収容所文学論


収容所文学論

収容所文学論


 高校時代の恩師が本出したって聞いたんで、読んでみました。
 めっちゃ硬派な文芸評論書です。私こういうの久しぶりなんで、タジタジしながら文章たどってました。


 著者の中島先生(もう先生って書いちゃいますよ)は、まあ大学推薦決定後のわりと自由なコマだったとはいえ、高校三年生への選択科目「国語」の授業で『資本論』教えちゃうという愉快な方でした(ぇ
 で、私はといえば、前期、石原吉郎の「被害と加害の同在」の話をやった授業のレポートで、堂々と『風の谷のナウシカ』論をぶちかますアホっぷりを展開していました(駄目じゃん
 以前、「二項対立解除!」というエントリーを立てましたけど、あれの内容は実は、元はこの時に提出したレポートです(えぇ〜
 嬉々として、コミック版ナウシカをコピーしてレポート用紙に貼り付けて、提出しました。当時から私、全然変わってませんねw


 そんなわけで、冒頭の石原論は、どちらかというと懐かしいなぁ、という気分で読み進めました。そうそう、こんな話してたしてた、っていう感じ。
 なんだかんだで、この時の授業は、私が何か考える時に色々引っかかってくる、かなり影響受けた内容だったなぁと思います。


 おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は〈集団としての存在〉でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。
                       石原吉郎ペシミストの勇気について」

 私がワイドショー的論調に同意しない理由。被害者が、自分たちの被害を理由に加害者を罰しようと働きかけた瞬間、実は自分たちが「加害者」になっているという事。
 では、そうした「加害と被害の同在」の場から抜け出すためにはどうすれば良いか、という事をテーマに、この論は進んで行きます。
 詳しくは……うん、この場で要約するのは私には無理なので、この『収容所文学論』か、もしくは石原吉郎『望郷と海』をお読みくださいまし。


 その他にも、エキサイティングな、読んでて驚いたり目からうろこが落ちたりした部分はけっこう沢山ありました。
 無論、私のばあい文芸評論を読む素養はあまりなく、そもそも言及されてる作品も大半読んでなかったりするんですが(笑)。それでも面白いもんは面白いんだよ!(ぇ


 特に「おおっ!?」と思ったのは、村上春樹を論じた一節でした。
 ここで、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』の以下の文章が引かれます。

 綿谷ノボルは亡くなった伯父からかつて聞いたそのエピソードを最初に述べ、それから兵站線の思想をモデルとして、地域経済について地勢学的に話を進めていた。しかし、僕が興味を持ったのは、綿谷ノボルの伯父がかつて陸軍参謀本部に勤務したテクノクラートであり、満州国ノモンハンでの戦争に関係していたという事実だった

 で、ここで「僕」が地政学的な(平面的な)情報に惹かれず、歴史的な情報、系譜(縦方向に伸びる情報)にしか興味が持てない事を、村上と中上健二の対談や作品分析を合わせて捉えつつ、実は村上春樹の世代以降、そうした平面的な、地政学的な、すなわち「空間―政治」的な情報が読み取れなくなってきている事を読み込んでいくのでした。

(前略)それ以降、我々の中では、(おそらく差別をめぐる状況の変化をはるかにこえて)空間(Space)的な認識が急速に、そして決定的に衰えていったのである(後略)


 この部分を読んで、思わず声に出して「あっ」て言っちゃいました。そう、私自身、薄々自分の中に欠けてるなぁと感じていた、ぼんやりとしたものを改めて言い当てられた気がしたのです。


 我々は――主にこうやってネット上で発言している我々は――持っている情報を年表形式に縦に並べて、その関係性で考える事はわりと得意です。
 ところが逆に、持っている情報を地図上にマッピングして、その位置関係から考察していくという感覚は、実はものすごく弱くなってるんじゃないでしょうか? どうでしょう。
 たとえば私は、今、民俗学とか伝奇関係の情報をデータベースにまとめる、というような事をやっています。で、その中で、各項目の年代などにはかなり気を使ってデータを作っています。年号などには必ず西暦を併記して、やろうと思えばすぐさま年表上に並べて前後関係を把握できるようにしています。
 ところが――情報同士を地理的に考えるための情報は、実はけっこうおろそかに作っている事に気付いてみたり。


 これは、多分私だけの傾向じゃないんじゃないかな、と思います。
 Wikipediaに行ってみると分かります。ウィキの記事でも、年代や、人物についての項目なら親子関係、系図など、縦方向の系譜情報を辿るのにはすごく便利に作られています。クリック一つで、その系譜上を遡る事も降る事も簡単にできます。
 しかし――地政学的な、地理上の位置関係で情報同士を結び付けられる機能というのは、ほとんどありません。大まかな地図上での位置を示したり、所属する県や市の情報にコネクトする事はできますが、たとえば地理的に近接した建物同士を直接結びつけるような機能はなかったりします。


 もちろん、私のよく見る項目が偏っているからそう感じられるだけ、という側面もあるでしょうし、HTMLと親和性の高い情報とそうでない情報という部分もあるでしょう。一律にこれだけでどうこう言える事ではありませんが……けれど、上記引用文のようにきっぱり言われた時、確かに自分の中に、そういう空間(Space)的な認識力が衰えてるなっていう部分で同意せざるを得ない感覚はあって。
 私は批評の言葉は専門外なんで上手く言えないんですが、とにかく自分の致命的な弱点を指摘されたぞ、っていう戦慄はすごく感じたのでした。


 それに、そう、ずっと前から折々、悩んでいた事があります。
 私、どうも「権力」っていうのが実感として分からないんだよな、っていう。もうなんか、自分で書いてて馬鹿馬鹿しいんですが、それでもそうなんです。
 そうした権力が生まれるのも場、すなわち空間―政治的な力学の中なんでしょうけど。たとえば歴史の本とか読んでても、国王が持っている「権力」とかっていうのが、具体的に自分の中でイメージを結ばないっていうか。
 これってやっぱり、特に人文系に足を踏み入れている人間としては致命的だよなって思ったりはするんです。思うんだけど、でもやっぱり分からない。


 なんだろう、とにかく私の中の弱点を、正確に射抜かれたと感じたのでした。


 他にも、この本の中で色々と興味深い指摘や考察がされてて、非常にスリリングでした。
 まあ半分も頭に入ってないような気もしますが(笑)、でもやっぱり、切れ味の鋭い論評を読んでると、たとえ分からなくても何となく面白いんですw
 門外漢なんで、専門的に見て批評のレベルがどうなのかとか、そういうのは分からないけどね。