ゲーム的リアリズムの誕生



 これは非常に面白かった。
 少なくとも、私と似たような問題意識や関心を持っているゆえにこのブログを読んでいるような(奇特な)人は、これは絶対読むべきかと思った。あと、ライトノベル作家志望の人も絶対読むべき。
 これは良い作品です。


 もっとも、私がこうした評論関係の本を指して「良い」という場合、それは論理の整合性とか発展性とか、そういう要素でもって言っているわけでは全然なく。
 ただ、私自身が今まで薄々感じながら、モヤモヤして掴みきれなかったものをスパっと説明しきってしまうような、そういう本に出会った時に「良い本」「良い評論」と言って褒めるわけで。
 たとえば前作『動物化するポストモダン』との論理的整合性がどうとか、そもそもポストモダンという言葉の用法がどうだとか、そういう部分はすべてスルーしています。
 ただとにかく、アニメ、マンガ、ライトノベルなど主にオタク層に受容されている作品・コンテンツと、昭和までの文学作品や一般文芸作品との間に私がなんとなく感じていた溝を、「アニメ・まんが的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」と「自然主義的リアリズム」に分けて、「マンガやライトノベルが人間を描けていないのではなく、そもそも元になるリアリズムが違っているのだ」と看破したところが、見事なわけで。


 とにかくこれを読んで、何故私自身が、大学で講義を受けた純文学の作家さんに見切りをつけ、ミステリサークルからも離れてライトノベルなんぞに行く事になったのか、その理由がハッキリ手に取るように分かった。
 他にも、この本一つから、奈須作品のこととか京極のこととか、自分が今まで出会った作家さんについても新たな知見のもと気付いた事がたくさんあって書ききれないくらい。とにかく、私がちょうど高校から大学、そして今にかけて、一つのパラダイムシフト(?)に立ち会っていたんだなぁと、感慨深い気持ちになったりした。


 また、この本において、びっくりするくらい清涼院流水が大きく取り上げられているんだけれども(笑)、読み進めるうちに……その荒唐無稽さにあきれ返りつつ、どこかで彼にシンパシー感じていた(あるいは現在進行形で感じている)自分を思い出して改めて苦笑してしまった。
 既に世の中には膨大な数の物語があって、どれだけ注意深く話を組んでも、過去の何かの作品と似ないわけにはいかない。自分が語るような物語も、既にもう誰かしらが必ず語っている。そんな閉塞感、絶望感から逃れようと、「大説」などと掲げて、「読む順番によって結末が違って読める連作短編集」とか「探偵が30人以上出てくる探偵小説」とか変な試みを次々やっていく。
 滑稽なんだけど、気持ちは確かによくわかるんだよね。
 私も最近、「味方側の特殊能力者だけで50人以上出てくる能力バトルもの書きたい」とかミクシィで呟いたりしていたわけですが、心境としては清涼院のそれとあんまり変わってないわけで。
 明らかに作りは粗いんだけど、確かに清涼院の作品って、時代の空気を先取りしていたのかもしれない。実際、講談社ノベルス新本格ミステリの本拠地からライトノベル方向にシフトしていく、決定的な転換点を作った人なんだし。


 そんなわけで、非常に面白い本なのですが、一方でちょっと気になる部分も。
 作者が、新しいリアリティ「ゲーム的リアリズム」の例として挙げているものが、すべてメタ構造(その作品を見ている受け手の存在に言及、あるいはその存在をほのめかす表現)を持つ作品ばかりで、まるで「ゲーム的リアリズム」を持った作品は必ずメタ構造をとっているかのように読めてしまう点。
 けどもちろんそんなことはなくて、例えばTYPE-MOONの『Fate/stay night』は作中の主人公とヒロインが「過去をやり直したい」という願いと向き合い、それを最終的に否定することで「ゲーム的なリセットの思想」をメタ構造なしに拒絶する話になっているし。
 そうした、メタ構造を離れて「ゲーム的リアリズム」を発揮している作品に、一章分を割いてでも言及すべきだったとは思う。
 だって、いくらなんでもメタ構造な物語ばっかりじゃ気持ち悪いじゃない(笑)。


 まあ、そんなところで。
 とにかくこれは、良い本だと再三。是非読むべし。