機動戦士ガンダムUC 第八巻



 なんだかんだで8冊目。
 いよいよお話も大詰めな雰囲気です。でもこの巻だけでは終わらない。


 ジオン連邦の分け隔てなく協力できるはずだーというバナージやオードリーの気持ちと、そう簡単に割り切れないよという大人たちの間での落差が状況を動かすわけですが、まぁこの辺はさすがに、すんなりとは行かないわけで。
 それに合わせて、フロンタルの思惑なども語られて、ここまでひたすら思わせぶりだったこの話もようやく少しは全体像が見えてきそうな感触になってきたかな、といった感じ。


 とりあえず一番印象に残ったのは、ユニコーンコクピット内でバナージとオードリーが話し合っていた内容でした。
 スペースノイドも地球の自然を、自分たちに都合のよいイメージだけで話していて頭でっかちだ、一方でアースノイドスペースノイドの自然観(広すぎるスペースを埋めるために人の感性を拡大させるという発想 = ニュータイプ)を理解できない。
 その上でバナージは以下のように言います。

「(前略)大切なのは、お互いが違う世界を生きてるって理解することなんじゃないかな。君が言った通り、生まれた場所は変えられない。お互いに不完全な世界を生きているってことを認め合って、完全に近づく道を探していければ……」
「完全に近づく道……それが、ニュータイプということ?」
「ジオン・ダイクンの定義に従えばね。その意味では、まだ本当のニュータイプって生まれてないよ。入口にくらいは立ってるって思いたいけど」

 この部分を、多少意外な思いと共に読んでいました。
 バナージの発言は、私がよく話題に出し、また気に入ってもいる『機動戦士クロスボーンガンダム』のトビア・アロナクスの発想・言葉と重なって来ます。
 トビアが劇中、ニュータイプによる貴族主義を言うシェリンドン・ロナへあてた手紙。以前うちのブログでも引用しましたが、せっかくなので再掲します。

あなたは1日に12kmの山道を歩くことができますか?
それはぼくたち宇宙育ちからみればとんでもない能力なんです
でもそれは“進化”したわけではなく人間がもともともっている力――
“環境”にあわせて身につく人間自身の力――
だからカンが鋭かったり先読みがきいたりするNT(ニュータイプ)の力も
単に宇宙という環境に適応しただけで
ぼくらはまだ昔と同じ”人間”なのでしょう
しかしもっと長い長い年月をかけていつか人は“NT(ニュータイプ)に進化するでしょう
でもやがてくる新しい力に期待する前に―
僕は“人間”としてやれることがまだ残っているのじゃないかと思うのです
僕は人がNT(ニュータイプ)にならなければ戦いをやめられないとは思えません
人間としてやるべきことをすべてやって
それを自分の手で確かめてみたいと思うのです


 まったく同じではありませんが、発想としては非常に近いという感触を持ちました。
 それが、少々意外だったという感があります。この物語の中盤くらいまでを読む限りでは、作者の福井氏はわりとファーストガンダムで示された「ニュータイプの希望」をそのまま中核に持っているのかな、という印象を持っていたからです。
 無論、福井氏が今回のバナージの発言まで問題を掘り下げてくれたのはありがたい事で、『クロスボーン』『∀』と続いてきたガンダムのテーマ的な蓄積を受け止めるなら、「ニュータイプ」を手放しで「人類の希望」として結論する事は出来ません。
(なぜなら、ニュータイプという言葉はオールドタイプという言葉を生んでしまい、結果として「優れた人類と劣った人類」という構図を作ってしまう可能性があったからでした。これはもう、突き詰めればギレン・ザビの「優生人類生存説」まで行ってしまう可能性のある危ない思想です。実際、シャアの地球寒冷化作戦も「人類すべてをニュータイプにする」というのが最終目標だったわけで)


 であればこそ、『∀ガンダム』ではニュータイプをもって人類の革新と描く事をやめ、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムが入れ替わる事、つまり「お互いに不完全な世界を生きているってことを認め合って、完全に近づく道を探してい」くことによって希望を見出そうとしていたのでした。


 つまりこのバナージの発言によって、この『ガンダムユニコーン』という作品は、クロスボーン、∀の掲げた問題意識を引き継ぐ、その意志を見せた事になるわけです。
 これは私にとって、実は予想外の事でした。福井氏が以前、『∀ガンダム』をノベライズした際には、原作の穏やかな空気と、ディアナ、キエルの入れ替わりによる平和な停戦の結末が覆され、往年の“皆殺しの富野”を彷彿とさせるような結末が描かれました。その印象が強くて、何となく私は、福井氏はアニメ『∀』のテーマにはスイッチしてこないのかと思っていたのでした。


 もちろん、これは嬉しい事です。『クロスボーンガンダム』はその後、長谷川裕一氏の手で続編が描かれ完結しましたが、結局上記のトビアの姿勢、テーマは深められないままでしたし。この「トビアの手紙」で示されたもの、その先を掘り下げていく事が宇宙世紀ガンダムがテーマ的に深められる数少ないフロンティアであったと思っていた私にとって、クロスボーンの完結は寂しい事でした。
 作品世界内の時間軸は前後してしまいますが、ユニコーンがそれを引き継いでくれるなら、私は歓迎したいなぁと。


 もっとも、テーマを掲げることと、それをちゃんと物語として定着させ深められるかは別の問題です。
 その辺は、この話をどこに着地させるかにかかってくるのでしょうが。



 で、フロンタルさん。
 もしかしたら、作者はこのフロンタルを、シャア本人なのかクローンなのか、そうした出自を隠して謎のまま話を終わらせる気があるのかなーと、何となくそんな印象を持ったりしました。特に根拠はないんですが、考えてみればそういう終わり方もあるよなぁと。
 とりあえず、オードリーさんが「私の知っているシャア・アズナブルは死んだな」と感慨深げに言っているところで、ようやく「ああ、そういやこいつミネバだっけ」とZガンダムを思い返しつつ考える私。なんかこの辺も、名前はついてるけど、実際に劇中で登場した「あのミネバ」が成長してここにいるんだなっていう実感が、あまり持てないままここまで読んで来てしまいましたからねぇ。それはプルクローンもそうなんだけども。


 まあでも、なんだかんだで、終盤に向けて良くなって来てるのかなぁという感触はあります。テーマの掘り下げにしても、話の展開にしても。
 しかし殊更に盛り上がったり感極まったりして読んでいるわけでもないという。むしろ作者が盛り上げようとして入れたシーンやセリフにはことごとく逆に冷めてしまっているのも確かです。それはもう、4巻あたりの「男と見込んだ」からずっとそうなんですけども。これは単に好みの違いなんだろうなぁ。浪花節は趣味じゃないのぜ。


 とはいえ、せっかくだから最後まで読みますけどねぇ。


 以下、細かいところ。


 とりあえず、ガエル・チャンって誰だっけ?(笑)
 あと、カイさんが登場して喜ぶ単純な私。彼に関しては、作中の描写も私のイメージとそんなにはずれてなくて、面白く読みました。
 まあ相変わらず「ラプラスの箱」の秘密具合を強調する手際はどっちかっていうと鼻につくんですけど。雑誌でルポを企画した友人が、第一回を連載したところで行方不明で雑誌も廃刊になったとかいうけど、それ第一回が載った時点でだいぶダメじゃね?(笑) 普通そういう場合は載せる前に潰されるんじゃないのかなぁ。


 そんな感じ。