『Fate/zero』2巻


 まず注意書き。同人作品のため、一般書店では購入することが出来ない作品です。お求めの際は同人ショップへどうぞ、っと。


 さてそういうわけで、『Fate』の公式外伝小説の第二巻をようやく読了。ちょうど3巻が発売になったタイミングなので良いペースなのかも。
 とりあえずこれを書いているわずか数十分前に読み終えたばかりでまだクールダウンもしていないのですが、この作品は二巻の時点でももう既に、間違いなく傑作の部類でしょう、とか言ってみる。
 これだけの登場人物を並べて、それぞれの思惑や信条を描き出して、その絡みからそれぞれのドラマを巧みに織り上げていく力量が凄い。しかもこの尺で。無数の表/裏設定や、あの長大な『Fate』本編とも整合性とりながらというのだから、ほとんど職人仕事の域。


 で、どの部分も非常に面白くて印象深いのですが、中でもやっぱり一番圧倒されるのはライダーのサーヴァントであるイスカンダルなわけです。豪放磊落なハチャメチャっぷりで一巻の頃から散々笑かせてくれたわけですが、それだけじゃなくこの人、すごくカッコイイのね。


 以前から、私の中でスッキリしない問題がひとつ、ずっと頭の片隅でくすぶっていました。
 我々は、「守る側の論理」は知っている。無辜の市民を危険から守り、悲劇を遠ざけ、被害者を出さず、理不尽な暴力に抵抗する、そうした「守る側の論理」については、テレビでも日常生活でも、創作の中でも良く出てくる思考法でよく分かっているわけです。
 けれど。
 一方で我々は、「攻める側の論理」をほとんどまったく実感できないんだよな、とずっと思っていました。
 侵攻し、征服し、攻撃する人々の思考法というのを、我々は全然実感として持てなくなっていますよね。それは仮面ライダーの敵役とか、ハリウッド映画の悪役とかに代表されるような、単なる「悪の論理」としてしか現在では読み解けないわけです。
 侵攻、征服、攻撃。全部、悪い奴らがする行動という、マイナスのイメージがつきまとう言葉ばかりでしょう?


 けど、そうした論理がプラスの、ポジティブなイメージで通っていた時代もあったはずだし、現在でも侵攻・征服・攻撃をする人たちはいて、彼らは自分を別に「悪役」だと思ってそうした事をしているわけじゃない。そこには、「攻める」事が是である価値観があるはずなんですよね。
 だって、今でも織田信長とか、人気のある武将じゃないですか。戦国時代や明治維新が好きな人は沢山いる。世界史でもチンギス・ハーンとかね。彼らも「侵略者」であるはずなのに、英雄であり、たくさんの人たちから慕われてるわけですよね。
 わざわざ自ら、血なまぐさい戦乱を巻き起こす「攻める」側の論理。個人の権利とか、近代のもろもろの価値観が成立してしまった現代においてはネガティブな、マイナスのイメージをもって語られるしかない「攻める側」の論理というのはどんなものなのか。
 そのことを、数年前から時々考えていたのです。


 この、『Fate/Zero』二巻の後半で語られているのは、正にこの「攻める側の論理」と「守る側の論理」のぶつかり合いです。
 ゲーム本編にも登場した、主役であるセイバー(アーサー王♀)は承知の通り、「守る側の論理」を持っている人です。王として、臣民が平穏に暮らせるように自らを殺して秩序を国にもたらそうとした人物として描かれています。
 一方、ライダーことイスカンダルアレクサンダー大王)は作中で「征服王」と称されている通り、「攻める側の論理」を持っている人です。征服・蹂躙・略奪を信条にしている破天荒な人物。
 現代の価値観に照らすなら、イスカンダルのこのような信条は批難されるしかないものです。秩序と平穏を乱す者は、近代以降の価値観においては「悪」ですから。
 ところがこの作品内において、イスカンダルの思想はセイバーの主張を圧倒し、ほとんど言い負かしてしまいます。読者にとっても、彼の野放図でありながら人間臭くて動じない人間像に、大なり小なり奇妙な魅力を感じてしまう。
 彼は言います。

 騎士どもの誉れたる王よ。たしかに貴様が掲げた正義と理想は、ひとたび国を救い、臣民を救済したやも知れぬ。それは貴様の名を伝説に刻むだけの偉業であったことだろう。
 だがな、ただ救われただけの連中がどういう末路を辿ったか、それを知らぬ貴様ではあるまい。

 これ、本編を読んだ方は察せられると思うのですが、結構痛いところを突いてます。
 結局アーサー王伝説では、王は身内の裏切りで起こった戦いの最中に死ぬわけで、作中でもそのことが触れられます。イスカンダルが言っているのはその事です。
 あるいはこのブログを読んでいる人なら、こう言った方が分かりやすいかも知れない。セイバーのような望みと正義で、「人々を、民を救う」ことを無私に志した人物は、その人々に絶望して裏返れば、「ならば今すぐ愚民どもすべてに英知をさずけて見せろ!」と、どこぞの総帥のように叫ぶ事にもなりかねない。
 民を秩序で律しようとすれば、その秩序に上手く添ってくれない「愚民」との間で引き裂かれて、王の側が耐えられなくなる。民もまた、理想の高さゆえについていけなくなる。
 だからこそ、イスカンダルは「民を導け」と諭すわけです。豪奢と栄華、欲望の限りを尽くして自らが民の憧れとなり、その方向付けによって民を導くのが王だと。たとえその結果、戦乱が起ころうとも。


 これが、「攻める側」の論理なのだなぁと、妙に感心しながら読んでいました。現代においてはなかなか表向き触れることの出来ない価値観ですが、それも物語の中であればこんなに実感を持って、生々しく感じられるのだなぁと。それを感じさせてくれただけでも、作者には拍手喝采です。
 無論、だからイスカンダルが正しくてセイバーが間違い、と短絡に結論できるものでもありません。物語としてもまだ半分残ってるわけですし、「攻める側の論理」への反論だっていくらでも並べられる。
 けど、どう論評するにせよ、「守る側の論理」しか知らずにいるよりは、「攻める側の論理」も実感できた上で考えた方が良いわけです。少なくともそれはただの悪役の思想ではない、理もあるのだと知る必要はある。
 そういう意味では、イスカンダルは本当に良いキャラしてるよなぁと思います。


 実は『Fate/Zero』の一番の見所は、それぞれ異能力を駆使したバトルロイヤルではなく、こうした思想戦、異なる価値観どうしのぶつかり合いの面白さなのでしょう。
 続巻も期待。