前回日記へのレス
前回、かなり濃ゆい更新だったこともあって、ありがたくも沢山のコメントを頂戴しました。
で、レスが非常に煩瑣になりそうだったので、エントリの形で返信とさせていただきます。
>そーごさん
MIAUが質問状を投げましたね
http://ameblo.jp/mangaronsoh/entry-10082925114.html
ここでの回答を見る限り、反応のないまま放置される可能性も十分ありえますね(苦笑
まあ、今回のキャンペーンを主催している人たちがどういう人たちなのかは、このリンク先の一連のインタビューを読むとかなり把握できます。
私としては……前回のエントリーでも書いたように、こうした人たちが感じている「嫌悪感」にも一分の理があるとは言わざるを得ないので(また私自身の中にも共感する部分はあるので)、一概にこれをただ「オバチャンの感情論」だけで片付ける気にはなれません。
しかし同時に、このキャンペーン打ってる人たちが、法の力をもって「規制する」ことの意味をあんまり分かってないらしいことも確かなので、その辺はしっかり釘を差される必要があるだろうとは思います。
その考えで行くと特亜三国が怖い。怖いなぁ。
まあ、この日のエントリーの趣旨は「日本人だって、今後核を撃っちゃう可能性があるかも」という危惧の話だったので、特亜の話を出すのは微妙に軸がズレている気もしなくもない。
ていうか、むしろそういう中国・朝鮮半島脅威論みたいなのこそが、「日本人が核を撃っちゃうかも知れない」契機の筆頭なわけですから。
とはいえ、日本が「身を守る準備をする」必要があるのは、これは当然の話だと思います。以前にも書いたと思いますが、最低限自分の身を守る算段を持つ必要はあると思う。
ただ、やっぱ核はやめた方が良いってマジで、というのが私の立場です。
核を搭載した弾道ミサイルが飛んできた時に、それを排除できるシステムは必要だと思う。けど、日本が核で武装しても、多分良い事ないでしょう。
というか、やっぱり富野監督の言うように「核兵器は自殺兵器」だと思う。まして北朝鮮とか中国とか、そんな近いところに飛ばしたら、放射能の雲とか日本まで来たりするんじゃないのかと思うし。汚染された魚で漁業に打撃とかさ。
維持費も馬鹿にならないだろうし。うっかり核ミサイル発射しちゃったら、国際社会の中で日本が今度は孤立してしまいかねない。良い事ないですよ。
……という理由で、「日本も核武装しろ」とか言ってる人には私は反対なのだけれども。
>囚人022さん
「プレイヤー次第」とか言ってる人は『∀ガンダム』見たんですかねぇ。
そう疑問に思われるのはごもっともなんですが、このやりとり、「∀ガンダムコミュ」で行われた会話なんですよ。ゲームのコミュじゃなく。
さすがに見てもいない作品のコミュには入らないでしょうから、この発言者たちも多分本編を見ていると思います。
まぁ……そのゲームそのものも、コロニー落としとかコロニーレーザーとかアクシズ落としとか巨大ローラー作戦とか、作中の大量殺戮兵器を召還して相手を攻撃できるという、考えようによっては非常に「不謹慎な」ゲームなんですけどね(苦笑
“メッセージ”としての機能を果たしていないのが「失敗」・・・ではないんだと、最近、私は思うんですよ。
おっしゃりたい事は分かりますし、確かにそういう側面はあります。私自身、ちょっと短絡に考えてたかな、とこの一文を読んで考えてしまったりもしたわけですが。
富野作品には沢山のキャラと、そのキャラの持つたくさんの価値観が存在しています。そのぶつかりあいが物語の振れ幅を作って深みを出してるわけで……。従ってすべての登場人物が、一つの価値観に最終的に収束されていったりはしない。最後に全員が同じ価値観に宗旨替えしちゃう、というような事は起こらないわけですが。
少なくとも作中のロラン・セアックは、確実に「核の恐ろしさ」を知り、それがみだりに使われないよう行動していた人だった。それは解釈の問題ではなく、普通に読解すれば間違いようが無い領域です。
ロランは、「人の命を大事にしない人とは誰とでも戦います!」と言った人です。
ところが、肝心のそこがスルーされちゃってるんですよね。
これはやっぱり、富野監督の表現方法の(表層的な部分での)ミステイクというよりも、「ロボットアニメというメディア」を選択したことによって起こっている、構造的なミステイクなのかな、という気がしています(あまり上手い言い方じゃありませんが)。
ロボットアニメである以上、視聴者、特に若い視聴者はやっぱり何よりもまず「そのロボットの強さ」に目を向けてしまう。戦闘シーンをまず第一の目的に視聴する。これはやっぱり、ある程度そうならざるを得ません。
そしてロボットものであるが故に、外側の「ロボット」と、内側の「パイロット」は都合によって切り離し可能です。ロランというパイロットが「核兵器を人に撃つなんて絶対にいけない」と思ってる人でも、ゲームなどに登場する時には都合の良いように「内側」を切り離して、外側の「ロボット」のスペックだけを取り出す事ができます。
先日の記事で引用した人のコメントに、「月光蝶と核(手投げミサイル)はいまや∀を表す立派なシンボル」というフレーズがある事を思い返すと、この点はもっとはっきりすると思います。
ロランというパイロットの意思を介して、「核」や「月光蝶」が作中どのように使用されたかは、ここでは切り離されているんです。そこをはずした上で、「∀ガンダムというロボットが、作中で核を使った」という事実を取り出すなら、これは間違ってはいないわけです。
これはゲームだけに限った事でしょうか?
否。ガンダムにおいて、モビルスーツについて語る時に普通に行われている事です。
たとえば、モビルスーツ「ガンダムF91」について、そのスペックや機体の特徴が語られる時、やはり話のベクトルは「その機体がいかに高性能か」、端的に言えば「いかに強いか」が語られるでしょう。
実は搭載されたバイオコンピュータを使って、宇宙を漂流しているセシリー・フェアチャイルドを発見するという使い方もできるのに。作中でシーブックはこの機体をそのようにも使って見せたのに。外側としての「ガンダムF91」についての説明で、それに触れる事はほとんどない。
書籍やネット上に数多ある、モビルスーツのスペック解説には、そのパイロットたちが実際にどのような意志をもって、どのような苦悩と共に機体を駆ったかという記述はありません。そのように、外側のロボットと、内側のパイロットを(都合よく)切り離して語ることが出来る。それが、メディアとしての「ロボットもの」の死角になり得るんじゃないでしょうか。
その隙間から、富野監督が伝えようとした(んだと私は思います)メッセージはこぼれ落ちてしまったんじゃないかと、そんな風にも見えるんですよ。
>ルロイさん
お気持ちはよく分かります(笑)。
せっかく色々な選択肢があるのに、結局みんな「一番強い」選択ばっかりするんですよねぇ。それがもどかしい、というのはあります。
まぁ、一方で、エゥティでハイメガZで悦に入ってる中学生を、アッシマーで粉砕して「ヒヨッコが」って思う楽しみも無いわけじゃないんですが(えぇ〜
けど、どうなんだろうなぁ。現実に、その「単に威力が高いから」というゲームで為されるような理由で、核兵器が使用される可能性もあるんですよね。これはゲームとは関係なく。
私が大学時代に受けてた、とある文芸の講義で小説家の人が話してましたが……彼がアメリカの喫茶店でバイトしてた時、ちょうどベトナム戦争をやっていたん頃ですが、その店の中で客たちが無邪気に話してたらしいんですよ。
「なんでベトナムに核の二つ三つも落とさないんだ。それであっという間に勝てるのに」って。
「爆心地の経験」も、「正しい知識」も持っていない人たちにとって、核兵器という選択肢を選ぶことははゲームでそれらを使用する心境と大差ない、かも知れません。
で、アメリカ国内で、広島での原爆の被害を扱った展示とかをしようとすると断られるらしいんですよね。アメリカ国民にはそういうの、見せたくないらしい。
上手く説明できませんが、私が恐れているのは「そういう感覚」です。
>神城さん
読み合いという点では、MSTのも確かにそうなんですけどね。
あれは登録してしまったら終わりなんで。やっぱりこう、リアルタイムの駆け引きの感覚がもっとつかめればなぁと思ったわけです(先日の書評記事では、そういう方向からはずれていってしまってますが)。
その点についても、いろいろ面白い知見が得られましたけどね。たとえば、
なぜ、それがタブーかと言えば、将棋の場合、ミスは多くしたほうが負けるのではなく最後にミスをしたほうが負けることが多いからです。点差のゲームでは、多くミスしたほうが負けですが将棋は点差のゲームではありません。十六ページでも述べた通り、一手のミスでも逆転します。ミスは量よりも最後にしないほうが重要なのです。よって、ミスをしたと思っても、勝てるチャンスは残されていることを信じて後悔ではなく先のことを考えるのが、勝つために必要なことと言えるのです。
ここは物凄く面白かったセンテンス。なるほどな、と思いながら読みました。
こういう機微が知りたかったわけなので、そういう意味でもかなり満足しながら読み終えた一冊だったのですよ。
>スカルさん
仰るとおりで、一番やってはいけないのは「自国民に益の無い法律を作ってしまうこと」ですからね。そのために、我々の方でも「感情論に感情論で返す」ような反応は慎む必要があるんでしょう。
……と言いつつ、本当に理性的に思考し発言し続けるって、難しいなぁ。
。「ゲームだから」と言えてしまう感覚には「ゾッとするもの」を感じますね。なんでかって言うと「本当に現実とゲームが峻別できているのか」を時折自分でも疑問に思う事があるので。
まあ……「ニンテンドーウォー」がもう十年以上前ですしねぇ。「ミサイルの落着地点で何が起こるか」という事に意識的でなければ、現実とゲームの間で、ミサイルの発射ボタンを押す感覚に実はそんなに差異はないかも知れないし。……っていうと強引すぎるかも知れませんが、少なくとも今の戦争ってもう、五感だけでカバーしきれない事は確かですよね。そういう意味で、現実の戦争がゲームに似てきてる、のかも。
ああ、ブーメラン。ゾゴックの件でお聞きしましたっけね(笑)。
世の中はまだまだ謎に満ちてるようですね。良いじゃないですか、楽しみがまだまだたくさん残ってるって事ですよ、きっとw