悼む人


悼む人

悼む人


 普段、直木賞芥川賞の受賞作が決まっても、毎回律儀に読んだりはしていない私ですが、たまにテーマや問題意識が私の関心と合致したりすると、気まぐれで読んでみたりします。
 そんなわけで直木賞受賞作。ちなみに天童氏の作品を読むのは初めて。
 分量もけっこうあって、かなり力作な感じです。


 まず最初に、この作品が物語として、一定の水準を超えて「見事な作品だ」という事を書いておきたいと思います。
 後述するように、私は必ずしも作者の提示した《悼む人》という人物、その行為について共感もしくは支持をするわけではありません。が、どうあれ読者である私を揺さぶり考えさせた、考えざるを得ない状況にさせたという事が、物語作者として見事だという事です。
 以前、京極夏彦が雑誌『ダ・ヴィンチ』のインタビューで語っていましたが、小説家の仕事は、「考えざるを得ないところにまで読者を追い込む事」であると。私もそう思う。
 そして、この《悼む人》坂築静人という人物の言動は、私に様々な思考や葛藤を呼び起こしたのでした。



 とりあえず、冒頭での《悼む人》坂築静人の初登場シーンを読んだ時の、最初の印象、ファーストインプレッションは、最悪でした(笑)。
 殺人事件の現場に現れて、関係者に「被害者は誰に愛されていましたか、誰を愛していましたか、どんなことで感謝されていましたか?」と聞き、勝手に追悼していく若い男。
 うん、「こいつ殴りてぇ」と思いました(笑)。


 もちろん、ここで私が、彼のこの行動に反感を持ったのは、私自身の屈折と裏表です。
 たとえば、私はかつてこういう記事を書いた男でした。


「クラスメイトが死んだんだが」について
http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20060119


 人の死に際して、そこに過剰に感情移入して当事者のように発言する部外者に対する違和感を、こういう形で先に書いた事があります。
 そしてまた、たとえば「愛」という単語も、私などはそう素直に聞く事はできないわけですよ。
 愛だ愛だとみんなもてはやすけれども、今や書店に1000円ほども持って行けば、映画館に2000円ほど持って行けば、「究極の愛」だの「永遠の愛」だのが腐るほど売っている。《愛なんて羽根のように軽い》。
 そして一方で、親の愛が過保護として世の中を軋ませたり、また愛をかかげた良心が、愛を盾にして世の中で強権を発動しつつある、いわゆる「良心ファシズム」のようなものも世にはびこっています。先日テレビで、店内を禁煙にしようとしない喫茶店の店主に対して、主婦らしい方が「人殺し!」という言葉を投げていました。今や、愛とやらはそれに刃向う事を許されない強権の名前の一つでもあるわけです。《愛なんて鎖のように重い》。


(……もちろん、だからこそ、《愛と勇気は口だけのことと、分かれば求め合い!》なんですけどね)


 まあそんなわけで、静人さんの言葉は、私のそういう鬱屈、屈折、屈託を片っぱしから逆撫でしていったわけです(笑)。そりゃあ殴りたくもなる。


 とはいえ、読み進むうちに、私のその反感は少しずつ解消されてもいきました。彼は決して、犯罪被害者に部外者の癖に肩入れするような事はする人ではなかったし、むしろ死因も老若男女も、人種すら超えて分け隔てなく人の死を悼んでいたわけで、特に事件性のあることだけ追いかけていたわけでもなかった。
 また、誰を愛し誰に愛され誰に感謝されたかと聞くのも、そうしたポジティブなイメージを意識して聞いていくのでなければ、人の死と向き合い続ける旅の中で自分自身が気持ちのバランスを崩してしまいそうだからだと語られます。まあ、そういう理由なら、分からいでもない。


 他にも、我々読者が読みながら反感を持ったり、疑問を持ったりするところは、話が進む中で作中人物によって実際に表明され質問されるわけで、そうしたやりとりを読むうちにだんだんと読者の、この静人という人物に対する違和感は収束していく。
 この辺は、構成としてもよく練られているというか、上手く作られています。


 実際、彼の《悼み》によって、救われ得る人というのはいるだろうと思う。作中で、何人かが静人の《悼み》を強烈に欲するように。
 しかし一方で、私は仮に死んだとして、彼に悼んでもらおうという気にはあまりならないのですよ。


 それはもちろん、自分が死んでしまいこの世に自分の痕跡がまったくなくなってしまうという恐怖はあるし、静人の《悼み》はそれを軽減するかもしれない。
 しかしね。彼が私を悼むとしたら、まあ母方の祖父母の家によく通って愛し愛され、兄弟とも仲良くしたとか、そのくらいの事で悼む事になるでしょう。
 けどさ、私が誰を愛したかを記憶してもらうなら、私が「エルピー・プルを愛した男」だった事もきちんと押さえてもらわないと困る(えぇ〜
 それだけじゃなく、「トビア・アロナクスを愛した男」だったことも、「宗像教授を愛した男」だったことも、「東方projectを愛した男」だったことも、「宮崎駿作品を愛した男」だったことも、「UVERworldを愛した男」だった事も……。


 これは別にふざけて言ってるわけではないのです。
 たとえば、人によっては誰を愛したかよりも、「自分が世界を憎んだ人物だったこと」をこそ記憶していて欲しい、なんて人だっているかもしれない。
 要するに、彼が死者を悼むために設けた基準から、こぼれ落ちるものなんていくらでもあるという事で。
 ラストシーンで、静人の母親が静人に最期に悼まれ、そこで静人の心象風景らしいものを幻視します。そこでは、彼に悼まれた人たちが分け隔てされることなく、「平等に」ひとつの空間で穏やかに笑い合っている。
 けれど、「平等」であるというのは一面で怖い事でもあって、そのために基準から漏れたものが容赦なく切り捨てられてしまう。
 仮に、静人の心象風景の中に、彼に悼まれた私が参加するとして、それはこのブログで毒を吐いたり作品への愛を語ったりしている私じゃないですよ。


 もちろん、静人がやっている事は所詮一人の人間として出来る範囲内の事であって、物理的にそれ以上の事を彼に求めるのは酷かも知れない。
 それに、彼自身「病気だと思ってください」と言っているし、何かを強圧的に押し付けるわけでもないから、別にあえて文句を言うほどの事でもない。せいぜい言えるとしたら「やりたければ勝手にやれば」というくらいで。
 ですから別に正面から異を唱えるのもおかしな話なんですが、しかしこんな半端なやり方でしか出来ない事を、何故するのかという部分で、私個人の感想としては「あまり良い趣味じゃないな」という。


 彼は、死者を記憶し続ける場合の項目として、「誰を愛し」「誰に愛され」「どんなことで感謝されていたか」を設定しています。
 その結果、静人の心象風景は、なんだか結局宗教でいう「天国」みたいな、平安なばかりの明るい空間として描かれるような場所になり。けれどそれが、もちろんそういう事を熱望する人たちがいるのも分かるなという一方で、すごく痛々しい気持にもなる。


 以前、このブログにて『もののけ姫はこうして生まれた』で宮崎駿が語っていた話を引用した事があります。きついからって、その人物を「きつそうな顔」にするだけでは、薄っぺらくなってしまう。きついなら、それに抗う「反作用」も描かなければ、その人物がものすごく弱い人物にしか見えなくなる、と。
 たとえば人が悪態をついたり、悪口を言ったり、憎んだり恨んだりするのだって、一種の「反作用」だと思うのですよ。そういったネガティブな感情をまるっきり無くしてしまうというのは、逆にすごく不安定に見える。
 誰の事を言っているのかというと、この話の視点人物三人のうちの一人、雑誌記者の蒔野さんの事なんですけども。彼が視点になっている章はわりと私も近い間隔で読めたのです。父親に対する憎悪に揺れて、思い悩んだりして。
 終盤、彼が何も録音されていないカセットテープを聞いて、「これなら持っていられる」と心中の描写があった時は、本当に素直に感動できたのです。あの着地点の付け方は見事だったと思う。


 しかしだからこそ、その後襲われて死にかけた彼が、《悼む人》を全肯定するようになり、静人の母親視点の中で再登場した時の姿といえば、これはもう痛々しいという気持ちしか湧いてこなかった。彼はこの話に初めて登場した時よりもよほどポジティブになり、人も肯定できるようになっている。にも関わらず、その言動はひたすら痛々しかった。
 端的に、エグ野と呼ばれていた頃の彼の方が人間としてまだ魅力を感じられた。


 静人によって悼まれるというのは、何か同様の漂白をされてしまうような感触があるのです。
 もし彼の悼みというのがそういう性質のものだとするなら、私は彼に悼んでもらう事を欲しない。《清浄と汚濁こそ生命》だというのが、私の高校時代からの信念だからです。


 もちろん、この《悼む人》があるいは多くの遺族や、もしかしたら死ぬ当人を救うかもしれない。そう言う事はあるだろうと思います。ですから上記の感想は、あくまでも「私はそう思う」というお話。



 さて、細かいところ。
 最後の章で、それまで感情を殺し続けてた静人の感情や本音が出てくるところは良かったです。彼もまた普通の若者だったというのが感じられたのは良かった。
 しかし一方で、彼の強迫観念的な部分も改めて浮きあがってきてしまって、ちょっと不気味でもある。彼が旅に出ざるを得ないほどまで感じた、死者に対する強迫観念というのは現代人なら誰しも多少は持っているものでしょうし。
 昔はそういう部分は、仏教などの既成宗教が上手くフォローしてたんだろうと思いますが、現代になってかなりその辺のフォローが穴だらけになってしまってますからね。その隙間に誕生せざるを得なかったのが、《悼む人》だったのかと思うとなんとも。
 たとえば仏教式に、死んだ人たちは忘れ去られるだけじゃなくて、輪廻して生まれ変わってあなたの子供になってるかも知れないし、そこを飛んでる蝶になってるかも知れないし、そこで咲いてる花になってるかも知れないし、要するにこの世すべてが輪廻する自分であり亡くなった肉親であるんだよ……というような事が信じられるなら、《悼む人》は必要なくなるんですけどね。
 いやまあ、仏教式なら輪廻するだけじゃなくて成仏せなならんのだけど(笑)。


 あと、この作者が、とにかく登場人物ほぼすべてに、偏執的なくらいに「来歴」を書き込み続けるのが、なんか静人の強迫観念とも通じてるような気がして何ともでした。とにかく、一回しか登場しない程度の脇役ならともかく、作中二回以上登場するくらいの重要度の人物には必ず履歴書ばりに「どういう境遇で育ってどういう仕事をしてきて今はどんな身分」という来歴情報が地の文で語られる。それもほぼ必ず初登場の時点で。まるでそうしないと人物を作中で動かすのに落ち着かない、とでも言わんばかりに。
 そういうところは、何と言うかワイドショー的でもあるし(事件の被害者については必ず学生時代とか調べてきて、亡くなったのが子供なら必ず作文から「将来何になりたい」とかいうのを拾ってきて全国放送で流さないと気が済まない)、また過去のトラウマにそのキャラクターの現在を依拠させるという意味ではエヴァンゲリオン的=精神分析的でもあるし。
 けど現実に、たとえば誰かと初めて会った時にその場で相手の過去の来歴をあらかた聞く/聞けるとは限らないし、現実に我々がそうするかと言ったら、しない場合も多々あるでしょう。聞く必要が出てきた時に聞けばいい。
 静人の母親が初登場したシーン、話の中に誰かが出てくるたびに、その人物がどういう来歴をたどったどういう人物かを立てつづけに説明されて、何だろうこれはとちょっと考えてしまったりしたのでした。
 多分、作者のそういう人間観と、《悼む人》という構想を思いついた事とは無関係ではない。


 そういう部分とも考え合わせた時に、これは最悪に意地の悪い言い方ですが、静人は実は「死者を、あるいは死者への悼みをコレクションしているだけなんじゃないか?」という疑問も私の中にちらちらと浮かんでは消えたのでした。
 もちろん、彼の悼みを熱望する人はいるかもしれない。けれど、一個人で関わりきれないほどの人数について、自己基準で死者の情報を取捨選択するような歪な方法をとってまでも、悼み続けるという行為は何なのか。
 彼が友人の死を一日といえど忘れてしまった事にショックを受けたと、それはわかるけれども。なら、身近の人の死を忘れないようにしよう、で終わっても良いわけで。その先に走り出してしまった「病的」なものというのは、実は「死者のコレクション」なのではないか。
 収集しきれないものを収集するというのは、一番楽しいコレクションです。彼のストイックな旅の様子は、一面で熱心なコレクターのそれにも見えない事はない。
 ……と、そういうイメージがまた、私が彼を手放しで支持できない理由だったりするのでした。


 そんなわけで。非常に色々と考えさせられたわけですが。最終的な私の感想としては、彼、静人氏の活動については「あまり趣味が良いとは言えないな」、という辺りなのでした。