決断主義者としてのキラ・ヤマト


 以下、『ゼロ年代の想像力』から派生した私なりの思考メモです。
 90年代、宇野氏言うところの「セカイ系」的な想像力が隆盛しました。オウム真理教事件などを契機に、「世の中の事はわからない、信用できないから引きこもる」「碇ゲンドウのような大人の言うことに従って行動すれば誰かを傷つける、だから引きこもる」といった傾向の作品群が生まれたと、氏はまとめています。
 そして、そこで示される倫理感は、大雑把に言えば「○○しない」という倫理だったと。


 ここで思い出されるのが、以前うちのブログで扱ったあの話題です。
「90年代キーワード、不殺」。


http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20060822/1156218511


 この「不殺」こそ、宇野氏の言う「○○しない」という倫理の最も顕著な例でしょう。「殺さない」という倫理です。そういう意味で、上記リンク先で紹介した「さて、次の企画は」さんの記事は、宇野氏の90年代論の補強としても読むことが可能です。


 この「不殺」問題はわりと後々まで尾を引いて現在まで続いているわけなのですが……。
 やがてゼロ年代決断主義が台頭してくるという宇野氏の図式に従うと、徐々にこの「不殺」の信念は無効になってきます。
 ○○しないという倫理では決断主義は止められない――つまり「碇シンジでは夜神月を止められない」と。
 ある意味で、『るろうに剣心』は、決断主義(世の中が信用できないなら、信じたいものを信じて行動すればいい、そしてルールは勝者が決められる)に走った志々雄真を、○○しないという倫理で主人公緋村剣心が止める話なんですけどね。しかし、その背後ではまだ旧世代で機能していた社会が後ろ盾として緋村を援護してくれました(お庭番衆や、斎藤一率いる警察など)。
 ゼロ年代に入って、それらが機能しなくなって徐々に志々雄真を「不殺」という倫理では止められなくなってくると。


 しかしその後も、「不殺」という理念は残っています。現代のエンタメにもこの概念は散見されます。
 どうなってるのか……ここでも『ゼロ年代の想像力』での見解を見ると。
 決断主義が喚起する動員ゲーム=バトルロワイヤル状況では、「○○しない」という姿勢も一つの「決断」になってしまう、と。


 もう私の論旨はお分かりですね?
 決断主義のバトルロワイヤル状況に突入した中、それでも「不殺」で決断主義者たちを抑止しようとした結果、「不殺という決断主義」に走ってしまったのが、多分『ガンダムSEED』『ガンダムSEED Destiny』のキラ・ヤマトたちだったんじゃないかというお話。
そこでは、『るろうに剣心』以来の「不殺」の理念も微妙に意味が違ってしまっていたんでしょうね。
 挙句の果て、「暴力を抑止するという暴力」に至ってしまったという事でした。決断主義者同士によるバトルロワイヤルの中で不可避に行われる暴力を、キラたちの「不殺」も必然的に行使する羽目になったと。まあ作中での彼ら、結局立場としてはテロリストみたいなもんだったわけですし。
 剣心は基本的には、「自分の目に映る人を守る」という行動原理で動いていました。いわば、その絶大な力に比して社会から「引きこもって」いたわけです。だからこそ「不殺」の倫理も機能したのでしょうが、キラたちはそうではありません。自分たちから、他の国家クラスのモノたちに挑みに行っています。こうなると90年代的な倫理としては「不殺」は機能してくれないのでしょう。アークエンジェルやエターナルでわざわざ戦場に出向いて行って「不殺」に励む彼らは、ですから「決断主義者」化していたのだろうと。
そういう意味では、キラ・ヤマト一味の一人であるアスランさんが、「インフィニット・ジャスティス」(イラク戦争でのアメリカの作戦名)なんて機体に乗ってるのも、なかなか洒落ているのかも知れません。これを狙って、皮肉でやってたとしたら福田監督は実はすごい人なのかも(笑)。私は最後まで見てないので何とも言えませんが。


 とりあえずこう見てくると、放映当時、キラ擁護派(主に若い人たち)とキラ糾弾派(主に高年齢の人たち)との間で喧々囂々の紛糾があったのも、別な目で見えるかも知れません。