自作「伝奇関係データベース」より 殺生石

   殺生石


・金毛九尾の狐「玉藻前」が退治されて後、那須野ヶ原で毒石となったという伝説。曹洞宗の僧、源翁和尚が柱杖(もしくは鉄槌)にて打ち砕いたとされる。→源翁和尚


・源翁の破砕した殺生石が飛来したという謂れ地は多くある。『源翁能照和尚行状記』では白河の常在院と会津磐梯山に、『伯耆民談記』では那須の湯村、白河常在院、美作高田の化生寺に飛来したと伝える。
 他にも岡山市上高田の五后社(『岩田村誌』)、愛知県額田郡岩津村の村績神社の境内にも殺生石の残片と信じられた霊石がある。


・美作の化生寺には、境内に殺生石を祀る玉雲大権現(高田稲荷)がある。玉雲と書いて「たまも」と読む。


・京都、真如堂には「鎌倉地蔵」と呼ばれる、「飛散した那須野の毒石の破片を刻んで作ったと伝えられる地蔵」が安置されている。
 縁起書によれば、元々鎌倉にて信仰を集めていたが、甲良豊後守の夢枕にて京都への移動を告げ、豊後守の尽力により京都へ移されたと言う。
 ここで出てくる甲良氏は工匠の家柄で、慶長十一年の江戸城改築の他、日光東照宮造営において大棟梁を勤めたという家柄。
『江戸の怪異譚』の中で堤邦彦氏は、大工言葉で石を砕くための鉄槌を「げんのう」と呼ぶ事などとも合わせ、源翁和尚と殺生石の伝説も甲良氏を中心とした大工職たちが広めていったのではないかと述べている。
参照:堤邦彦『江戸の怪異譚』(ぺりかん社


 インド、中国と立て続けに、美女に化けて王朝に潜り込み国を傾けた金毛九尾の狐が日本に渡り、玉藻前と名乗って朝廷に入り込むも、陰陽師に正体を見破られ退治される。しかしその後も殺生石と呼ばれる毒石となって那須野ヶ原にて通りがかる人や生き物を殺していた。そこで源翁和尚が出向き、柱杖で打ち砕いたというのが、有名な九尾の狐と殺生石の伝説です。謡曲なんかにもなってますが。
 まぁ、伝奇・妖怪関係の業界では知らぬ者のない有名な話なんですが、その殺生石に縁のある寺なんかが意外に多いと知って、ちょっとびっくりしていたり。へぇ。
 源翁和尚という人も、私はこの逸話でしか名前を知らなかったんですが、北関東から東北地方にかけて、多くの寺院を創建した、けっこう影響力のあるお坊さんだったみたいです。


 那須殺生石は見に行った事があるんですが、京都の真如堂というのも、一回行ってみたいかも、と思ったり。
 あと、後半、その真如堂の縁起書から甲良氏を介して日光東照宮にまで話がつながってしまうのも割りと面白いですね。東照宮といえば天海僧正。某宗像教授のおかげで、もう天海って名前が出てくるだけで話が胡散臭くなってワクワクしてくるぜ(←色々間違い


 そんな感じ。