ジェンダー入門


ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい

ジェンダー入門―知らないと恥ずかしい


 まぁ何というか、先日もエロゲ規制関連で凌辱趣味云々とかいうエントリーたてたり、それでid:AntiSeptic氏に突っ込みもらったりしたわけで。
 かつて私もmixiの身内向けの日記で、どこぞのフェミニストさんの発言に不満を呈した事もあり。しかし一方で、たとえば少子化に関するニュースのコメント欄に「女を家庭に縛りつけておけばこうはならなかったものを」なんて書いてあるのを読むと、それはそれで「その言い方はどうなのよ」と思ったりもして。この方面に対する自分のスタンスというのも私の中で迷いがありました。
 いい加減、多少は腰を据えてジェンダーについてとかも勉強しておかないと、と思ったり思わなかったりしたので、とりあえず取っ掛かりにこんなのを読んでみたわけです。帯に上野千鶴子女史の推薦文。


 とりあえず、著者が述べている主張の大まかな部分、つまり「人は、男ならこうすべきとか、女らこうすべきといった“性役割”に縛られて生きるべきではない」という部分には賛成なのでした。そこには特に引っかからなかった。
 まぁ私自身、「男ならこうあるべき」みたいな規範もわりとスルーしてやってきたし。


 ですから、この著者と結論までの道程、大まかな部分でそんなに齟齬はないはずなのだと思うのですが。
 また、男女の身体機能から性役割の“規範”へとダイレクトに話を継いでしまうのは暴論だ、というのは認識を新たにしたところでもあり。私も以前そんなような事をこのブログで書いた事があるし、これは注意せねばいかんなと思ったり。
 ちなみに、著者のいう規範は、相手に「こうあるべき」という形で(時に強制的に)押し付けられる期待のこと。


 他にも色々と勉強になったし、有意義ではあったのですが……それでも読み進めるごとに、何か妙なイラ立ちを感じている自分を持て余してもいました。
 たとえば、著者は「差別」を論じて、

 このように個人を集団に還元するステレオタイプに、何らかの意味で大正の価値を貶めるような見方が加わったときに、本質的な意味での差別が成立します。典型的な例は、女性である、黒人であるという理由で、就職の面接にさえ呼ばれないような場合です。

 といったように書き、女性に対する差別というものを様々記述していきます。
 で、その途中で、最近「男も差別されている」といった言い回しをする人が増えてきたような気がする、と前置きします。
 ところが、これを著者は一蹴するのですね。

 けれども性差別の全体を考えるなら、男性も(女性と同じように)差別されているというのは言葉として不正確であり、差別という言葉の濫用と言うべきです。差別という以上、そこには集団ごとの序列化があり、差別する側と差別される側がある。そして、ジェンダーに関わる限り、男性が優位で女性が劣位というのが私たちの生きる社会の現実です。そういう最低限の基本的な意味をキープしておかなければ、まともな議論はできなくなってしまいます。


 確かに現在においても、社会的な部分で女性が劣位におかれるケースが多い事はわかります。またこの後に続けて著者が言うように、これに対する、「男性だって差別されている」という反例として電車の女性専用車両などを挙げるのは不適切でしょう。そこは分かります。
 しかし一方で、「男性が優位で女性が劣位というのが私たちの生きる社会の現実」であるという所は、論証されない「無条件の前提」とされてしまっています。そこが意外に気になる。
 たとえば。差別が、ある集団に対する「ステレオタイプ」から生じた偏見に起因するなら。ある側面において、男性一般に対する偏見が共有され、一時的にせよ男性側が劣位に立つ事が本当にありえないと言えるのかな、という疑問は湧きました。
 たとえば、「男性(特に中年男性)が性的な倫理感の面で女性より劣っている」というステレオタイプ、それによる差別というのが、局所的にせよ成立している可能性はないのかどうか。痴漢冤罪とかさ。



 ……まあ、こんな事を言っても、結局は「オレの方が弱者だ」「いやこっちの方が弱者だ」という不毛な弱者合戦になるしかないので、詮無い話ではあるのですがね。しかし上記のように書かれると、糾弾される一方の男性私としては、やはりフラストレーションが溜まり、こういう屁理屈をこねたくもなる(笑)。
 かつて強者の立場を奪い合った人類は、現在では弱者の立場を奪い合ってるわけですね。別に良いんだけどさ、言ってる事は正しいんだし。



 この本の最後の方で、「バックラッシュ」に関する話が紹介されています。ジェンダー論に対するバッシング現象です。
 著者はこういった現象を、実際に起こった事件を紹介しつつ論じていくわけです。
 ここでも私の認識違いが訂正されていて、ジェンダー論の論者というのは基本的には、まったくのジェンダーフリー、つまり性別による身体機能差までもまったく否定しているわけではないと。その点は勉強になりました。
 で、それに合わせて、たとえば学校において男性と女性で名簿の並びを分ける事の主張(男女混合名簿)に対するバックラッシュ側のバッシングと、それに対する反論も載っていました。
 私自身、この男女混合名簿についてはミクシィの日記で苦言を呟いた事があるので、ちょっと膝を正して読みました。

 区別する正当性のないところに、ことさらに区別を持ち込むことを差別と呼ぶのでした。そうだとすれば、「黒人と白人を分けて、白人が先・黒人が後」とする名簿が差別的であるのと同じように、これまでの男女別かつ男が先・女が後の名簿は差別的であったと言うしかありません。それにもかかわらず従来のような「男女別名簿」のほうが望ましいと言うためには、よほど強力な別の理由がなければなりません。つまり、裁判用語でいう「挙証責任」があるのは「男女別名簿」を使いたい人たちのほうであって、逆ではないのです。秦してそんな理由はあるのでしょうか。


 ……まぁ、確かに男性と女性の名簿を分けていたら、どちらかを先に呼ぶしかないので、そして大抵男性の名簿が先に呼ばれるので、それが差別的というのは一応分かる話です。
 ただ、個人的に男女混合名簿の話を聞いて率直に思ったのは、「え、それって不便じゃね?」という事だったのですが……。「カオル」とか「マコト」とか、男性女性双方につけられる名前ってあるし、それで紛らわしくなるケースがあるかなぁという。
 もっとも私は現場の教師でもないので、実際に男女混合名簿を使っても不都合がないなら、まぁ特に文句はないのですけども。
 ただ、ここでも「挙証責任」なんて言葉をわざわざ引っ張り出してくる挑戦的な書き方に、やっぱりカチンとくる私(笑)。そうやってケンカ腰だからバックラッシュなんてのも呼びこんでるんじゃないの? とは思いますけど。



 うーん。とりあえず理性的に言って、この著者が述べている事は概ね正しいと思うし、私も大まかには賛成です。
 ただ、「われわれは正しい事を言っている!」というスタンスで語っている語り方が、個人的にやはり好きではありません。何度もこのブログで書いているように、私は「正しい事さえ言ってればOK」というスタンスが大嫌いですし。正しい事を言っている、それゆえに相手からは反論されず、一方的に攻撃をし続けられる。正しい事を言ってるからそれは別に良いのですが、そこで一方的に攻撃をかけるというのも加害なのですよ。害意なのですよ。「加害と被害の同在」。石原吉郎



 この本は、大学の講義調で、学生に語りかけるような文体で書いたのだと著者は最初に断り書きしています。ただ、それにしては引っかかる部分もあり。
 著者はこんな事も書いているのです。

 つけ加えておけば、同じ状況で女が勝った場合も、必ず誰かが「女だからトクをした」
と陰口をたたきます。つまり、じつは相手が男だろうが女だろうが、他人の実力を素直に認められない卑小な精神の持ち主というのは一定数いるわけで、いちいちかかずらっているヒマはありません。みなさんがこれから世の中に出て、そういう目に遭ったときは、言い返したりせずに、とにかく無視することをお勧めします。

 うーん。処世術としては別におかしくないのですけれども。この方は大学の教壇の上でもこのようにおっしゃるのでしょうか。


 私は、この本で述べられている内容を、「主張」としては頷く事ができます。
 が、著者の主張が「学問」であるとは思えませんでした。
 どのような形であれ、対象についての軽蔑を含んだ言説を、私は学問と呼ぶ事ができません。



 ……大体そんなような感じで、この本に対しては断絶を感じたまま閉じる事になりました。
 無論、私の方もジェンダー的な視点はまだまだ未熟でしょうし、今回の感想にしてもツッコミどころはいろいろあるだろうと思います。消毒先生ことid:AntiSepticさんにツッコんでもらいたいくらいで(ぇ
 まぁ、この一冊でジェンダーを知ったつもりになるのもまずいでしょうから、また機会があれば別な本にも手を出してみようと思います。やはりこの分野の親玉たる上野千鶴子女史の本にトライしてみる必要があるのか……!?


 ともあれ、なんかモヤモヤした読後感なのでした。