リーンの翼とガンダムSEED


 『リーンの翼』における若者二人、ロウリ(漢字変換めんどい)と金本について、ネット上での感想をまとめると大体「嫌な奴だった」「あれはロボットアニメのカタルシスとして殺しておくべき」「主張が表層的」といったような文章をよく目にしたわけなのですが。


 確かにその通りで、見てて凄く異質感があるというか、印象を整理するのにすごく戸惑うキャラなんですけど。それでも彼ら、最後には生き残るわけです。


 で、思うに。彼らの主張が表層的なのは、言うまでもなく現在世間で出回っている「反米論」が表層的である、という富野監督の印象が反映されていると見るべきでしょう。
 そう考えると、彼らが最後に核兵器を、大した韜晦もなく無邪気に持ち出して東京に放とうとする姿から、私は一つ連想してしまうのです。
 『ガンダムSEED』のこと。


 以前、「ULTIMO SPALPEEN」さんというHPで『ガンダムSEED』の感想が挙がっていたので読んだ事があったのですが(今は移転されて該当記事がちょっと見つかりませんけど)、


http://willowick.seesaa.net/


 こちらのサイトさんのSEED感想は、安易な批判に流されず、SEEDからそれを作り、受容した現代を読み解こうとする感じの非常に内容の深いもので。
 そこで、核兵器を「持ってて嬉しいコレクションじゃない」と言い、実際に大した反対もないまま核を撃ってしまった作中での流れに対して、「これは現代の作り手も受け手も、そういう場面になれば核を撃つだろうと認識しているという事だ」というような発言をしていて、読んでいる私の背筋を寒くさせたのでした。


 『∀ガンダム』において、その前半で核の問題を大きく取り上げ、必死にそれと向き合ったであろう富野監督にしてみれば、その後のSEEDが「この程度の」おざなりな核兵器認識しか持っていない事に、ある種の衝撃を感じただろうことは、想像に難くないだろうと思うのです。
 そのショックが、『リーンの翼』に大きく反映されていると見ることは、そんなに的外れじゃないと思います。


 ですから、ロウリと金本というキャラクターは、ある意味で『ガンダムSEED』の監督である福田夫妻であり、それを大した違和感も感じずに見ていた若い視聴者のイメージをダブらせているのではないか、と。
 要するに、富野監督には私の年代や、私より若い世代が「ああいう風に見えている」のではないかと。
 これはちょっとショックです。


 しかし、『リーンの翼』におけるロウリと金本の描写は明確に、「お前らその程度の認識だと、勢いにのって核使っちゃったりするぞ本当に」という富野監督の忠告が含まれているでしょう。
 逆を言えば、富野監督が結局この若い二人を殺せなかったのは、そうする事で「近頃の若い連中はわからん」「死んでしまえ」という構図になってしまうのを避けるためだったのだと思います。そういう形で分からない連中を排除するという思想を、富野監督という人は実に慎重に今まで避けてきた人だったからです。


 そういえば、劇場版『Zガンダム』のテーマは「世代交代というのは、容認せざるをえない」という事だったと何かのインタビューで富野監督は答えていたと記憶します。
 この『リーンの翼』もまた、「世代の問題」という構図を濃厚に持っています。
 ある意味で、『SEED』以降の監督の関心がそちらを向いているのかもしれません。