ゼロ年代の想像力としての東方project


 『ゼロ年代の想像力』を読んでいて、何となく思ったこと。
 氏の論旨によれば、9.11同時多発テロ小泉内閣を踏まえたゼロ年代においては、人々は基本的に決断主義から逃れられないと言います。
 ポストモダン状況の中で、社会が個人に「大きな物語」を示す事が出来なくなり、結果として人々は個々に自分の信じる「小さな物語」を立てて、互いに自分の「小さな物語」こそが正しい事を示すために動員ゲーム=バトルロワイヤルを繰り返すと。
 そして基本的に、このバトルロワイヤルから逃れる事は出来ない、というのが同書の前半を占める論議です。この部分を読んでいると、非常に絶望的な気分になります。バトルロワイヤル状況は必然的に暴力をはらみ、しかしそうした決断主義者たちを止める術はなかなか見えない。一体どうすれば良いのかと思い悩みながら読み進めるのですが、本書の半ばにて、著者の宇野氏は一転して、まるで何でもない事のように書くのです。
 稲葉振一郎氏の、「権力の傲慢で野蛮な使用法と、謙虚でエレガントな使用法」という提言をした記述を引いて、以下のように氏は書いています。

 私たちは、多様すぎる選択肢の中(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。
 ひとつの時代を乗り越えるために必要なのは、それに背を向けることではない。むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服することなのだ。

 この部分を読んで、それまでの絶望的な雰囲気から急に目の前に展望が開けるような気分を感じつつ、咄嗟に思いだしたのが東方作品の事だったのでした。
 東方projectもまた、ゼロ年代の想像力の一つとして考えられるのかな、と。


 つまりこうです。
 決断主義と、それによって生じるバトルロワイヤル状況から我々は逃れる事はできない。そしてバトルロワイヤル状況の中で必然的に我々は暴力を行使する事になる。バトルロワイヤルそのものを抑止しようというアプローチは、それ自身が決断主義化してしまうため上手くいかない。
 ではどうするか――といった時に、解決法のひとつとして当然考えられるのが、そのバトルロワイヤルが致命的な・深刻なものにならないように、あらかじめガイドラインを作っておくこと=スペルカードルールなのかな、という事です。


 東方作品におけるスペルカードルールは、御承知のように、実害を生じない、弾幕によって「どちらがより美しいかを競う決闘方法」です。このルールがあるからこそ、ナイフを武器にする咲夜さんや、真剣を得物にしている妖夢と戦っても流血沙汰にならなくて済むわけでした。
 まるで隣の国のように核の力を振り回してるカラスや、天下りを企む政治家のような天人が出てきてもバトルロワイヤルが凄惨な結果にならずに済んでるのは、やはりこのルールのお陰でしょう、多分(笑)。


 そして、バトルロワイヤルによって生じる暴力の側面さえ上手く受け流す事ができれば、そこは豊穣な多様性の場として、魅力的な場所として肯定できる可能性も出てくる。何でも受け入れる幻想郷の世界観は、おそらくそうした仕組みで成立しているのだろうと思います。
 もちろん、これが最良の解決法だ、などと言うわけにはいきません。当然の事ながら、「そのルールに従わない者がいたらどうするか」という問題点が生じるからです。
 作者のZUN氏自身、大の男がそうした弾幕勝負をしているのに違和感を感じたからこそ、東方作品の登場人物が少女ばかりになったと語ってるわけですし。
 囚人のジレンマみたいなものですが……誰もがこのスペルカードルールを守れば結果的に得られるメリットは大きいのに、誰か一人が、目の前の一つの勝利欲しさにルールを無視して過激な事をやり、他も追随して結果としてルール自体が解体してしまう……というような事態は、スペルカードルールについても十分に想定可能ですし。
 そういう意味では、幻想郷は一種のユートピアなんですね、やっぱり。


 もしかしたら、儚月抄はこの問題に対して神主が考えた部分も反映されてるのかな、とか邪推してみたり。いやあれはまだどうなるか分かりませんけれども……。


 しかしどうあれ、ZUN氏が今という時代に対して、幻想郷とスペルカードルールという形でアプローチしていた事は、「ゼロ年代の想像力」の一つとして評価しても良いんじゃないかな、と思います。
 決断主義が起こすバトルロワイヤルを、めいっぱい楽しむためのアイディアの一つとして。