Gレコ読解キーワード3:クンタラ


 この連載の第1回記事でちらりと述べたように、毎回何かしら作品の重要テーマとなる言葉を造語して見せる富野監督が、『Gのレコンギスタ』において繰り出したのが、「クンタラ」です。
 真偽のほどは語られていませんが、大昔に食用とされていた人種という意味を持たされた差別用語であり、劇中ではマスク大尉ことルイン・リーの行動を規定する動機として、再三強調されました。
 また、キャピタル・アーミィアメリア、トワサンガビーナス・グロゥブなど様々な勢力が入り乱れる『Gレコ』において、結局主人公ベルリと最後の対決を演じたのはこのマスク大尉であり、彼のクンタラとしてのコンプレックスは、ベルリの「選ばれた血統」との対比として、最終決戦の重要な軸となりました。


 第1回記事で述べたような、宗教やタブーがガンダムの最新シリーズで大きくクローズアップされた事情と同じように、差別の問題が取り上げられたのにもそれに対応する時代の空気があるわけですが、ガンダム作品の流れからもその事情は透かし見ることができるように思います。今回は、まずそんな話からしてみようかと。



            (1)オールドタイプ差別


逆襲のシャア』までの宇宙世紀ガンダム作品に、いわゆる差別一般の問題を大きく扱った場面というのは、あまり無いと言ってしまって良いように思います。無論、宇宙世紀を通して争いの主軸となる「スペースノイドアースノイドの対立」は、地球連邦政府による事実上の棄民政策(と言われるような政策)が原因ではありますが、あくまで政治の世界の話であり、一般民レベルでそうした意識が描かれた場面は、筆者にはあまり思い当りません。
 『Zガンダム』におけるティターンズ、地球至上主義は比較的そうした色が濃く、またブラン・ブルタークが「宇宙人は宇宙にいればよかったんだよ」などと発言する辺りには一種の蔑視の色が表現されてはいます。しかしこれも、こうした感情自体が「解決されるべき構造問題」であると扱われていたわけではありませんでした。


 一方、前回記事で少し触れたように、ニュータイプとオールドタイプという関係性も、『逆襲のシャア』までの間に一種の対立関係の様相を呈し始め、あわや優生思想に至る寸前まで行っていた事はたしかなのですが、しかし富野監督はこれも、明確に「差別」として描くところまでは行っていません。
 たとえば、クェス・パラヤが、地球のインドで修業をしてニュータイプに開眼したのだと主張し、それをもってレズン・シュナイダーに「ギュネイ、よしなよ。普通の人相手にするなんて」などと言ったりもしていますが、このあたりもまだ自負の範疇に入る問題であって、ニュータイプとオールドタイプとの構造的な差別、といった事は描かれないまま、『F91』以降、ニュータイプ自体が作品から姿を消していくことになります。


 とはいえ、本来、ニュータイプとオールドタイプの間に差別問題が起こるという発想の方があり得ない話ではあります。少なくとも、設定上の本分に立ち返ればそうでしょう。ニュータイプとは認識力の拡大により「誤解なく分かり合える人々」です。言ってみれば最初から自然に「相手の身になって考える」ことの出来る人々という事であり、そのようなニュータイプがオールドタイプを差別するという構造は、あり得ない。そのはずでした。


 ここでターニングポイントになるのは、やはりコミック作品『機動戦士クロスボーンガンダム』です。劇中、ニュータイプ能力を持つ若者を集めているというシェリンドン・ロナは、以下のように言うのです。

戦いでしか――
ものごとを解決しようとしない人たちは――
いずれ滅びてしまいます
それはしかたのないことでしょう
ですがそれにわれわれがひきずられてはなりません

私にはニュータイプの力は"神"があたえたもうた力だと思えるのですよ
戦って――
滅んでゆくしかない人類になげかけられた生き延びる術――希望
ですが――
今はまだあまりにもその数が少なすぎる
だから――
あなたはもっと先をみてトビア!
あなたの力を汚れた戦いに使ってはいけないの


 本来、認識力の向上によって「相手を誤解なく理解できる」はずのニュータイプが、ここで「私たちとあの人たちは違う」という明確な差別思想へと姿を変えている事に注意しましょう。
 シェリンドンのこのセリフが、結果的にニュータイプという概念の選民思想、優生思想的な側面を炙り出したのでした。
 たとえニュータイプになったとしても、認識力が向上したとしても、そうした問題は変わらないという方向に、歴代ガンダムの人間観は変わっていったと見ることができます。
 実際、『Zガンダム』の時点で、



 アムロララァが体験したのと同じ「ニュータイプの交感」をしたにも関わらず、



 カミーユハマーンは分かり合う事が出来ずにむしろ「お前は生きていてはいけない人間なんだ!」と断言するところまで行ってしまうわけです(第47話「宇宙の渦」)。


 この「人は分かり合える」という戦いの解決方法に関する問題点と、歴代ガンダムにおける挫折の歴史についてはAGE解説の第43話記事にて詳しく述べたのでそちらを参照していただきたいのですけれども。
 富野作品を見ていくと、『機動戦士クロスボーンガンダム』を経て、戦いを終わらせるためにとれる、ニュータイプ以外の方法を模索した結果登場したのが『∀ガンダム』、その中でも特に



 ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだったわけです。
 これはつまり、互いの立場を実際に入れ替えることによって相手の立場を体験し、そこから互いの意志疎通と相互理解を進めるというアイディアなのですが……このように書いてしまうと明らかなように、ニュータイプ的なテレパシー能力を用いないものの、「分かり合う」事を目標にしているという点では変わらないとも言えます。
 それでも、「ニュータイプ」という特殊な能力を介さずに、また人類の進化といった危険な要素を持ち出さずに、現行の人類のままでそうした道を模索するというアイディアは一歩前進だったと言えるかも知れませんが……しかし『∀』以降のガンダム作品の推移は、この新たな模索の道に続いてはくれませんでした。それどころか、今までガンダムシリーズにおいては隠れていた「差別」に関する表現が、急激に顕在化していったのです。



 そもそも『ガンダムSEED』シリーズにおけるナチュラルとコーディネーターの対立というのが、互いに対する差別感情を隠しもしない、「憎悪の戦争」を描いたという意味で画期的でした。それまでのガンダムにおいて、戦争の理由というのは自治権の要求や軍内部の覇権争いなど、比較的高度な政治的理由とされていましたし、そうであればこそ戦争によって得られる利益を損害が上回れば、停戦という終わりを迎えることもできました。しかし、憎悪という感情に根差した戦争には、そのような形の終わりが来るとは限りません。実際SEEDにおいて両陣営は、互いに核をはじめとする大量破壊兵器の大盤振る舞いをしてまで、相手の「殲滅」を目指します。



「そうして力と力でただぶつかりあって、それで本当にこの戦争が終わると、父上は本気でお考えなのですか!?」
「終わるさ! ナチュラルどもがすべて滅びれば戦争は終わる!」 (PHASE42「ラクス出撃」)


 こうなっては、「人は分かり合える」などと言える状況ではありません。また、『∀ガンダム』のような、互いの立場の入れ替わりといったレベルで事態が好転する事も難しいところです。実際、アスラン・ザラは『SEED』でも、『SEED Destiny』でもわざわざザフトに戻って、話し合いによる事態の打開を試みますが、父パトリック・ザラに対しても、ギルバート・デュランダルに対しても有効な手を打てないまま、二度ともあわや殺されかけてラクスの元へ帰ってくる羽目になっています。
 表面的なメロドラマ展開などに目を奪われがちですが、外伝OVAスターゲイザー』などと合わせてみたときに、このSEED世界の人間不信に塗り込められた世界観の暗さには、やはり特筆に値するところがあるように思えます。


 富野監督もおそらくこうしたSEEDの問題意識に影響を受けたのではないかと見られる節があり、バイストンウェルを舞台にした『リーンの翼』において、在日日系三世といった立場の登場人物を出演させ、その彼らが「差別」を受けていた憤懣から東京上空で核を爆発させようとする、といった展開を入れています。


 しかし、ガンダムにおける「差別」の問題については、さらに決定打が控えていました。
 言うまでもなく『ガンダム00』のリボンズ・アルマークがそうで、アムロ・レイと同じ声優の演じるこの人物は、劇中でも



 RX-78ガンダムそっくりの0ガンダムに乗り、どういうわけかファーストガンダムアムロ・レイを強く連想させる人物にされています。そのくせ、その人物が「人類を導くイノベイター」を自称し、



「人間と対等に見られるのは、我慢ならないな。力の違いを見せつけてあげるよ」 (セカンドシーズン第20話「アニュー・リターン」)
 ……といったような、あからさまな蔑視発言を繰り返すのでした。


 ファーストガンダムにおいて、アムロ・レイが「人類の革新」ニュータイプであると描かれていたことと合わせて考えると、この00のリボンズの存在は様々な意味で挑発的です。見ようによっては、リボンズは「ニュータイプとなった事でオールドタイプを差別しまくる、あり得たかも知れないダークサイドアムロ」なのでした。

ガンダム00』の真意はどうあれ、ここまでされたら富野監督としても、何らかのアンサーをせざるを得ないと考えてもおかしくありません。
 富野ガンダムとしては初めて「差別問題」を大きなテーマとして取り入れた『Gのレコンギスタ』には、以上のような前史を想定しておく必要があるように思えます。
 その上で、では『Gレコ』は何を、どう描いたのでしょうか。



            (2)差別とカウンター差別


 とはいえ、『Gレコ』劇中には実に多様な問題、多様な視点、多様なテーマが入り組んでおり、クンタラを巡る描写やセリフなどは思いのほか少ないのも確かです。
 ここでは、その逐一を追う事はしません。たとえば、3話の時点でルインは、



 クンタラ呼ばわりにも熱くならず、ベッカーに認められて「期待できる生徒だな」と声をかけられたりしているのですが、そのような彼がそれでもマスク大尉として再登場するに至った心理的経緯など、これ一つとっても非常に興味深いのですが。本稿では先を急ぐ事にします。



 Gレコの差別に関する言及は、非常に分かりにくい部分があります。「差別は良くない」という明確なメッセージをセリフの形で提示したり、といった事をまったくしていないのです。
 むしろこの作品が描いているのは、自身がクンタラという偏見の目で周囲から見られていたことをコンプレックスに思っているあまり、



「それが本当なら!ますます権力者になる血筋じゃないか!人に食われる過去を持つクンタラなどを、虫けら以下に扱うヤツらなんだよ!」 (第24話「宇宙のカレイドスコープ」)
 ……というように、むしろ自分以外の他者に対して逆に偏見をもってしまっている様子だったりします。
 Twitterで指摘していた方もいましたが、自身が偏見にさらされる事で、それを跳ね除けようとする者がかえって別な偏見を持ってしまう、というのはいかにもリアルです。


 差別をする人間を登場させ、それを懲らしめる事で差別反対のメッセージを打ち出すという方が簡単なように見えますが……実のところ、そういう単純な図式を引くこと自体が、「二項対立の罠」という事になりかねないわけでした。そのようにして誰かを悪認定し、された相手もこちらを悪認定すれば、あとは二項対立の図式に嵌まり込んで、SEED世界のような泥沼の殲滅戦に突入する危険が常にあるという事です。
 そして前回記事でちらりと触れたように、Gレコにおいてはこの二項対立を、現実の複雑さをあえてガンガン導入する事で相対化していく態度をとっています。だからこそ、クンタラについての劇中の描写やセリフは、一見したところ脈絡が無いようにも、また散漫なようにも見えるわけですが。逆を言えば視聴者は、そこから「差別」を巡る様々な事情や問題や関心を、複層的に取り出してくることもできるようになっています。


 たとえば、フラミニアが



ビーナス・グロゥブクンタラって、似たような者同士なんですよ」 (第23話「ニュータイプの音」)
 といった発言をしていたりすること、なぜこんな発言が出てきたのか、といった事を想像するだけでも、物事を単純に良し悪しに分けるのとは違った相対化の観点が見えてくるように思います。
 とはいえ、本稿ではそのいちいちを取り上げて言及したりはしません。そんなことをしていると記事があと2回分くらい増えてしまうかもなので(笑)。


 今回の記事では、Gレコの最終的なスタンスを炙り出す事に専念したいと思います。「いろいろな事情がある」「様々な見方がある」という相対化を繰り返していると、では最終的な結論、あるいは作者の主体的なスタンスというのは無いのではないか、という風に思えてしまうというデメリットもあります。実際『Gのレコンギスタ』という作品に戸惑った人の多くは、この物語が最終的に何を言おうとしたのかが見えないために、混乱した人というのも多いように思えます。
 しかしでは、この物語が「何も言っていない」のかといえば、おそらくそうではない、と筆者は考えています。劇中に描かれた事から、明言されていないこの物語の主体的なメッセージを、あえて炙り出す試みをしてみたいと思います。



            (3)和解せず


 Gレコの最終決戦を演じたベルリとルインの関係を眺めた時、その結末は非常に意外なものに見えます。
 そもそもこの二人は、



 最序盤においては行動を共にするほど近しい関係であり(第2話「G−セルフ、起動!」)
 また先に引用した、マスク大尉によるベルリへの「偏見」にしても、明らかに劇中のベルリの描写とはかけ離れている、いわば「誤解」の類なのですから、その誤解さえ晴れれば、ベルリとルインが和解するのにそこまでの困難はない、はずです。
 たとえばの話、この二人が



 『SEED Destiny』のシンとキラのように、手を取りあって終わるというエンディングも当然考えられたはずです。
 しかしこの物語は、そのような結末に至りません。本編を見た方はすでにご存じの通り、ベルリとマスクの対決に決着はつかず、



 ベルリはベルリ、ルインはルインと、それぞれに自分の道を進むという結末になっています。
 それどころか、本編を見る限り、ルインはベルリの事を意識していますが、ベルリの方はマスクをルインだと明確に認識していない節すら見えるのでした。


 ここで、作品がベルリとルインの意志疎通を描かなかった事は、作品としての爽快感を削ぐかも知れませんが、しかし重要です。
 前回記事に書いたように、Gレコでは「互いが分かり合う」ことによって「対立していたAとBが一つになる」といった解決をあえて拒んでいます。そのような「分かり合う」という解決法が、一方で分かり合えない相手をかえって疎外してしまうことや、自分の意見と同じか違うかという強引で暴力的な二者択一に物事を単純化しかねない懸念があるからです。
 そして、同時にこれは、ファーストガンダム以来の「ニュータイプ」、「人は分かり合える」という希望に対して、きっぱりと決別をした瞬間でもありました。ルインは自分の全身全霊をもってベルリにぶつかり、ベルリはそれに応え、しかし結果としてその後の二人は互いに交わることはなく。
 それでいて、最後に劇中に映し出されたマスク=ルインの姿は、どこか憑き物が落ちたように穏やかです。


 偏見やコンプレックス、総じて人の内面の問題はそう簡単に清算する事はできない。完全に分かり合う事は難しいけれども、互いに距離をとることで、それなりに平和に暮らす事は出来るんじゃないか、というのが、このラストシーンでしょう。


 ……と、これだけをGレコという作品のメッセージとしても良いのですが、「単に仲の悪い者同士は距離とっておけよ」というだけでは、あまりに投げっぱなしと感じられるかも知れません。
 実のところもう一つ見ておくべきは、主人公ベルリ・ゼナムの立ち位置なのではないでしょうか。



            (4)ベルリの役割


 富野作品はたいてい群像劇で、特にGレコは様々な勢力が過去作以上に入り乱れるため、相対的に主人公の果たした役割というのは目立ちません。たしかにGセルフは強力な機体で、戦局に大きな影響を与えてはいましたが、しかし主人公ベルリの意志や役割という点では、どうでしょうか。


 そこで注目したいのが、マスクの初期と終盤とでの、目的の変化です。



「このガランデンのマスク部隊として戦果を挙げば、クンタラの地位は向上する!」 (第7話「マスク部隊の強襲」)



「ヤツラはぁっ!クンタラが失敗するのがうれしいのかっ!?」
 


「この敗戦の恥はマスク大尉として晴らさなければならない。クンタラにもプライドがある。今はそれを遂げさせてくれ……!」 (第8話「父と母とマスクと」)


 初期のマスクは、クンタラの地位向上のため、とにかく闇雲に戦果をあげようとしています。そのことだけに精力を傾けており、その戦果の内容、携わっている作戦の内容にはなかなか意識が向いていません。
 だからこそ、ベルリたちが金星に行っている間にトワサンガ側が法王を人質にとった際、カシーバ・ミコシを戦闘に巻き込んでまで奪還するといった仕事を出来た、とも言えます。リギルド・センチュリーの人々にとってカシーバ・ミコシを戦闘に巻き込むのはタブーです。なまじな兵では、そこに戦力として向かうなどというのは尻込みするところです。「クンタラの地位向上」という強烈な動機を持ち、しかし挙げる戦果の選り好みはしないマスクのような人間だから、これを成しえたと見ることも可能でしょう。
 言ってみれば、そのようなマスクだからこそ、クンパ大佐の手足としてこれ以上ないくらい適任だった、とも言えます。あるいは、利用するのにちょうどよかった、とも。



 ところが、そのようなマスクの行動目的は、終盤になると変わっています。



「貴様には死んでもらわんとクンタラとしては情けないのだぁっ!」 (第26話「大地に立つ」)
 最終決戦辺りになると、マスクは「とにかく戦果をあげてクンタラの地位を向上させる」「そのために任された作戦をこなす」という受け身な態度から変わっていて、誰に命令されたわけでもなく、自分の意志でベルリを倒す事を最優先しています。


 何が起こったのかといえば、つまりマスク大尉の漠然とした「クンタラとしてのコンプレックス」による憤懣が、ベルリ一人に集約されたのです。
 別の言い方をすれば、マスクの憤懣を、ベルリは一手に引き受けたのでした。そして、マスクの仕掛けた戦いに全力で応じたのです。


 戦いの結果は、マスクの勝利とはならず、また引き分けというのも少し難しい状態ではありましたが、圧倒的な戦力を誇っていたGセルフに一矢報いる活躍は確かに見せる事が出来ました。
 漠然としたコンプレックスを、特定のターゲットに全投影して、そこに真っ向勝負をかけて一矢報いた。そういう経緯があったからこそ、エンディングにおいてマスクは穏やかな気持ちでマニィと過ごす気持ちになれたのではないでしょうか。



 貴種、すなわち特別な家の血統を継ぐ人物の役割と葛藤、というのは、ファーストガンダムにおけるジオン・ズム・ダイクンの子キャスバルシャア・アズナブルから始まり、富野ガンダム作品には頻出するテーマです。しかし、シャアにせよザビ家にせよロナ家にせよ、主に敵ライバルキャラやヒロインに付随する属性であって、ガンダムに乗る主人公はごく普通の民間の少年というケースが多かったのがこれまでのガンダムです。
 そういう意味では、Gセルフに乗る主人公ベルリが、レイハントンという血統を継ぐ貴種であるというのは、小さいようで大きい変化です。
 とはいえ、ベルリは劇中、自分自身の「貴種」としての血統を誇ったり笠に着たりはもちろん、あまり意識してもいないように見えます。その血統の証であるレイハントン・コードによって様々な形でメガファウナの旅に影響を与えてはいますが、ベルリ個人はむしろ、アイーダが実の姉だったという事実に揺れる気持ちの方が大きく、劇中で貴種としての権力や地位を利用するような描写はほとんどありません。あえて言えば、指導者としての自覚を持ちつつあるアイーダへのサポートが中心です。
 シャアにせよザビ家にせよロナ家にせよ、その血統や貴種としての意識が、その人物の行動の大きな原動力だったのに比べると、ベルリの空疎な貴種ぶりは異様にも見えます。
 しかしあるいは、現代において貴種であるという事は、そんなような事だという諦念なのかも知れません。



 かなり大ざっぱな言い方ですが、これまでのガンダム作品において主人公がごく普通の民間の少年であったのは、地位や権威を持つライバルを相手に、一般市民の立場から疑問を持ち、場合によっては立ち向かっていけ、という指向性の表れと読むことができます。
 しかし21世紀になった現在、国内外のあらゆる階層に「マイノリティ」が現れ、それぞれが今までの待遇の改善や地位の向上、権利の認定を主張してくる状態になりつつあります。ジェンダーセクシャルマイノリティ、障害や疾患を持つ人々、様々な事件や出来事の被害者たち、戦後補償などなど、その手の主張に関するニュースを目にしない日の方が少ないくらいではないでしょうか。
 そのように今まで不当な立場に立たされていた人たちにとって、そうでなかった、ごく幸せに平穏に日々を暮してこられた「マジョリティ」な人々は、その恵まれた地位というだけである意味貴種でもあります。そして、クンタラであるマスク大尉が勘違いの理不尽な怒りをベルリに向けてくるように、時に憤懣の矛先を理不尽に向けられたりもする。
 「分かり合う」必要はない。変に譲歩する必要もない。ベルリはマニィに「お願いだからルインのために負けてやって!」と言われても、変な情けをかけて負けてやったりはしません。
 けれど多分、その怒りや憤懣に、正面から応える必要はあるのです。それが、だれもが「マジョリティ」という名の貴種でなければならない時代の、ノーブリス・オブリージュだと言いたいのではないかと、筆者はそんな風にこの物語を受け取っています。


 そのように、既存の差別構造や偏見に対して、「分かり合う必要はない」というスタンスから顛末を描いて見せたGレコですが、なお一つ、この作品の願いのようなものが見てとれるシーンがあると思っています。
 最後に、そのことについて。


            (5)Gレコが描いた希望


 エンディングの中で、ごく短い、けれどきわめて重要なシーンがあります。



「よく走りましたね。1km以上ありますよ?」
トワサンガでもよく人の目を忍んで走っていました」


 ムタチオン。金星圏に住む事で身体が衰えてしまうという設定は、劇中でも印象的に描かれていました。トワサンガの人として登場しつつ、実はビーナス・グロゥブから潜入したスパイでもあったフラミニアは、このエンディングにおいて、そのムタチオンとしての体を隠しもせずに、元気に地上を走っています。
 短いシーンなので見逃してしまいそうになりますが、ここでフラミニアが、ムタチオンとしての体を隠す必要を感じずに、のびのびと地球で運動をしている場面には、重大な意味があるはずです。


 本人も、トワサンガでは「人の目を忍んで」いたと言っています。まして地球の大多数の人の目には、金星から来た得体のしれない人々のムタチオンと言われる体の変化は、異質に映るはずです。そうでなくても、地球に住む人たちはトワサンガ、つまり月に人が住んでいる事すら半信半疑だったのです。金星から来た人というだけでも怪しいでしょうし、そうした中でフラミニアがありのままの姿を晒すのは、本来なら危険でしょう。
 そう。実はこれ、「ムタチオン差別」「金星人差別」が起こるかもしれない、非常にセンシティブな状況なのです。
 しかし、アイーダたちの周囲には、そうした空気はありません。フラミニアも自身が差別されるような警戒もなく、楽しげです。


 アイーダたちが、フラミニアのムタチオン化した体を自然に受け入れられているのは、前回記事で追ったように、ザンクト・ポルトトワサンガ、金星と、自分たちの目で世界を旅して、知見を広げた結果でしょう。
 だからこそ、このシーンはGレコ全体で見ても、ことさらに大きな希望として描かれています。
 リギルド・センチュリーの人々は、かつてはクンタラという「差別される人々」を生み出してしまっていて、その彼らとは、平穏に暮らす道は模索できても、完全に「分かり合う」というのはかえって危険と認識せざるを得ない。
 けれど、だからこそ、これから新たな差別を生む事は避けよう、避けられるはずだ、という願いを、このシーンに見るのはうがちすぎでしょうか。


 また、作品全体を通して、アイーダという人物の成長があまり感じられないというコメントをツイッターで見たりもしました。が、ここでフラミニアに警戒感を持たせていないというだけでも、彼女の成長というのは十分に感じられるように思っています。



 さて。
 前回の記事において、既存のガンダム作品におけるような「戦争を描くこと」、戦争という形で二つの勢力が対立するという歴代ガンダム的な構図を解体する意図を見ました。今回の記事においては、ファーストガンダム以来の「人は分かり合える」という考え方とは別の解決策をGレコが取ろうとしている事を見てきました。
 次回、最後に、タイトルにもなっている「レコンギスタ」について考えてみたいと思います。なぜ、「G」の「レコンギスタ」なのか。Gがガンダムの事だとすれば、ガンダムの何が「レコンギスタ」したのか。
 そんな内容でお送りしたいと思います。ほどほどにご期待ください。