機動戦士ガンダムAGE 第46話「宇宙要塞ラ・グラミス」

     ▼あらすじ


 ついにラ・グラミス攻略戦を開始する連邦軍と、迎え撃つヴェイガン。キオとウェンディ、セリックとナトーラ、ゼハートとフラムたちが、それぞれ出撃前最後の会話を交わす。
 そしてついに戦端が開かれる。ヴェイガンはダミーの艦船で連邦を油断させ、ラ・グラミスのディグマゼノン砲を発射、連邦軍に多大な損害を出させる事に成功する。しかしそこで、不満を募らせていたザナルド・ベイハートがゼハートらへ反旗を翻す。
 仲間の復讐に燃えるゴドム・タイナム、そして新兵として出撃するディーン・アノン。戦局は混迷を極め始めていた。




      ▼見どころ


 いよいよ最終決戦開始です。この回は、以降最終話まで目白押しな各種出来事をスムーズに進めるため、状況を準備する段取り回という印象があります。
 とはいえ、ただ淡々と段取りをこなしているわけでもありません。各所に、キャラクターの心情や成長を示すような細かなセリフや演出が見られます。そういう意味で、じっくりと視聴すれば確実に何かしらの発見のある内容です。
 この辺り、パッと見のインパクトが牽引するインターネット時代の作品人気の取り方とはどうしても逆方向なコンセプトになってしまうのですが……。
 ともあれ、この解説記事はいつも通りに、淡々と進めていきたいと思います。今回は歴代ガンダムに対する言及は抑え目で、AGEとしてのストーリーをメインに眺めていくことになると思います。恐らく、次回以降が否応なく盛りだくさんに大量の解説をせざるを得なくなるので、今回は短めに。
 細かな人間模様などは後に回して、とりあえず今まで当記事で追ってきた組織運営の問題などを軽く見ていきましょう。



      ▽何度目かの、組織論のはなし


 これまで何度か、連邦とヴェイガンの組織論の話をしてきましたが、両者を比較するのはこれが最後になると思います。
 特に注意を要するのは、連邦軍の指揮系統の描写です。既に見た通り、



 第44話にて、このラ・グラミス攻略戦における全艦隊の指揮が、フリット・アスノに託された事が描写されていました。
 ところがこの回、連邦軍の各艦艇を激励し、指示を出しているのは



 アルグレアスです。旗艦アマデウスに乗っているのも彼で、フリットはディグマゼノン砲が発射された後、突破口を開くために突撃するディーヴァの方に乗っているわけでした。恐らくは、このような人物配置の上で、フリットの意向をアルグレアスが全軍に伝える、という態勢を取っていたらしい事が推定されます。しかし、なぜでしょうか。
 これは、劇中の様子を見ていればわかります。



「フン……ヴェイガン殲滅の舞台が整ったということだなぁ」
 最終決戦を前に、フリットのヴェイガン殲滅発言は最高潮に達しており、その過激な物言いはディーヴァクルーをも辟易させています。もしフリット自身が連邦艦隊全体への指揮を直接飛ばしていたとしたら、このような過激な発言が全軍に広まってしまいます。武装の一般民まで虐殺すると捉えられかねない発言(というかフリットは事実そのつもりなのですが)が指揮官の口から出たとなると、これは連邦軍全体の混乱、士気の低下を起こす可能性もあります。
 一方で、



「そうか! 中央の敵艦隊はダミーだ。全部隊に退避を命じろ!」 フリットは、ヴェイガンがディグマゼノン砲を使用するために用いた戦術を、誰よりも早く見抜いています。この時は、結局味方軍の損害を避けるのにあまり役立ちませんでしたが、このようにフリットの戦局を読む非凡な能力は過去にも度々描かれています。連邦としては、この能力を捨て置くのも損失です。
 だとすれば、最適な方法は、まさにアルグレアスが取ったやり方でしょう。フリットの戦局判断は存分に活かしつつ、全軍への通達は自分がクッションとして間に入る事によって、フリットの発言の過激さを和らげる。

 これが、歴代ガンダム史上でも極めて珍しい、アルグレアスという人物の優秀さの描写です。つまりは――「副官」としての優秀さ。
 過去のガンダム作品においても、単純にパイロットとして、あるいは指揮官として優秀な人物は大量に登場して来ました。が、それらは大抵、個人としての能力が優れているという事であり、そうした人物を補佐したり、フォローしたりという方向で優秀な人物というのはあまり登場した事がありませんでした。筆者が唯一思い浮かべられるのは『逆襲のシャア』のナナイ・ミゲルくらいでしょうか。いずれにせよ、歴代ガンダムにおいても、地味ながら極めて珍しい特徴です。
 これはヴェイガン側においても、キオ編までのフラム・ナラがそのような「有能な副官」として機能していました。しかし、武人気質で成果主義であるヴェイガンという組織の特質に合わせ、彼女は結局はパイロットとなってしまいます。同様にゼハートのサポートについていたレイル・ライトも、この回、MSで出撃しています。
 実は、ルナベース戦においても、このラ・グラミス攻略戦においても、このように副官としてサポートに着くはずだった有能な人物がMSで現場に飛び出してしまった事が遠因となって、ヴェイガンは戦局を不利にしてしまっています。
 ルナベース戦においては、フラムが出撃してしまった事で戦局全体を把握できる者がおらず、



 ディーヴァからの砲撃をきっかけに陸戦隊の侵入を許してしまっています。
 さらに、



 ルナベース司令官アローン・シモンズが勝手に逃走する事も阻止できず、またセリック・アビスが持ちかけた降伏勧告に対しても、ゼハート自らが関わることができませんでした。
 今回始まったラ・グラミス攻略戦においても同じことで、もしレイルやフラムが母艦で戦局全体を見ていたならば、



 ザナルドの動きをもっと早く察知できたはずです。
 特に、フラムはかつて、他ならぬザナルドからゼハート監視のために送り込まれた人物なのですから、そうした立場を利用すればザナルド造反の動きを早めに察したり、牽制したりする事も出来たのではないでしょうか。フラム・ナラ、レイル・ライトという優秀な人材が前線に出てしまった事の弊害は、実はかなり大きいように思います。


 このように見て来たとき、「一時は退役していたフリットに艦隊指揮を任せる」という危うい組織体制で、なおかつディグマゼノン砲により大損害を受けるという窮地に陥りながら、連邦軍側が総崩れにならずに作戦を継続できたのは、地味ながら副官に徹しているアルグレアスの功績が大変大きいことが察せられることと思います。
 以上の点について言えば、『ガンダムAGE』が示そうとした事は極めて明瞭だと筆者は思っています。つまり、「アルグレアスのような人物がいなければ、組織はうまく回らない」という事です。AGEは歴代ガンダムの中でも、そのようなメッセージを初めて明確に打ち出した作品だと思うのです。
 富野監督について言えば、彼は組織を描くのが非常に巧みな作者でした。初代ガンダムがそれまでのアニメと別格のリアリズムを生み出す事ができたのは、オスカ、マーカのようなオペレーター、テム・レイやモスク・ハンのような技術士官、タムラさんのような軍艦内で料理を作るコックといった、それまではあまりスポットが当たらなかったけれど、軍隊が軍隊として機能するためには絶対必要だった人々を律義に描いてきたからでした。そういう意味で、富野監督の組織描写は別格に巧みです。しかし一方で、富野監督には、いわゆる官僚的な組織体制に対するかなり根強い反感と疑心があり(『逆襲のシャア』の中で、アムロがシャアに言い放ったセリフの中でも「官僚主義」は否定的に使われています)、シャアやハマーンをはじめとするヒロイックで強権的な組織体制の華々しさが描かれる一方、地球連邦軍連邦政府のような組織は常に否定的に描かれてきました。
 そのせいか、歴代ガンダムに、アルグレアスのような、組織運営において人を補佐する能力の優秀さが強調された人物というのは、実はほとんどいないのです。しかし現実の組織運営においては、こうした人物も重要でしょう。


 先日も、日本の政府が給与体系に成果主義(成果をどれほど挙げたかによって勤務時間などをフレキシブルに変えられる)を取り入れる事を検討しているというニュースが入りました。しかし、あげた成果によって人を評価する場合、ホームランバッターは有効に評価できますが、送りバントや犠牲フライに職人的な技量を持つバッター(私が子供の頃、応援していた野球チームにそういう選手がいましたw)を評価する事はできません。
 そのように考えて来た時に、アルグレアスのような人物の有能さをきちんと描いておくというAGEの作風は、今の時代にやはり相応の意味を持っていると言えると思うのです。
 私が、アセム編でアルグレアスが初登場した時から、当記事で一貫してアルグレアスに注目を促してきたのも、そうした意味があるからなのでした。


 さらに、この回は連邦とヴェイガンの、別な問題も対照的に浮き上がらせています。
 44話あたりから、イゼルカントの後継者として、あるいはヴェイガン最強のパイロットという触れ込みで登場してくるのが、



 ゼラ・ギンスという少年です。
 この回、イゼルカントは眠っているそのゼラ・ギンスに語りかけるように、告げます。



「本来わたしの座は、お前が受け継ぐはずだった……だが、わたしのDNAを受け継ぐお前にわたしの魂まで移すことはできなかった。魂はゼハートが継いだ。お前は最強のパイロットとして、ゼハートともに力を尽くすのだ。よいな、ゼラよ……」
 この、ゼラというキャラクターについても、AGEという作品は十分な時間を割けていません。そのため、このように再三顔見せの機会を設けてもなお、いざ彼がアスノ三世代の前に登場した時には、やはり唐突感が否めない感じになってしまっていましたが……。
 ともあれ、ここで問題なのは、イゼルカントが「DNAの継承」よりも「魂」を問題にしている事です。「魂」というのは抽象的な表現ですが、要するにプロジェクト・エデンなどイゼルカントの思想に共感し、意志を継いでくれる、という程度の意味でしょう。つまり、イゼルカントは遺伝子のつながり(象徴的に言えば血のつながり)よりも、意志や思想を受け入れてくれるというところで後継者を選んだ、と言っているのです。
 これは、実質的に救世主ガンダムの所有権であるAGEデバイスを血縁に従って継承させていったフリット・アスノと明確な対照をなしています。特に、そのようにして後継者に選んだアセム、キオがいずれもフリットの思想であるヴェイガン殲滅に明確に反対の姿勢を示している事が、です。
 その上、連邦軍総司令であるアルグレアスもまた、能力的にはともかく思想的にはフリットの意志を継ぐ人ではなく、なんやかやで結局フリットはあの老齢でありながら連邦軍の指揮を執り続ける事にもなっています。


 どちらが優れているという話ではありません。
 つまりこれは、後継者をどうするかという問題です。フリットのように、血縁に沿って年功序列に後継者を決めていくのは混乱がありません、が、現代において子供が同じ思想や考え方を継いでくれるとは限りません。そこに納得ができなければ、前代がいつまでも後継者に役目を移譲できない、といった問題が出る可能性もあります。
 一方、能力によって、そして思想や意志の面で共感してくれる者を抜擢するならば、上記のような混乱や問題は発生しません。後継者への役目の移譲もスムーズに進むかも知れません。ただしその代わりに、前代が恣意的に後継者を選んだ結果、



 年功序列の順番で飛ばされた「選ばれなかった」身内の不満が、思わぬ混乱を呼んだりするかも知れません。


 この辺りも、「三世代の物語」とする事で、ガンダムAGEという作品が過去ガンダムにあまり類例のないテーマを取り入れる事が出来た側面であったのだと思います。
 現実にも、たとえば初代ガンダムを生み出した富野由悠季監督や、その同世代で日本のアニメ普及に甚大な功績を残した宮崎駿監督など、いずれも70代となり、時に後継者をどうするのかといった話が界隈を賑わす事もあります。アニメを視聴する層にとっても、後継者問題というのは決して他人事ではなくなりつつあるわけで、AGEの問題意識というのはそうした部分とリンクさせても面白い側面があります。


 そしてもう一つ。以前この解説記事で指摘した事が、あらためて対比として登場してくる事も確認しておきたいと思います。
 この第46話、最終決戦を前に、連邦側はアルグレアスが、ヴェイガン側はゼハートがそれぞれ自軍を鼓舞する演説を行っています。その内容を比較してみると……この記事をここまでお読みの方は、何となく察せられるのではないかと思います。
 まずはアルグレアスの演説から。



「諸君、我々はついに決戦の時を迎えようとしている。ヴェイガンとの戦いは、今日まで長きにわたり続いてきた。親から子、そしてさらに世代をこえてもなお、我々がヴェイガンに脅かされてきたことは、それぞれが身をもって知るところだ
 だが我々は今、この場所にいる。それは我々がどれほどの傷を負っても、決してあきらめることなく、戦い続けてきたからにほかならない。たどり着いたこの場所で、我々は必ず勝利を収めなければならないのだ!
 ヴェイガンの地球侵略の拠点となっている要塞ラ・グラミスは、かつて我々の総司令部、ビッグリングを壊滅させ、甚大なる被害をもたらした。今こそ我々は、憎きラ・グラミスを攻略し、ヴェイガンの手から地球を守る! そして勝利とともに、この戦争に終止符を打つのだ!
 諸君の健闘を祈る!」


 続いて、ゼハートの演説。



「ついに決戦の時が来た! この戦いは、我々ヴェイガンが未来へ進むための唯一の道だ! 我々は何があろうと、この道を全力で突き進む! 行く先にある新たな未来、エデンを手に入れるのだ!
 戸惑うことはない。この道は、イゼルカント様が築いてくださった確かなるものだ。勝利は目の前にある! エデンをこの手に!」


 いかがでしょうか。
 アルグレアスの演説が、これまでの戦争の経緯、攻略する対象に関する情報、そして戦いの具体的な目的(地球を守る)を順を追って整然と語っているのに対し、ゼハートの演説にはそうした具体性がありません。「この戦いがヴェイガンが未来へ進むための唯一の道(理由は述べない)」、「この道は確かなものだ(イゼルカントが進めてきたものだから)」というのがゼハートの言っている事です。なぜそのように断言できるのか、という説明を決定的に欠いていることが、アルグレアスの演説と比較すると見えてくるのではないでしょうか。
 そう、第44話の解説クワトロ・バジーナラクス・クラインの演説を比較したのと、ほとんど同じ構図になっているのでした。「ポエム化」の問題を、ここでも確認することが出来ます。
 イゼルカントから、極めて抽象化された言葉でしか説明されなかった「プロジェクト・エデン」を、当然の事ながらゼハートも抽象的に語るしかありません。そして具体的で合理的な説明が不可能だからこそ、「これが唯一の道」「戸惑う必要はない」「確実な道だ」といった、強迫的に言い聞かせるような言葉が立て続けにその口から出てきます。


 こうした、様々な側面で連邦とヴェイガンは対照的に描かれていきます。ガンダムAGEという作品の結末は、個々の登場人物が行動した結果であると同時に、こうした組織形態の強い影響によってもたらされた結末でもある、という描かれ方がされているように見えます。そうした視点から物語を再度点検してみるのも、AGEという作品の鑑賞法の一つです。



      ▽“恋人未満”たち


 最終決戦を前にした最後の会話といえば、こうした戦場ドラマにおいて最も重要なシーンの一つです。AGEにおいても、この第46話にそうした会話シーンがあちこちに配されています。具体的には、3組。
 1組目は、ナトーラ・エイナスとセリック・アビスです。



「帽子を深くかぶっているのは力み過ぎている証拠」
「えっ?」
「きつく締めているのは、自分を律しなければならないという焦りの表れだ」
「……なんでもお見通しなんですね」


「戦場のホームズ」などとも呼ばれているセリックの、ナトーラの心境を些細な服装の乱れから言い当てる場面はこれまでもありました。ここでセリックも言っているように、彼のホームズに比せられるほどの洞察力は、部隊の隊長として、部下の様子を把握するために発達した能力でした。新米艦長であるナトーラにとって、セリックの洞察とアドバイスは大きな心の支えとなっていたらしく、このシーンの最後、



「君は君らしい艦長になればいい」
「セリックさん……」
 ……と、思わず階級ではなく「さん」付けで呼んでしまったりしています。


 そして、次にキオ。



「でもねキオ、わたしはキオが行くのを止めない。キオは戦うために戦場に行くんじゃないから」
「僕は僕なりのやり方で、戦いを終わらせる」
「うん……無事に帰ってきてね」
「うん」


 ウェンディ・ハーツという人物は、フリット編におけるエミリー、アセム編におけるロマリーと比べても、さらに圧倒的に出番の少ないヒロインでした。特にキオとの会話シーンも多くはないのですが……ここでウェンディは、キオの意志を汲んで、多くを語らずに送り出しています。
 彼女は、キオがヴェイガンに連れ去られた際にも「キオは必ず帰ってくるもの」「どうしてだかわからないけど、私わかるの」と言っていたり、表面的な関係性が見えないわりに、キオとの精神的なつながりは強いように描かれています。



 そしてこの二人の会話は、キオの手にウェンディが手を重ねるカットで終わります。


 最後に。



「わかっています。ゼハート様は、必ずエデンにたどり着きます。私の命に代えても、必ず」
「フラム……忘れるな。お前は私にとって、大切な部下だ」



「部下……それでいい……」


 この場面、呼び止められたフラムの表情など、明らかに「良い雰囲気」なのですが、ゼハートは結局「大切な部下」という以上の踏み込みをしないままなのでした。


 『ガンダムAGE』という作品の特異さの一つに、こういったような、恋愛表現の極端な抑制があります。特に平成に入ってからの地上波放映ガンダム作品が、『SEED』のフレイ・アルスターとか、『00』セカンドシーズン冒頭のスメラギさんなど、割と露骨に性愛表現を用いていた事と比べて、その抑制ぶりは際立っています。
 もちろん、AGEという作品が、これまでに比べて低年齢層視聴者へのガンダムの普及を狙った作品である以上、当然の事ではあるのですが……しかしここで、ナトーラとセリック、ゼハートとフラムが「恋人未満」な状態のまま最終決戦を迎えてしまうというのは、AGEという作品の性質を割り引いても、奇妙な抑制があります。
 というのも、たとえばアセム編の最終決戦前には



 レミ・ルースがオブライトのプロポーズを受諾したりしていますし、またジラード・スプリガンの回想シーンに



「レイナとなら、昔からの夢をかなえられる気がするんだ。あったかい家庭を持つっていうね」
 なんていう、わりと直接的な発言が出たりもしています。


 こういう戦場を舞台にした物語のセオリーとして、最終決戦前最後の会話というのは一番劇的なタイミングであり、ついついキャラのセリフや行動が甘くなってしまうものです。あの、ハリウッド映画的な演出が大嫌いで是が非でも「ハリウッドがよくやる絵は使わない」富野由悠季監督でさえ、



 シャアとララァのこういうシーンは描いているわけでした。
 しかし、ナトーラとセリック、フラムとゼハートは、劇中で明らかに関係性の近さが描かれているのに、そこまで踏み切る事ができないまま最終決戦を迎えてしまいます。
 このような展開によって描かれるのは、ナトーラやゼハートの未成熟なのか。あるいは、往々にしてこうした「戦場ドラマのセオリー」を意図的に外してくるのがAGEという脚本の狙いなのか。そこは人によって見方が違うところだと思います。
 ただいずれにせよ、エンタテインメントとして見ればいかにも不発に思える、こうしたシナリオの意図的な消化不良、のどに小骨が刺さったような感じ、というのが、この作品においては過去シリーズなどに対する批評性として認められるかもしれない、と筆者は考えています。
 そのような深読みが、あながち穿ちすぎでもないという事は、ここまで続けてきた解説記事からも察せられるのではないでしょうか。少なくとも、この3組の中で、互いの手を重ねる事ができたキオとウェンディだけが……っと、一応この先の展開のネタバレになるので、これ以上は申しませんが。



 ……といったところで、今回はここまでにしたいと思います。
 この第46話はもう一つ、キオの不殺に対してウッドピットが、セリックが強い言葉で忠告するシーンがあり、その内容も子細に検討してみると面白いのですが、それは次回に譲りたいと思います。
 相変わらずののんびりペースですが、残りわずか、お付き合いください。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次