サムライとヤクザ



 どうも、未だに男性がらみのジェンダー論っていうか、その辺りが気になって仕方ないらしく。こんな本を出し抜けに買って読んでみたりするわけなんですが。
 武士道と、ヤクザの任侠について最近の事例や江戸時代の史料などを交えて検証しつつ、国会議員が自殺した議員を平気で「彼はサムライだった」なんて発言しちゃう素地がどの辺にあるのか、というような、サムライやヤクザがらみの男性の思惑を探って行くような内容の本。


 著者の守備範囲、目配りの広さは大したもので、個々の事例などはかなり楽しく読みました。
 けど何か、しっくり来ないんですよねぇ。
 「弱きを助け強きを挫く」任侠道を掲げたヤクザものたちについて検証し、結局は彼らが普段は暴れ者で酒びたりの困った連中だったという事を実証していったりするんですが。
 確かにその証明自体は手馴れたものなのですが、でも――それを示したからって、根本的にサムライやヤクザのロジックを否定したり、覆したり、疑義を呈したりしたことになるのかな、と思ってしまう。
 私の祖母も、昔はガキ大将ってのがいてね、っていう話をよくします。普段はどうしようもない悪戯ばっかりのガキなんだけど、小さい子がいじめられてたりすると守ってやる、そういう子がいたと。
 この場合、小さい子を守ってやったりしても、普段は悪ガキじゃないか、ってことを主張したところで、それで「ガキ大将の論理」を否定したり、疑義を呈したりしたことにはならないですよね?


 たとえば。札付きの不良少年が、実は帰り道たまたま子猫を見つけて、持ってたパン屑をあげた、っていう良くあるエピソードがありますけど。これ系のエピソードの肝ってなんでしょう。
 生徒会長の女の子が子猫にミルクやってるのとは、違う意味合いがここにはあるわけです。それは何だろう。
 色々な答えがあるだろうとは思いますが、つらつら考えるに――普段から悪い事してる奴がたまに良い事をしたとすれば、それは少なくとも「そうしなければいけないからした」行為じゃない。純然たる、純粋な善意から行った行為って事になる。
 その点に、安心できるっていうのが肝なんじゃないでしょうか。
 これが、品行法制成績優秀の生徒会長がやった行為だったら、「そうすべきだから、そうしなきゃいけないから」やった行為とも取れる。
 けど普段悪いことしてる奴なら、そんな一般常識的な義務感に今さら従う必要もないわけで。その悪ガキが良い事をしたとしたら、それは混じりっけ無しの善意からだ。
 少なくとも、見ている我々はそう信じられる。
 だから、こういうエピソードに、見ている一般人我々は心温まっちゃったりするんじゃないかな、と思ったりするわけです。


 任侠とか義賊とかも、何か同じロジックが背後に割りとあるんじゃないかという気がして。だとすれば、この本は結局何も論破してないんじゃないかという気がする。
 提示される資料の豊富さと的確さは凄いし、そこから展開する論理も良いのだけれども、こういう話をするなら、そもそも善悪って何だ、っていう話まで突き詰めないと片手落ちなんじゃないかなと思ったりしたのでした。


 結局なんだかんだで、未だに「戦う男」のロジックに思い惑う私でありました。