平均化に抗うもの?
先日ちょっと話題にした宮内勝典先生のちょい昔の小説、『金色の虎』を現在読んでいるのですが。
作品としての感想は後日読み終えてから書きますが、とりあえず今、かなり違和感を感じながら読み進めています。
物語は……主人公のジローが、ヒマラヤの行者と語り合ったり、新興のセックス教団に飛び入りで入ってみたりして、現代と宗教の関係みたいなことを考えていくというような、そんな感じの話。
けど、なんていうか、読んでいてしっくり来ない。自分の現在の問題意識に響いてこない。そう思ううちに、以下のような文章にぶつかりました。
世界はもう隅々まで画一化されてしまったと思い込んでいたけれど、まだ、ヒマラヤの洞窟で暮らす行者たちがいるのだ。なにを考えているのか、なにを目ざしているのか肉眼で確かめてみたかった。(『金色の虎』61ページ)
この部分を読んで、違和感が決定的になった。
確かに世界は画一化されているし、その弊害もある。
けれどその問題点は、はたして「ヒマラヤの洞窟で暮らす行者」と対置されるようなものだろうか?
私たちは今、たしかに自分のオリジン、根っこの部分を忘れかけてはいる。根幹を知らないまま、アメリカ的な制度に乗って生活していて、それゆえの不安定や弊害を抱えつつ暮らしてはいる。
けどだからって、昔に戻る、なんていう解決方法はないよね、という事は、友人ともよく話していたのですが。
日本人が今さら、着物暮らしの生活に戻れるか。和食のみの生活に、農耕民族の暮らしに戻れるかっていったら、現実問題として無理なわけです。
これから企業の国際化なんてさらに進んでいくに決まっているんだし、日常生活で英語が必要になる場面だって、増えることはあっても減る事はない。そんなのは分かりきったことだ。
だから、「世界が画一化しているのは問題だ!」と叫んで、それで日本の伝統芸能とか引っ張り出してくるのも、無駄とは言わないけれど、せいぜいが延命処置くらいにしかならない。
同様に、ヒマラヤの聖者たちも、そりゃ偉いし、彼らの哲学が私たちの人生にプラスになることも大いにあるだろうけれど、だからって「世界の画一化」に抗えるものだとは到底思えない。
じゃあどうするのか。
このままグローバリズムとか言いつつ、どこへ行っても同じ町並み、同じ食べ物という流れが際限なく加速していくのか。
……けど、人間って、そんなのに耐えられないよね、きっと。
画一化の流れは止められなくて。その流れの中で、オリジンを得る方法は?
画一化されたコードを使って、自分たちの根っこを表現できないのだろうか?
……そう考えた時、突拍子もないようだけど、それを実現しているのが、今私がハマっている「東方シリーズ」っていう同人シューティングゲームなんだよな、と気づいたのです。
この私がハマる以上、そこにはただ単に面白い以上の何かが必ずあると、そういう意味で私は自分を信用しているのですが。ああ、そうだったのかと思ったのでした。
画一化された西洋音階を使って、「日本」を表現する。
画一化されたプログラム言語を駆使して、「日本」の空気を伝える。
そういうことが、東方というゲームではかなり高いクオリティで出来ている。
お琴とか尺八とか和太鼓とか、そういうものを持ち出さずに、日本的な音楽を作り上げるということ。
結局、こういう方法しかないだろうという事になると思うのですよ。
確かに難しい。半端じゃない洞察力がいるでしょう。表現しようとする自分たちのオリジンについて、きちんと深く理解していなければ出来ない芸当でもある。
けれど、もし実現できれば、逆にこれは武器になる。
コードが画一化されているという事は、逆を言えば「そのコードを共有する多くの人たちに発信できる」という事です。
実際、東方シリーズは、日本の一個人が作った同人ゲームであるにも関わらず、多くの英語圏のプレイヤーも獲得している。
http://www.pooshlmer.com/touhouwiki/index.php/Touhou_Wiki
また、作り手のZUN氏は先日、スウェーデンだかどこだかの雑誌の取材も受けたとか。
そうして見た時に、やっぱりこのゲームの作り手が示している方向に行くしかないんだろうな、と改めて思うのです。
……まあ、とか言いながら、英語もろくに喋れないんですけどね。