GUNSLINGER GIRLについてとか


 二回ほど、h-nishinomaruさんの記事に反応する形で記事を書かせていただいたのですが、その件に関しては一応、終息という形にさせていただくことにしました。
 理由は私の不勉強。先方の議論の基盤に私がついていけなかったため、です。
 やはり論を進める上で、先人の優れた文章や、先人が提示した概念・言葉を使うのは非常に有効です。私もよく引用などは行います。ただその結果、たとえばその記事の読解に、マルクスの著作や思想への理解が不可欠な形になってしまうと、私のような浅学の徒は手を引っ込めざるを得なくなってしまうと言いますか……修行してきます、という感じで。
 分からないままズレた返答をして、先方を煩わせるのもなんですし。


 まあ、「宗教は民衆の阿片である」なんてのは有名なフレーズなんだから、それくらいは解せろよ、って話なんですが(笑)。
 昔と違って、今や私も単なるエンタメ読みでしかないのでね……文学思想関連はつまみ喰いのまま終わってます。ヒロシです(古


 ところで、その後h-nishinomaruさんは以下のような記事を書かれています。


いつのころから新発売3――アニメファンは義体なのか?
http://d.hatena.ne.jp/h-nishinomaru/20070516


 ガンスリにおける虚構とリアル、という辺りの問題で、確かにこの作品はその点が歪といいますか、あちこちで議論を呼んでいる作品ではあります。


 例えばこの辺。


拝啓 手塚治虫様 第19-1回 「GUNSLINGER GIRL」試論1
http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/hyougen/monogatari-19-1.html


Something Orange 「GUNSLINGER GIRL」論
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20051229


 いずれも、鋭い視線で作品に切り込んでいて、一読の価値ありと思います。


 で、h-nishinomaruさんがガンスリについて書いているのを見て、そういえば書こうと思いつつ書いていなかった自分のガンスリ関連の私見があったのを思い出しました。
 良い機会なんで、書いておこうかなと。


※以下の記事は、h-nishinomaruさんの記事へのレスではありません。直接関係のない、ただの私見です。


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GUNSLINGER GIRL 8

GUNSLINGER GIRL 8


 以前もちょろっと書いた気がしますが、やはりこの作品について語る時、そのモラルについて言及されるケースが多いようです。
 いわく、「美少女萌えのために、作中キャラたちを暗殺者に仕立て、その他あらゆる不幸な目に合わせるのはモラル的にどうなんだ」といったことや、あるいは上記海燕さんの記事(Something Orange内の記事)にあるように、少女たちをそのように暗殺者にしている「社会福祉公社の男達」が悪者として描かれてない部分など。
 そうした部分を批判する記事が多かったりします。


 で、私はそこに違和感を感じているというか、なんかこの作品の本質をつかめていない気がするよな、と思うわけです。


 確かに、例えば作中のジョゼさんなどは、少女を過酷な暗殺の場に駆り立てているにも関わらず、良心をもった人物として肯定的に描かれています。そこを批判するのもわからなくもない。


 けど、作者がただ、「キャラ萌えのためにやってる事を自己弁護しているだけ」なのか、と言われると、なんか違う気がするんですよね。
 なぜなら、そういうモラル的な問題については、作中人物たちも同様の困惑をもって言及しているからです。ジョゼたちの同僚であるプリシッラや、あるいは社会福祉公社の外の人間たち、外部の人たちの目線は、少女を暗殺に使う部署への不信感や嫌悪感を割りとむき出しに接しているように描写されていますし。


 また、ジョゼの兄でリコのフラテッロ(担当官)であるジャンなどは、むしろ露悪的に描かれている節すらあります。
 そこに確かに歪みはあるのですが、それはただ「モラルに反する」の一言で片付けてしまって良いレベルの話なのか。
 私は、違う視線でこの物語に接しているのですね。



 あらかじめ言明しておきますが、私はいわゆる「ロリコン」にカテゴライズされる人種です。
 まあ、このブログを以前から読んでいる方にとっては、わりとおなじみの自虐発言でしょうけれども(笑)。
 未成年、とくにローティーンの少女に対して、性的欲求を持つわけではありません。ペドフィリアではないのですが、女性に対して関心を持つのに、成人女性に対する関心が希薄で、どうもそうした十代前半の少女に目が行ってしまう、という程度にロリコンです。
 なので、この作品の担当官たちと、変な部分でシンクロしてしまうのですよ。


 上記の海燕さんのブログで、このような疑問が提示されています。

 また、義体化少女たちは精神的に不安定でときに突発的な行動をとる。なんのためにわざわざこういったあやういこどもたちを使うのか、説得力が薄い。

 それをいうなら、なぜ義体化兵士は少女だけなのか。


 ごもっともな疑問。成人した者を使った方がよほど良いはずなのに。


 けれどこの疑問は、ロリコン的気質を持った人間の、
「成人女性に関心を持ち、性的欲求を向けた方が良いはずなのに」、そうならないという困惑・苛立ち・自虐と重なってくるのですよ。
 だってそうでしょ? 成人女性を好きになれば、別に世間から変な目で見られることもないし、生物学的にも子供を生めるわけで生産的だし、自分が恋愛するにも支障をきたさないし、良いことづくめです。
 なのに、成人女性を見てもイマイチ自分の中で気分が盛り上がらない。これは割りと、本人にもどうしようもない領域です(まあ、私は幸いにも症状が軽く、成人女性でもそこそこは盛り上がれるのですが。中にはまったく全然だめ、という人もいるでしょう)。
 当然ながらロリコンな人たちにも理性はあるわけですよ。なので、自分の少女愛好趣味(=暗殺に使う義体がなぜか年端もいかぬ少女であるという部分)と現実との間で折り合いをつけなきゃならない。義体の担当官それぞれが、それぞれのスタンスでこの現実に対処しているわけで……。


 担当官たちの苦悩は、こうした(一部の)読者の心情とシンクロしています。
 そこを、作者はかなり客観的に把握して設計しているように思えるのですね。私が『GUNSLINGER GIRL』を好んで読み続けているのは、その部分を評価してのことというのもあります。
 だって、ただの萌え話にしては、大人たちの描き方が緻密すぎる。この話、ほとんど話の主題は担当官たちじゃないですか。彼らの心情や過去に一番筆が、エネルギーが注がれているように私には見えます。
 また、この構図は少女たち以外の現実がリアルに描かれていればいるほど強化されます。テロリストたちの描写がリアルであればあるほど、それとぶつかる少女という違和感・困惑感が強化されるからです。
 そこまで計算されている気がするんですよね。私は。


 また、だからこそ、私は8巻でのエピソードに凄く感動したんですよ。
 義体も二期目に入り、少女の年齢も少し上がった。で、ペトラとのやりとりの間で、「条件付け」という名の洗脳ではなく、等身大の、対等な立場での恋愛というのをぶつけられて、担当官自身が変わって行くわけです。


 まあ、それこそ現実逃避なのかも知れないけど(笑)。
 でもこれ自体が、少し前進した、っていう表現じゃないですか。これに感動できるなら、ロリコンを脱却する、もしくは緩和できるチャンスはあるんだと思う。
「最近、ヘンリエッタの出番少ねぇなぁ」としか思わなかったら、わりと絶望的かもしれない(笑)。


 そんな、穏やかな方向付け程度の意味は、持てる作品なんじゃないでしょうか。


 とにかく、単にモラルを引き合いに出して、通り一遍に批判しただけで終われる作品とは私は思っていないのですよ。確かにインモラルな内容だけれども、それと正面からぶつかる覚悟を決めた作品であるように思えるので。
 とりあえず思ってることを書き散らしてみた。