『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てて反発しても釈迦の手の中


ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(メモ) - 白鳥のめがね
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20090103/p1


 んー。まあ宇野氏は基本的に挑発的な物言いをする人だから、腹を立てるのは分かるですよ。
 むしろ「善良な市民」さん時代に比べれば、さすがに場所柄で遠慮してるんだなぁと思ったくらいですからね。惑星開発委員会での氏はもっと釣り針満載なわけで(笑)。


 なのでまあ腹を立てるのは分かるんですけど。けどこういう風なエントリとして立てて、反発してみたりして、それ自体すごい勢いで「釣られて」いるようにしか見えない。


 だってねぇ。

 だからこそ、宇野常寛は、自分だけは島宇宙の住民ではないかのようにして、「真正さ」に対する判断の根拠を保留したままで、自らの歴史叙述だけは議論の余地無く正しいかのように主張していく。結局、著者のパフォーマンス自体が「動員ゲーム」のためのレトリックとならざるを得ない。


 この指摘は正しい。
 正しいのですが、こう指摘し、エントリーを立て、それに同意する人たちがはてなスターやブックマークで評価し……っていう事もまた、まぎれもなく動員ゲームに過ぎないわけですよね。結局。


 宇野氏が、自らの歴史叙述だけは正しいかのように主張していくこと――それは宇野氏の論旨と矛盾する姿勢なんでしょうかね?
 氏は、誰も動員ゲーム=バトルロワイヤルから逃れる事は出来ない、と言ってます。それは自分自身についてもそうであると自覚しているなら、このように主張していても、まあとりあえず矛盾ではない。
 むしろ宇野氏の主張では、その事に躊躇して「それぞれの人の生い立ちやさまざまな人の集団の背景が刻まれているはずで、そうしたものを繊細に見分ける努力」を続けるような態度、つまり相手を傷つけないために行動を留保する態度では他の”決断主義”に対処できない、という風に言っていたわけです(碇シンジでは夜神月を止められない)。
 むしろ、決断主義が作り上げる動員ゲーム=バトルロワイヤルを肯定して、その暴力性をうまくスカしつつゲーム自体をまず祝福しようぜ、と主張してたはずです(リンク先の記事の人がご自身で引用しておられます)。


 その是非の判断は人それぞれあるでしょうが、とりあえず、宇野氏が自分の歴史観を自信満々に主張したとしても、それは宇野氏自身の論旨とは矛盾しないんじゃないかなぁ、と。
 むしろ、それに反発して、腹を立てたのを露骨に表に出すようなエントリーを立てる事こそ、かえって宇野氏の論述を補強している事になりませんかね?(宇野常寛という決断主義に、反発する決断主義がぶつかってバトルロワイヤルが発生してしまっている = 宇野氏の言う通りの事が起こっている)



 宇野氏の論述は、穴だらけの飛躍だらけではあります。9.11のような世界史的な出来事と、学校の教室内で起こってる事とをダイレクトにつないでしまうような乱暴さはあります。
 それが気になる、というのは確かに話として分かるんですけどね。宇野氏は多分、論理を使ってトップダウン式に考えを進めたんじゃなくて、むしろボトムアップ式に、自分の見た大量の作品への感想・洞察を、ビーズを拾い集めるみたいに集めてきてこの論述を組み上げたんだろうと思います。
 だから論理的には弱い。けど、私の感覚では、個人的な評価としては、まあけっこう現代をうまく捉える事に成功してるんじゃないかな、と感じたりはしたのでした。
 まあ私は思想は専門じゃなくて、その本が良い本だったかどうかは単に感銘の大きさでしか量らないので、こんなアバウトな評価をしているわけですが。



 ……こんなエントリーを立てたりしてますが、私は別に宇野党に入ったつもりはないんですよ。宇野氏を御神輿に担ぎあげて、はてなーの人たちと動員ゲームをする気は別になくて。私が担ぐのは東方の御神輿くらいのものです(ぇ
 なので、個別の宇野氏批判にいちいち反論する気はまったくないし、ていうかそれで言うなら、『GUNSLINGER GIRL』を愛読している私自身も宇野氏の書き振りに「コノヤロウ」と思ったクチですし(笑)。けどまあ、ただ「腹が立った」ために、深い読みをされないで、皆で反発意見に同意して終了するだけではちょっと勿体ないかなぁと思う程度には評価しています。


 少なくとも、作家志望私が、今後作品を構想する際に考慮に入れる必要を感じる著作でした。私にとっては、評論書についてこれ以上高い評価というのは存在しません。
 私にとっての『ゼロ年代の想像力』というのはそういう本でありました。


 なんとなく、思うところをつらつらと覚え書き。