文学少女と死にたがりの道化



 最初に書いておきます。
 私はこの物語を読んで、特に共感したり、ことさら感動したりという事はしませんでした。
 従って以降の文章は、自分の感慨よりも、この本を読んだ事から連想し、また考えたことをわりと冷静に綴っていくことになると思います。
 その点に留意した上で、以下の文章をどうぞ。ネタバレ注意。




 さて、私はこの作中で、太宰治をモティーフとして語られる「恐怖感」、自分の感情の動きが周囲と合わない事による――というよりは、無感動である自分に対する恐怖感というようなものは、あまり経験がありません。
 まあ周囲と感情の動きがズレる事はしょっちゅうあるんですが、それでも根っこのところでは自分は激情家だと知っているので。


 ただ、ここで語られている恐怖感については思い当たることが無いでもない。私が連想したのは、たとえばこういう事例です。


「クラスメイトが死んだんだが」
http://nullpo.2log.net/home/sevenstar/archives/blog/vipoir/2006/01/16_155926.html


「店員にありがとうと言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか」
http://blog.goo.ne.jp/enjoublog/e/9afa1c973fa4fb873c0109b62912efae


 上のは、かなり前にうちのブログでも取り上げた記事。
 下のはいわゆる「ブログ炎上」の事例。
 特に下の事例が顕著だと思うんですけどね。自分が店員として働いてる時に、お客さんに「ありがとう」って言われるとなんかイラっと来るという事をYahooの質問に書いたところ、「きっと下品な育ちをしたんだろう」「自分には理解できない」「人格に問題がある」「自意識過剰」「可哀相」他、様々なコメントが立て続けに書き込まれたという話。


 この話自体の是非はともかく、こうしたいわゆる「ブログ炎上」という現象(特に一個人が実感として書いたような事への突然のこうした反応)をたまたま最近目にして、それからこの話を読んだので、なんか裏表の関係なのかなぁと思ったのでした。
 まぁ、ネット上で書き込むタイプのこうした場所というのは、以前から過激な「相手の人格を直接攻撃するような物言い」が起きやすい場ではありました。2ちゃんねるなどの匿名掲示板がともすると殺伐とした空気になりやすいのは、間にクッションになるものがないまま、いきなり相手の人格を批判するような飛躍が構造的に起きやすいからなのでしょう。
 まあ、ネットがいじめの温床に、みたいな話も最近かなり大きな問題として議論されているようですが。


 ともあれ、こうした「一般的な良識・感性からはずれた者は徹底的に攻撃される」場というのは、裏返せば攻撃する側に参加している人たちにもある程度重圧をかけているはずです。
 自分もうっかり変な事を言えば、それを槍玉にあげられて攻撃されるかも知れないわけです。自分は多数派の良識の側に立っているから、安心して「そこから外れたヤツ」を叩く事ができるという構図なわけですが――逆を言えば、絶対その「多数派の良識」ってヤツから外れるワケにはいきません。そこをうっかり踏み外してしまえば、明日は我が身。
 そこにはですから、潜在的な恐怖感もあるんじゃないかと思う。


 このシリーズは現在、わりと評価が高いシリーズです。『このライトノベルがすごい』でも2007年の時点で8位に入っていたとか。また、2ちゃんねるの「ライトノベル板大賞2006年上半期」では3位。結構読者の支持を得ている作品ということになります。
 が――この作品、技巧的にそこまで優れているわけじゃない、ように私には読めました。
 たとえば、中盤くらいまでほぼミステリー的な謎解きをメインに話が進むのですが、ライトノベルで紙数が少ないとはいえ、容疑者にあたる人物四人は1シーン登場しただけ、それも容姿の説明+α程度に留まっていますので、読者にとっては実質「誰が犯人でもあんまり関心持てない」状態です。
 また、その後になってメインとなる竹田千愛に絡んだエピソードへとつながりますが、そのための伏線にあたる要素(友人が事故で亡くなっているという情報)が、真相が明かされる直前になってようやく出てくるという形になっています。この情報が物語の前半に、もう少し印象的な形で読者に伝えられていたなら、最後の種明かしももっと効果的だったはずです。
 長くなるのでこれ以外の細かいのは割愛しますが……ともあれ、物語の構成としてはそこまで傑出しているわけではないという印象を持ちました。
 となれば、この作品の高評価の理由は――


・文学作品をテーマに上手くライトノベルへ落とし込んだ目新しさ
太宰治人間失格』を下敷きにしたテーマへの共感


 この辺りという事になるでしょう。
 やはりここで、「ブログ炎上」というような現象と裏腹な潜在的な恐怖感を上手く作品という形で掬い上げたことが、評価されてるんじゃないかという気がしてきます。



 そもそも、人間の感情というのはそう一律に反応するものではありません。
 私の事例を書きます。私は小学校5年から2年間塾通いで勉強して、中学受験をしました。当時はあまり娯楽も知らなかったし、あまり自己主張のない子供だったんで、言われるまま結構アホみたいに勉強してました。
 そして、第一志望の学校に無事合格しました。
 ――けれど、合格発表を見て自分の合格を知っても、その時は何も感じませんでした。へぇ、受かったんだ、くらいで。


 自分の感情が動いたのは、その日の夜。布団に入ってしばらくしたら、急に涙が出てきて、そのまま嬉し泣きが止まらなくなったという思い出があります。


 さて。この不可解なタイムラグは、他の感情においても十分ありえる話ですよね。
 私のケースでは大体12時間くらいの開きですが、これが一週間、一ヶ月、一年遅れるケースだって絶対無いとは言い切れません。
彼女と別れたけど仕事が忙しくてその実感が余りなく、一ヶ月ぶりにゆっくりと休めたところで急に感情が動くとか。そういう事だってあるかもしれない。


 人間の感情や感じ方というのは決して一律じゃない。ですから、クラスメイトの死を「悲しむのが当然」「悲しむべき」「悲しまなければならない」というような言説は、実は不合理です。
 同様に、「ありがとう」という言葉は良い言葉なんだから、ポジティブに受け取るのが当然という言い方も場合によっては適切ではありません。その店員さんはまだ不慣れで、「できるだけマニュアル通りに、事務的に処理させてくれよ」と思ってるだけかも知れません。接客業に慣れてなくて緊張している時には、例え好意的な言葉でもイレギュラーな客との交流は怖いものですし。
 それに人間は、嫌悪感や悪意を込めて「ありがとう」と言う事だってできます。


 ――で。
 本来、こうした「人間の感じ方や考え、行動というのは複雑なものだ」というのを広く伝えるというのは、文学の仕事の一つだったんだと思います。


 もちろんもっと高度な意義もあるのでしょう。しかし、現代に比べてはるかに広く文学作品が読まれていた中で、結果的にそうした役割を果たしたケースも多かったろうと思います。
 芥川龍之介なんか、かなりそういう役割を担ってたんじゃないでしょうかね。『鼻』とか『芋粥』とか、「人間の感じ方ってのはそう単純じゃないぞ」っていうのが非常に読みやすく要約されてますし。


 現代も物語はたくさん消費されていますが、どうしても作中人物たちは大なり小なり「キャラクター」になってしまいます。わかりやすい性格付けの、わりと一律な感性を持ったキャラクターによって物語が展開されるため、上記のような複雑さを取り入れることがなかなか出来ません。
 一度「熱血キャラ」として定着した人物は、いつでも必ず熱血します。「今日は気分がのらないから」というようなムラっ気が表れたりはしません。


 さて。
 ものすっごく遠回りをしましたが。
 この『文学少女と死にたがりの道化』は、そうした状況の中、ライトノベルという枠の中で「文学」の果たしていた仕事をしっかりこなした、と言えるんじゃないかと思うわけです。
 単に文学作品を取り上げて作品のモティーフにしたというだけじゃなく、文学のこなしていた機能もしっかり掬い上げて受け継いでいる。そんな風にも読めるかなあ、と。


 最後、自ら命を絶とうとする竹田千愛さんに、遠子先輩はもう滅茶苦茶な説得をします。太宰治の他の作品読むまでは死ねないぞ、と要約できると思いますが(笑)。
 気の利いた説得の文句なんか一つも出てこなくて、むしろもう滑稽なくらいの状態で、けど何故かそれで、竹田さんは死ぬという選択肢を捨てる。
 物語としてのカタルシスはないけれど、でもこのシーン良いなぁと思ってしまいました。格好良いセリフなんか一つもない、こういう変な空気がでもかえって人を救っちゃったり。そういう事ってあるのかもね。



 と、長々書きましたが。
 こうして感想を書き連ねてみると、「特に感動もしなかった」と言いながら、意外に楽しんでいたのかも知れません。
 いわゆる「文学作品」も、読んでみるとけっこう面白いんですよね。そしてその面白さを伝えるには、高尚なテーマ性について難解な話をするよりも、遠子先輩みたいに「好きで好きでしょうがない」っていう感じで楽しそうに語る方が効果的だったりするというのは、本読みの親向けのアドバイスでよく言われる話。
 教科書で読んだあの話も、遠子先輩視点で(文庫で買って)読み直してみたら、また全然違う味がするんですよね。
 そんなわけで、このシリーズをきっかけに、いわゆる「文学」に触れる人が増えたら良いな、とかも思う私なのでした。