ネコソギラジカル・上

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)


 私にとって、西尾維新は「ハッタリの人」というイメージだったりします。


 たとえば、作中にズバリ「人類最強」っていう人が出てくるのですが(笑)。
 で、作中人物が全員、そのひと(哀しい川が潤うと書いて哀川潤という名前)のことを最強として認識し、そのように接してるわけです。読者も、それを自然に受け入れていたりする。
 ……しかしよくよく、冷静に考えてみると。彼女が作中で実際に凄かったシーンって、この巻以前の六冊の中で、一回しかなかったりする(しかも、そのシーンは正直けっこう微妙)。
 あとは全部伝聞とか、地の文での誘導その他によって、いつの間にかその哀川っていう人が「最強」であると認識させられている。
 全体的に、西尾氏の作風はそんな感じだったりします。仰々しい二つ名や修飾語をこれでもかと並べるんだけど、そんな二つ名で呼ばれるほどの内実をキャラクターが実践して見せてくれることはなかったりする。
 主人公の二つ名は「戯言遣い」と言うのですが、別に作中で明示的に「戯言」を「遣」って見せるというほどのシーンはない。自分の思考の最後に「戯言だけどね」と付け加えて、自己言及を確定しないまま宙吊りにする行動が目立つぐらいで。


 ……で、こういう「ハッタリ」がマイナスかと言ったら、むしろこれってなかなか大した力量なんじゃないかと思うわけです。ネーミングセンスとガジェットだけで、内実が豊富であるように見せるテクニックとしては、かなりレベル高いものを持っているし。
 エンタメとしては、これで正しい。


 ただし、これは諸刃の剣で、読者が熱狂している間はいいけど、ハッタリに醒めてしまうと途端に読むのが辛くなったりもする。
 実際、この前の作品まではそれなりに楽しく読んでいた私ですが、間をあけてしまった今作は、冷静に読んでしまうせいか、けっこう辛かったです。


 特に、前作までよりも一層、自己言及が多い作品でもあって、なんていうか、エヴァンゲリオン碇シンジの一人称小説を読まされているような(笑)、そんな感じ。厳しいってこれ。


 そんなわけなのでした。
 よっぽど気が向いたら続き読むけど……どうしようかなぁ。