老子
- 作者: 福永光司,吉川幸次郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1997/01
- メディア: 単行本
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私のハンドルの一つ、Taoは道家、老荘思想の「道」の英語読みTaoから取っているわけで。
そういう意味では、なんで今さら読んでるんだって感じの『老子』です。
さすがに書き下し文と訳は、広く過去の文献等にあたりつつなされたもので信用おけそう。
ただ、解釈がちょっと力入りすぎてるというか、ちょっと本文が言っている以上の事まで深読みしてしまっているきらいがなくもないので、んー、もうちょっと淡白に原典とその訳だけ載せたような本で読んだ方が良かったかなという気もしなくもないですが。
『論語』との対比とか、詳しく言及されてるしこれはこれで。非常に有意義だったかと。
ただ、なんかイマイチ、しっくり来なかった部分はあって。
今年のはじめ頃に『論語』を読んだ時にはすごく納得したし感心したし楽しかったのに比べると、どうもピンと来なかった部分はありました。
例によって個人的な感想ですが、老子より孔子の方が好きなのかもしれません。
聖人君子というと、お堅い人という印象になるわけですが、実際に『論語』の中で語られている孔子はそんな四角四面な人というわけでもなく、弟子に言い負かされて「これだから口の達者な奴は嫌いだ」なんてふて腐れてみたり、皮肉を言って知らん顔したり、とても表情豊かです。
そして、正論を言いながらなかなか受け入れてもらえず、それでも一途に礼の道を説き続けるというような、なんか不器用な真面目さがあって、そこが好感なんですね、私にとって。
老子はというと、テキストの性質もあってそうした人間っぽい部分が伝わらず、また言っていることも斜に構えているというか、割りと老獪な感じ。
思想としても、「道」という論理も人間の認識も超越した大いなるものを掲げて、それを軸に泰然とした姿勢で世の中に当たっていくというような感じで、孔子にあるような愛すべき真面目さみたいなのはあんまりない。むしろ不敵な、食えない爺さん、みたいな(笑)。
たとえば彼の農本主義的な部分とか、ひねくれた部分なんかは中学高校時代の私にとっては気持ちよく感じられたかもなぁ、とは思うのですが、今の自分には孔子的な不器用さの方が心地よいみたいで。
まぁでも、これはこれで面白い感じです。
思うに、これから社会と取り組んでいく若者には、孔子の思想が似合って。
ある程度歳を重ね、人の上に立つようになった権力者には老子の思想が似合うのかもな、とか。
もちろんこれは、本人たちの考えるところとは全然逆なんですけれども(孔子は社会の末端にいる事を嫌って、君子として人の上に立つべきと主張してるし、逆に老子は一般庶民の視線で、小規模なコミュニティによる純朴な生活こそあるべき姿と論じていたり)、実際にはそこは反対の方が良いような気がしたりするのですね。
若いうちは不器用なくらい一途に理想を追っかけて、人の上に立ったら自分たちの立脚している都市的、中央集権的、消費中心のあり方に疑念を持ちつつちょっと老獪なぐらいに振る舞う、みたいな(笑)。
まあ、こんなのは戯言ですけど、何となくそんな感じで、印象が正反対だったのは面白かったかな、と。