「名誉に死んで行く男の美学」の可能と不可能


 先日の記事にて、囚人022さんがつけてくれたコメント……
 http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20070627#c1183791507
 これを読みながら色々考えていました。信念、名誉に死んで行く男の美学というものについて、どうも素直になれない私と、恐らくは囚人022さんも同じようにそこに不信感を持っている、なんでだろう? という話。


 恐らくですが。
「愛する者のため、信念・名誉に死んで行く男の美学」というのは、成立するものなのだとは思います。
 ただし、特定の条件下において。


 その条件とは、以下の二つです。
 名誉の下に死んで行く男の集団が、「覚悟・志願した者で形成された、名誉を重んじる者で構成されていること」。
 そして、「その戦いと、戦いによって守られるモノの対応関係がきちんと成立していること」。


 特に重要なのは前者ですね。もちろん、完全にそうした志願者だけで構成されている集団、というのは無いかもしれません。日本の武士にせよ、西洋の騎士にせよ世襲制な面もあったでしょうから、内心では望んでいないけど仕方なくそうした組織に属しているケースも考えられます。
 とはいえ、建前としてでも、「自ら志願して戦いに赴く」集団であれば、「名誉の戦死」というのは社会的にきちんと機能します。


 そもそも、男性にとってこうした「名誉の戦死」というのは気持ち良いものです。
 今は男女同権が当たり前なので当てはまらない面もありますが、基本的に男性は子どもを産めず、母乳も出ないので子育てにもあまり向きません。一方、体格は傾向として男性の方ががっしりしているので力仕事、そして外的から身を守る役割も男性に振られるのが普通です。


 つまり、次世代を残すという女性の自己実現の形に対して、男性は「女子供=次世代を守る」という形で自己実現するのが(生物学的に見てある程度妥当な)普通の形であるとは言えるわけですね。
 無論、社会的に充実している現在においてはこの内ではありませんが。男性も子育てできますし。女性が社会進出を願う気持ちも正当なものです。
 しかし歴史上、上記のように「男性は戦って女子供を守るもの」だった時代も長く、それゆえにそうした事によって自己実現する回路も男性側にある程度備わっています。


 つまり、戦う事によって得られる名誉は、男性にとって(ある程度)生得の快楽です。
 私のような臆病者の書斎派ですら、そうした快楽はあります。だからガンダムにはまったんだろうし。
 ゲームセンターで格闘ゲームが流行るのも、それをやっている8〜9割が男性なのも同様の理由ですし。スポーツが好きなのも基本的には男性ですね。殺し合いの戦争がない分、そうした擬似的な戦いで代替の快楽を得ている状況、とも言えるわけです。


 このように、「名誉の戦死」がちゃんと機能して、別におかしくない状況というのは存在しましたし、条件を満たした中であれば別に問題もないのだと思います。


 ただし、現在この「条件」を満たすことは難しくなっています。
 国家間戦争の形が「近代戦争」へ移行し、それに合わせて「戦うことの名誉」を成立させる前提条件が揺らぎ始めます。
 近代戦争において戦いに出るのは、「戦い、場合によってはそこで命を落とすのも名誉であると認識・覚悟した、名誉のために戦うという共通認識を持つ集団」ではありません。徴兵によって集められた、昨日までは「戦いなんてまっぴらご免だ」と思っていたかもしれない人々です。


 そしてまた、守るものと守られるものの対応関係も崩れます。
 例えば。日本軍に徴兵された東京の男が、沖縄や東南アジアに配備されたとしましょう。彼は「敵軍から家族を守るため」に戦おうと思うかも知れませんが、家族のいる東京と、自分が戦う場所は(国の都合により)離れています。彼が沖縄で戦っている間に、東京大空襲で家族が死んでしまうかも知れません。
 家族が東京にいるから東京で戦わせてくれ、なんていう主張は無論通りません。結果、守るべきものと、そのための戦いが乖離してしまいます。


 そのため、戦いに出る人たちはこのギャップを無理やり埋めることになります。
 離れた戦地に送られたため「家族を守る」という実感が湧かないので、「国体を守る」という形で守るものの規模を数段階挙げる事で納得しようとしました。そして、国を守ることが結果として家族を守る事にもなるという形で納得しようとしたんですね。


 そして。昨日まで戦争で戦う事なんか望んでいなかった男にも、「お国のために死ぬ事が名誉だ」と言い聞かせる事で、無理やり「名誉のために死ねる集団」である事を徹底しようとしました。
「強い国日本」みたいな主張をする人たちにとって、靖国神社が大きな意味を持つのもこのためです。戦場で死んだ日本兵たちは、例外なくみな「英霊」として靖国神社に奉られます。そうする事によって、戦死した日本兵たちは皆「名誉のために死ねる集団」だったのだという保証としているのです。
 うちは仏式だから戦死したうちのじいちゃんを寺で葬りたい、という要請が受理されないのも、こうした理由からなのでしょう。
 しかし、私のような臆病な書斎派の目から見れば、さすがにこのやり方は強引です。


 まだアメリカのような人口の多い大国なら、志願兵で戦争を遂行できるかも知れません。少なくとも日本ほど苛烈な徴兵をせずに済むのでしょうが、その点で日本人は不幸でした。第二次大戦において、あれほど苛烈な「全体戦争」をしたのは日本だけだったでしょう。
 そのため、上記のような強引なやり方がトラウマになったのも無理からぬ話です。
 一部の人たちが「自虐史観」とか「左翼教育」とか言っている空気が漂っていた戦後の一時期も、言うまでもなくこうした太平洋戦争(お好みなら大東亜戦争と言い換えますが)における、無理やりに「名誉のために死ねる集団」としてあろうとしたツケとして必然的に生まれたんだろうと思えます。


 実際、私にとって「強い国日本」を主張したり、「靖国神社擁護」をしている人たちが苦手なのは、上記のような強引さ、「昨日まで戦うことなんて考えてもいなかった人を無理やり英霊=名誉のために死ねる人に仕立て上げる」強引さによっています。
 というか……上記二つの特徴、「家族と言わず、国を守るという言い方を強調する」ことと、「とにかく名誉のために死ねるモノであれと誰彼構わず押し付ける」靖国神社的価値観は、ネット上で右寄りな発言をする人たちの主張の特徴ですしね。彼らも、戦後のトラウマな雰囲気に反発して発言が極端になっている気がします。極端な空気には極端な反発が出るもので。


 私は日本は軍隊を持つべきだと思っていますが、靖国神社は嫌いです。


 ともあれ、こうした歴史性を見た時に、アナベル・ガトーのような「名誉のために死ぬ」価値観に対して「胡散臭い」という感想を咄嗟に持ってしまう層が一定数いる事はある程度必然なのだと思います。
 まあ、太平洋戦争で無理を通し過ぎたんですね。


 しかし一方で、ちゃんと条件を満たせば「名誉の戦死」という形自体はあっても良いと思っています。志願して、戦うという意志を持って軍隊に入り、ちゃんと理の通った理由で応戦する分には軍隊もアリ、というか最低限身を守るために軍隊は必要というのが現在の私の見解ですから。


 私は臆病なので、軍隊には入りたくありません。その代わり私には名誉がもたらされないでしょう。
 強い国日本を言う人たちが、自ら覚悟を決め軍隊に入り、名誉の戦死を遂げるならそれはアリだと思っていますし、その結果私が守られる状況になれば、敬意と感謝の念を表明するでしょう。


 問題は、戦わないという意志を持つ者を劣った者とするような、戦いたい人たちのあり方なんでしょうけどね。
 これは戦いの話に限らず……選民意識や優越感より、名誉と誇り。そういう人間でありたいものです。