トリアージの話


あのー、それ、普通にかわいそうなんですが
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1


 読んでてなんか引っかかったので軽く。


 まあ要するに、災害時、限りある薬品などを有効に配分するために、「手を尽くしても助からない人」と「患者自身が処置すれば大丈夫な人」とは治療から除外する、という話。
 で、それに対して、「この人はもう助からない、って見捨てちゃうのかわいそうじゃん」という意見と、「いやかわいそうだけどさ、でも一人でも多くの人を助けるために必要じゃん?」という意見と、「あの、でも、それやっぱり普通にかわいそうなんですけど」っていう意見とが出ている、という状況。


 まぁ、古典的な話題といえばそうなんですが。ベンサムでしたっけ、功利主義で「最大多数の最大幸福」というのを立てるんだけども、実はこれが成り立つのは「幸福の総量が、全体に最低限行き渡る場合であって、幸福の総量が全体の総和より少なかったら、切り捨てられる人が出てきちゃう」という話。
 どんな基準を立てたとしても、倫理的に「いや、切り捨てちゃダメだろ」っていう反論が立て得る。


 とりあえず、例によって先に宣言しておくと、そこで「かわいそうじゃん」って思う感性はすごく大事だと思うんだ。
 たとえ目の前の人がもう助からないとしても――自分が薬を持っているのに、目の前のその人を見捨てるのは慙愧の念に耐えない。それはそうなんだ。


 そして、トリアージ的な発想は、確かにそうした「かわいそう」という感情を殺す。


かわいそうなぞう」はなぜかわいそうか
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1


 結局そうした判断は、全体主義的な考え方じゃないか、体制がさせることじゃないか、という批判。
 これも確かに一理あるんですよね。


 さて。
 この話の、こんがらがってる部分ってのは一体どこでしょう?


 思うに、微妙に相がずれているんだと思います。「かわいそうじゃん」と主張している人は、目の前で苦しんでいる人との関わりや、その苦しんでいる個人に思いを馳せて、その苦しんでいる人と薬を持っている自分との関係性から「システマティックに見捨てるなんて事できないよ」と言っている。
 一方、トリアージの基本にあるのは、数字です。「一人でも多くの人を助ける」というのが重要なので、とりあえず個人的にどうこう、という話はしていません。
 ……えーっと、ここで「そらみろ、やっぱり薄情じゃないか、人間を数としてしか見ていない」、と言うのは、もうちょっとだけ待ってくださいね。


 アイヒマンの言葉に、こんなのがあります。
「100人の死は悲劇だが、100万人の死は統計に過ぎない」
 なんかこれも薄情な物言いに聞こえるかもしれませんが、この言葉の意味するところは、裏返せばこういうことです。
「100人の救済は素晴らしいけど、100万人の救済はデータに過ぎない」
 意味するところは、つまり一個人が100万人と知り合いになれるわけがない、100万人全員といちいち面会することもできない。そこには、量的な差異ではなく、質的な差異がある。
 面識のある100人が亡くなったら、それは悲しい。けど、地球の裏側で100万人が亡くなったという報道を聞いたとき――「かわいそう」だし、「いたましい」とは思うけれども、友人が亡くなった時のような「悲しさ」はないですよね? まあニュースで遺族が悲しんでるのを見たりすれば、感情移入して悲しくなったりはするかもしれませんが、100万人という数に直接、そういう感情を抱く事はないですよね?


 問題はここです。
「だってかわいそうじゃん」っていう個人の感慨の話で言えば、大事なのは100万人ではなく100人なんです。目の前で苦しんでいる人を救いたいという純粋な気持ちなんであって、100キロメートル先で苦しんでいる別な人にまでは、純粋に手が回らないんです。それは人間として自然なことだと思います。そういう意味で、リンク先の人たちが主張している事は間違いじゃないんです。


 けど、じゃあ、100万人出る災害の犠牲者を90万人に抑えるという営為は、不要ですか?
 そこには別な力学が働いていると思うんですよ。100万人の死は悲しくはないけれど、現代社会においては、それだけの被害が出たら経済や社会システムに影響を及ぼし、遠まわしに我々にもダメージが来ます。
 四川大地震では穀物の生産地が壊滅的な打撃を受け、穀物の値段の急騰にさらに拍車がかかってます。
 悲しくはないけれど、そういう悪影響を回避する運動っていうのを、国、社会システムはやらなきゃいけないんですよ。


 そして、トリアージの話の釈然としない部分は、「目の前の100人を救いたい」という感情の部分と、「100万人を救うために最適な行動をとらなきゃならない」という部分とがバッティングするから起こるわけですよ。


 これが言ってみれば、国家戦争なんかにもつきまとうジレンマじゃないですか。
 国がつぶれたら、家族も混乱の只中で酷い目にあう、だから国を守るために戦争をする。けど、愛する家族のために戦うっていうのに、東京にいる家族と離れて遠いミクロネシアの方でドンパチやらなきゃならない。俺がインドネシアで戦ってる間に、家族が東京大空襲で死んじゃったよ、おい家族守れてねぇじゃねぇか、ってな事にもなりかねない。
 しかしでは、「人殺しなんてかわいそうだろ? それに家族が大事なんで、国なんて体制のために戦うのなんざごめんだ」と言うのは人情としては正しいですが(ていうか私も心の底からそう言いたくなると思います、そんな状況におかれたら)、しかし日本って国体が潰れてしまい、無政府状態の社会システム機能麻痺ってな事になったら、食べ物だって手に入らなくなる。そのリスクを丸々忘れて、戦争なんかごめんだって言うわけにもいかない。


 自給自足の農家でね、自分の食う分だけ作物作ってた時代なら、感情のレベルだけで良いんです。けど現在、これだけ我々の生活が社会システムに依存してしまっていたら、流通が止まるだけでも生活に大打撃がくる。我々はそういう中で生きてるじゃないですか。


「かわいそうじゃん」って言うのは構わないんですよ。けど、そのジレンマにまで目配りをした上で考えないと、それこそ富野由悠季言うところの「エゴばっかり肥大した社会」になってしまう。シャアに「愚民ども」って言われてしまうわけで(笑
 感情のレベルの話だけでは、たとえば多分環境問題は解決できません。


 トリアージの問題ですが、こういう問題だとして、もう一度考えてみてください。


「あなたは災害の救助隊として、被災地にいます。目の前に瀕死で苦しんでいる人が居ます。その人に治療を施し薬をあげたとしても、生存率は高くなさそうです。
 ところで、あなたの持っているその薬は、日本政府が用意したもので、その内実は日本国民から集めた税金です。額もかなり大きく、従って日本国民が、その多くが”あなたが薬をちゃんと役立てているか”を目を皿のようにして見つめています。もし無駄に使うようなことがあれば、帰国してから厳しい問責が待っているでしょう。
 さて、あなたはこの有限の薬を、どのように使いますか?」


 本当に真剣に考えたいなら、せめてこれくらいの板ばさみは想定するべき。