リトル・ピープルの時代


リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代


 久しぶりに、発売日が楽しみな本でした。
 そして、充実した読書時間を過ごせました。



 私はそもそも、『ゼロ年代の想像力』以降の宇野常寛氏の動向について懸念を持っていましたし、もっと言えば心配していました。
 それは『ゼロ年代〜』で提出されたモデル、「決断主義」「バトルロワイヤル」というタームが、時代の空気を的確に掴んでいて、とても汎用性があり、どんな作品を評する際にもおおよそ援用可能で――要するに便利すぎるものだったからです。
 宇野氏が雑誌で作品短評のようなものを載せている際も、このモデルを元に発言しているのを何度か見かけましたし。
 宇野氏が、今後ずっとこの「決断主義」のモデルを作品を単に当てはめ、このモデルをもてあそぶ事だけを続けるようなことがあれば、結局批評家として存在感を徐々になくしていくしかないだろうと、そんな心配をしていた次第です。
 であればこそ、この2冊目の単著を、ドキドキしながら読み進めました。


 結論から言えば杞憂でした。
 作中で提出されるのは「ビッグ・ブラザー」「リトル・ピープル」というモデルであり、前著の「決断主義」という用語は登場しません。
 特に、「リトル・ピープル」が実質的に「決断主義者」と同じものを指しているだけに、宇野氏が前著で使った便利な用語をあえて使用しなかった、その判断はとても素晴らしいと思います。
 私の中で、この『リトル・ピープルの時代』によって、宇野常寛という名前はようやく「ゼロ年代の想像力の人」から「批評家」に格上げされた感じです。


ゼロ年代の想像力』では、「それぞれの正義を掲げてバトルロワイヤルを繰り広げる」新しい時代の存在(=決断主義者)は『Death Note』の夜神月によって代表され、それと対置される古い態度は「セカイ系」でした。
 そして、決断主義の時代の到来を強調することで、「セカイ系」的想像力の中に引きこもり、無意識のうちに「バトルロワイヤル」で暴力を行使する人々を挑発し、鋭く指弾する傾向がありました。
 一方、今作『リトル・ピープルの時代』では、「バトルロワイヤルを繰り広げる」存在は「リトル・ピープル」とされ、それに対置される存在を「ビッグ・ブラザー」としました。これは、いわゆるポストモダン状況を説明する際によく使用される「大きな物語が失効した後の小さな物語」という構図に対応します(しかし、読者への間口を広く確保するためでしょう、「ポストモダン」といった用語も宇野は極力使用を控えているように見えます)。村上春樹、そして特撮ヒーローの系譜を紐解く中で、宇野はこの二つの動向を丹念に追っていきます。


 オタクたち個人の内面の、「安全に痛い自己反省」を指弾する立場から今回は離れ、むしろ「公共性」と、その中で「正義/悪」が可能かどうかという問いに宇野の関心は移っています。作中で宇野は「世界の終り」と「ハードボイルドワンダーランド」という二つの問題意識を対置して見せますが、宇野自身も(村上春樹の分析を反省的になぞりつつ)「ハードボイルドワンダーランド」へと相対的に問題意識をシフトしていっていると読めます。
 結果として、『ゼロ年代の想像力』周辺の、とにかくオタクのタコツボ化を徹底的に非難し、オタクたちを挑発して見せる辛辣な宇野のイメージはかなり後退し、むしろ今作では特撮ヒーローへの著者の愛情がかなりストレートに感じられるような読み味になっています。
 読者の間口を広げるという意味では、これは確実に良い影響をもたらすでしょう。



 そして個人的には、「バトルロワイヤル状況」に対応するために著者が示した処方箋という意味でも、『ゼロ年代の想像力』のそれより、今作で示された「拡張現実」の方がしっくりくる感じがしました。


「拡張現実」と言われて、オタク的な「聖地巡礼」にも、また「セカイカメラ」的なバーチャルの動向にも疎い人には、いまいち実感がつかめなかったかもしれません。
 しかし私見では、この「拡張現実」的な想像力は、オタクやデジタル業界の人だけのものではありません。この点、補足を試みます。


 谷根千を散策する若者。古地図を持って歩く散策法。『ちい散歩』、そして『ブラタモリ』。
 こういった昨今の傾向もまた、おそらくは「拡張現実」的な想像力の一つの発露だと私は思います。
 私自身、東京のあちこちを、目的地を定めず散策するというのを何度か行いましたが(左のメニューの「東京彷徨」タグ参照)、テーマを決めずの散策をすると、江戸時代の信仰から昭和高度成長期の足跡、明治大正時代の痕跡などに、時系列無視で、文脈のバラバラなまま遭遇し続けることになります。その文脈のなさから思うに、こうした昨今の街歩き傾向は、決して『三丁目の夕日』的なノスタルジーの発露というだけでは規定しきれないと思えます。
 そして、『ブラタモリ』などで、現在の路地の景色に、数十年前そこが川だった記憶を重ね合わせていくという指向性は、今見えている情景に、掘り起こした過去を「セカイカメラ」的に幻視していく「拡張現実」的な、「黒歴史を掘り起こす」ような想像力の発露なのではないでしょうか。


 そのような所にまで視野を広げていった時に、宇野氏が本書で提示した結論というのは、かなり重要な可能性を示唆しているのではないかと個人的には思えます。



 ――と、私は本書から、様々な示唆を受け取りましたし、とても楽しみました。
 しかし一方で、本書は前著に比べて、非常に危うい側面を抱えもってもいると感じました。


 そもそも今回の著作で、宇野氏が「n次創作」的なものをデータベース的な想像力として肯定的に論じている事が、私にとっては意外でした。その「n次創作」が、かつて『ゼロ年代の想像力』で氏自身が指弾した「レイプファンタジー」などの諸問題を含んでいる事を重々承知した上で、その肯定がなされていたからです。
 もちろん、私自身もそうした「n次創作」的なものに大きな可能性を感じていますし、その点で氏の論旨には基本部分では同意するのですが、しかし宇野氏のそういったものへの肯定の仕方が、少し手放しすぎる感触を持ちました。そして、まぎれもなくその事が本書のウィークポイントになり得る事も。


 本書の第三章で、論述のキーフレーズを提出する芸術家集団「カオスラウンジ」が、奇しくも本書刊行の直前にPIXIV絡みで騒動を起こし、炎上の火種を振りまいた事が象徴的なように、データベース的想像力による「n次創作」は、著作権との間で常にグレーゾーンの危うい立場に置かれ続けている方法です。
 注釈で触れられた格闘ゲーム「MUGEN」で使われるデータも、原作ゲームからのドット絵の流用という部分では、法律的にはアウトなものが大半ですし。またMAD動画にしても、そこで試みられる表現が動画・映像を彩る手法として興味深いものが散見される事も確かなのですが、きわめてグレーな表現です。現在でこそ動画投稿直後の盛り上がっているタイミングでの「権利者削除」は、権利者自身のイメージを損なう事から少なくなりましたが、それでもそうしたMAD動画は一通り視聴者の盛り上がりが静まったあと、数か月後にこっそり「権利者削除」されるケースが少なくないのが現状です。


 私自身は、黒歴史化したデータベースから自在に過去の素材(キャラ)を召還する想像力に大きな可能性を感じています。『スーパーロボット大戦』『ヴァイスシュバルツ』『MMD』などなど、最早こうした想像力は我々に長く深く定着しており、いまさら逆行は不可能なほどになっています。
 しかし、こうした「n次創作」を手放しで肯定することは、悪意をもって解釈すれば「著作権法違反」という違法行為を奨励しているように読む/喧伝することも可能です。
 名の知られた、プロの批評家であるなら、そこにはあらかじめ予防線を張っておくべきだったんじゃないかと、思うのでした。



 さらに言えば、こうした「n次創作」的想像力と、そこから可能になる「拡張現実」に未来を見出すのなら、そうした想像力の行使を「グレーゾーン」に追い込んでいる現在の著作権法のあり方などについて、将来的なビジョンを提示していく事まで必要になってくるのではないかと、個人的には思います。
 ……まあ、文化批評が主戦場である氏にとって、そこまで守備範囲に出来るかどうかは難しいところかとは思いますが。



 ……だいたい以上が、本書を読み終えての感想でした。
 まあ細かいところで、著者の特撮知識を面白がって読んだりもしたのですが(笑)、大まかなところでは、まとめると上記のとおりとなります。


 ともあれ、なかなか刺激的な本でした。創作に携わる人も、読んでおいて無駄にならない作品だと思います。
 そんなところで。