督でさえ、



 シャアとララァのこういうシーンは描いているわけでした。
 しかし、ナトーラとセリック、フラムとゼハートは、劇中で明らかに関係性の近さが描かれているのに、そこまで踏み切る事ができないまま最終決戦を迎えてしまいます。
 このような展開によって描かれるのは、ナトーラやゼハートの未成熟なのか。あるいは、往々にしてこうした「戦場ドラマのセオリー」を意図的に外してくるのがAGEという脚本の狙いなのか。そこは人によって見方が違うところだと思います。
 ただいずれにせよ、エンタテインメントとして見ればいかにも不発に思える、こうしたシナリオの意図的な消化不良、のどに小骨が刺さったような感じ、というのが、この作品においては過去シリーズなどに対する批評性として認められるかもしれない、と筆者は考えています。
 そのような深読みが、あながち穿ちすぎでもないという事は、ここまで続けてきた解説記事からも察せられるのではないでしょうか。少なくとも、この3組の中で、互いの手を重ねる事ができたキオとウェンディだけが……っと、一応この先の展開のネタバレになるので、これ以上は申しませんが。



 ……といったところで、今回はここまでにしたいと思います。
 この第46話はもう一つ、キオの不殺に対してウッドピットが、セリックが強い言葉で忠告するシーンがあり、その内容も子細に検討してみると面白いのですが、それは次回に譲りたいと思います。
 相変わらずののんびりペースですが、残りわずか、お付き合いください。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第45話「破壊者シド」

     ▼あらすじ


 EXA-DBを守る無人MS、シドと交戦状態に入ったゼハートのガンダムレギルス。しかし圧倒的な火力に加え、「見えざる傘」によって神出鬼没な動きを繰り返す相手に苦戦を強いられる。そこに現れたのはアセムのダークハウンドだった。
 奇しくも、また互いに協力する形になった二人は、アセムの機転もあってどうにかシドに打ち勝つことに成功。ゼハートはEXA-DBを手に入れようとするが、ビシディアンの砲撃がこれを阻止。EXA-DBが隠されていた小惑星は爆散してしまう。
 しかし、完全に破壊されたかに見えたEXA-DBとシドは、密かに生き延びていたのだった。



      ▼見どころ


 全編にわたって、シドとの戦いが描かれる第45話。主人公側はフリットもキオもこの接触を素通りし、駆けつけるのはアセムだけ……ゼハートと合わせ、完全に「アセム世代」のための回という趣きです。
 当然、シドの話からしていかなければなりますまい。というわけで、早速本題から。



      ▽シドが意味するもの


 まず、以前に書いたことの確認からしていきましょう。
 AGEという作品において、ヴェイガンのMSは独特のカメラアイの形状をしており、過去のガンダム作品のMSデザインと離れたものになっています。
 そんな中、宇宙世紀のMSを思い起こさせる、「モノアイ」を使用したマシンがAGEの中で2か所だけ登場します。一つが



 フリット編に登場した、ザラムとエウバの機体。これらは、銀の杯条約以前の戦争の対立関係を引き継いだ二勢力が、旧戦争の機体で争っているという場面に登場したものでした。
 そしてもう一つが、



 今回登場した、シドです。
 こちらも言わずもがな、銀の杯条約以前の戦争技術を蓄積したデータベース、EXA-DBから生み出された、旧戦争に由来するマシンです。
 第6話の解説で書いたように、これら「銀の杯条約以前のMS」にのみ、モノアイという宇宙世紀ガンダム=過去のガンダム作品を思わせるデザインが採用されている事は、EXA-DBが「過去のガンダム作品に登場した戦争技術」の象徴であると暗に示すための意図を感じさせます。
 ここまでも、EXA-DB由来の技術としてセリフの中に出て来た技術が過去ガンダム作品を思わせる、という話は第37話解説などで述べましたが、この回シドが使用してゼハートを苦戦させた



 「見えざる傘」の技術も、



 『ガンダムSEED』のミラージュコロイドが当然念頭に置かれています。


 さて、ではそのシドはどのような存在かというと、その戦いを見ながらレイル・ライトが解説してくれています。



「EXA-DBを守護し、自己防衛機能まで備えたあの無人モビルスーツのコードネームだ。EXA-DBの力を利用して、生物のように成長を続けている……まさしく、モンスターだ」


 このように説明されると、やはりとっさに思い浮かべるものがあると思います。
 人型を大きく逸脱したシルエット、自己防衛と成長を続けるマシン、となると……



「自己進化」「自己再生」「自己増殖」の機能を持つとされるアルティメットガンダム、その成れの果てであるデビルガンダムが、連想されるところです。
 実際、アセムがシドと遭遇した際の様子を描いた外伝コミック作品『追憶のシド』では、シドが自己を修復する様子も描かれており、「自己再生」のイメージがより強調されていたりします。
(あるいは、左右の大型バインダーから次々とビームを放つ姿は、『ガンダムX』のパトゥーリアのイメージもあるかも知れませんが、ここでは「自己再生」「自己増殖」といった要素の強さから、デビルガンダムとの類似と相違を中心に見ていきます)


 とはいえ、シドはデビルガンダムのイメージをそのまま持ち込んだものではありません。これまで縷々見てきたように、AGEは歴代ガンダムから様々なモチーフを取り入れつつも、必ずその意味をストーリーに沿った形に読み替えてきました。
 では、シドとデビルガンダムはどこが共通し、どこが違うのか。……この点をはっきりさせるためには、まず『Gガンダム』作中のデビルガンダムについて、その意味するところを整理しておく必要があります。



 そもそも、デビルガンダムの作中での描かれ方は、あまりにも異様です。巨大ロボがドツキ合いの格闘大会をするという荒唐無稽な作品世界であるが故に、案外見過ごされがちですが、そのような作品世界の中ですら、ことさらに異様です。
 何がって、



 機械であるにも関わらず、人間に「感染」するとされているところです。
 設定上は、ナノマシンの作用という説明になっていますが、それにしても「デビルガンダムがそのコアに、生体ユニットとして人間を組み入れる事が必要」という辺りは、それまでのガンダム作品のメカまわりの設定からはあまりにかけ離れています。
 機械に過ぎないデビルガンダムの運用に、なぜ人間を取り込ませなければならないのか。このような異様な想像力がどこから現れたのか……と突き詰めていくと、同時期に放映された別番組の事が思い起こされてきます。
 人間・生物と、機械・ロボットとの境界を極端に曖昧なものとして描いた作品。



新世紀エヴァンゲリオン』です。
 言わずと知れた90年代アニメ作品のエポックメイキングである本作は、機械と生物の境目が極めて曖昧に描かれていました。主人公が乗り込むロボットにあたるはずのエヴァは、敵である使徒を「食っ」たり、攻撃されると無暗に液体を噴きだしたり、あげくコクピット内で「シンクロ率」の上がり過ぎたパイロットがマシンと融合してしまったりします。
 ……まぁ、実際のところ筆者はエヴァの設定に関してはあまり詳しくないのですが、要するに主人公たちの乗り込むエヴァって半分以上メカではない、という辺りなのかなと把握しています。


 いずれにせよ、「生体ユニットを入れないと運用できない」デビルガンダムと、エヴァの想像力は極めて近い、と言う事ができると思います。
 実のところ、『エヴァ』と『Gガンダム』との関連性は他にもいろいろと見つける事ができます。
 第11話番外編でちらりと書きましたが、基本的にガンダム作品のドラマ作りというのは、現在進行形で襲い掛かる状況にどう対処するかという話が中心で、「過去のトラウマ」にスポットが当たる事は極めて珍しい事でした。
 そうして見ると、それまでのガンダムシリーズに比べて、『Gガンダム』の登場人物たちは異様に「トラウマ」を強調されるシーンが多い。主人公のドモン・カッシュは母親の死、父親の冷凍刑という重い過去を抱えていますし、また第31話では、シャッフル同盟の中でも一番陽気に描かれるアメリカ代表チボデー・クロケットが、



 幼少時のピエロに関するトラウマに苦しめられます。
 このように、登場人物がそれぞれに過去のトラウマを持ち、そのトラウマによって現在の行動が制約されるという設定は、『エヴァンゲリオン』が強調して描き、その後のアニメシーンに大きな影響を与えた部分です(ちなみに、エヴァ放映当時に発売された多くの関連書のひとつに、庵野監督の対談本『スキゾ・エヴァンゲリオン』『パラノ・エヴァンゲリオン』がありますが、この「スキゾ」「パラノ」はいずれも心理学用語からとられています)。
 熱血な武闘派作品のイメージが強いですが、ドモン・カッシュはレイン・ミカムラがいなければ、基本的に人を寄せ付けたがらない「ネクラな主人公」でもあります。


 また、エヴァが「アダム」「使徒」「死海文書」などなど、キリスト教系の用語や世界観を大々的に取り入れていた事も有名ですが、これも『Gガンダム』が「ゴッドガンダム」「デビルガンダム」など、ネーミングに安直なくらいに直接的に「神」「悪魔」といった言葉を使っている事と、符合しています。


 そして重要な事ですが、エヴァンゲリオン』の放送開始は1995年10月、『Gガンダム』の放送開始は1994年4月。つまり、『Gガンダム』の方が先行しているのです。


 言ってみれば、エヴァンゲリオン的な作品が流行する空気、そういう時代性をいち早く先取りしていた側面が、『Gガンダム』には確実に存在していたのでした。


 ロボットアニメ界隈では、エヴァ以降、その影響を露骨に受けた作品がいくつか作られました。主要人物のトラウマや過去に大きなウエイトがかかり、敵の正体が不明で、黙示録的な謎や世界の危機が設定に含まれる作品群です。筆者はロボットアニメをそんなに熱心に追っているわけではないのであまり詳しく書くとぼろが出そうなところなのですが……『ラーゼフォン』や『ビッグオー』あたりはこの系譜に並べても良さそうに思えます。
 一方、ガンダム作品について見てみると、こうした「エヴァンゲリオンショック」から直接影響を受けたらしい作品は、エヴァ放映からしばらくの間、あまり見られません。大規模な最終戦争、あるいは災害後という世界観という意味で『ガンダムX』や『∀ガンダム』から影響を看取する事はできますが、エヴァが当時のサブカルチャーに与えた影響の大きさから見ると、はるかに少なく見えます。
 思うに、ガンダムシリーズにおいては、『Gガンダム』が免疫の役割を果たしていたのではないか、という見方が可能なのではないでしょうか。


 一見したところ、初代ガンダム以前の熱血スーパーロボットアニメに先祖がえりしたように見える『Gガンダム』ですが、当時の世相や空気、状況に極めて巧妙に合わせた作品作りが随所に見られるという意味で、実はかなり周到な内容だったと筆者は考えています。


 少し回り道をしましたが、デビルガンダムにしても、エヴァを生み出したのと同じ文脈の想像力――サイバネティクス、ナノマシーン、クローン技術などの、生命についての概念を揺るがすような技術の発展――を受けて、あのように設定、描写されたと見る事ができますし、そこには時代の空気に対する敏感なアンテナがあったと見る事ができるはずです。



 さて、以上を念頭に、シドについてです。
 ここまで書いたデビルガンダムについての記述と比較して頂ければお分かりかと思いますが、シドにはこうした、デビルガンダム、DG細胞といった「機械と生命の境界を揺るがす」ような要素は見られません。シドは自律的な無人MSで、自己修復や自己増殖を行いますが、有機物である人間に浸食してくるようなものではないからです。
 従って、シドについてはやはり「デビルガンダムなどのイメージをオマージュとして使いながら、劇中では別の意味を持った存在」であると見るのが良いと思われます。
 では、シドは何を意味していたのか。


 ……これについては、恐らく唯一の正解は存在しないのではないかと思います。劇中においては「EXA-DBの守護者」「(ゼハート言うところの)人類の過ちの象徴」という意味しか持たされていませんし、仮にそれ以上の意味を探るとなれば、解釈する人それぞれに様々な見解が出ておかしくありません。
 もちろん何の意味も無かったと見る事もできますが……それにしては、意味深な設定やキーワードがいかにも気になります。


 筆者としては、この後に論じる内容とも絡めて、シドを軍事産業の暗喩、という風に読んでみても良いのかなと考えています。
 過去の戦争データの蓄積から生まれており、自己増殖し、対立している両軍が求めており、時に戦いの遠因にもなる存在の守護者、という辺りから連想されるものの一つです。
 アメリカをはじめ多くの国で、ちょうど自動車メーカーがニューモデルを互いに展示・アピールするモーターショーがあるように、兵器を作る軍事産業が広いイベントスペースに新型兵器を展示して見せる兵器展示会が行われている事が知られています。
 軍事産業も資本主義経済の中の営利企業ですから、前年よりも今年、今年よりも来年と売り上げを増やして「成長」していかなければなりません。結果として、そうした企業にとってはより売り上げが上がるために軍事的な緊張状態や、戦争状態である事が好ましい、という事になります。
 しかも軍事産業は大きな売り上げ(による国への納税)や、多数の雇用を生み出しており、国にとっても軍事産業が衰退すると国富や経済、財政に大きな影響を来たしますので、軍事作業から国への要望がわりと通りやすくなったりもするわけであり……。
 たとえば(特にブッシュ政権の頃に)アメリカが戦争をやめられない理由の一つとして、こうした軍事産業を介した「戦争中毒」が原因の一つである、といった指摘があったりしたのでした。


 ガンダム作品でいえば、宇宙世紀アナハイム・エレクトロニクスが真っ先に思い浮かぶところでしょう。エゥーゴを主導して反ティターンズ運動に出資しつつ、ティターンズにも(マラサイなどの)MSを販売、2度のネオ・ジオン抗争では連邦軍の主力MSを引き受けつつネオ・ジオンにもMSを提供していました。
 また近年の作品で言えば、『ガンダムSEED Destiny』の



 軍需複合体ロゴス、といった設定が、上記のような問題をガンダム世界に取り込もうとした例として挙げられます。
「経済の観点から戦争を望むもの」として、デュランダルの長いセリフによって説明されたロゴスですが、その首魁の一人であるロード・ジブリールの役回りがムルタ・アズラエルと近いところもあり、また後半の展開が基本的にジブリールを単に追い回す展開に終始した結果として、構造としての軍需産業の話はどうも後半立ち消えになってしまった側面があります。
 総じてSEEDには、問題意識として取り入れられたものの中には重要なものがいくつもあるのですが、いずれも未消化だったという印象はあります。
 さて。


 正直なところ、ならばAGEのシドにこうした暗喩を読み込むことが、「正しい」(製作者側が意図していた)かどうかはもちろん、作品の読み替えとして妥当かどうかについても、そんなに自信があるわけではありません。こじつけだ、と思われる方もいらっしゃるでしょうし、筆者もそこは否定しません。
 それでも私がこの話を書いたのは、後述するアセム世代の話につなげるためです。
 先の軍事産業と「戦争中毒」の話のポイントは、A国とB国の仲が悪いとか、利害が対立するとか、外交がこじれた、無法があったといった「個々の国同士の問題」とは別に、国を超えて戦争を駆動する仕組み、戦争を誘導するバイアスが生じているかも知れない、という点でした。
 単にヴェイガンのためではなく、「人類の光となれ」と言われたゼハートは、敵国である連邦の戦力ではないシドを「人類の過ちの象徴」とみなし、これを自力で撃破する事にこだわります。少なくともこの瞬間、ゼハートは連邦、ヴェイガンといった枠を忘れ、人類全体を念頭に行動していました。
 そしてそこに駆けつけたのが、アスノ家の中でフリットでもキオでもなく、アセムだったのです。


      ▽アセムと80〜90年代ガンダム世代の失敗


 シドとガンダムレギルスの戦闘をキャッチしたディーヴァですが、どう対応しようか迷うナトーラに対して、フリットはすげなく言い放ちます。



「今はラ・グラミス攻略戦のため、ノートラムへの集結を優先すべきだ。些末(さまつ)なことに構っている暇などない!」


 第35話の解説で触れたように、初期のガンダムシリーズ作品においては「目の前で起こった出来事にどう対処するか」が重要であって、「過去に起こった事の謎解き」というのは近年のガンダム作品でないと主題になりにくい要素でした。そのせいなのか、EXA-DBという巨大な謎・秘密に接触できるチャンスに、ファーストガンダム世代にああるフリットは見向きもしません。
 そしてこのEXA-DBを巡るイベントには、キオも参加しません。『ガンダム00』『ガンダムUC』と、こうした「過去の秘密」がガンダムシリーズで強調されるのはゼロ年代以降が顕著なので、一見、キオがここに参戦しないのは不思議なようですが……私見では、上記2作品に見られる「過去の秘密」がキーになるというシナリオの特徴は、実は「遅れて来たエヴァンゲリオン・ショック」であって、ゼロ年代本来の性格と少しずれているような気がしています。
 実際、『ガンダムSEED』で思わせぶりに描かれた「過去の謎」である宇宙クジラ=エヴィデンス01は、結局本編中で何の伏線回収もされていなかったわけでした。SEEDという物語にとって、結局そうした世界観全体に関わるSF的な謎は、重要ではなかったのです。
 ラプラスの箱、イオリア計画といった「過去に仕組まれた遠大な謎」、そして神や天使といったキリスト教の諸要素、登場人物のトラウマ語り――これらはすべて、90年代を象徴する作品『新世紀エヴァンゲリオン』の特徴のリバイバルです。折しも、小説版『ガンダムUC』の連載開始、『ガンダム00』ファーストシーズン放映開始、そして『エヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開はすべて2007年。軌を一にしているのです。
 恐らく、TV版エヴァの影響を受けた人々が、クリエイターとして企画を主導できるようになったタイミングが重なったのだろうと思います。


 どうあれ、このような具合なのですから、EXA-DBの元へ馳せ参じるのはフリットでもキオでもない――セムとゼハート、90年代を代表する世代でなければなりません。


 さて、そのアセムですが、シドとは因縁がありました。



 アセムの駆るAGE-2をあわや撃墜というところまで追い込み、結果アセム失踪の原因となったのが、シドとの戦闘だったのでした。
 一応、外伝コミック『追憶のシド』によるならば、ここで宇宙海賊に属する少年ウィービックとの邂逅があり、またEXA-DBの管理者を名乗る少女レウナ、なども出てくるわけなのですが、例によって尺に余裕のないアニメ本編はその辺を全部割愛。そのせいでシドというマシンがどういう意味を持って本編に登場しているのか、余計分かりにくくなっている面もあります。
 この考察記事は、極力アニメ本編内から得られる情報のみで進めていますので、上記外伝コミックについては深くは触れません。


 むしろ重要なのは、ここでアセムとゼハートが、再び共闘する形になっている事です。
 ゼハートは当初、
「邪魔をするな、アセム! これはわたし自身の戦いだ。イゼルカント様の後継者たる覚悟が問われているのだ!」
 と言っていますが、見えざる傘によって捕捉することもままならないシドを前に、結果的に協力してこれを撃破する事になります。


 かつて、アセム編最終局面で二人がダウネス破壊のため協力したのは、ヴェイガンにとっても、連邦にとっても大切な場所である地球を、ダウネス落下による甚大な被害から守るためでした。
 そして今回のシド戦。ゼハートはEXA-DBをヴェイガンの戦力強化に使おうとしているという意味では、ヴェイガンのために行動しているとも言えます。しかしこの前後、



「イゼルカント様は、ただ人類の未来だけを思って、戦い続けてこられた……!」
「私は! 必ず人類を、エデンへと導いてみせるぅっ!!」


 シドは自分自身が倒さねばならないと言うゼハートは、このように言ってもいます。
 前回、イゼルカントが単にヴェイガンの地球侵略を目論んでいたのではなく、連邦ヴェイガン問わず新しい人類を生み出すために戦っていた事をゼハートに告げました。その意志を継ごうとしているゼハートも、少なくともこのシドとの戦いにあっては、「ヴェイガン」ではなく「人類」を導くという意志の試金石として戦っています。
 また一方、宇宙海賊ビシディアンを率いるアセムもまた、(少なくとも建前上は)連邦の味方でもヴェイガンの味方でもなく、両者の力を均衡させるために行動する第三勢力です。


 言わば、この二人が再び共闘することが出来たのは、互いに「ヴェイガンのため」でも「連邦のため」でもなく、「人類のため」に行動しようとしていた者同士だったから、でした。EXA-DBをどのように使うかという意図は違えど、それが人類全体を左右する存在であるという認識を、二人は共有しています。



 ここに、80〜90年代ガンダムの問題意識が表れているわけです。
 前回の記事で書いた通り、戦場のミリタリー的なリアリズムを一兵士の視点から描いた作品は、そうであるが故に戦争という巨大な営みの全体を問う事ができない、という欠点を持っていました。
 『Zガンダム』以降の作品は、その点を超えてより長射程の問題意識を描くべく、時にあえて「リアル」である事を捨ててでも、テーマに踏み込んでいきました。戦争を主導する者と主人公を会話させ、あるいはヒロインの家族を戦争の主導者として描くなどして、「戦争の全体像」が主題として浮上して来たのです。
 結果として、Z以降のガンダム作品のこうした側面は、ガンダムシリーズをエンタテインメント映像作品全般の中で、特異な位置に置いたという事が出来ます。
 実写の有名な戦争映画、たとえば『私は貝になりたい』とか、あるいは毎年8月15日前後に放映される戦時中を舞台にした実写ドラマなどを思い返していただければ分かるかと思いますが――こうした作品の基本構造は、一兵卒や一人の庶民、つまり「一個人がひどい目にあった」事を描いて、それゆえに「戦争は良くない」という論法しか基本的に用いていません。
 しかし、「じゃあ他国から攻め込まれたらどうするのか」といった単純な問いをはじめ、外交、資源、時代背景その他、戦争を問うために議論の俎上にあげるべき事は多いはずで、結局大半の「反戦映画」の類いは、前述の「ファーストガンダム世代の失敗」と同じ状況に陥っているようなものです。
 一個人の視点と戦争を主導する指導者の視点、国家全体の経営や外交といった巨視的な視点など、戦争のミクロとマクロをそれなりに多極的に描こうとしたエンタメ映像作品というのは、日本ではせいぜいNHKの大河ドラマと、ガンダム(をはじめとする一部のアニメ作品)くらいだと言う事も出来てしまうのでした。


 そして、ガンダムがそうしたマクロな戦争という視点を描いていく中で、さらに視野が広がっていく事にもなりました。敵と味方という枠を超えて、さらに巨視的に人類全体が直面する問題や状況もまた、Z以降の作品には取り入れられていきます。
 特に宇宙世紀作品で分かりやすいのは、たとえばこうした問題でしょう。



「お前が見せてくれたように人類全てがニュータイプになれるものか! その前に人類は地球を食いつくすよ!」



「持てる能力を、調和と協調に使えば、地球だって救えたのに!」



「世界は、人間のエゴ全部は飲み込めやしない!」
「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる!」


 これらのセリフから分かるのは、ジュドーハマーンアムロとシャアなど、互いに異なる陣営に属した敵同士であり、抱える信念も違うにも関わらず、「地球環境がもたなくなりつつある」というエコロジー問題についての懸念は共有している、という事です。
 『ガンダムZZ』にせよ『逆襲のシャア』にせよ、そのストーリーは、地球環境問題への危機感を共有した上で、その解決法をめぐる過激派と穏健派の争い、でもあるのです。


 つまり、言ってみればZ以降のガンダムシリーズにおいては、敵も味方も、所属する陣営の勝ち負けを超えて「人類全体の問題」を考え行動する、という意識がはるかに強く描かれていたのでした。これは、『ガンダムF91』や『Vガンダム』にも継承されていく特徴です。



 そして、90年代。富野監督以外の手になるガンダム作品に至って、「人類全体の問題」というのが必ずしもエコロジーばかりではなくなります。端的に言えば、戦争と平和の問題がよりクローズアップされていきました。自分が所属する陣営がいかに勝つか、ではなく、人類が最終的に戦争を克服するにはどうしたらよいか、という問題です。


 『Gガンダム』においては、各国が代表選手を出場させて、武術大会の勝敗によって代理戦争を行うという世界観の元に物語が展開しました。もちろん、「ガンダムでプロレスをやれ」という富野監督の注文から敷衍された設定ではありますが、結果として既存の戦争イメージそのものを変えてみるという思考実験になっています。
 そして『ガンダムW』。ヒロインであるリリーナ・ピースクラフトが中盤に至って、かつて滅びた国サンクキングダムの「完全平和主義」を復興、紆余曲折の末、OVA『エンドレスワルツ』の最後にて、



「アフターコロニー197年、人々のもとに平和は戻った。そして、その後の歴史の中で、ガンダムを含むMSという兵器の存在は、二度とその姿を現す事はなかった」
 本当に世界が「完全平和」な状態になり、MSがまったく使用されない時代が到来してしまうのでした。
 第34話解説の後半で書いた、主人公の属するチームが「第三勢力」化していくというのも、こうした傾向と歩調を合わせています。そこで触れたように、ヒイロ・ユィたちガンダムパイロットたちは当初はコロニーから派遣された戦力だったのですが、やがてコロニー側がホワイトファングと名乗って地球と争い始めるにおよび、そのどちらにも味方せずに第三勢力化、結果としてリリーナの唱える完全平和の成立に一役買う事になります。
 また、最終局面において、ホワイトファングの指揮を執るミリアルド・ピースクラフトも、また地球圏側の勢力をまとめて代表の座に就いたトレーズ・クシュリナーダも、いずれもゆくゆくは世界が完全平和へ至る事を了解している事が匂わされており、だからこそトレーズは自分と最も近いストイックな戦士である五飛の手にかかって討ち死にする事を選んだのでした。


 とはいえ。そりゃあ、争っている双方の代表が内心で完全平和に理解を示しているなら、最終的に世の中が平和になったという結末にもなろうものですが、現実に戦争を指揮する指導者がそのようなビジョンを共有する事があり得るのかどうか。元よりファーストガンダム的なリアリズムからは距離をとっているとはいえ、こうした未来像が現実に対する批評としてどれほど効果的だったのかは、疑問が残ります。


 こうした、90年代ガンダムの可能性と限界を極めて批評的に描き出した作品として、『ガンダム00』のファーストシーズンは特筆に値する内容を持っています。おそらくですが、この作品のファーストシーズンは90年代ガンダムの目指したものをかなり圧縮、先鋭化して描き出しており、一方セカンドシーズンでは同じガンダムマイスターたちがゼロ年代ガンダム的な問題意識・行動原理で活躍するようになっている、という構造になっていると読むことができます。
 つまり、『ガンダム00』のファーストシーズンからセカンドシーズンへの移行は、そのまま90年代ガンダムの挫折のありかを浮かび上がらせている、極めて批評的な内容になっているのではないか、と筆者は見ています。



 ファーストシーズン時点でのソレスタルビーイングの目的は、あらゆる戦争、紛争の根絶です。そしてそのために、ユニオン、AEU、人革連のほか、それらに反抗する小規模武装勢力などあらゆる軍事行動に対して攻撃を仕掛けます。
 彼らが行っているのは、諸氏百家の墨家のような(あるいは宇宙海賊ビシディアンのような)強者を叩いて弱者に加勢するといった性格のものでもありません。第4話「対外折衝」にて、



 相対的に弱小国であろうと先に戦闘行動をとった方を「戦争幇助国」と断定して攻撃しています。
 要するにその意図は、「どんな陣営、どんな理由であっても戦争行動する奴は許さん、武力介入の対象にする」という、全方位を敵に回す行動なのでした。つまり彼らは、特定の「戦争の原因になっている国や人物」ではなく、あらゆる場所で起こる戦争一般を、つまり人類が起こす戦争すべてをターゲットに行動している事になります。


 シーズンの後半、ソレスタルビーイングのこの時点での意図が明確にされます。太陽炉という強大なエネルギー源により、破格の性能を誇るガンダムを用いて世界中の大国・小国の軍事行動を叩くことで、自らがそれら国家の「共通の敵」となり、今まで分裂していた国家同士を一つにまとめ上げる、という構想だったのでした。
 そして事実、ファーストシーズンのソレスタルビーイングがきっかけとなって、ユニオン、AEU、人革連などが「地球連邦」にまとまる事になるのですから、(驚くべきことに)彼らの目論見は見事成功したのです。


 しかし、その結果どうなったかといえば……連邦軍内部に「アロウズ」という専制的な軍組織が現れ、連邦の意向や利権に反する者たちを非人道的な方法で潰して回る、という世界が現出。その横暴を目にした5年後の刹那は、



「変わってない……あの頃から、何も……!」
 と述懐します。
 大国のパワーゲーム、貧困国の噴き上がり、テロリズムなど様々な「戦争を生む原理」に戦いを挑み、その目論見を成功させたにも関わらず、結局世界は武力を捨てはしなかった……という結末を、この作品はファーストシーズンに対するアンサーとして用意して見せたという事になります。
 これはおそらく、80〜90年代ガンダムの限界をかなり正確に掴んで表現したシナリオだったのだろうと思えます。


 「完全平和主義」といった極端な用語を始め、この時期のガンダムは所属する陣営の枠を超えて、広く人類全体の問題にまで考えを及ぼす視野を手に入れたのですが、一方で世界全体を俎上にあげたために、極めて抽象的に、非常に大雑把な枠組みでの話に終始せざるを得ないという短所にもつながってしまった、という事が出来ます。
 しかし、人類や世界についての大きな理念を描き出したとしても、国も組織も結局は、不合理で予測不能な個人個人の集まりです。どんな原理原則にも例外は発生するものですし、どだい一定規模の人間が集まってまったくいさかいや争いが起きないなどという事はあり得ません。ソレスタルビーイングは三つの大国が覇権を争う世界を克服する事はできましたが、それは結局、別な覇権を持った者を生み出して同じことを繰り返させただけ、だったと描いた事になります。


 言ってみれば、この『ガンダム00』ファーストシーズン終盤からの展開は、世界が本当に平和になってしまった『ガンダムW』に対する批判でもあったのでした。そしてこの批判に応ずるかのように、


ガンダムW』でも原作者による続編小説『フローズンティアドロップ』が近年開始され、再びあの世界観で戦いが描かれる事になります(エンドレスワルツのラストで「ガンダムを含むMS」は二度と現れなかったと説明されているので、この小説作品でヒイロたちが乗る機体には「ガンダム」の名前がついていませんしMSとも呼ばれませんw)。


 こうした批判は、形を変えて『∀ガンダム』にも匂わされています。同作品の後半になって、頻繁に「闘争本能」という言葉がキーワードとして登場するのです。



「地球帰還作戦が始まってから、心穏やかであったムーンレィスに闘争本能が芽生えて、古代の人類に戻ってしまったのだ」
 つまり、∀ガンダム作中で起こったミリシャとムーンレィスの小競り合い、武力衝突の発生の一端は、巨視的な国家間の利害や、抽象的な哲学や世界の原理などではなく、人間個々人の本能に帰せられているのです。ディアナ・ソレルのように和平を望んでいる者が主導者であっても、それだけで戦いを失くせるわけではない、というのが『∀ガンダム』という作品の基本路線です。
 マクロな問題を追っているだけでは、戦争という人類史上の大問題は解決できない、という事なのでした。


 AGEにおいて、確かにアセムとゼハートは所属する陣営をこえて、シドに対して共闘を挑むことができました。前節で述べたようにシドを「肥大化する軍事産業」といった国家の枠を超えた「戦争を誘発する原理」の象徴と見る事が許されるならば、アセムたちが人類レベルの問題意識を共有し、そのために己の立場を超えて協力する事ができたのだ、と見る事ができます。
 しかし、アセムの機転と、ゼハートによるガンダムレギルスの覚醒によってシドを一時は撃破する事に成功するものの、



 シドも、EXA-DBも、結局生き延びてしまうのでした。
 まるで『ガンダム00』ファーストシーズンのガンダムマイスターたちが、「世界の歪み」を根絶する事に失敗してしまったかのように、です。


 このような80〜90年代ガンダムの反省から、ゼロ年代ガンダムが展開されます。それがどのようなものだったのか……という話は、おそらく47話の解説で詳しく述べる事になると思います。キオ・アスノが、やはりその希望と限界を再演してくれるはずです。
 また、80〜90年代ガンダムからゼロ年代ガンダムへと移る中で何が変わったのか、どのように問題意識が推移していったのかについては、『ガンダム00』のファーストシーズンからセカンドシーズンへの移り変わりを観察する事で見えてくることと思います。
 これについても、47話解説にて詳しく述べる事にします。


 というわけで、今回はここまで。
 この回は、シドとゼハート、アセムの戦闘のみに見所が集中している、AGE全体でも珍しい回なので解説内容もシンプルになりました。とはいえ、今回あまり強調出来なかった意外な見どころもありまして……「見えざる傘」によって出没を繰り返すシドに対して、アセムは咄嗟にワイヤーアンカーによる追尾を行いますが。



「ゼハート、相手はこのワイヤーの先だ! そこに攻撃を集中させろ!」
「ワイヤーだと? ……そうか!」


 この直後、ゼハートの攻撃によりシドは撃破されるのですが。問題はこの、「ワイヤーだと?」と訝ってから、アセムの意図に気づくまでのゼハートの「間」です。
 ここで、ガンダムレギルスを乗りこなしXラウンダー能力を最大限に引き出しつつあるゼハートですら、一瞬アセムの意図を察するのに時間がかかったという事。それは、セムの機転がゼハートのXラウンダー能力による推察を上回ったという事です。
 つまりこの「間」こそ、非XラウンダーでありながらXラウンダー以上の能力を発揮する「スーパーパイロット」の面目躍如の瞬間なのでした。


 こういった、つぶさに見ている人なら気づくテクニカルな見どころが多いのがAGEです。おそらくこの解説記事でも見逃しているところは沢山あるのだろうと思います。
 まぁ、気づいた限りの事は書き綴って行こうと思います。


 さて、次回はいよいよ、最終決戦が開始されます。この長い物語もついにクライマックスへ進んでいく――という事で、当記事も今一度、気合を入れ直して臨みたいと思います。
 引き続き、よろしければお付き合いください。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次