機動戦士ガンダムAGE 第49話「長き旅の終わり」

     ▼あらすじ


 ゼハート・ガレットの戦死を知ったラ・グラミス司令ファルク・オクラムドは、最強のXラウンダーであるゼラ・ギンスと、その搭乗MSヴェイガンギアの出撃を命じる。しかしヴェイガンギアはシドを取り込んで暴走、逆にラ・グラミスを攻撃してセカンドムーン崩壊の危機を招いてしまう。
 一方、これを機にフリットはプラズマダイバーミサイルでセカンドムーンを撃ち「ヴェイガンを殲滅」しようとするが、キオの必死の説得によって、敵味方全軍へセカンドムーン救済のための協力を要請する。キオ・アスノは暴走して見境なく攻撃をかけるヴェイガンギア・シドに対してFX−バーストを発動させ、これを撃破、パイロットのゼラ・ギンスを救出するのだった。
 これによって長い戦いは終わり、AGEシステムとEXA-DBの技術の応用によって火星圏からマーズ・レイが払拭され、ガンダム記念館に展示されるAGE-1はフリット銅像と共に、ついに「救世主」となったのだった。




      ▼見どころ


 ついに、ついに最終話です。アスノ家三世代にわたる、ヴェイガンとの戦いに終止符が打たれます。
 一体この最終話において、何が起こったのか。全49話にわたってAGEという作品が何を示したのか。ゆっくりと一つ一つ、確認していきましょう。
 まず何よりも押さえておかなければならないのは、ガンダムAGE最終決戦において残った「最後の敵」が、AGEにおいては二人いた事です。一人はもちろん、ヴェイガンギアを操るゼラ・ギンス。そしてもう一人は――フリット・アスノです。
 劇中に登場した順序とは多少前後しますが、まずはフリットを巡るやり取りを見ていきます。



      ▽最後の敵:フリット・アスノ


 以前書いたように、フリットが公言する「ヴェイガン殲滅」は、歴代ガンダムにおいては敵役が掲げるような目的・目標でした。
 無差別大量虐殺は決して正当化されず、それをした者は無条件に「倒すべき敵」認定をされる。それは宇宙世紀か非宇宙世紀か、公式作品か外伝作品かに関わらず、歴代ガンダムシリーズが共有してきた数少ない倫理基準です。ジオン公国コロニー落としから、ティターンズのG3ガスやコロニーレーザー、最近では『ガンダムSEED地球連合軍の核攻撃や『SEED Destiny』のレクイエム、アロウズオートマトンメメント・モリなどなど。アナベル・ガトーのカッコよさに大きな焦点を当てた『0083』ですら、その目的が地球へのコロニー落としである故に、主人公はガトーではなくそれに対抗する連邦のパイロット、コウ・ウラキでした。
 基本的にこの件についてだけは、歴代ガンダムを見渡してもほぼ例外がありません。


 そして今、ヴェイガンギアの攻撃が途切れた事で、フリットはその大量虐殺へと手をかけようとします。



「私はこの日のためにやってきたのだ……これで、我々の勝利だ!」


 プラズマダイバーミサイルを持ち出して、それをセカンドムーンへと向けるフリット。キオ編で描かれたように、セカンドムーン内部には多くの非戦闘員がおり、フリットがこれを発射すれば紛れもなく無差別大量虐殺となります。そしてここで、



 アイキャッチ
 CMに入る前の「引き」に当たる部分ですが、ここで主人公側のピンチではなく、むしろ主人公の一人が攻撃をしてしまうかもしれないというハラハラ感で「引き」を作っているわけで、最後までなんとも捻くれた構成です。


 フリット・アスノは、少年時代にUE=ヴェイガンの襲撃によって家族を失い、また初めて心を許した相手であるユリン・ルシェルをも失いました。そのほかにも、第30話の解説で触れたように、ヴェイガンは軍事基地や戦闘員よりも、市街地や非戦闘員を積極的に狙うテロリスト的な性格を強く持つ勢力であり、そういう意味で「無差別大量虐殺」を最初にやっているのは間違いなくヴェイガンの側です。そこは斟酌されなければなりませんが……しかしだからといって、ここでフリットの行為は正当化されてはいません。
「無差別大量虐殺をした者が無条件で倒すべき敵になる」ならば、両軍がお互いに大量虐殺を実行したらどうなるかといえば、「どちらも敵になる」という事を示したのが『ガンダムSEED』シリーズです。連合とザフト、双方が互いを大量破壊兵器で攻撃しようと画策した結果、キラ・ヤマトラクス・クラインたちはそのどちらの味方にもならず第三勢力化したのでした。そのひそみに倣う限り、フリットがこの引き金を引いてしまえば、その瞬間にキオたちとフリットは決裂せざるを得なくなります。
 そのようなフリットを止めるために、キオとアセムがプラズマダイバーミサイルを構えるAGE-1の元へ駆けつけます。



 そして、このシーン。
 キオは身を挺して、プラズマダイバーミサイルの前に立ちふさがります。そして既に考察ブログなどで指摘している方もいるように、この場面でキオがAGE-FXにとらせた、両手を広げるこのポーズは、



 かつてフリットが、第3話で、デシルのゼダスからノーラの住民を守るためにAGE-1にとらせたポーズそのものでした。
 そして第24話解説で書いたように、アセム編においてはロマリーが、ゼハートを守るためにこのポーズをしています。アセム編の中で唯一、「ゼハートがたとえヴェイガンであっても庇う」、という意志を見せたロマリー。その髪色を継ぐキオ・アスノが、ここでセカンドムーンを守るために、両手を広げるこのポーズをして見せている事になります。
 敵と味方の境界が、ここで大きく反転します。フリットにとっては、自身がデシルと同じ襲撃者の立場に立たされた事になり、その衝撃は大きく。一方のキオにとっては、この瞬間フリットこそが「立ち向かうべき敵」になっています。
 実際、ここはキオが単に祖父に泣きついている、というようなシーンではありません。よく見るとわかるように、



 両手を広げて一見無防備なAGE-FXですが、その左右にCファンネルが展開されています。これは攻撃意志です。キオは孫として祖父にただ懇願しているように見えますが、それが聞き遂げられなかった場合の決意をも、フリットに見せています。
 同時に、これは歴代ガンダムでも珍しい、ビット、ファンネルの使い方でもあります。遠隔操作できる攻撃端末だからこそ、攻撃の意志を留保したまま、「両手を広げて何かを庇う」という意志表示のジェスチャーを機体に行わせて伝えることが出来る。これは、ファンネルやビットのような攻撃端末についての、キオ独自の使い方です。歴代ガンダム作品に、ビットおよびファンネルをこのように使用した者は(私の記憶する限り)居なかったはずです。
(念のため付け加えますと、「Xラウンダー能力で直接伝えれば良いじゃん」、と思われるかも知れませんが、テレパシーによる意思疎通に依存したコミュニケーションの限界は、歴代ガンダムでも、またAGEでは月面のジラード・スプリガン相手のやり取りでも、既に示されています。その上で、ビットやファンネル的なものを意思疎通に役立てる、地味だけれど新しい工夫をキオは示しているという事です)


 そして、キオとアセムによってフリットの説得が行われます。



「やめてじいちゃん!」
「何をしている!? そこをどけ!」
「もうやめようよ!」
「みんなで探すんだ。一緒に生きていく道を」
「できるものか! ヤツらは我々から何もかも奪っていった。わたしは誓ったのだ! 大切なものを守るために、救世主になってみせるとっ…!」
「火星圏の人たちだって苦しんだんだ。生きるためにもがいてきたんだよ!」



「ヤツらだって血の通った人間だ。死の恐怖に押し潰されないよう地球を呪い、そして、地球を奪うという希望がなければ生きていけなかった」
「これがじいちゃんがなろうとした救世主なの!?」
「私は! 私が守れなかった者たちのためにやってきたのだ!」



「違う! 絶対に違う! その人たちだって、そんなこと望んでない!」


 キオは火星での経験を、アセムはゼハートとの対話を通して得たものを、それぞれフリットへの言葉として展開しています。段取りじみてしまいそうなところですが、テンポが良いのでそうとは思わせない場面作りがなされています。


 そして、肝心なキオの説得の言葉。
「復讐なんて、死んだ人たちは望んでいない」というのはこの手の説得シーンのいわば常套句であり、ありきたりなセリフです。これで鼻白んだ人も少なくないかもしれません。しかし、再三これまで述べてきたように、AGEという作品においては一見ありきたりに見える展開にこそ、考察の余地があります。
 キオがここで「違う! 絶対に違う!」と否定していること。それはフリットの「守れなかった者たちのためにやってきた」という言葉でした。守れなかった者たち、というのがつまり戦いの過程で死んでいった者たちだとすると、そうした者たちのために戦ってきたというフリットは、実は非常に似て来てしまっています――終盤のゼハートに。
 第48話解説で述べたように、ゼハートやフラムは、これまでの作戦で犠牲になった兵たちがいる故に、今さらプロジェクト・エデンを断念するわけにはいかないと言い聞かせて戦い、そして破滅してしまったのでした。実は、フリットもそれと同じ瀬戸際まで来ていたのです。



 フリットが幻視した、ブルーザー司令やドン・ボヤージ、ウルフ、グルーデックなどの死者たちの姿。この場面は実は、



 ゼハートを責めたてる死者たちと、紙一重です。
 キオの言う「その人たちだって、そんな事望んでない!」というセリフは、フリットを、ゼハートが落ち込んだ「死者のプレッシャー」から切り離す言葉でした。
 その上で、では「守れなかった者たち」のために戦ってきたというフリットの言葉を否定するならば、では彼はなぜ戦い続けて来たのか。キオは第44話で、以下のように言っています。



「じいちゃんは憎しみに駆られているだけじゃないか! そんなの救世主じゃない!」
 つまり、フリットは個人的な憎悪によって戦っているだけだ、という指摘です。そして最終話で、キオのXラウンダー能力を契機にフリットとユリンの会話が展開されますが、そこで二人の間に交わされた会話にも、フリット自身の気持ちの問題が提示されます。



「あいつらだって苦しいのはわかってるさ、でも……!」
「ヤツらはユリンを、それに……この僕だって君を……!」
「僕はユリンを守れなかった!」



「ありがとう、優しいフリット……でも、もういいんだよ……」
「いいんだよ……許してあげて。みんなを、そして……あなた自身を……


 フリットは、ユリンをはじめとする、戦いの中で死んでいった人たちを「守れなかった」事に対する自責の念から、戦っていたと半ば告白しています。そしてそれを、ユリンが「もういいんだよ、許してあげて」と応えている。
 そう、ここに来て、話はフリットの内面の葛藤、フリット個人の感情の問題に帰着しています。


 第44話の解説にて、初代ガンダムが主人公を一介の兵士に設定したことから、戦争全体を問う事が困難になった事を踏まえ、Zガンダム以降では主人公が敵軍の主導者と直接会話を交わすなどして、戦争を指揮する側を問うという問題意識を持つようになった、と述べました。では、そのような場面を描くことで、ガンダムの主人公たちは戦争の主導者のどのような問題点を炙り出そうとしたのでしょうか。
 結論から言えば、富野監督の手になるガンダム作品において、敵軍を指揮する指導者たちは、大義として語ってきた戦争目的の中に、個人的な感情があるのではないか」という事を暴露されてきました
 パプテマス・シロッコは言います。



「天才の足を引っ張ることしか出来なかった俗人どもに、何が出来た? 常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ!」


 シャア・アズナブルは言います。



「命が惜しかったら、貴様にサイコフレームの情報など与えるものか」
「なんだと?」
情けないモビルスーツと戦って勝つ意味があるのか? しかし、これはナンセンスだ」
「馬鹿にして! そうやって貴様は、永遠に他人を見下すことしかしないんだ」
 このシャアのセリフは、かつてナナイ・ミゲルに指摘された「大佐はあのアムロを見返したい為に、今度の作戦を思いついたのでしょ?」という私情を、半ば肯定してしまっています。


 さらに、コミック『機動戦士クロスボーンガンダム』の中で、トビア・アロナクスと交戦したクラックス・ドゥガチはこのように言います。

「そうだとも! 真の人類の未来? 地球不要論!? そんなものは言葉の飾りだっ! わしが真に願ってやまぬものは唯ひとつ! 紅蓮の炎に焼かれて消える 地球そのものだ──っ」


 そして、『∀ガンダム』最終決戦にて、ギム・ギンガナムは言います。



「あなたが戦う力を守ってこられたのは、ディアナ様をお守りするという誇りがあったからでしょう !?」
「その誇りをくれたのがディアナなら、奪ったのもディアナなのだ。ねぎらいの言葉ひとつなく 、地球へ降りたんだよ!」


 劇場版では、このギンガナムのセリフに対して、ロランは「甘ったれがぁ!」と応じます。


 富野ガンダムの「最後の敵」たちが、皆、このように「振りかざした大義の陰に隠れた私情」を吐露し、あるいは指摘され、その末に敗れていく展開になっている事は、富野由悠季監督がガンダムで描いてきた重要な問題意識の表れと見る必要があります。
 『ガンダムAGE』においては、キオ・アスノがこの役割を担っています。第39話では、キオはイゼルカントと対話を重ねる事で、イゼルカントに失った息子ロミの姿を思い起こさせ、「人類の未来のため」という公人としての主張にヒビを入れています。
 そして、最終決戦でキオ・アスノが、歴代ガンダム主人公が担ってきた役割を果たすのは、祖父フリット・アスノに対してでした。キオもまた、フリットの「皆をヴェイガンから守るため」という戦う目的の陰にある、フリット自身の気持ちを浮き彫りにする事に成功したのでした。


 しかし。
Zガンダム』以降の富野ガンダムにおいて、自分の私情を大義にすり替えて人々を戦いに駆り立てていた指導者たちは、その事を暴露される事で戦いに敗北し、死んでいくという展開に追い込まれました。90年代までのガンダムならば、フリットもまたその仲間入りをせざるを得なかったかも知れません。


 しかし。キオ・アスノゼロ年代ガンダム世代です
 第47話解説で触れたように、ゼロ年代ガンダムの主人公たちは、その時代性から、敵や味方の内面感情の問題に多く向き合わざるを得ませんでした。21世紀の戦争には、根強い憎悪感情の影響がより大きいからです。
 そうであるが故に、キラ・ヤマトアスラン・ザラキラ・ヤマトシン・アスカなど、互いの感情に決着をつけ、やがては和解していく事に物語の大きな重点が置かれていました。
 キオ・アスノをその系譜に位置付けるならば、戦いの主導者の内面に個人的な感情の問題を見つけた先に、まだ出来る事があります。私的な感情問題に向き合い、粘り強く説得していくという方法を、キオの世代は持っていました。


 一方、ゼロ年代ガンダム世代のウィークポイントは、そうした感情を巡る問題を解決していくやり方が、戦争という大状況になかなかアクセスできない事でした。キラやラクスたちは、連合とザフトの戦争状況に介入していきますが、彼らがどれほど卓越した戦力と能力を持っていると言っても、結局戦争という行為全体を止めるには至っていません。SEEDシリーズに対して批判的な視聴者が、「結局は対症療法的に目の前で起こった状況に介入しているだけ」と指摘しているのは、その意味では正しい。
 「思いだけでも、力だけでも駄目なのです」。キオもまた、人一倍の「思い」を持ちながら、それを大状況を変えられるほどの「力」に変えられずに迷走して来ました。AGE-FXは作中でもかなり強力な戦力として描写されていますが、しかし両軍の戦闘を終わらせるには程遠い。そしてまた、キオには戦闘以外で戦争の進行をどうにかできるような言葉の力、行動の力――すなわち政治力も持ち合わせていません。
 そんなキオが最後に成し遂げた事、それは、「力」を持つ身内に向き合ってその感情問題を解き放ち、自らの「思い」を通す事でした。



「しかし、私が撃たなくとも、まもなくセカンドムーンは崩壊する」
「だったら助けようよ!」
「方法は1つだ。あの球体構造物をセカンドムーンから直接切り離すしかない!」
「あれだけの数だ。どう考えても……まさか!」
「やれるよ、みんなが力を合わせれば!」


 そしてここで、フリットはアルグレアスに協力を仰ぎ、連邦、ヴェイガン両軍に協力要請の呼びかけを行います。



「聞こえるか、地球圏と火星圏の全ての戦士たちよ。私の声が届いている、全モビルスーツに告ぐ。戦闘をやめて聞いてほしい。このままでは、ヴェイガンの移動コロニーセカンドムーンは崩壊し、多くの命が失われる。これを救うには、誘爆を始めている球体ブロックを、切り離すしかない。もはや時間はない。ここにいる全ての者たちの協力がなければ、間に合わないのだ。地球連邦軍と、ヴェイガン全ての戦士たちに告ぐ」



「多くの命を救うため、君たちの協力を要請する!」


 この呼びかけの最中、フリットはセカンドムーンに撃ちこむつもりだったプラズマダイバーミサイルを、機体から見て上へ、虚空へ発射します。この爆発がフリットの呼びかけを強調する信号弾のような役割を果たし、なおかつフリット世代にとっての最後の一撃、



 ファーストガンダムのラストシューティングのオマージュにもなっています
 この瞬間、殺傷のための大量破壊兵器が、セカンドムーン救済の呼びかけの合図に変わりました。その意味の反転は、核兵器を月面都市を救うために使った『∀ガンダムロラン・セアック



「人の英知が生み出した物なら、人を救って見せろ!」
 この場面を思い起こさせます。
 プラズマダイバーミサイルが使い方次第でその意味を大きく変えたと同時に、この瞬間が「ヴェイガン殲滅」を掲げたフリットの意志が反転した瞬間でもありました。そしてフリットの呼びかけは確かに、キオ・アスノには実現できない「力」を持っていました。


 「Blinking Shadow」のさわKさんが、このフリットの呼びかけを詳細に分析して、連邦ヴェイガン双方のメンツを巧妙に立てつつ、両軍が自然に休戦に至れるよう慎重に選ばれた言葉だった事を考察されています
 第30話の解説で、フリットがゲーム世代のキオ相手にあえて「魔王」という言葉を使うなど、相手の立場に合わせて使う言葉を選ぶ柔軟性を持っている、という事を書きましたが、この両軍への呼びかけはより繊細な、フリットの「言葉選び」の結果です。
 そして、このように最適な言葉を選び、人を説得する能力こそが「政治力」の一端であり、キオ・アスノが持っていなかった、経験を重ねたフリットならばこその力の発露なのでした。


 最終回で何が起こったのか。
 キオがフリットの精神を解放し、そしてフリットが持てる力でキオの思いを実現した。そのように読み取る事が出来ます。


 フリット編において、人類が一度もUEを撃退できなかった状態から、フリットはAGEシステムとガンダムによってどうにか五分の状態まで持ち込みました。
 続くアセムがMSクラブで殺し合いではない競技としてのMSを扱い、そのお蔭でヴェイガンの代表であるゼハート・ガレットと交流し、また父とは違う生き方を見つけていきました。しかしアセムがそのような生き方を選ぶ事ができたのは、フリットが奮起して連邦側にそれほどの余裕を持たせたからでもあります。
 次いでキオはフリットの元で戦いを覚え、やがて火星圏の実情を見る事で地球とヴェイガン双方の事を考えられるようになりました。そこで賛同者の少ないキオなりのやり方、意志の通し方を一人ずっと応援し続けたのがアセムです。それはアセム自身が独力で父フリットと違う生き方を見出し貫く経験をしていたからこそ、キオに対して「やってみろ」と言う事が出来たという事です。
 最終的に、キオによってフリットが精神的な重荷から救われ、キオの意志にフリットが応じる事で事態が収束に向かう。


 フリットの勝ち取ったものでアセムが救われ、アセムの育んだものでキオが救われ、そしてキオがフリットを救う。それが、ガンダムAGEの描いた「三世代の物語」です。


 しかし、フリットの呼びかけで収束に向かいかけた連邦とヴェイガンの戦争は、まだ余談を許しません。キオ・アスノが最後に立ち向かう敵が、もう一人いたからです。



      ▽最後の敵:ゼラ・ギンス


 話は少し遡ります。ゼハート・ガレットの戦死を知ったラ・グラミス司令ファルク・オクラムドは、事態を打開するためにゼラ・ギンスの出撃を命じます。



「ゼラ・ギンスの力、今ここで見せてもらう……!」
 ここまで、何度か姿だけは登場していたゼラが、最終回冒頭でついに出撃します。乗り込むのは



 ヴェイガンギア。
 機体名に「ヴェイガン」を含むところから、ちょうどファーストガンダムにおける



 ジオングを彷彿させます。
 もっとも、その外見はあからさまに異様です。これまでのヴェイガンMSとも似通っておらず、また歴代ガンダムでもこれと似たデザインの機体を探すのは難しいでしょう(個人的に、富野監督の『オーバーマン キングゲイナー』に登場するオーバーマンにどことなくデザインコンセプトが似ている気がするのですが、デザイン関係にはうといのでどこがどうとはあまり言えず)。
 そしてパイロットのゼラ・ギンスですが、何やら大仰な説明は再三されています。この回でも



「イゼルカント様の遺伝子を受け継ぎ、最高のXラウンダー能力を有する、人の心を持たぬ戦士……」
 とオクラムドの発言があります。
 それにしても、プロジェクト・エデンが「人が人であるための」世界を手に入れる計画であるのに、その切り札が「人の心を持たぬ」者である辺りに、イゼルカントという人の奇妙な一貫性が見え隠れしています。ヴェイガンはXラウンダー能力を強制的に引き出すミューセルのような危険な道具を使い、Xラウンダー能力を持ったパイロットたちを実戦投入したりしていますが、その割にイゼルカント本人は「Xラウンダーはむしろ人の退化した姿」などと言ったりするわけで、彼にとっての理想郷の住人から遠い存在ばかりをあえて重用している事になります。その真意は、もはや人それぞれの解釈にゆだねるしかないかと思いますが……。


 重要なのは、このゼラ・ギンスがキャラクターとして動き始めたのは実質この最終回から、という事です。当然、キオたち連邦側とも、ヴェイガンの中ですらほとんどゼラとの接触がなく、事実上の初登場人物がいきなり「最後の敵」になってしまっているのでしたフリットやアセム、キオたちの誰とも因縁らしい因縁もなく、彼が最後の敵でなければならない必然性のようなものも感じられません。
 この辺り、エンターテインメント的な盛り上がりに欠けると批判されるのは仕方がないところです。


 で、例によって「なぜこのような構成になっているのか」という話をするわけですが。
 ゼラのセリフは極めて少ないのですが、その数少ないセリフは、歴代ガンダムを見て来た視聴者にとっては既視感のあるものではなかったでしょうか。



ガンダム……倒す!」


 また、セカンドムーン救済のために連邦とヴェイガンが協力し始め、キオに「もう戦いは終わったんだ」と言われた際にも、



「終わっていない……ガンダムと全ての連邦軍モビルスーツを、殲滅……!」
 淡々と答えています。
 このような形で、「人の心を持たず」、ただ敵MS(ガンダム)の倒す事だけを刷り込まれたキャラクターは、洗脳状態の強化人間の描写などによく使われていた表現でした。
ガンダムZZ』では、ジュドー・アーシタに懐いてはしゃいでいたエルピー・プルが、洗脳状態でキュベレイMk−II に乗って現れ、ジュドーを戸惑わせます。



「お前は敵だ……!」
 このような、刷り込みによって戦闘を強制されたパイロットたちは、歴代ガンダムにおいては利用される存在でした。そして、大抵は使い捨てにされるような末端兵であり、大局に影響を及ぼす存在ではありませんでした。フォウ・ムラサメキリマンジャロ基地でジャミトフ・ハイマン脱出のための盾にされたり、先のエルピー・プルも戦闘中に地球の重力に引かれて戻れなくなるとグレミー・トトにあっさり見捨てられたりしています。
 ゼラもそうした系譜に連なる存在なのですが、しかし最終盤の切り札として登場した彼は、解き放ったヴェイガン側にすら制御不能になり、むしろセカンドムーン崩壊の危機という自滅のきっかけを作ってしまいます。
 一体、この展開は何を示唆しているのでしょうか。


 実のところ、鍵になるのは「主人公たちと何の因縁もない」という事だと思うのです。
 ゼラは、アスノ家の人たちと何の接触もありませんし、ガンダムと戦った事はもちろん接触した事もない。ゼラ個人にガンダムを目の敵にする理由はありません。
 これはフリットに象徴されていた問題とは全く別の問題です。その個人には相手と敵対する理由になるどんな実体験も存在しないのに、なお相手を敵視し排斥しようとする意志。不合理なようですが、現代に照らしても決して無視できない問題です。


 たとえば、ヨーロッパに生まれヨーロッパで暮らす(多くは生活の苦しい)キリスト教徒が、インターネットなどでイスラム教過激派の発する情報や思想に触れて自らもイスラム過激派になる、というケースが近年問題視されていたりします。
 また(ややこしくなる上にガンダムから離れすぎるので、あまり日本と近隣諸国との話はここではしたくないのですが)先の大戦を生身で経験した世代はどんどん少なくなってきているにも関わらず、日本とアジア諸国やその住民の間では未だに先の大戦の問題が大きなウェイトを占めています。


 歴代のガンダム作品においては、基本的に戦争はどういう形であれ戦闘が収束し、停戦の形に漕ぎ着けられればそこで話は一区切り、ストーリーも終了となっていました。「戦いを終わらせる」ことが多くの作品において目的として語られている以上、それは当然のことのように見えました。
 しかし実際には、一つの戦争が終わったとしても、それまで対立していた人々、勢力、国々の間にはなおも難しい問題が残り続けます。時には、消え去らない反感が暴発する事もあります。
 宇宙世紀ガンダムにおいて、『0083』に描かれたようなジオン残党の度重なる活動が、視聴者に違和感なく受け入れられたのも、「戦争が終わったから何もかも万事解決」というわけにはなかなかいかない、という事を薄々知っていたからでしょう。
ガンダムUC』において、ガランシェールの艦長を務めるスベロア・ジンネマンは言います。



「怨念返しの何が悪い! 俺たちの戦争はまだ終わっちゃいないんだ!!」


 そして、ロニ・ガーベイは言います。



「子供が親の願いに呑まれるのは、世のさだめなんだよバナージ……私は間違っていないッ!」
「それは願いなんかじゃない、呪いだ!!」
「同じだ!! 託されたことを為す、それが親に血肉を与えられた子の……血の役目なんだよッ!! お前のその力も、親の与えたものだろうに!!」
「……!」
「これは……! 私の戦争なんだァーー!!」


 アニメ版のロニは、自らではなく、両親が理不尽に殺された事の復讐のためにシャンブロを駆り、町を蹂躪します。既に連邦とジオンとの戦争は公的には終わっていたとしても、それだけですべてが終わるわけではない。特に、21世紀の戦争においてはその事が顕著です。『ガンダムUC』もまた、そうした現代的な問題には鋭敏に反応し、このような脚本へと結実させています。


 既に連邦とヴェイガンの間には休戦が半ば以上成立し、「戦いは終わった」にも関わらず、「ガンダムと連邦MSを殲滅する」というゼラ・ギンスの意志だけが遊離し、ようやく端緒を見つけることが出来た「戦いの終り」に対して大きな脅威となっていきます
 しかもそこに、



 シドが融合します


 第45話解説にて、シドを試みに「膨れ上がる軍需産業の隠喩」ではないかと述べました。個々の国が戦争をする事情以外に、構造的に戦争へのバイアスをかけるシステムとしてのEXA-DBとシド。
 これも数ある解釈の一つに過ぎませんが、上記のような「怨念返しの気分を抱えている勢力」に「武器を融通する事で利潤をあげる勢力」が加担して事態が悪化する、といったような事は、わりとよく耳にするパターンです。
 たとえば、ヴェイガンギア・シドをそういうメタファーとして読んでみる、という見方もアリなのではないかと。


 なお、ガンダムAGEが単に表面的な戦闘の収束だけでなく、その先の「戦後処理」までが「戦いを終わらせる事」であると認識していたという点については、後に述べます。


 いずれどのような解釈をとるにせよ、このヴェイガンギア・シドとゼラ・ギンスが、キオ・アスノにとっての最後の敵となりました。フリットは、このゼラへの対処をキオに一任。この物語最後の戦闘が繰り広げられます。
 そして、この戦闘は極めてスリリングで手に汗握る内容のものです……ただしエンタメとしてではなく、物語上の意味において、ですが。


 残念ながらこれも認めざるを得ないところなのですが、この最終決戦もことさら歴代ガンダムに比べて、その戦闘描写や段取りの面で盛り上がったり、熱くなれたり、というほどの内容になっていません。作画は終始素晴らしいのですが、物語を盛り上げる細かな段取りに失敗し続けています。
 たとえば、ヴェイガンギアに挑もうとするキオに、海賊船バロノークから新しい武器が撃ち出されます。



 その名もダイダルバズーカ、とロディさんは自信満々に言うのですが……。


 この武器、劇中でとうとう一発も命中しません。ヴェイガンギア・シドに痛打を与える事はもちろん、セカンドムーンからラ・グラミスを切り離す役に立っているカットもありません。そのまま、ゼラとの戦闘の最中に破壊されてしまいます。
 いくらなんでもあんまりな展開で、わざわざ尺を割いて鳴り物入りで登場させた武器や新装備の扱いとしては酷いと言わざるを得ません。正直に言えば、こういうところで視聴者を楽しませ熱くさせる展開にもう少し気配りさえしていれば、AGEという作品の世評ももう少し高かったはずで、こういうところについてはただ残念と言うしかないです。
 なんでこんな変な事になっているかというと、おそらくは、後述するようにエピローグでAGEシステムが重要な役割を果たすため、「ディーヴァは沈んだけれどAGEシステムはまだ使える」事を劇中に示しておくためだったのではないかと筆者は考えています。
 まぁそれにしても、もう少しやり方はあったはずですが。


 そのような内容でありながら、何が「スリリング」なのか――といえば、これはキオ・アスノの物語上の立ち位置が最終決戦の展開に大きくかかっているからです。この点を考えるには、フリット編第8話、ファーデーンで起こった出来事を重ねて見る必要があります。



 第8話解説で詳しく見たように、フリットはザラムとエウバといういがみ合う二つの勢力に対して、「ぼくたちの本当の敵はUEだ!」と説得し、協力してUEを撃退する中でこの両勢力を和解させる事に成功しました。これは少年フリットにとって輝かしい成功体験なのですが……しかしザラムとエウバを和解させるために共通の敵としてUE=ヴェイガンを置いた結果、今度は「連邦vsヴェイガン」という対立軸の中心に位置してしまい、そこから逃れる事が出来なくなってしまいました。


 お分かりでしょうか。
 シドと融合することで暴走し、友軍機をも攻撃し始めたヴェイガンギアは、やがてヴェイガンにとっても危急の問題となり、



 ついにオクラムドからアルグレアスとフリットへ、ヴェイガンギア・シドへの対応が依頼されるまでになりました。
 やがてAGE-FXとヴェイガンギア・シドが激戦を繰り広げる中、連邦軍MSはもちろん、



 ヴェイガン所属のMSまでがヴェイガンギア・シドを攻撃。
 これを見たウェンディが



「ヴェイガンのモビルスーツたちまで、キオの味方に……!」
 と喜んでいるのですが。
 しかしこの状況が極めてマズイ状況である事は、先にファーデーンでのエピソードを思い浮かべた上で見ていただければ、感じていただけると思います。
 たしかに、かつて敵だったヴェイガンのMSまでが、キオの味方になって一緒に攻撃を仕掛けてくれてはいます。しかし結果として、キオが連邦とヴェイガン双方に「ぼくたちの本当の敵は、ゼラ・ギンスだ!」という形で和解をさせてしまったら……ゼラを共通の敵にする事で連邦とヴェイガンを和解させるという構図になってしまったら、生まれるのは「第二のフリット・アスノ」です。そのような形で和平をもたらし、その和平を止め置く楔としてゼラ・ギンスを排除してしまうならば、キオはこれ以降連邦とヴェイガンの平和状態を脅かす者に対して排除の姿勢で臨むしかなくなります。
 そうなれば、第47話解説で批判的に書いた、対イノベイド戦後のソレスタルビーイングが陥ったのと同じ罠にハマり込むことになります。キオがどれほど優しく配慮したとしても、連邦とヴェイガンの協調体制を脅かす者が現れるたびに、第28話でフリットが吹かせた粛清の風と意味的に同列の事を繰り返さざるを得なくなる、そんな恐れが出てくるのです。
 さらに、連邦とヴェイガン双方に包囲されたゼラの前に、



 FXバースト状態で登場。
 かつてザナルド・ベイハートのザムドラーグと交戦した際、キオは怒りにまかせてこのFXバーストを発動させ、あわやザナルドを殺す寸前まで行ってしまいました。コントロールが難しく「不殺」の戦いに支障が出かねないFXバーストを使用する事で、キオがゼラをどうするのか、どうしてしまうのか、ギリギリまで分からない演出になっています。
 そのままAGE-FXはヴェイガンギア・シドに正面から突っ込み、敵機体を両断、ヴェイガンギア・シドは爆発四散してしまいます。
 果たしてゼラ・ギンスは――



 そう、生きていました。
 なぜゼラが生きているかと言えば、もちろん、キオ・アスノが「不殺」の戦いを最後まで貫き通したからです。そうであるがゆえに、ゼラの排除と引き換えに対立する勢力を和解させるという、「第二のフリット」の構図から脱け出る事ができました。
 これまで、アセムとウェンディ以外にほとんど誰も共感してくれず、実行しても誰に感謝される事もなく、ただひたすら挫折だけをキオにもたらしていた「不殺」が、最後の最後でキオを「フリットが陥った罠」から救ったわけです。いわば最終話のこのタイミングで初めて、キオの三世代編を通しての取り組みが報われる事になったのでした。
 同時に、これはフリットにも出来なかった事をキオが成し遂げたという事であり、



「キオがやりましたね!」
「ああ、あれがキオ・アスノだ。わたしの孫だ……!」


 と、フリット自身も孫バカっぷり全開で称賛するのでした。目じり下がりまくりです(笑)。


 以上が、ガンダムAGE全49話の最終決戦、その顛末でした。
 やはり戦闘シーンへ割かれた時間的な猶予が少なく、各キャラクターのアクション的な見せ場という意味では物足りないところだと思います。そこは惜しい所です。
 それでも、AGEという作品が油断ならないのは、ちょっとしたセリフの端に、あるいはストーリーの展開に、歴代ガンダムを踏まえた多様なテーマやモチーフを織り込んでいく周到な脚本があるからでした。視点を変えて、角度を変えて見る事で多様な顔を見せるこの作品は、再視聴、再々視聴時にも意外な発見があったりします。一般的な見方ではないでしょうが、場面場面で見せるキャラクターの細かな表情の変化や、セリフ回しの変化に注目する事で味わいが出てくる、そんな作品なのだと思います。
 それでは最後に、エピローグを分析しながら、AGEという作品が見出した着地点を浮き彫りにしてみようと思います。



      ▽エデン


 ゼラ・ギンスと接敵する直前、キオ・アスノはXラウンダー能力による感応でイゼルカントと最後の対話をします。



「人は、良き未来を築かねばならない。なぜ、お前にはわからないのだ?」
「やり方が間違っているんです! 人が人を選んで理想郷を築くなんて!」
「人が人であるためだ……!」
「今だって、人は人です!」
「んんっ?」
「地球圏の人たちも、火星圏の人たちも、精一杯生きてるんだ!」


 争いを繰り返す現状の人類は「人らしい人」ではない、ゆえに「人らしい人」を選別するというイゼルカントの思想を、キオは「今だって、人は人です」という言葉で否定します。
 第24話解説で指摘したように、連邦、というよりアスノ家においてはAGEシステムを介してガンダムが「進化」しますが、一方ヴェイガンにおいては人間が「進化」するとされています。イゼルカントの人類選別は、過酷な環境に曝す事で人間を「進化」させ、進化した者たちを選別するというものでした。
 しかし既に何度も確認したように、宇宙世紀ニュータイプをはじめ、「人類が進化をする」という思想は結局は優生思想化し、差別や対立を生むために歴代ガンダムにおいて断念された考え方でした。キオが「今だって、人は人です」と応えているのは、宇宙世紀ガンダムで言えば第34話解説で引用したトビア・アロナクスの手紙の内容を再確認するセリフであると言えます。
(なお、このような「環境に適応した新人類による理想郷」を否定するメッセージは、宮崎駿も独自に描いており、富野監督と同じ世代のアニメーターの思想的な比較の面で非常に面白いところです。コミック版『風の谷のナウシカ』において、ナウシカがシュワの墓所の提示した理想郷に抗って述べたセリフは、まさにキオの言う「今だって人は人」という結論と軌を一にしています)


 それでは、イゼルカントの思想にNOを突きつけたキオたちは、どのような対案を示したのか。エピローグで語られるのは、正にその事です。



「ここに1つの戦いが終わった。こののち人類は、AGEシステムとEXA-DBの情報を集約し、マーズレイを無効化するイヴァースシステムを開発した。それによって火星圏は、安全に住める場所に変わり、人類はついに、全人口を許容できる居住空間を手に入れたのだ。ラ・グラミスの戦いから実に37年後のことであった……」


 さらりと述べているので見逃してしまいそうになりますが、マーズレイの無効化を成し遂げるための技術の基礎になったAGEシステムも、EXA-DBも、共に兵器に適用される軍事技術体系です。AGEシステムは



「生物の進化の仕組みを応用した、モビルスーツの再構築システムじゃ」
 あくまでMSに適用される技術です。またEXA-DBも



「コロニー国家戦争以前のあらゆる兵器情報を網羅した巨大データベースだ」
 というアセムの説明を信じる限り、あくまで兵器のデータベースです。
 これらいずれも、本来はテラフォーミングに使用できるような技術に関する体系ではなかったわけです。
 つまりエピローグで語られる「イヴァースシステム」とは、軍事技術の転用なのでした。


 なぜこれが重要なのかと言うと、初代ガンダムからクロスボーンガンダムまでで完全に断念された「人類の進化」に代わって、では何が、戦争や人口問題といった人類史上の大問題を解決する糸口になるのかという富野監督の新たな問題意識、その模索の過程で生まれた新しいアプローチが、ここで再びクローズアップされるからでした。
 もちろん私は、『∀ガンダム』の話をしています。


 ニュータイプという超越的な能力によって、戦争や環境問題、人口問題を解決しようという希望が断念された事を踏まえて。『∀』でミリシャとムーンレィスの戦争解決の重要なキーとして描かれたのは、一つはディアナとキエルの入れ替わりによる相互理解、そしてもう一つが、(モビルスーツに代表される)機械・道具の使い方を変えるセンス、でした。
 実際劇中で主人公機である∀ガンダムは、軍事兵器でありながら、牛を運ぶ、線路の代わりになって鉄道を渡す、洗濯をする、といった多様な使われ方をしていきます。ギンガナムとの最終決戦においても、



「ターンAはホワイトドールといわれて、人々に崇められてきた物なんです。その本体が機械であれ ば、使い方次第ではみんなの為にだってなります」
 とロランは主張しています。


 軍事技術であるAGEシステムとEXA-DBによって、火星圏でヴェイガンの民を悩ませていた問題を解決する事。それは、ゼロ年代ガンダムが引き継がないまま来てしまった『∀ガンダム』の問題意識が、久しぶりに継承された、という事でもあるのです。


 しかもAGEシステムの転用という展開には、もう一つどんでん返しがあります。
 AGEシステムは既に見たように、MS、それもガンダムを「進化」させるためのシステムです。ガンダムAGEにおいては全49話を通して、たった一度の例外を除き、AGEシステムがガンダム以外の何かに適用された事はありません。このシステムが火星圏の環境整備に応用されたという話が唐突にならないのは、そのたった一回の例外があるからです。その一回とは?



「グルーデックのヤツ、ディーヴァの戦闘能力をAGEシステムによって上げられないかとぬかしよった」
「本来、AGEシステムはガンダム専用の進化システムなんじゃ。戦艦に使えるかどうかはわからん……」


 そう、ディーヴァにフォトンブラスターを増設した、フリットミンスリーでの改造だけが、AGEシステムをガンダム以外に使った唯一の事例です
 だとすれば、皮肉なことに、ヴェイガンへの復讐のためにグルーデック・エイノアが発案したこの事例が、結果的にヴェイガンを救うきっかけになった、と言う風に見る事ができます。


 一体、このガンダムAGE解説記事を通して、何度「皮肉」という表現を使ったでしょうか。特にフリット編に登場する人たちは、その思い入れが強いほどに、行った言動がかえって逆効果となるという裏腹を何度となく繰り返してきました。不法に戦力を集めるなど、ありとあらゆる手段を使ってまでヴェイガンへの復讐と反撃を企図したグルーデックの発想が、数十年後にヴェイガン救済の糸口になったというのも極大の皮肉です。
 しかし、フリット世代の元に最後にやって来た皮肉だけは、どこか救いがあるように思えます。フリット・アスノがその生涯のほとんどを費やしたヴェイガンへの復讐心を翻し、大量破壊兵器であるプラズマダイバーミサイルが敵味方両軍への呼びかけの合図に姿を変えたように、グルーデックの復讐心もまた時代を超えて、ヴェイガン再生への祝福に姿を変えたかのようです。


 この、火星圏の環境整備は、ラ・グラミス戦から37年後の事だと説明されます。
 『ガンダムAGE』が「100年の戦い」を謳ったにも関わらず、その三分の一以上の期間がストーリー上でほぼ「スキップされた」事も、放映当時に批判点の一つとして挙げられていました。
 しかしむしろ、最終決戦後、火星圏の整備までを「戦い」の期間に数えた事は、この作品の戦争観に関連して非常に重要だと筆者は考えています。
 歴代のガンダム作品はどれも、最終決戦の収束を持ってストーリーを終了させています。仮にエピローグ的なパートがあったとしても、それは戦いが終了した先の後日談としてであって、「戦争」というテーマに対する結論が出るのと物語上で最終決戦の戦闘が収束するのとは、大抵の場合ほぼ同時でした。
 最終決戦の終息から、エピローグまでに37年もの時間が必要であると見るAGEの戦争観は、過去のガンダム作品と比較して、異例です。
 このような点も、実は極めて現代的な問題意識に則して理解すべきだと筆者は考えています。


 第28話解説で指摘したように、21世紀の戦争、「テロとの戦争」においては、テロリストの組織はトップダウン式の統率は相対的に希薄で、ボトムアップ式の性格を強く持っています。従って、米軍がたとえテロ組織のトップであるオサマ・ビンラディンを討ち取る事が出来たとしても、それで戦争が終わるとは限りません。
 敵のボスを倒しても戦闘が終わらず、また和平交渉などもテロリスト相手にするわけにはいきません(どのような形であれテロリストの要求を呑むような事をすれば、それは「一般市民を攻撃する事で主張を通す」事が手段として肯定されてしまい、同様の行為によって目的を達成しようとする者たちを勢いづけてしまう事になります。どんな危機的状況でもテロリストの要求を呑まない、というのはテロ対策の鉄則です)。
 では、21世紀の戦争、テロとの戦いはいつ終わらせる事が出来るのか。織田信長のように、あるいはかつてのフリット・アスノのようにすべての敵を一人残らず殲滅するのか。他に手はないのかといえば……1つ考えられます。


 彼らをテロ行為に駆り立てている理由、経済的問題や宗教的問題など色々ありますが、そうしたテロを生み出す環境条件の方を改善してしまう、という道です。
 敵に施しをするなんてバカみたいなようですが、別に慈善事業ではありません。20世紀帝国主義の、独裁者が国民を駆りたてて起こした戦争なら、独裁者を排除すれば戦いは止まるかも知れません。が、テロリストは、彼らをテロに駆り立てる切迫した理由がある限り、後から後から新たに生まれてくるのです。あの米軍が、イラク戦争開戦以来10年以上かけてもなお、テロ根絶の糸口すら見いだせていない、それほどに。
 だとすれば、原因を断つ、というのも現実的な取り組みでしょう。


 ヴェイガンも同じです。たとえイゼルカントが、ゼハートがいなくなったとしても、その住民たちがマーズレイに脅かされている限り、再び過激な挙に出る可能性は常に存在している事になります。第30話解説で確認したように、ヴェイガンは極めてテロリスト的な勢力です。実際、想像をたくましくするならば、イヴァースシステムによってマーズレイが克服されるまでの37年間の間にも、ヴェイガンによる小規模な事件が起こっていたという想像は容易です。


 だからこそ、「ヴェイガンとの戦い」が「終わった」と本当の意味で言えるのは、マーズレイという「ヴェイガンを過激化させた原因」の除去が完了した時点だったという事です。


 繰り返しになりますが、歴代ガンダムで、「戦いの終わり」をこのような観点で明言した作品はあまりありません。TV放映されたガンダム作品の中では事実上初めてと言ってしまっても良いでしょう。
 もちろん、多くの視聴者は、特に気にせずにスルーした事だったろうと思います。特に強調されているわけではないので、そこが弱いと言われればその通りです。
 しかしどうあれ、AGEという作品は歴代ガンダムの問題意識を踏まえ、さらに新しい問題意識を加えるという仕事を果たしています。この作品がガンダムシリーズに導入したいくつかの新しい観点やテーマは、(AGEという作品自体の評価にはつながらなくとも)今後作られるだろう新たなガンダム作品に示唆を与える役割は、果たしていくのではないかと筆者は感じています。また、本稿もそのために、ほんのわずかでも貢献できる事を願っています。



 イヴァースシステムによって、火星圏のテラフォーミングが進み、赤かったこの惑星が地球と同じ緑色に描かれます。
 地球というエデンを得るために始められたヴェイガンの戦いは、AGEシステムとEXA-DBによってヴェイガンの住んでいた場所をエデン化する事によって幕を閉じました。それは同時に、「人を選別する」イゼルカントの方法から、技術をもって環境や仕組みを改善する方法へのシフトでもあります。イゼルカントに「人が人として生きられる未来」を託されたキオたちは、そのような形でヴェイガンのエデンへの願いをも実現した事になります。
 これが、長い旅の果てにAGEという物語が至った、ひとつの結論だったのでした。



      ▽“救世主”ガンダム


 最後に、火星圏の環境改善が整ったのと同じ時期、AGE-1を展示した「ガンダム記念館」が建てられ、そこにフリット・アスノ



 銅像が建てられた事が述べられます。


 小説『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の中で、ブライト・ノアが「歴代のガンダムは、連邦軍にいても、いつも反骨精神をもった者がのっていたな」と言う場面がありますが、ガンダム作品の主人公にそのような精神が託される事が多い事と比して、いかにも権威的な「銅像」というのはイメージ上、不似合いに感じられるのでしょう。この銅像もどちらかというと揶揄の対象になる事が多いです。まぁ、それも仕方ない。


 もっとも振り返ってみれば、フリット・アスノは誰も対抗できなかったヴェイガンMSに匹敵するマシンとその運用システムをほぼ独力で作り上げる超一流のエンジニアで、しかも地球連邦の対ヴェイガン反攻作戦で多大な軍功を上げ続けた凄腕パイロット、一時は連邦軍総司令として軍全体の練度を飛躍的に向上させた名指揮官、艦隊を指揮すれば敵軍の思惑を見破り的確に自軍を動かす名将、その上最終決戦における連邦とヴェイガンの和平の立役者でもあるわけです。こうして書き出してみるととんでもない活躍をしてきた人物なわけで、まぁ放っておいても銅像の一つくらいは立ちそうな人だったのでした。
 むしろ先述の「Blinking Shadow」さわKさんも以前指摘していたように、この銅像が少年時代でも、また連邦軍総司令をしていた壮年時代でもなく、キオ編以降の老年の姿である事が重要なのでしょう。それはつまり、ヴェイガンとの和平のきっかけを作ったという業績が最も大きく評価された故の事と見なせるからです。


 そして同様に、ここで「ガンダム記念館」に展示されているのがAGE-1であるというのも面白いポイントです。
 たとえばAGE-FXなど、三世代の機体を並べた絵をここに持ってくることもできたはずですが、この「ガンダム記念館」には



 AGE-1しか描かれていません。
 さらに言えばこの施設名も、宇宙世紀ガンダムに何度か登場した「MS博物館」という言い方をしていない。
 これはうがった見方ですが、「ガンダム記念館」に展示されているというAGE-1は、恐らく宇宙世紀の「MS博物館」に展示された機体のように、「兵器」として飾られているのではないのでしょう。これが博物館であれば、MSはあくまで戦時中の「兵器」としての姿と意味を保存するための施設であり、たとえば『F91』で博物館の展示品であったガンタンクR−44をロイ・ユング将軍が持ち出して再び使用したように、やはり戦いのために使うモノという意味を維持し続ける事になります。
 このラストシーンのAGE-1について、筆者はむしろ別な意味が託されていると見たいのです。第1話解説で書いたように、AGE-1が初代ガンダムRX-78ガンダムのデザインを踏襲しているとするならば、この直立して展示されている姿は、あるいは……



 2009年夏、お台場に現れ話題をさらった、1/1ガンダムを重ねる事が出来るのではないかと。
 この実物大ガンダムを現実に東京に出現させるというプロジェクトに関わった富野監督は、その過程でこのように述べた、といいます。

富野氏自身は、実物を観る前は「あんなオモチャカラーが18mになったらみっともない」と思っていたそうだが、実物を見て180度変わったそうだ。「オモチャカラーのガンダムは兵器ではなかった。あの色は、政治論や経済論などを超越できる色であり、あの色の上に立って物事を考えられるようになれれば、我々は1万年を乗り越えられます」と熱く、熱く語った。
             (富野由悠季監督が語る「ガンダム30周年」


 このガンダムAGEのラストシーンに描かれたAGE-1が、上記のような意味のもと、お台場の1/1 ガンダムのオマージュを含んでいる、と見たら行き過ぎでしょうか。
 劇中のわずかな描写だけで両者を結び付けるのは無理かも知れませんが、しかし、筆者はあのAGE-1に、上記の富野監督の言葉を重ねたいのです。マーズレイを克服したAGE世界の住人たちが見せた結末に、「1万年を乗り越えられます」という言葉はいかにも相応しいと思えるからでした。
 オモチャカラーのロボットを、そこに託された子供じみた理想論と共に実体化して見せること。政治論や経済論を超えて、「誰もが願いながら口にすることができなかった言葉」を現実にしていくこと。
 ガンダムが“救世主”になる事があるとすれば、つまりそういうことだと思うのです。
                                     《了》


※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次