新訳Z第三部、見てきました


以下、ネタバレを多大に含みますので、未見の方はご注意下さい。
























 見終わったあとの、一番端的な感想……こんなに分かりやすい構図にしちゃっていいのかな、っていう。
 まあ言ってみれば、20年前の作品を引っ張り出してきて、こんなにまとまり良く再構築できるってのは凄いな、とも思えるのですが。同時にTV版Zガンダムの魅力の一つが、まぎれもなくあの混沌だったっていうのも事実なので。
 世間で否定的な感想が多いという話も聞きますが、わからないでもない。




 どこが「分かりやすい構図」なのか、って話なんですが……。
 要するにこれ、《男》と《女》の対立図式の話だよね、っていう。


 カミーユが、いわゆるハイパー化で倒す人物は二人。ヤザンシロッコ


 まずヤザンから見て行きましょうか。
 よく、ネット上などでヤザンを「オールドタイプ最強」と評したりするケースがあるようですが(カミーユ、クワトロなど宇宙世紀有数のニュータイプを撃墜寸前に追い込んだから)、これはいかにもゲーム的な、パイロット能力を安易に数値化した結果なんだろうなと。今回の新訳第三部で、あらためて実感させられました。


 ヤザンカミーユやエマたちを翻弄できたのは、彼が「他人の死を感じない」男だったからです。
 といっても、別にヤザンが何か精神的な欠陥を持っているわけではない。嫌な意味で、「軍人」だっただけです。
 戦争中には、自分が落とした敵機を「撃墜スコア」として競ったりするという。そこに乗っていたパイロットの人生がとか家族がとかはもちろん問題にならなくて、単に「勝利の勲章の数」です。
 ある意味当然で、いちいち死んだ人間の事を考えてたら戦争なんかできない。


 けど、ニュータイプたちは、そしてアーガマクルーは、その死と向き合ってしまう面がある。
 アーガマパイロットたちは、敵機を落としても笑わない。
 ヤザンは笑います。ラーディッシュを沈めて愉快そうに笑っていた。
 そういう違いがあるから、戦場という場において、ヤザンのような男はニュータイプの天敵のようなものなのでしょう。


 カミーユはこの男を前に猛ります。「生命はこの宇宙を支えているものなんだ!」
 命が失われていくという事を実感しなかった、ゆえにヤザンカミーユに敗れるという構図。


 もう一人、シロッコです。
 彼のイメージも、この劇場版Z第三部でだいぶ明確になりました。
 レコア・ロンドに、彼は「権力が手に入ったら女を必要としない男」と評されます。
 そしてカミーユに「脇から見ているだけで、人をもてあそんでいる」と指摘された時に、「私にはその権利がある!」と言ってしまっています。
 その権利の出所は? ……明言されてませんが、「天才だから」かな(笑)。
 結局彼は、「そんな風に人を道具に使うことは、一番やっちゃいけない事なんだ!」と言うカミーユによって敗退することに。


 二人とも、ある意味で非常に分かりやすい、嫌な意味での「軍隊の上官と兵士」。
 理詰めでの理想を考えるあまり「生の感情」を嫌うエリート的な指揮官と、戦いの場において熟達した技能で生き残り続けたあまり「人の死=自分の勝利=愉悦」になってしまった兵士。
 そして二人とも、「女を必要としない」、非常に男性的な性格付けです。


 で、私が「ん?」って思ったのは、そうした敵に対する分かりやすい勧善懲悪みたいになっちゃってないのかな? ってことでした。
 もちろん過去のガンダムにおいても、終盤の「奇跡」が起こる時には、二つの相容れない論理がぶつかって、片方が片方を寄り切ることで決着がついていました。
 だから今回が特別ってことはないのかもしれないけど……やっぱり、TV版でのあの混沌が、こうもすっきりしちゃうんだぁ、っていう感慨がありはしました。



 もちろん、シロッコを葬る最後の一言が「女たちの元へ帰れ!(うろ覚え)」だったりするのは、ああ凄いなと思いつつ。
 このセリフ、何通りにも解釈できるんだよなぁ(笑)。



 もう一つ、印象深いシーンと言えば、劇場でカミーユが言うセリフが、「本当にいけないのは、地球の重力に魂を引かれた人間たちだ!」から、「地球の大きさ、重さを実感できないあなたたちだ!」に変わっていたことですね、やはり。 


 実は、TV版Zガンダムで一番個人的に違和感というか、「いやだなー」と思っていたのは、カミーユが主義者だったことなんですよ。
「本当にいけないのは、地球の重力に魂を引かれた人間」。つまり、カミーユはオールドタイプを否定するニュータイプ主義者、スペースノイド主義者として戦ってたのかよってことです。
 元々、カミーユを導いていたクワトロ自体が、ファーストの頃からそのケがあり、逆シャアではその過激派ぶりを遺憾なく発揮したあのシャア・アズナブルです。そんな彼に導かれたカミーユも、だからエゥーゴ主義、ニュータイプ主義という思想で戦っていた。


 私ね、極端な話、TV版カミーユが最後に精神崩壊したのは、こういう主義で戦ってたせいだと思ってるんですよ。
 ○○主義っていうのは自分の立場やアイデンティティを立てるには便利だけど、簡単に人をあっちとこっちに分けてしまう。その主義で戦争やった結果どうなったかは、二十世紀の歴史をちょいと覗いてみれば嫌ってほど結果が見られます。某すたーりんさんとか、某ひっとらーさんとか。何万人殺したんだよって話。


 シロッコが人をもてあそんでいる事を指摘してウェイブライダー特攻したカミーユは、自分自身もまた主義者として戦ってたって事実との矛盾で引き裂かれて破滅しちゃったのかもなぁと、ぼんやりとそんな事を思っていたり。


 今回のカミーユは、主義では戦っていない。
 そして、ミネバなど立てたところでどうなるものでもないだろうに、「ザビ家の血筋」というバケモノのような名前を立てて躍起になっているハマーンや、生の感情を出さないように理想家の傍観者として戦争やっているシロッコたちを、明確に糾弾しています。
 地球の「大きさ」と「重さ」。これはつまり、スケール感を持てってことだよね。
「ザビ家の血筋」なんてものは実体がないから、大きさも重さもない。そんな大きさも重さもないもののために戦うべきじゃない……って解釈したら、さすがに曲解すぎるでしょうか。


 どうあれ、カミーユは生還しました。
 主義ではなく、等身大の人間の感覚で戦ってきたからこそ帰ってこれた、私にはそう見えました。
 ダカール演説のエピソードが削られたのも、今回のカミーユたちの戦いの理由が「主義」ではないからというのもあるでしょう、多分。
 この結末自体は、なんとなく予想ついてました。私は。
 ∀を経た現在のガンダムなら、大体落としどころはこの辺だろうなぁっていう気はしてたし。少なくとも、もう一回精神崩壊ってことはない、くらいのことは富野監督のインタビューとか読んでれば予想くらいつく。
 ファと抱き合うラストも、第二部での初々しい、可愛いカミーユが迎えたラストなんだと思えば、なんとなく納得できたりw



 しかし同時に、ブライトはカミーユたちの会話を、微笑ましいものとして見はしつつ、「子どもの言うような事を聞いていられるか」と突っぱねます。


 これは、やっぱり現状認知なんだと思う。


 私は、ぶっちゃけ今の時代に生まれたことを、不幸だと思ってます。
 現代の一番の不幸は、「人間は結局、自分の手の届く範囲の中に専念して生きるのが一番幸せなんだ」って気づいても、そういう風に生きさせてもらえないところにあると思う。
 たとえば年金ひとつ取ったって、日本総人口一億数千万という規模の人間のことを考えないと破綻して駄目になる。有限な石油資源の問題とか、なんだとかかんだとか。
 人間って極論すれば、自分の手の届く範囲の外まで考慮に入れて考える機能なんか持ってないと私は思ってるんですが(笑)、にも関わらずとんでもない大規模なことまで考えておかないと生きていけない、それが我々現代人の不幸だと思う。


 だから、思念でも幻でもない実体のファを抱きしめて喜んでるカミーユを見て微笑みつつも、あっちの電話にもこっちの電話にも出ていらいらしているブライトのように、ぐちゃぐちゃになって生きていくしかないんだよね、と。
 あのラストは、そんな現実認知に見えた。


 エンディングテーマの「Dybbuk」でのフレーズ、
「まだ、貴方は変われないから……さあ目を閉じて」
「まだ、私は離れないから……さあ、抱きしめて」
「その祈りは叶わないから……さあ、手を伸ばして」

という、ハッピーエンディングにそぐわない歌詞の私なりの解釈も、上記の「現代の呪い」の事を言ってるのかなという。


 そうでなくても富野監督、ファーストガンダム以来、手放しのハッピーエンドには相当臆病というか慎重になっているんじゃないかと思うし。
 視聴者がただ「なんだ、要は身近の実体のある体を抱きしめてりゃいいのね」ってだけで納得して終わり、になってもらっちゃ困るぜっていう意思表示のような気がしたりするのです。


 まあ、多分に深読みしすぎの感もないでもないですが(笑)。




 あと、これは少しは自慢してもいいかなって思うんですけど。
 結局新訳Z、私の「機動戦士ガンダム0092 球形の心に抱かれて」とほとんど同じようなところに落ちてきてますよね?(笑)
 たとえば、ラストのファを抱きしめてのカミーユのセリフですが、拙作でエリィをMAから救出して抱きしめたティルス君の心情描写に、ほとんど同じ内容のものがあります。もし保存されてる方がいたら確認してみてw
 また、最終決戦でうちの主人公と敵役がやってた議論も、上記TV版と映画版カミーユ比較とほぼ同じ趣旨のものだったと思いますし。


 だから、まあ、∀を踏まえて宇宙世紀の、それもZをやるなら、この辺に落ちてくるんじゃないかなぁと思いながら書いていた我が「0092」の地点に、新訳Zもほぼ過たず落ちてきたと勝手に思って喜んでる私がいたり。


 だから、これは総論としてですが……「球形の心に抱かれて」を戦い抜いた一作者としては、落ちるべきところに落ちてきたという感覚がどうしてもあって。
 従ってことさら感動したとか、逆にものすごく反発を覚えたとかいうこともなく。
「うん、やっぱここに来るよねぇ〜」っていう感想なのでありますよ。


 そういう意味では、傑作とも駄作とも言いがたい。私にとっては。