モモ


モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))


 有名だけど案外読む機会がない児童文学の名作。
 時間どろぼう関連でよく引き合いに出されるのを目にすることはありましたが、こういうのも実際読んでみないと感じは掴めないもので。


 児童文学を読むのは久しぶりだったんですけれども、読んでみるとやはり独特の読み味があって、「そうそうこれこれ」みたいな気分になるものです。
 一般的な小説やノンフィクションな文章に比べて、テーマの抽象度が高いというか、現実の枝葉末節を取り払った、ものすごく純度の高い問題意識が提示されるので、浮世から離れたような気分になるというか。読みながらツイートしてた時には、「旅先の宿で、夜になってふと、ぼうっと景色を眺める時間」のような気分になると言いましたけれど。常に連続して流れている日常からたまに離れて、日々を思い返すような、急激に俯瞰するような、そんな感じになるんですよね。


 まぁ、本書に関しては、読み方によってはすごくベタな現代社会批判みたいにも読めてしまって。もちろんその指摘自体は間違ってないし鋭くもあるんだけど、今日の視点から見るとありふれた批判のようにも読めてしまいます。だから、本書のテーマ性が非常に優れていると思った……とだけ書いても、あるいはそういう「多忙な現代社会批判に満足しただけ」みたいにも受け取れるわけですよ。でもね、そこで立ち留まるだけなのはもったいない気がしたんですよな。
 この本を読みながら私が考えていたのは、時間どろぼうたちが「時間を盗む」ということについてでした。彼らは「時間貯蓄銀行」を騙ったりもしているわけですけれども、こうしたものを単なる口実とか、卑近な比喩と見ない方が良い気がしたのです。この物語は、「時間」というものに対するもっと深い洞察を込めてこういう設定を作っている気がしたのですね。


 では、時間どろぼうという設定が何を意味しているのかについてですが、私が読みながら考えていた事は読後に(イメージが鮮明なうちに)Twitterで連続ツイートしたので、今回はtogetterでまとめたものを張り付ける形にしようかと思います。
https://togetter.com/li/1275771
 いつもだったらブログ用に再度書き直すんですが、こうしてまとめた結果、新たに目にした人も多いようなので、まぁこれはこれで。


 時間と貨幣を相似に扱っているという指摘は松岡正剛千夜千冊なんかでも指摘があるわけですが、それも踏まえて私なりに読み解くとこんな感じでした。
 それにしても、このレベルの読解を可能にする深みを抱えて、なおかつ児童向けで読みやすいわけですから、やはり児童文学恐ろしいです。


 遊び、というものに対しての感覚も非常に面白い観点があったりして。見た目の精巧なおもちゃというのに著者は否定的なんですね。精巧だけど、否、精巧だからこそ車のおもちゃは車にしかならないし、使えない。そうでなく、たとえば木の枝一本あれば、それを剣にも傘にも、およそ何にでも見立てられるし、そういう風にイマジネーションで補完していく事が遊びの勘所だと言う。著者のそうしたイマジネーションに対する評価の高さは顕著なわけですけれども、そういう要素が「遊び」に必須のものだ、というのはあまり考えたことがない感覚だったので、いろいろ興味深く読みました。


 その辺含め、やはり名作とされるだけのことはあるなぁと、まあいつもの感慨を述べつつ。
 で、引き続いてエンデをもう一作読んだわけですけれども。