機動戦士ガンダムAGE 第11話番外編


   ▽フリットの“トラウマ”語り


 第11話について、もう一つ言及しておきたい事柄が出来ましたので、番外編として記事に起こしておきます。
 実はこの解説記事を書き始めた時点で、小説版のAGEを読んでいなかったのですが、読んでみてからアニメ版と比較してみると、逆に重要な示唆と思える事が透かし見えてきたのでありました。


 比較したいのは、ユリンの発言に対する、フリットの応答の違いです。
まずは小説版。ユリンはノーラでフリットガンダムに助けられた事について、以下のように気持ちを伝えます


「私ね、UEの攻撃で、お父さんもお母さんも、弟もみんな死んじゃって、ひとりぼっちになっちゃったの。いろいろあって、遠縁のバーミングスさんに引き取られたんだけど」
「……そうか」
(中略)
フリットがあの日、戦ってくれなかったら、私も、みんなのところへ行けたんだと思う。ううん……それだけじゃない。あなたがガンダムに乗れ、って言ってくれたときのこと、覚えてる?」
「うん」
「あの時ね、私、死ぬつもりだったんだ」
 フリットの心臓が、大きく鳴った。
「だからひとりで、避難勧告のこと聞かないで、あんなところにいたの。でも、フリットガンダムで私を助けに来てくれた時にね、思ったんだ。同じ年の子供が、こんなにがんばってるのに、私だけ泣いてちゃダメだな、って。ありがとう、フリット。あなたが私に勇気をくれたんだよ」

 この部分、アニメ版でも、ほぼ同様の事をユリンは語っています。尺の制約がある分、ここまで詳しくはないですが、大略同じと思って良いでしょう。以下の通りです。

「わたしね、UEの攻撃で、お父さんもお母さんも弟も死んじゃったんだ。1人ぼっちになっちゃった……」
「UEに……」
「(中略)だからあの時、逃げ出したんだ。そうしたら、あなたがガンダムで……フリットに会えてなかったら、私、どうなっていたか……」

 問題はこの後です。
 小説版、アニメ版ともに、ユリンに対してフリットは「僕もだよ」と応じています。
 ところが、その先に続く言葉が、まったく違うのです。
 小説版のフリットは、こう返します。


「僕もだよ」
「え?」
「僕もあの時、本当はどうしたらいいかなんてわからなかった。ガンダムを作って、それで友達を守って、その後のことなんて考えてなかった。いきなりさ。いきなり、パイロットになってしまって、たくさんの人が死んで、僕のやっていることって何だろう、ってどこかで思ってた。でも、ユリンに会って、ユリンを助けられて、わかったんだ。僕のやってることには、きっと意味があるんだって。そういう勇気をユリンがくれたんだ」

 正直なところ、アニメ版を見ていて、ユリンの発言にフリットが「僕もだよ」とこたえた時、私は(その時まだ小説版は読んでいませんでしたが)やはり小説でフリットが言ったようなセリフが続くのだろうと思いました。ユリンの助言があったから、ノーラで黒いUEを撃退する事ができたのですし、「僕もだよ、僕も、ユリンに会えたから……」という言葉が続くものと思って続きを見たのでした。
 そして、戸惑う事になったのです。アニメ版のフリットは、以下のようにこたえるからです。


「僕もだよ」
「え?」
「僕も同じなんだ……父さんも母さんもUEに……だから戦う事にしたんだ、母さんが残してくれたガンダムで」


 整理しましょう。
 ユリンの発言にある以下の二つの要素について、

1、UEに家族を殺されて絶望していた
2、フリットに会って勇気をもらえた


 小説版のフリットが2に反応したのに対して、アニメ版フリットは1の方に反応した、という事です。


 この対比が、アニメ版におけるフリットの考え方、感じ方、アイデンティティを結果的にすごくはっきり浮かび上がらせていると感じました。このようなフリットは、「視聴者が共感できる主人公像」からはかなり離れてしまっているのですが、しかし一方で、後年のフリットが「敵の殲滅」に固執していく、そこに至る経過の描写としては何とも言えない苦いリアリズムを提示しています。



 第7話「進化するガンダム」で、グルーデックは自分もまた家族を殺された過去を持っており、従ってお前と私は「同志だ」と申し出ています。この時、フリットはグルーデックの差し出した手を握らないままだったのですが、結果的に以降、何か気がかりな事案が発生した時に相談に行く先はエミリーでもバルガスでもウルフでもなくグルーデックとなっており、事実上一番信頼を寄せる相手になっています。
 つまり、自分と同じ過去を持っている者に、一番心を開くというのがアニメ版フリットの性格になってしまっているのです。



 フリットのこのような性格は、アセム編以降の展開を見るまでもなく、重大な皮肉を孕んでいる事が了解できます。フリットが活躍し、尽力して、UEに襲われる人々が減れば減るほど、「UEに家族を殺された」過去を共有できるような、親近感を覚える人がいなくなっていく事になるからです。頑張れば頑張るほど、フリットは孤独になっていきます。
 物語が進むほどに、フリットが孤立していく事の端緒が、既にこの時点で描かれている事になります。



 さて。
 このように過去の出来事に自身の行動やアイデンティティを大きく規定されてしまっている状態、過去の不幸な出来事が「トラウマ」となってキャラクターを動かしてしまう様子には、どうにも見覚えがあります。
 1990年代のエンタメ・創作作品に顕著に表れていた特徴として、よく言われるのが「心理学化」あるいは「トラウマ語り」の傾向でした。そして、その筆頭がTV版『新世紀エヴァンゲリオン』だったわけです。
 別に最近劇場版『ヱヴァンゲリヲン』の三作目が公開されて話題になってるから取り上げるわけではないのですが(笑)、フリット・アスノが過去のトラウマに自身のアイデンティティを被せていくようなストーリーラインは、TV版エヴァの連想を絡めて一度想起しておくと、キオ編以降を見る時に面白い補助線になるのではないかと思います。
 具体的には……エヴァガンダムシリーズとの対比が、エンタメの傾向としてはちょうど90年代とゼロ年代(2001年〜2010年くらいまで)との対比の縮小版として理解可能であり、その上でここ数年のガンダム作品が、逆にエヴァ化の傾向にあるように見えるので、そうした流れをAGEのストーリーと逐一照らし合わせながら見るのも面白いように思うからです。
 この辺り、副読本として宇野常寛ゼロ年代の想像力』の名前を挙げておきます。私自身あまり多くの作品をカバーして見ているワケではないので、大きくエンタメ作品全体の傾向という部分については上記の書籍の論旨に依拠して語っていきます。


ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)



 80年代くらいまでのアニメなどでは、大雑把にいってキャラクターの過去というのは、ちょっとした挿話程度の扱いが主流だったと思います。仮に過去の悲劇といった話が出ても、それは主人公が次に倒す敵との因縁という形になる事が多く、解決しようがない心の傷、という意味での過去エピソードというのはあまり多くありませんでした。
 こうした「心の傷=トラウマ」を持った登場人物というのが大きく普及し始めるのが、90年代であるようです。そしてそうした傾向の際たるものとしてアニメの歴史の中で存在感を放ったのが、『新世紀エヴァンゲリオン』でした。
 セカンドインパクトで父親を亡くしたミサトさんや、母親の自殺という過去を抱えるアスカなどなど、登場人物がそれぞれにトラウマを抱えており、そうした心の傷によって現在の行動や人格が大きく左右されているといった人物造形がされていました。


 一方で、歴代ガンダム作品においては、このような「過去のトラウマ」を主人公が大きく抱え込むといった傾向はあまりありませんでした。そもそも、特に富野由悠季監督のガンダム作品において人物の過去が大きく取り上げられる事自体が少なく、シャアとララァがどのように出会ったかとか、シャアとハマーンアクシズでどのように過ごしていたかとか、昨今のアニメの作風なら確実に詳しく描かれたであろう「過去」も暗示させる程度にしか語られません。
 またそうした「過去のトラウマ」を強調されるキャラクターがたまに居たとしても、Zガンダムロザミア・バダムのように、そうした傷につけこまれて強化人間のマインドコントロールに利用されてしまう、というような脆い部分が強調される事になります。
 そもそも『ガンダム』の基本的な作品の空気は「君は生き延びる事ができるか」であって、目の前にリアルタイムで起こる状況にいかに対応するか、という部分を強調していく空気が主眼になっていました。ガンダムの登場人物たちにはそもそも、過去の話を悠長に語っている余裕などないのです。


 そして。
 そのようなガンダム作品の空気が、90年代が終わり21世紀を迎えた「ゼロ年代」の新しい空気とシンクロしていく事になります。
 バブル崩壊阪神大震災などで「安全だと思っていた世界の不安定さ」を思い知らされ「心理学化」していた90年代から一転。9.11テロ、そして小泉政権による自由化の促進・規制緩和などの社会情勢により、そもそも安定した何かに守ってもらえないのは当たり前で、生き延びたければ勝ち上がるしかない、といった時代の空気になっていった、その結果「心の傷を抱えて悩む」登場人物から一転、「不完全でも何でもとにかく行動・決断する」登場人物が主流になっていった、というのが上記『ゼロ年代の想像力』の論旨です。
 で、結果的にこうした時代の空気が『ガンダム』シリーズとシンクロしたようで、2001年6月に『ガンダムエース』創刊、2002年放映開始の『ガンダムSEED』が商業的ヒットを飛ばすなどといった動きにつながったのでした。



 ざっとそうした傾向が認められるため、ガンダム作品では歴代で見ても、過去のトラウマを抱えて云々、といったキャラクターはあまり多くありません。
 主要登場人物クラスで思いつくのは、『ガンダムX』のジャミルニートコクピット恐怖症や、あとは意外にも『Gガンダム』にそうした人物が多いように思えます(チボデー・クロケット幼年時代の恐怖体験に苦しめられる対ジェスタガンダム戦の話などが正にそうなのですが、覚えてる人は少なそうですw)。



 ところが。
 近年、こうした「過去のトラウマを持つキャラクター」が、ガンダムシリーズの登場人物に増えているようなのです。
 たとえば『機動戦士ガンダム00』。刹那、ロックオン、アレルヤのいずれも過去の体験を傷として持っているキャラクターですし、それ以外のソレスタルビーイング関係者もそれぞれそうした逸話を持っていると設定されています。
 また、ファーストシーズンでスローネドライにより重傷を負わされたルイス・ハレヴィもまた、その時の体験をトラウマとして、セカンドシーズンで敵対勢力に加わるという脚本になっていました。
 機動戦士ガンダムUCもそうした傾向が強いように見えます。マリーダ、ジンネマン、アンジェロなど、主要登場人物が過去の(それも性的な要素を多分に含む)心の傷を強烈に持っている人物として描かれました。



 登場人物の心の傷、といった要素以外にも、上記2作品と『エヴァンゲリオン』との間には奇妙な共通点が見られます。
『00』のヴェーダイオリア計画、『UC』のラプラスの箱、これらはいずれも『エヴァ』の死海文書や人類補完計画を思わせます。作品冒頭から提示されて最後まで明かされない謎の計画で、はるか過去から存在していた「全人類に関わる秘密」です。
 また、イオリア計画の最終目標は「人類の意志を統一する事」で、また私は未見ながら劇場版『ガンダム00』に登場する地球外生命体ELSが「同化をコミュニケーション手段として」おり、『ガンダムUC』小説版最終巻で提示されたニュータイプ観もまた「バナージ個人の意識が全体の中に溶けていく」というような個人の意識を全体に統合するイメージで語られています。これらはいずれも、『エヴァ』の人類補完計画の発想に近い「個が全体に溶ける」発想です。
 ついでに言えば、こうしたエヴァ的な「全人類救済シミュレーション」はキリスト教的なイメージと非常に親和性が高く、『ガンダム00』に登場するガンダムは皆天使の名前をつけられており、また『ガンダムUC』で最後にニュータイプとしてユニコーンとシンクロし過ぎたバナージが「神に近い存在になった」といった表現がされたりするわけです。エヴァについては言わずもがな。



 ……と、このように、AGE以前の直近の映像化ガンダム作品がいずれも、非常にエヴァンゲリオンと似通った要素を多分に持った作品なのでした。しかも、小説版『ガンダムUC』連載開始が2007年2月、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開が2007年9月、『ガンダム00』放映開始が2007年10月とまるで示し合わせたようにほぼ同じ時期だったりするわけで、非常に示唆的です。



 ……と、長くなりましたが、以上の事を踏まえて『ガンダムAGE』についてです。
 このように見てくると、小説版フリットのユリンに対する反応が、本来のガンダムのカラーである事が了解できると同時に、アニメ版フリットの「トラウマ」強調が気にかかる要素に思えてきます。
 とはいえ、フリット編を主に初代ガンダムやそれ以前のロボットアニメへのオマージュと見るなら、90年代的トラウマ主軸のキャラクターはコンセプトにそぐわないようにも思えます。


 しかし、これはむしろ、後々の展開のための伏線というか、種まき的な要素と見た方が良いのかも知れません。
 上記のような『エヴァンゲリオン』的要素が本格的にガンダムの歴史に吹き荒れるのは、対応するAGEの時間軸ではキオ編の辺りです。そこへ向けての、フリット・アスノのキャラクター作りの側面があるのかもしれません。
 たとえば、上記の通り90年代的・エヴァ的傾向とキリスト教的なイメージが結びつきやすい、という要素を踏まえて考えると、アセム編の第一話サブタイトル「馬小屋のガンダム」の意味も違って聞こえてくるわけです。「救世主」ガンダムが「馬小屋」に隠されている、という事になるわけで。


 ここまで長々述べたような読解が許されるなら、つまり『ガンダムAGE』のストーリーにおいて、フリット・アスノにどう決着をつけるのかという問題が、そのまま昨今のガンダムエヴァ化」をどう見るのか、という問いと重なってくる事にもなってきます。



 実は、『ガンダムAGE』の面白さは、こうした部分にあったりします。
 さまざまな年代の、様々なガンダム作品の要素をストーリーに配していく事で、物語上で「ガンダムの○○問題をどう見るべきか」といったメタな問題意識とストーリー展開とがリンクしていく事になるわけです。
 たとえば、身もふたもない言い方をすれば、AGEのストーリー上でフリット・アスノをどうするか、という部分から、「ガンダムファン層の中での、初代ガンダムの頃からのファンにどう向き合って行こうか」という部分でのバンダイサンライズの思惑を透かし見る事も出来るかも知れないわけで(笑)。


ガンダムAGE』は、各所に関心のフックを設けるという意味では非常に複層的で野心的な構成をしています。視聴者の側で、能動的に読解の探りを入れていく事で、表面的なストーリーを追っていた頃からは想像もつかないような多様な見方の幅が体感できる、そうした作品です。
 中学高校時代の国語の授業に戻った気分で、いろいろ「作者の意図」を透かし見てみるのも一興かも知れません。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次