主張と、受け手への信頼


 深夜の番組で、海外の報道番組を紹介していたので見てました。
 アメリカの番組で、ダムの影響で鮭の収穫が減っているのを受けて、ダム反対派と賛成派のそれぞれの主張を紹介するという内容でしたが……。
 ああいう番組を見てて感心するのは、伝える側のスタンスだったりします。


 賛成派の意見と、反対派の意見を交互に、偏りなく紹介していき、伝える側である番組自体はどちらの見解も支持せずに、見ている視聴者側に判断を促す形で終わるんですね。
 この辺が、日本の報道と違うところだよなー、と思いながら見てました。



 よく、欧米の人たちは自分の主張をはっきり言う、てな事が言われて、なるほどそうかと感化されて自分の意見を強権的に押し付けようとする人がいたりして、そのたびに無残な勘違いだなぁ、と思ったりします。
 彼ら欧米の人たちが、自分の意見をはっきり主張できるというのは、そうできる土台……聞き手への信頼があるからなのです。つまり、聞き手が他の意見も聞いて、その上でちゃんと自分で判断してくれる、という信頼。


 もし聞き手が、自分の意見に対して「はいもう、まったくその通り」と追随する人たちだったら。自分の主張をきっちり言う行為はいかにも重くなります。なぜなら、その主張通りに事を運んでもし失敗してしまった場合、自分一人の責任は負うとしても、ただ唯々諾々と追随してきた人たちの責任まで負うのは大変なわけで。
 ですから、「聞き手が、私の意見も、私とは反対の意見も聞いて、自分の責任で自分の見解を決めてくれる」という信頼があって、初めて安心して自分の主張をはっきり述べられるわけです。


 海外の学校でやってる、ディベート(論戦)なんかも、単にビジネスの場での口八丁手八丁を訓練してると思ってる人が意外に多いような気もしますが、多分違うんでしょうね。物事には多様な見解があって、そのどれもに、それなりに理があったりする、現実にはその選びにくい状態でどちらかを選ばなければならない、というのを分からせるためなんでしょう。きっと。
 日本人はそういうの、苦手です。A、Bという意見があったら、Aを褒め称えてBをケチョンケチョンにこき下ろします、えてして。双方の主張を公平に聞き、自分の責任のもとに自分の見解を決めるという事を、傾向として避けがちだと思います。



 ……で。
 基本的に民主主義という政治システムは、こういう聞き手の姿勢がしっかり出来ていて、初めて正常に機能するシステムなのであり。


 もう私はかなり前から、「日本人に民主主義なんて100年早いよ」とかふざけて言ったりしていますが。実は今でもそう思ってます。
 嘘だと思うなら、その辺のおじちゃんおばちゃん捕まえて、昨今の世情について意見を聞いてみれば良いです。テレビでみのもんたが言ってるのと、寸分たがわぬ「意見」が判で押したように返ってくるでしょう。
 富野御大将に「愚民」とか言われる所以。


 そんなわけで。日本の民主主義はまだまだ未熟だ、という一席、お後がよろしいようで。