リーンの翼を振り返りつつ


 とりあえず、視聴中に感じた違和感の原因は、日をおくことで自分の中で大体つかめました。


 結局、特攻隊員であるサコミズ王と、現代の若者でハーフのエイサップ鈴木との絡みで展開される終盤の構成が、「俺ら戦中派世代のこと分かってくれよ」っていう無意識のメッセージになっちゃってるんですね。
 たとえば第五話「東京湾」で、セリフの細部はうろ覚えですが「沖縄に背を向けて行かねばならん辛さを分かるんだよ!」というようなことをサコミズ王は言います。これは明確に、『リーンの翼』を見ている若人に対して「分かれ」というメッセージです。
 どうもね、そういうのが面白くない。


 なんでかって、そりゃあんな程度の描写で、平成世代の我々に分かれっていうのが土台無理な話だからで。
 一時間前後かけて原爆資料館を歩き回ったって、戦争体験者の話を聞いたって、その他映像によるドキュメンタリーを見たってなんだって、伝わってくるモノは微々たるものだっていうのに、三十分番組のアニメのうち数分を費やしたあれくらいの映像(それも断片ばかり)では、当時を全く知らない我々に伝わることなんて高が知れてると言わざるを得ないでしょう。


 富野監督が、「分かって欲しい」と思う事自体は、その気持ちはよくわかるわけです。戦争を知らない世代の戦争論があちこちで噴き上がっている現在、あの戦争を知っている人が「発言したい」欲求を持つ気持ちは、そりゃ想像がつきます。
 けど、そういう気分はよほど周到に表に出していかないと、作品の質を落としてしまう。無意識に出てしまうようだとかなり厳しいわけで。
 実際、終盤の演出、展開のすごさに「流石富野監督だなぁ」と思いつつも、私は結局「わからねぇよ」と思って見終えたわけで。置いてけぼりにされた感が強く残りました。


 主人公のエイサップがサコミズ王に対して、「力を過去のために振るっては駄目だ」「力は未来に向けて使うものです」というようなセリフが出てきて、それは素直に同意できるし同調できるんですよ。このセリフを言わせただけでも、富野監督は凄いのかもしれない。
 けど、やっぱりそれなら、最後はエイサップがサコミズ王を討ち果たして終わる、という話にすべきだったんじゃないかな、とも思うわけで。
 サコミズ王が散りいく命に涙できる人だという事を理解した上で、それでも王を殺して止めるという話に。
 そうすれば、『逆襲のシャア』を見た時の感動――どうも作り手富野監督はシャアの言う「粛清」の方に肩入れしてて、そっちが正しいと思ってるんだけど、最後の理性であるアムロがギリギリでアクシズ落としを阻止するという、ギリギリのせめぎあいの感動――のような、富野作品ならではの感興を得て見終えることは出来たと思うのですけれど。
 そうならなかったために、「聖戦士」って言われながらエイサップ君は結局最後まで、主人公らしい事をあまり出来ないまま終わっちゃったわけです。


 アニメを見ている大半の「戦争を知らない世代」が、エイサップの活躍できない状況の中で取り残され、結局サコミズ王(=戦中派世代の気持ち)だけが前面に出て終わっちゃった。それが、私がこの作品を見て「微妙」と思った部分なのでしょう。


 十一月五日、富野監督の誕生日を祝って『リーンの翼』の映画館での上映があったそうですが、そこでの富野監督の様子は以下の通りだったそうで。


http://char.2log.net/archives/blog1231.html


 ここで富野監督が、「バイストン・ウェルものでなくてサコミズ物語になってしまった」と言い、再三しつこいくらいに頭を下げてらっしゃるのは、監督も上記のような部分に気づいてらっしゃるのだろうな、という風に私は読んでいたのですが。
 まあ、直後に、戦争シーンについて「特に思い入れはありません」って発言してますけど。


 とりあえず、私の感想としてはそんなところですね。
 無論、何度も繰り返しているように画面作りは本当に素晴らしいものだと思います。そういう意味で、見て損になるものじゃないとは思います。
 そんな感じで。