『パンセⅡ』

パンセ〈2〉 (中公クラシックス)

パンセ〈2〉 (中公クラシックス)


すごくイライラしながら読んだ本。
キリスト教者に反感を覚えるのは正にこんなときで、
なんでこうなのかなぁ、といつも首をひねる。
大体、読者を理詰めで信仰させようとするほど、不毛なことは無い。
何か信仰に傾く強烈な宗教体験を持った(だろう)パスカルと、
そういった体験を持たない自分との断絶を思い知らされるだけだ。


断っておくと、科学者としてのパスカルは、
多分すごく優秀なのである。
それは収録された小品集の文章で大体察せられる。
その明晰な男が、信仰について語った途端、鼻持ちならないことを
書き始めるのだから、なんだかなぁである。
とりあえず一日本人として、「多神教信者をなめるなぁ!」と叫びたい(笑)。


普段は慎重でフェアなキリスト教者が、
信仰については排他的で、自分の意見を容易に曲げない。
なんでかというと、多分、全知全能の神様とつながっちゃってるから、
なのだろう。
一神教の神様は、絶対に正しいことしかしないし、言わない。
で、キリスト教者はその神様と宗教体験によってつながってたりする。
もし仮に別な宗教の人から「その考え方は間違ってるんじゃないの?」
と言われても――そこで神様から授かった考えを変えてしまったら、
つまり全能と信じてた神様がマチガイを教えた事になるわけで、
自分の信仰そのものを否定したも同然になってしまうという仕組み。
だから、構造的に、自分の誤りを認められないのだ。


多神教はそうではない。日本の神様なんて、率先して悪いことする奴すら
いたりするし(笑)。
仏教だって、仏様自身がまだ修行中の身、というのも沢山いる。
倫理や道徳における柔軟さでは、多神教の方が構造的に
優れてるような気がするのだけれど。


そもそも、キリスト教が無邪気に信じている永続性ってやつが、
どうにも共感できなかったりする。
その辺の違和感を言葉にしようとしていたら、
何のことはない、コミック版『風の谷のナウシカ』のラスト、
墓所ナウシカとの問答がそのまま自分の気持ちを代弁していると
気づいたりしてみた。
つまり、アレです。「ルワ・チクク・クルバルカはナウシカに従う!」(ぇ


ちなみに、Ⅱの方は日本人が読んでもかなりチンプンカンですが、
パンセのⅠは楽しく読めます。気の利いたアフォリズムが多いので、
もし読まれるのでしたらそちらを是非。