機動戦士ガンダムAGE 第48話「絶望の煌めき」

     ▼あらすじ


 ラ・グラミス攻略戦が熾烈を極める中、ゼハートはガンダムを討つため、フラム・ナラにディグマゼノン砲の射線への誘導を命じる。それはフラム自身を犠牲にする決断だった。フラム、そしてレイルも覚悟の上でガンダムを射線上におびき出すべく、決死の戦いを展開する。
 一方、味方を犠牲にしてでもディーヴァとガンダムを狙うヴェイガンの意図を察したフリットは、ディーヴァを囮にして連邦艦隊の損害を抑える作戦を決意。ディーヴァクルーは海賊船バロノークに移譲させ、フリット、アセム、キオの三人はギリギリまでディグマゼノン砲を引きつけ、ダークハウンドの加速で辛くも砲撃を逃れる。
 そんな中、ジョナサンとオブライトは身を挺してレイル、フラムを撃破。一方、多大な犠牲を払いながらガンダムを撃破できなかった事を知ったゼハートはガンダムレギルスで出撃するが、アセムとの戦いに敗れ、かつての友と最後の言葉を交わして散って行ったのだった。




      ▼見どころ


 最終決戦もいよいよ終盤、主要人物が続々退場していく第48話。
 順を追って見ていきますが、エンタテインメントとして本来強調されるべきところが萎み、ストーリーを盛り上げるセオリーは外され、代わりに皮肉な展開が十重二十重に脚本の中へ練り込まれている、実にAGEらしい捻くれたストーリーになっています(笑)。
 一体、この最終決戦の場で何が起こったのか。解きほぐしてみたいと思います。
 特にこの回、互いの作戦を読み合い、大きな決断をするゼハートとフリットの対比を軸に見ていくと、整理がしやすいのではないかと思っています。二人がそれぞれ、重要な何かを犠牲にして、それを代償に成果を挙げようとしました。その違いは何だったのか。



      ▽ゼハートの支払った代償


 この回、ゼハートはラ・グラミスのディグマゼノン砲の再発射を行います。一度撃てばしばらく発射は無理と思われていましたが、セカンドムーンのエネルギーを直接取り込むことで半ば無理やり再使用する事が可能とのこと。
 戦場は混戦状態であり、今発射すれば味方をも巻き添えにするとオクラムドに指摘されますが、ゼハートはそれでも発射を強行。
 さらに、今や最大の障害であるガンダムを排除するため、これまでゼハートの右腕として働いてきたフラムにガンダムを引きつけさせ、その犠牲と共にガンダムを撃破しようとします。



「フラム、ディグマゼノン砲の射線上にガンダムをおびき出してくれ。ディーヴァと共に一挙に叩く」
「……ガンダムごと、ですか?」
「ヤツらの侵入を阻止し、連邦軍の勝機を叩き潰す」




「わかりました」


 この両者の無言の睨み合いは、実に長めの時間が取られています。
 後述するように、ゼハートがガンダムレギルスに乗ってアセムと対決するシーンの尺が短く、本放送当時視聴者の不満点として挙げられていましたが、それほど物語の尺に余裕がないにも関わらず、このゼハートとフラムの無言のシーンにはかなり潤沢な時間が割り当てられています。そういうところも、AGEという作品の性格、ねらい、見どころをよく表していると思います。


 また、この会話の少し前、こんなカットが挟まれています。



 作戦中、恐らくは眠気を催したらしい様子をゼハートは見せます。
 考えてみれば、ゼハートは対シド戦で能力を酷使し、それからほとんど間をおかずにこのラ・グラミス戦に臨んでいます。一時は出撃もしていました。
 既に散々見てきたように、この戦いはゼハートが全霊を込めて臨んでいる、「エデン」に辿りつくための最も大事な戦いです。このゼハートの「眠気」は、従って気の緩みのためのものではないでしょう。そうであるが故に、ゼハートの心身両方への過大な負担が察せられるカットになっています。
 そしてこの疲れのせいもあってか、彼は白昼夢のようなものを見る事になるのですが……。


 これまでのAGEの展開でたびたび示されて来たように、ゼハート・ガレットは部下を大事にしてきた指揮官です。フラムの回想の中に出てくる、戦死した部下の名前を知っておけという話もそうですが、アセム編などでは



 自ら身を挺して部下を守るシーンもありました。
 そのようなゼハートにとって、味方、そして部下を犠牲にする作戦を自ら実行するというのは余程の変節であるという事はお分かりになるかと思います。
 では、なぜゼハートは変節したのかというと、



「わたしは、お前のエデンへの想いを信じている。その思いに偽りはないはずだ」



「この俺を陥れたお前が、まさか、この程度で怖気づいているわけないよなぁ!?」


 ゼハートの見た白昼夢の中で、ドール・フロスト、ダズ・ローデン、デシル・ガレットなどゼハートと関わって死んだ者たちが、プレッシャーをかけるセリフを次々と並べていきます。
 歴代ガンダムで、こうして死者が現れて言葉を発していくシーンはいくつもありますが、このように生者を追い詰める、ネガティブな言葉のために出てくるケースは稀なように思います。この辺りも、AGEらしいところです。
 ともあれ、つまるところ自軍・味方の命が大切だからこそ、これまでの犠牲を無にするわけにはいかない、そのためには味方を犠牲にしてでもプロジェクトエデンを成し遂げるしかない……というのが、ゼハートの追い込まれたジレンマになってしまっているのでした。
 この問題自体は、第41話の時点でフラムが口にしています。キオに「戦いをもうやめよう」と言われた際の返答です。



「これまでの戦いでどれだけの犠牲が払われたと思っている!? 話し合いなんてもはや不可能なのよ!」
 ここまでの戦いで、「プロジェクトエデン」達成のために多くの犠牲が出たゆえに、今さら途中でやめるわけにはいかない、とゼハートもフラムも口にしています。
 しかし問題は、過去の犠牲に報いるために、是が非でもラ・グラミス戦での勝利を得ようとした結果、ゼハートにとって貴重な腹心の部下を、そして貴重な自軍戦力を捨て駒にする決断を、してしまっている事でした。
 特に、この重要な決断をするにあたって、ゼハートは圧倒的に孤独です。  第41話解説で書いたように、ヴェイガンには組織的なフォローアップの態勢がなく、どのような戦局も、その持ち場についている個人の力でどうにかするしかない。それはヴェイガンの総指揮と言えども同じなのでした。
 そして、どのような逆境も、そこを持ち場にしている者の人間力だけでどうにかするしかないとすれば、徹底的に追い詰められた状態で取れる手段は「捨て身」くらいしかなくなってしまいます。
(この、圧倒的なプレッシャーの前に追い詰められていくゼハート、というのを段階を追って綿密に描き直しているのが、OVA『Memory of Eden』です。同作内では、アセム編のラストにあたるダウネス攻防戦終了直後から、この死者たちに囲まれる脳内会議の模様が何度も出てきます。かなりな力の入れようで、デシルの新録音声はゼハート、アセムに次いで多いんじゃないかと思えるくらいですw)
 いずれにせよ、そうしたヴェイガンという組織の苦境の中で、フラム・ナラ、レイル・ライトといった優秀な人材が消尽されていくのでした。


 この、ゼハートの決断は、AGE作中において極めて皮肉な描かれ方をしています。
 敵味方が入り乱れている混戦状態で、まさかディグマゼノン砲を発射する事はないだろうというアルグレアスに対して、フリットは敵は撃つつもりだと見抜きます。そして、



「ヤツらは味方ごと、ディーヴァとガンダムを潰すつもりだ! 忘れるな、相手はヴェイガンだ!」
 ……と言い放つのでした。
 特にキオが火星でヴェイガンの実情を見てから、フリットのヴェイガン観は偏った極論として描かれてきました。「ヤツらは人間じゃない」などの発言は、キオをはじめ多くの登場人物から否定的に見られています。
 一方ゼハートは、少なくとも味方に対しては、部下の損耗を気に掛ける、AGE作中でも比較的良心的な上官として描かれてはいます。
 ところが、切羽詰って味方を犠牲にする作戦をとった事で、ゼハートたちは結果的にフリットのイメージするヴェイガン像に、急激に重なってきてしまうのでした。少なくともこの時のフリットの発言に、反対できる者はいなくなっています。


 AGEという作品の、「100年の物語」という長いスパンが生きているのが、こういうところでした。
 三世代編のフリットは過激派で頑固な老人ですが、視聴者はフリット編における彼が苦悩しながらも頑張った、それなりに良いヤツだったことを見て来ています。
 同様に、視聴者はゼハート・ガレットがアセムらと友情を育んだ心優しい青年である事も知っています。今、味方や部下を犠牲にする非情な作戦を実行しようとしているのは、他ならぬその心優しい青年なのでした。
 単なる過去の回想ではなく、実際に視聴者がその様子を目撃してきたという構成になっています。それはつまり、過激な発想や言動を行う人物であっても、それを「他者」として、ただの「悪役」として、容易に排除できないという事でもあります。単純に悪者を決定してそれをやっつける、というカタルシスのあるストーリーにはなりませんが、そうであるがゆえにかえって重要です。21世紀が憎悪の戦争の時代だとすれば、分かり合えない相手を単純に「悪」「他者」であると決めつけてしまう思考は、事態を悪化させる方向にしか作用しないからです。それは『ガンダムSEED』シリーズが嫌と言うほど描いた情景でもありました。


 とはいえ、ゼハートの下したこの決断は、やがて厳しい現実をゼハートに突きつけてくる事になります。
 その点を見る前に、一度フリット・アスノに目を転じましょう。ゼハートがフラムやレイル、そして自軍兵力を犠牲にする決断をしたのと同時に、フリットもまたいくつかの大切なものを犠牲にする決断をしていました。何を犠牲にしたのか、それはゼハートとどう違ったのか。



      ▽フリットの支払った代償


 さきに引用したセリフの後、フリットはアルグレアスにこのように告げています。



「ディーヴァが前進する限り、ヤツらはそこを狙ってくる。よって……ディーヴァを囮にする! その他の艦艇は退避させろ!」
 そう、彼はディーヴァを犠牲にする事で、それ以外の連邦艦艇、戦力をディグマゼノン砲の射線から逃がす選択をとったのでした。
 フリットのこの決断が、彼自身にとってどれだけ重いかは少し想像してみれば分かるかと思います。ディーヴァはアンバット攻略戦に至るまで、人類がUEに対抗しうるほとんど唯一の戦力であり、いわば反ヴェイガンの象徴とも言える艦でした。またフリット個人にとっても思い出深い艦でしたし、ある意味で彼のかつての名声・栄光の象徴でもあったはずです。
 またディーヴァにはAGEビルダーもあるわけですから、戦略的にも重要なはずですが、これを犠牲にするというのも英断でしょう(ただしこれについては、後に微妙にアヤがつきますので難しいですが)。


 さらに、ディーヴァを囮にするにあたって乗組員を退艦させるのですが、その際に手配したのが



 海賊船バロノークです。
 あれほど海賊を毛嫌いしていたわけですが、フリットはそうした私情も持ち込みません。「見えざる傘」を持つバロノークこそこの状況に適任であるという冷静な判断を下しています。
 このような一連の判断、決断は、強調されているゼハートの決断に比べると若干地味ですが、しかし対照的で重要です。


 ゼハートは、味方を犠牲にして、敵であるディーヴァとガンダムの撃破を目論みました。
 一方のフリットは、ディーヴァを犠牲にして、味方連邦艦隊の被害を最小限に抑える事を目指しました。
 ゼハートが、プロジェクトエデンという重責に追い詰められて味方を犠牲にする博打めいた作戦を実行した一方、フリットは自らの私情を抑制して、理性的に、現状取り得る最適な方法を即座に実行しました。


 さらに皮肉な見方をしてしまえば、フリットはヴェイガンの殲滅という非人道的な目的を掲げているのに、こうした戦術のレベルでは味方兵の損害を抑える判断が出来ている一方、ヴェイガンと共にエデンという理想郷を追い求めているはずのゼハートは、味方兵をそのために捨石にする判断をしてしまっているわけです。ここには、何重にも折り重なった、実にAGEらしい皮肉があります。


 最終決戦の最中、勝利を掴むために何かを犠牲にしなければならないという形で、同じタイミングに重要な決断をしたゼハートとフリットですが、両者の結末の相違が生じたのはこういう部分での差だったのかも知れません。


 そして、いよいよ戦況が猖獗を極めます。



      ▽フラムの最期


 ゼハートの命を受けたフラム・ナラは、自身が犠牲になるのを承知で、ガンダムの誘導とディグマゼノン砲射線上での足止めに文字通り死力を尽くします。



「あんなに優しい人だったゼハート様が……」
「この戦いかが終われば、ゼハート様は、優しいゼハート様に戻る。私はあの人を、あの人の優しい心を守りたい……!」


 そして、身を賭して戦うあまり、同じXラウンダーであるキオにプレッシャーとして作用



 AGE-FXを圧倒します。
 このシーンはもちろん、『Zガンダム』終盤のハマーンvsシロッコ戦に見られたようなプレッシャー合戦といったところでもありますが、巨大なフラムの生霊(?)がMSを手玉に取るかのような構図は、



 ほとんどカテジナ・ルースのこの場面です。
 無論、カテジナのこのシーンがウッソとクロノクルの二人が自分を取り合っている、と悦に入るシーンであるわけで、フラム・ナラの置かれた状態とはかなり違います。あえて言えば、『Vガンダム』的な狂気の領域にまで届きつつあるフラムの心情の描写といったところでしょうか。


 散々なのはキオで、前話でグルドリンに圧倒されて以降、主人公らしい見せ場がほとんどありません。FXバーストでザナルドを撃退したといっても、怒りに我を忘れて自分の信条を破りそうになるような、苦いシーンでした。そして今回もフォーン・ファルシアに押されるばかりです。
 結局、ディグマゼノン砲の照準をギリギリまで引きつけるべくアスノ三世代ガンダムが戦うのですが、最終的にフラムやレイルを撃破するのはアビス隊、特にオブライト・ローレインだったのでした。


 ここで、フラムを撃破するのがキオでもアセムでもフリットでもなく、オブライトであるという展開も、良し悪し含め視聴者の予想を裏切るものでした。フラムがMSに乗るようになって以降、最も戦場でセリフを交わしていた相手はキオですし、またファルシアというMSとの因縁が深いのはフリットです(オープニングでも、AGE1グランサがファルシアを、ダークハウンドがギラーガを押しのけ、AGE-FXがシドのシルエットと対峙するというカットがあります)。しかし、とどめを刺したのは、そうした「因縁の相手」ではありません。
 こうした傾向は、AGEという作品にわりと一貫したものです。ユリンの死という因縁があるにも関わらず、デシル・ガレットを撃破したのはフリットではなくアセムでした。また、第31話「戦慄 砂漠の亡霊」で味方を撃墜されるという因縁を持ったグラット・オットーとゴドム・タイナムですが、オットーはダークハウンドに撃破され、さらにゴドムは部下を撃墜した因縁の相手のどちらでもなく、セリックに撃破されています。
 例によってエンタテインメントとしての盛り上がりには寄与しませんが、この作品らしいリアリズムではあります。現実の戦場においては、そうした「因縁の相手」と早々何度も再戦する機会があるとは考えにくいからです。
 こうした、エンタメの王道展開から意図的にシナリオをずらしていく感覚は、フラムやレイルの死そのものにもあります。彼女たちが命がけでガンダムをおびきだしたにも関わらず、そのガンダムを討ち果たす事ができません。したがって



「エデンを、どうかその手に」というフラムの最後の願いも、あっけなく裏切られてしまう事になります。言ってみれば彼女たちは無駄死にをしたわけで、その展開は視聴者に対しても何とも言えない感慨をもたらします。
 しかし、エンタテインメントの縛りで言えば、主要キャラクターが死ぬ際には必ずそれに見合った「意味」や、それと引き換えに事態を動かすといった成果、はたまた信念を貫くといった「カッコよさ」などを描かざるを得ません。でなければ視聴者には肩すかしになってしまうからで……しかしそればかりになってしまうと、「命を投げ出せば必ず何事か成し遂げられる」というメッセージが不自然に強調される事になります
 実際には、命を投げ出してもその方法次第ではまるで効果が上がらない事など珍しくありません(たとえば、第二次大戦中の神風特攻隊ですが、大戦末期に特攻した航空機の相手艦への命中率は10%前後だったそうです。また、命中しても甲板を多少凹ませただけに終わったケースもあったり)。


『Vガンダム』終盤に対する感想で、「オデロ・ヘンリークを殺す必要は別になかった」というものがネット上では散見されます。オデロの死のシーンに関するウェブ上の談話、ニコニコ動画でのコメントなどでは必ずそう発言する者が一人はいるのを見る事ができたりするわけです。
 が――現実の戦争で、「シナリオ上の必要や必然性のある者だけが死ぬ」などという事はありません。当然の事ですが、事情も都合も関係なく死ぬ時は死ぬのが戦場です。


 AGEは確かに、エンタメとして盛り上がるツボを外しているのですが、それは一面でこうした戦争ドラマのツボ、戦場を舞台にしたエンタメ作品のセオリーをそのまま踏む事を拒んでいるから、という風にも映ります。
 そうであればこそ、AGEはフリットの、アセムの、キオの失敗を生々しく描くことができましたし、それに仮託して歴代ガンダム作品の批評的総括を語る事ができた――と筆者は見ているのでした。
 フラムの無駄死に(という形で現れたゼハートの失敗)もまた、同様です。



 一方のオブライトの死についてですが、これはやはり、ディーヴァが沈んだのと同じタイミングであった事が重要であると見るべきでしょう。
 第27話の解説で書いたように、オブライトとレミ・ルースにとってのディーヴァは、「疑似家族の器としての家」でした。レミが戦死した後も、オブライトはその意志を持ち続け、父アセムの件で戸惑うキオを勇気付けたりしています。
 そして、血縁のある実際の家族に比べて、同じ場所での共同生活によって育まれる疑似家族の絆は、より強く場所に依存しています。疑似家族の器である艦が無くなってしまえば、離れ離れになりやすい。それはホワイトベースのクルーが、『Zガンダム』時点ではバラバラに暮らしていたのと同じようなものです。
 ゆえにディーヴァという器と共に、疑似家族的絆を象徴していたオブライトは散る事になるのですが、ここでもオブライトがフラムたちを足止めする事によって、本物の家族であるキオたちアスノ家のガンダムが離脱する事が出来ているというのは面白い点です。第35話の解説で、AGEにおいては疑似家族的な絆が、血縁関係のある本当の家族の絆を補佐・留保するセイフティーゾーンとして機能していると書きましたが、この点は最後まで貫かれていると見る事もできるでしょう。


 一方のフラムは、死の間際に、Xラウンダー能力によってか、ゼハートと言葉を交わします。



「すまなかった。詫びても許されないことはわかっている。しかし……私はこの計画を成功させる。お前の兄、ドールにも報いてみせる!」
「兄のことはもう……。私は、あなたのもとで戦えたことを誇りに思います」
「フラム……私は……」
「ゼハート様……エデンを、どうかその手に」
「約束する。私は必ず、エデンにたどり着いてみせる!」


 ……という「約束」が、わずか数分後に破綻するわけなので、何とも言えないシーンではあります。
 一方のフラムにしても、先に引用したように、「ゼハートの優しい心」を取り戻すために戦っているつもりなのに、結局最後の瞬間、「エデンを、どうかその手に」という、ゼハートのプレッシャーをますます強化する言葉を伝える事しかできません。ゼハートがディグマゼノン砲発射を決意する直前、ドールやデシルが「自分たちのような犠牲を出した以上は必ずエデンに到達しろよ」と詰め寄って、それによってゼハートが追い詰められていたわけです。フラムまでがこのように言い残してしまっては、そういう亡霊たちの仲間入りをしたも同然です。
 しかし、ヴェイガンという組織においては、このようになるしかない。プロジェクトの「責任」が一点に集中しフォロー体制がないヴェイガンにおいて、状況が切羽詰まった結果がこうした事態を招いています。
 さらに後述するように、フラムには、このような言葉をかけるしかなかった側面もあります。それについては、次項で。


 なおこのシーン、OVA『Memory of Eden』ではフラムがゼハートにキスするカットがあるのですが、TV版ではただ



 ゼハートの手を頬に寄せるだけです。
 ここでも、OVA版のように最後に一線を越える、という方がドラマチックではありますが、TV版は頑なにそこを抑制します。これも、TV版AGEにおいて描かれてきたテーマと照らせば、この方が整合する描写だったと思います(この点も後述します)。結局「司令官と部下」というラインを超えないまま、フラム・ナラはディグマゼノン砲の閃光の中に消えていくのでした。
 そして。



      ▽ゼハートを救ったもの


 ディグマゼノン砲が放たれた事によりディーヴァを含む連邦艦隊に打撃が与えられます。その報告を聞いたゼハートは



「当然だ……私を慕い、愛してくれている者まで犠牲にしたのだ。必ずたどり着いてみせる……!」
 同時にこの一撃は、造反の色を見せていたザナルドとその艦隊をも同時に葬り去る一撃でした。これで態勢を立て直し戦局を握るかと思いきや



ガンダムです!」
「な、何だと……!?」



「わ、私は……何をやっているのだ!?」


 まさに、すべてを投げ打っての乾坤一擲の賭けに敗れた瞬間でした。
 将ゼハートの、戦略的な敗因については既に様々な考察があります。ザナルドの造反を招き味方軍との連携を欠いた事、有能な部下の喪失、ディグマゼノン砲のターゲットをガンダムに定めた事、など。その辺りの詳細な分析は、他の方に譲ります。
 いずれにせよゼハートの采配は失敗しました。その落胆の度合いは察するに余りあります。そして追い詰められたゼハートは、ガンダムレギルスに乗り自らガンダムを討ちとりに出撃するのですが。



「わかっている!!」
「何としてもガンダムは墜とす!」
「この戦いに勝利して見せる!」


 ここからが、半ば揶揄の対象として有名な、ダークハウンドによる1ミニットキル、わずか1分ほどで決着がつくゼハートとアセムの戦いです。相変わらず、尺に余裕のないAGEという話なのですが……ここで二人の戦いが即刻終わってしまった原因は、シナリオ上からは明確に察せられるように描かれています。鍵になっているのは、そのセリフの応酬です。ゼハートと接敵したアセムは、まずこう詰め寄ります。



「ゼハート、味方を犠牲にしてまで、お前は何をやっているんだ!?」
 この問いかけ自体が、実に皮肉です。何をやっているのかって、他でもないガンダムを討つために味方を犠牲にしたのに、当のガンダムに乗っている相手からこう言って責められるのですから堪りません。
 当然、言い返すのですが……



「必ず、やり遂げねばならないのだ! 人の感情など、とうに捨てているっ!」
「人であることを捨ててまでやる大儀に、何の価値がある!」
「貴様に何がわかるっ!」



「人が人であるためのエデンじゃなかったのか!」


 アセムにそう言われた瞬間、



 虚を突かれたような、ゼハートの表情。
 既に指摘されている方も多くおられますが、この瞬間に、アセムとゼハートの勝負はついています。目を見開いたゼハートのカットの直後から、ガンダムレギルスはほぼ一方的にダークハウンドの攻撃を受け続け、そのまま撃破されてしまっているのでした。


 それにしても、この会話も壮絶です。何といっても、ヴェイガンの一番の理想、その本質部分をよりによって地球種であるアセムに正されてしまったのですから
 アセムがこのように言えたのは、無論のこと、アセム編最終決戦のダウネス内部にて



 この時にゼハートの口から直接、その目指すところを聞いていたからでした。
 ゼハートが、イゼルカントの口から「プロジェクトエデンの真意」を聞かされ、「人類の光になれ」という(この解説記事の言い方で通すならポエム化した)意志を引き継ごうとした結果、もともとゼハート自身が理想としていた本来の「プロジェクトエデン」、本来の行動目的が有耶無耶に分からなくなっていきました。
 アセムの一言は、そんなゼハートにとっての本来のプロジェクトエデン、その目的を思い返させる内容でした。
 そして思い返したと同時に勝負は確定しました。「人が人であるためのエデン」を求めるためには、味方軍(や自分自身)を犠牲にして進む事は矛盾でしかないからです。瞬時にそう悟れるだけの聡明さを、この人物はちゃんと持っています。


 レギルスを大破させられた後、アセムとの間に最後の会話が交わされます。短いですが、非常に重要な会話になっています。



「やっと……俺に追いついたな。たいしたものだ……」
「ゼハート!」
「全てがこぼれ落ちていく……どうして、つかめないんだ……!」
「つかめないものだったある。俺たちは人間なんだから」
「……」
「お前は敵である俺を何度も助けてくれた。戦士である前に、人間だった」


 まず、ゼハートの一人称が「私」から「俺」に変わっているところ。ヴェイガン代表という公人から、私人のゼハートの顔で発言している事がひとつ。
 第二に、アセムが「俺たちは人間なんだから」と言っているところ。パッと見たところでは、相田みつを的「人間だもの」な事を言っているように見えますが、注意すべきはこのセリフを宇宙海賊キャプテン・アッシュが言っているという事です。
 この宇宙海賊が、歴代ガンダム上では当然『クロスボーンガンダム』のオマージュに当たる事は既に記しました。で、同作後半の重要キーワードこそが「人間」だったことを思い返さねばなりません。たとえば、最終決戦でのトビアのセリフ


「安心したよドゥガチ あんた……まだ人間だっ ニュータイプでも、新しい人類でも……異星からの侵略者でもない! 心のゆがんだだけのただの人間だっ!」


 トビアがクラックス・ドゥガチに向けて放ったこの言葉は、一見、地球の破壊という理解不能な思想を持った、地球圏に住む人とは価値観も感覚も違った「新しい人類」のように見えるけれども、そうではなかった、という文脈で使われています。
 アセムのセリフは、これを下敷きにしていると読めます。トビアのセリフに引き寄せるなら、「Xラウンダーでも、人類の光でも、異星からの侵略者でもない」ただの人間だ、という含意ではないでしょうか。
 アセム編を通して、「Xラウンダーと非Xラウンダー」という二項対立、優劣関係から抜け出して、「非Xラウンダーでも強いパイロット = スーパーパイロット」になったアセムは、ここでかつてのライバルであり優劣の「優」であったXラウンダー、ゼハートをも同じ「俺たちは人間」であると言う事で、真の意味でこの二項対立を退けています。第34話解説で述べた、『クロスボーンガンダム』という作品の「ニュータイプとオールドタイプという二項対立の解除」を読み込むならば、この瞬間にアセムは本当に「スーパーパイロット」となる事が出来たとも言えます。
 だからこそ、ゼハートも「やっと俺に追いついた」と口にしたのでしょう。



「お前たちと過ごした。モビルスーツクラブでの毎日……あの時、私は満たされていた……お前は、力を持った私に嫉妬していたのだろう? しかし、本当は……俺はお前がうらやましかったんだ……俺も……愛する人と子をつくり、お前のように生きたかった……」


 第37話解説で書いたように、連邦とヴェイガンの対比軸の一つに、コールドスリープなどを使用して個人が長く時間を過ごすヴェイガンと、世代を重ねる連邦というものがありますが。ここで、同じ少年時代を過ごしながら、現在の年齢にギャップのあるアセムとゼハートが向かい合い、このように会話が流れる事でより鮮明に浮かび上がります。
 そしてやはり、ゼハートもまた世代を重ねる事、そのような生き方を羨んでいたと告白するのでした。「家庭を持つ事」はAGEにおいて極めて重要な価値と見なされています。しかし、ここで表明されているのは、必ずしも復古調の、昭和以前の大家族を維持していたような社会、コミュニティを称揚しているわけではないように思えます。
 ここでもゼハートが「私」と「俺」を使い分けている事に注意しましょう。
 「私」は公人としてのゼハート、プロジェクトエデン推進のために従事する戦士ゼハートです。それに対して「俺」は私人としてのゼハートでした。ゼハートが羨んでいたのは、アセムが連邦特務隊、あるいは海賊という公人としての顔の他に、愛する人と子を」つくるという私人としての顔を持っていた事だったのでしょう。
 ゼハートには私人としての行動や立場が極めて希薄でした。彼には公人として「プロジェクトエデンを完遂する」という目標しか無かった。だからこそ、フラムも最後に「エデンを、どうかその手に」というますますプレッシャーになる言葉しかかけられなかった。本当は私人としてのゼハートに語りかけたかったのに、彼に私人の顔がほとんどなかったのです。

 公人としての自分に大きくアイデンティティを偏らせていたゼハート、しかもそうまでして実現しようとしていた計画で挫折してしまったこの瞬間に、アセムはそれでも声を賭けます。



「ゼハート……お前がいたからここまでやれたんだ!」



「……ありがとう、アセム……!」


 すべてを失ったゼハートに対して、なぜアセムのこの言葉が慰めとなり、彼の精神を解放するほどの力を持ったのでしょうか。
 「ここまでやれた」とは「どこまで」でしょう。ゼハートは自らの目的を果たす事に惨めに失敗しています。あるいは、「ここまでやれた」とはアセムがXラウンダーであるゼハートを超えられた事を指すのでしょうか。そのように解釈する事もできますが、これに先立つ回想シーン、MSクラブでの会話では、ゼハートの働きによってマシンが完成し、「これで優勝できる!」と皆が喜んでいるところが描かれています。つまり、ゼハートの頑張りがMSクラブ全体の成功をもたらした、というシーンです。ゼハートを乗り越える事でアセムが成長できた(アセム一人が強くなった)、という事を喜んでいるという解釈とは、どうも噛み合いません。
 ここでアセムが言っているのは、ゼハートの頑張りによって何か成果が得られた、という事です。それは何か。


 実はこの件に関して、過去の解説記事で、意味深なサジェスチョンを出したことがありました。
 第17話「友情と恋とモビルスーツ」の解説で、この回のモビルスーツ模擬バトルコンテストの大会ナレーションが『Gガンダム』冒頭のナレーションに近い事を指摘し、アセムたちが殺し合いの戦争ではなく、スポーツとしてのMS試合を経験していた事が、『Gガンダム』のガンダムファイトと重ねられる事で強調されているのではないか、と述べておきました。
 フリットにもキオにも存在しない、この「スポーツとしてのMS戦」「競技としての戦い」という経験を今はアセムとゼハートだけが共有しています。その経験が、すべてを失ったゼハートの心を最後に救ったのだと筆者は見ています。


 基本的に、戦争で負けた敗者に対して、かけられる慰めの言葉など存在しません。
 目的を果たすために、膨大な人的・物理的なリソースを投入して、そのようにして取り組んだ戦争というものに負けてしまったら。そこには喪失しかありません。目的も達成されず、さらに多くのものを失って、得られるものもなく。ましてそのまま死にゆくならなおさらです。ゆえに、乾坤一擲の賭けに破れたゼハートには、たとえイゼルカントでもかける言葉を持たなかったでしょう。
 しかし、競技の世界にはあります。敗れた者をなおも称える事のできる言葉が。



「良いファイトだったぞ……!」


Gガンダム』の世界においては、ただ単に相手を負かす、試合に勝つというだけではなく、その戦いの質を良いものにしようという価値観が存在していました。競技であるがゆえに、それが観客を楽しませる興行の側面を持っている事もあるでしょう。同時にそこには、互いに実力を出し合う事でより高いレベルの試合を成し遂げるという、勝敗だけにこだわらない目的を設定する事をも可能にしていました。
 劇中、ドモン・カッシュとアレンビー・ビアズリーが意気投合したのも、この価値観を共有する事が出来たからです。



「見せてやろうぜ! 俺とお前で究極のファイトを!」


 戦争という身も蓋もない殺し合いと奪い合いの世界では、負けてしまえばそれまでです。しかし競技の世界であれば、勝敗に関わりなく達成できるものがある。互いに全力を出して戦ったという、その戦いの姿勢自体です。
 ラ・グラミス攻略戦に参加している者たちの中で、アセムとゼハートだけがそういう世界を知っています。だから、アセムだけがゼハートに最後に言葉をかける事ができました。「お前がいたからここまでやれた」。それはつまり、二人で繰り広げた戦いが「良いファイトだった」という賛辞だったのでした。


 実は、ルナベース攻略戦の最後、ジラード・スプリガンの散り際にも同じ事が言えます。Xラウンダー能力の暴走によって見境を失くし、その末に惨めに討たれたジラード・スプリガンには、彼女を必死に説得しようとしていたキオですら何の言葉もかける事ができません。ただ一人、死に行くジラードに言葉をかけたのはゼハートでした。



「フッ、無様な最期……連邦のことも彼のことも……結局、わたしは何もできなかった」
「いや、そんなことはない。お前は自分が信じた正義に殉じて戦い抜いた。わたしはお前のことを戦士として認めている」
「ありがとう……」
 このゼハートの発言の真意も、同じだったのでしょう。『Gガンダム』にならって言えば、ゼハートもジラードにこう言っているのです、「良いファイトだったぞ」と。
 戦争をやっているフリットにとっては、軽薄な遊びにしか見えないかもしれないスポーツとしてのMS戦。歴代ガンダムの中で、一つだけシリアスではないふざけた作品のように見える『Gガンダム』のガンダムファイト
 しかし、「競技としての戦い」を知っているアセムとゼハートだけが、無様に散っていく敗者に言葉をかける事ができる。


 また、ゼハートの文脈で見れば、『ガンダムW』のトレーズ・クシュリナーダも関わらせて考えても良いかも知れません。
 第34話解説の後半で述べたように、ゼハートにはトレーズのオマージュと見られるセリフがありました。なぜ、という事ですが、トレーズ・クシュリナーダの思想もまた、ここで死に行くジラード・スプリガンにゼハートだけがただ一人言葉をかける事が出来た理由に大きなヒントをもたらしてくれるように思えます。
 上記記事で引用したように、トレーズは「私は、人間に必要なものは絶対的な勝利ではなく、戦う姿、その姿勢と考えます」と表明しており、さらにはむしろ敗者こそが戦う姿においてより純粋だとして「私は敗者になりたい」とまで言っています。
 そのように、一人一人が懸命に戦う姿こそが重要だと認識しているからこそ、人が操縦しない無人機、モビルドールの導入に強く反対し、「モビルドールという心なき戦闘兵器の使用を行うロームフェラ財団の築く時代は、後の世に恥ずべき文化となりはしないでしょうか」と主張したりもしたのでした。
 Gガンダム的な「競技としての戦い」とは違う文脈で、トレーズもまた「戦いにおいて勝敗より重要なもの」を規定している人物です。もちろんそれは、現実の戦争においては理想論にすぎません。実際には、特に近代戦においては戦いは「勝利こそすべて」とならざるを得ません。
 しかし、戦いの場に勝敗を超えた価値をあえて見出すからこそ掬えるものがあるとトレーズは一貫して述べています。だからこそ、最終決戦において、ガンダムたちに無残に敗れて死んでいったOZのパイロットたちの名前を挙げながら、決然とこう言う事ができたのでした。



「だが、君もこれだけは知っていてほしい。彼等は決して無駄死になどしていない」


 このようなトレーズの思想は、ゼハートがジラードにかけた言葉「いや、そんなことはない。お前は自分が信じた正義に殉じて戦い抜いた。わたしはお前のことを戦士として認めている」に通じるものがあります。
 AGEという作品においては、無様に敗れて死んでいく戦士たちを、このような90年代ガンダムにインスパイアされた言葉だけが慰め、称える事ができるのです



 まるでシャア・アズナブルのように、赤いMSに乗り仮面をかぶった敵役として登場したゼハート・ガレットは、結局シャアと同じように一時は全軍を率いる総司令の位置に立つ事までしながら、「エデンにたどりつく」という肥大化して正体の掴めなくなった理想と目的に追い立てられ、無残に散ってしまいました。それは、『ガンダムUC』では決して描かれる事の無かった、シャア・アズナブルという人物のネガティブな側面の戯画化であったかも知れません。シャアもまた、「人類すべてをニュータイプにする」という遠大な目標のために性急な方法に走り、生き急いだ人でもあったからです。


 そのようなゼハート・ガレットという人物を、最後に癒したのが上に述べたような賛辞の言葉、慰めの言葉だったとしたら、これはこれでガンダムシリーズの偉大な遺産の一つなのだと思います。歴代ガンダムを並べた時に、『Gガンダム』からの3作は宇宙世紀ガンダムのリアリズムからも離れ、まるで迷走しているかのようにも見えます。しかし、90年代ガンダムが描いた到達点というのも確かにあって、それをこういう形で取り入れる事も出来ると、AGEという作品は示してくれたように思います。
 出撃したゼハートがアセムと戦い、散るまでの劇中シーンは恐ろしく短い。ながら見をしていたらあっという間に終わってしまって拍子抜けする事でしょう。しかしその短い中に、これだけの濃縮された意味が、メッセージが盛り込まれているという事は、改めて強調させていただきたいと思います。


 さて、ついにゼハートが散り、AGEの物語も残り1話となりました。
 ここまで長い長い解説記事を積み重ねてきた上で、AGEという物語の終着点はどのように見えるのか。あともう少しだけ、お付き合いをいただきたいと思います。
 それでは、次回。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次