劇場版魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語


 見てきました。そして圧倒されました。ツイッターで、ネタバレせずに感興を述べる事がとてもできそうになく、帰宅と同時に、勢いのままに感想を書きなぐっています。
 そんなわけで、以下ネタバレ注意






 見終わった後、最初に脳裏に浮かんできたフレーズはですね、大げさなようですが、


まどか☆マギカは神話になった!」


 ……だったのです(笑)。
 TV版の時点で、まどかが巷間「女神」と呼ばれるような、作中で概念存在と言われるような形になってはいたのですが、その時点では私の中で、鹿目まどかが示した宗教的な救済イメージにピンときていませんでした。
 今回、暁美ほむらが「悪堕ち」した事で、そうした点が私の中で急激にまとまり始めました。


 ほむらは劇中、自分の事を「悪魔」になぞらえていますが、これは謙遜というものでしょう(笑)。彼女の存在は、ゾロアスター教の悪神アンリ・マンユにでも比肩すべきというのが個人的な印象です。
 といっても、これは彼女を貶めたり悪罵したりするための表現ではなく、むしろほむらのあの選択が、逆に『まどか☆マギカ』という作品世界の安定に資したという表明のつもりです。この辺を説明するには、ちょっと長い説明がいります。


 そもそも、今回の劇場版まどマギで、最も「女神まどか」に対して涜神的だったのは、キュゥべぇでした。まどかの世界改変によって、魔法少女が魔女化しないまま消滅してしまう「円環の理」に探りを入れていたキュゥべぇは、ほむらに目を付ける事で、その仕組みを観測しようとしていました。もしその仕組みが掴めれば、再び魔法少女が魔女化する事で得られる「感情の相転移」エネルギーを得られると考えていたわけで、これはキュゥべぇ本人の口から語られています。
 そして、さやかや杏子、マミさんやまどかたちの活躍で感動的に見えていますが、ほむらが魔女化から救われて「円環の理」に組み込まれようとする瞬間、「まどかとずっと一緒」でいられるようになるあの瞬間は、「女神まどか」にとって実は一番のピンチであった可能性があります。キュゥべぇは正に、その瞬間を観測したがっていたからです。もしそうなれば、「観測できるものは干渉できるし、干渉できるものは制御できる」という彼の弁に従うなら、やがて「女神」としてのまどかが解体され、魔法少女が魔女化するかつての仕組みが復活してしまう、かもしれない。
 ――以上の流れを把握できていないと、ほむらが何をしたのかを明確に把握する事はできません。


 ここでほむらは、とんでもない大逆転を起こします。
 まどかによる救済を拒否し、自らのエゴイスティックな感情をフルバーストして「女神まどか」から「生身のまどか」だけを引き剥がし、絶望も救済も踏み越えて、激情だけで魔法少女の軛を克服してしまうのでした。本人いわく「愛」によるそのエネルギーたるや、あのキュゥべぇをして制御や利用を断念させるレベルという(笑)。
 しかし強調するべきなのは、このほむらの叛逆によって、「女神まどか」の「円環の理」はキュゥべぇによる解体から逃れる事ができたのだ、という事です。


 そしてさらに重要なのは、悪神と化したほむらもまた、まどかとは違う形で魔法少女たちを救っている事です。実際ほむらの行為を難詰した美樹さやかは、直後に志筑・上条と再び挨拶を交わせるようになった事で「幸せ」を感じているわけで。
 その後エピローグ的に描かれるさやかと杏子、マミと百江なぎさのカットからは、あまりバッドエンドな印象を感じません。むしろこれは、TV版のエンディングでは(当事者たちもファンも)望んで得られなかったハッピーエンドに極めて近いわけです。
 そう。実のところ、悪神ほむらは、善神まどかを補完しているのですよ。


 まどかの「円環の理」は、いわば魔法少女たちの死後、来世に対する救済です。それは強力な救いではありますが、しかし現に生きて戦っている魔法少女たちを直接に癒すような力があるわけではない。
 それに対して、ほむらは実は「現世利益」を行使しているわけです。ほむらが映画前半で造り出した「魔女の結界」にしても、ほむら個人がまどかに会うという願望を叶えただけでなく、マミ、さやか、杏子たちにとっても幸せを感じさせるものでした。
 さらにはTV版作中で魔女としてしか登場できなかったシャルロッテ百江なぎさまで、現世での幸せを再び謳歌できる身になっているわけです。


 来世での幸福を約束する宗教は強いですが、時に極めて禁欲的になりがちで、現世で降りかかる辛さや苦しさに対しては「とにかく信じろ」としか言えない場合もあります。
 現世利益は、愛情(仏教で言えば執着)や欲望とも絡んでくるため、時に善の枠からはみ出す事もあり、一神教の神としては救うのが難しい事もある。キリスト教圏では、そうした現世利益に対する民衆の渇望を、天使や聖母や聖人、時にはキリスト教の皮をかぶった(非公式な)土着信仰などが叶えてきたわけです。仏教であれば、元々ヒンドゥーの神だった密教神(不動明王など)がこれを叶えるとされます。


 そして、現世で満たされてしまう事は、来世に対する希求を薄めてしまう事もあり、また利益追求に走り過ぎてしまう事は堕落とも地続きです。結局、来世救済と現世利益は、相容れないもので。
 しかし救済される側にとっては、時にどちらも必要なものです。


 魔法少女のシステムが、彼女たちの希望と絶望の振れ幅に鋭く影響されると設定されている以上、来世救済のまどかの他に、今現在戦っている彼女たちの絶望を癒してくれる「現世利益」のほむらが存在する事は、実はあの世界観の安定に資する。
 意図的に悪を世界観構造に組み込む事で、かえってシステムの安定が保たれる事もあると筆者私は信じています。ほむらが選び取ったのは、正にそういう道でもあって、彼女はいずれまどかたちと敵対するかもしれないにせよ、その存在自体は実は魔法少女たちを裏で支える事ができる、堕落と情念の女神になり得るんじゃないかと。
 まどか☆マギカ』の世界は、一神教から二神教になった
 私は、そんな風にあの結末を見たのでした。



 ……以上、くだくだ書いてきた事をどう判断されるかは、読者の皆様に任せます。自分で書いててもオーバーだと思うしね(笑)。
 まぁ、まどかがほむらを「円環の理」に迎えに来る場面とか、あきらかにキリスト教の昇天や仏教の来迎といった宗教的イメージを重ねてきているわけで、自然と宗教学的な読み解きになった、という次第です。


 その他、雑感。


 なんというか、非常に現代のネット時代らしい続編だったなと、思ったりしました。魔女が魔法少女の変化した姿だとTV版で明かされた時、お菓子の魔女シャルロッテ魔法少女だった頃はどうだったのかの想像図みたいなのはPIXIVなどにたくさんあげられていたわけですし。また仲の良い杏子とさやかとか、魔法少女五人の共闘のような「夢の構図」もたくさん描かれました。
 今回の劇場版は、そういうのを上手く作中に取り入れた上で、しかし視聴者の二次創作的な想像力を上回るべく二重三重のどんでん返しを仕込んでいくという。ハードルの高い作品だったと思いますが、見事やり遂げたあたりは流石だなと、感心しきり。


 あと、ラストのキュゥべぇを見て、素直に溜飲を下げたのは私だけではないはずw
 ツイッターでは何度か書きましたが、キュゥべぇというのは「魔法少女を食いつぶすシステム」、システムそのものの擬人化(擬獣化?)です。生物は殺せても、「仕組み」は殺せない。だから、TV版でも今回の劇場版でも、数限りなく撃たれ潰されあらゆる方法で攻撃されているのに、キュゥべぇという存在は殺せないと描かれているのでした。
 そのようなキュゥべぇを克服するには、仕組みを改変するか(TV版のまどか)、仕組みをその枠組みごと逆に利用するか(劇場版のほむら)、しかないというわけで。
 それにしても、TV版からの蓄積あればこその、今回のほむらさんの大躍進、堪能いたしました。
 ツイッターでよく話すさわkさん(ブログ)は女神まどかの信者らしいので、私は悪魔崇拝ほむら教でも立ち上げようかなぁ……w


 とりあえず、そんな感じでした。一応、もう一回くらいは劇場で見てみたいと思っていますが……予定が空けば、ですね。今回は殴り書きながら、ここまでとします。


   追記
 映画館からの帰宅後、忘れずに「ゆっくり仁美」で検索をかけたことは言うまでもない(ぇ