数学ガール ゲーデルの不完全性定理


数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)


 久しぶりに、発売日を待ち遠しく感じた本。
 小説形式の数学読み物です。この手の数学トピックを会話形式で説明するような作品は少なくありませんが、小説部分、ストーリーをわりと本格的に作っているものは稀です。また、扱っている内容も初心者向けに変に易しくしようとせず、最終的にはけっこう本格的なところまで踏み込みます。
 物語に誘われて、数学のけっこう踏み込んだ部分まで触れてしまえる、そんな内容で。


 特に、読み手が数学と取り組んでいてつまずくところで、作中人物も堂々と「分からない」と言うところが良いわけですよ。分かるまで言い続ける(笑)。そこの呼吸が上手いので、けっこう難しい分野まで踏み込んでも読者があまりおいてけぼりにならないという。
 そして、あちこちに発見がある。久しぶりに時間を忘れて読書しましたよ。



 個人的にはやっぱり、無限論がらみの話題のところが一番興奮しながら読んだところです。
 以前、『数の歴史』の書評を書いた時に、無限の濃度の話が「納得いかん!」と散々ゴネたわけですよ、私は(笑)。
http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20080128/1201453718
 かいつまんで言うと……Aという集合とBという集合がある。それぞれの集合の要素がいくつかは分からない。けれど、Aの集合の要素と、Bの集合の要素を一つずつ取り出して来て、結びつけて1セットにしていって、どちらも過不足がなかったら、二つの集合の要素の数は等しかったという事になる。これを「全単射」と言うとか。
 この本では両手の指でたとえられてましたが。親指と親指、人差し指と人差し指と順番にくっつけていって、どちらも余らなかったら指の本数は同じはずだと。


 さてここで、[ 1、2、3、4、5... ]という自然数の集合と、[ 2、4、6、8、10..... ]という偶数の集合を考えます。
 自然数の最初の要素「1」と、偶数の最初の要素「2」を結びつけます。同様に「2」と「4」を、「3」と「6」を結びつけていきます。これをずーっとやっていくとどうなるか。
 自然数の要素と結び付けられる要素は、その数を2倍した偶数です。そうすると……どんな大きな自然数を持ってきても、必ずそれとセットになる偶数は見つかります。だってどんな自然数にも、それを2倍した数が必ず存在するからです。つまり、すべての要素同士がセットになっているわけですから、これは過不足が起こってないわけで、全単射してるわけで、つまり「自然数の集合と偶数の集合とは、要素の数が同じだ」、という結論になるわけです。


 けどこれは、感覚的におかしいわけですよ。だって自然数の中に偶数は含まれてるわけです。自然数は偶数と奇数が両方入ってるわけで、普通に考えて偶数の倍の要素を自然数は持ってなきゃおかしい。
 で、上で展開した論議も非常にウソくさく感じる(笑)。検証しようにも、自然数も偶数も要素が無限にあるから確認はできない、けどどうしても納得できん! ってずっと思ってたわけですが。
 この『数学ガール』の最新巻で、目から鱗が落ちました。いや本当、読んでいて思わず背筋が伸びたというか、認識が180度ひっくり返ってしばらく固まったわけですよ。

デデキントは、全体と部分との間に全単射が存在することが無限の定義である、と考えた。これはとてつもなく大きな発想の逆転だ。


デデキント《無限とは、全体と部分との間に全単射が存在するものである》

 ……いや、これはシビれました。今までの認識が綺麗に一本背負いでぶん投げられたような感覚。けどそれが気持ちいい。
 要するにですよ、「そのヘンテコな現象こそ、無限の性質なんだよ!」って言っちゃったわけです(笑)。無限ってのはそういうものなんだ! という。
 一瞬、「な、なんだってー!?」って思ったけど(笑)、そう定義されてしまうと、確かに自分の中でしっくり収まる事に気付くわけです。こりゃやられた、と。デデキントすげぇ。



 そんな感じで、今まで何度か通り過ぎたような話題でも、さらに理解が深まる部分がいくつもあって、非常に至福の時間を過ごしていました。
 他にも、極限についての話で、「正の無限大に発散していく」事について作中人物のテトラちゃんが「無限大に限りなく近づくと言ってはいけないんですか?」って聞くのにドキリとしたり。
 もちろん実際にはそうは言わないんですが、それに応えて「無限大というのは数じゃない」という作中人物《僕》の答えを聞いて、今までぼんやりと認識していたのがちょっとクリアになったり。なるほど確かに、《無限大》がある特定の数だとしたら、《無限大+1》とかいう無限大よりも大きい数が作れてしまうものね……(という認識で良いのかしら)。
 まぁ文系人間の私が考える事なんで間違ってるかも知れませんが、そんな今まで考えた事の無かったような思考がふつふつ湧いてくるのも楽しいわけです。



 そして後半、いよいよゲーデル不完全性定理の説明に入って行くわけですが。
 まぁ、ね、理解できたかというと、正直ほとんど分かってないです(ぇ  アウトラインというか、何をしようとしてるのかがかろうじて分かったくらい。ノートとペン持って、ミルカさんの講義を何度も読み返しながら進めて行けば分かるようになってるなぁ、というのは感じたのですが、根性無しの私は一回通読したきりです(ぇ
 しかしそんな状況でも、ゲーデルがものすごい猪突猛進をしたらしい事は十分以上に伝わって来ました(笑)。読んでて笑ったもん。
 特にゲーデル数ですよ、確かに素因数分解の一意性で、数字から元の記号の組み合わせが再現できるやり方として上手いなとも思いますが……。実際に作ってみて、あんな天文学的な桁の数字がドーンって出た時に、心折れなかったところがすごい(笑)。
 あんな、

792179871410815710171884926990984804119873046575000


 なんて数字が出てきて、これを素因数分解しないと元の文が復元できませんって時点で、私なら心折れます(ぉ
 その後、定義定義定義と突き進んだ末の証明もなんか凄い力技臭が漂ってるし。ゲーデルってすごい人だったんだなぁ、という(笑)。
 そしてそれを語りまくるミルカさんは楽しそうなのであった。



 ついに不完全性定理が証明された後。その効用が語られるわけですが。



 一般に、形式的体系は《自己の無矛盾性を示す形式的な証明はできない》というのが第二不完全性定理で。そこで、形式的体系Xから形式的体系Yを新しく作った時に、その体系Yで形式的体系Xの無矛盾性を形式的に証明できたなら、YはXとは違っている事になり、つまりYはXよりも形式的体系として強くなっている事が証明できる、と。
 ……さすがにこの辺は未読の人には分からない話かと思いますが。


 この部分を読んで、全然数学の話じゃないけど思い出した話がありました。
 高校時代の書道の先生が言っていたけれども……以前に自分の書いた書が下手に見えたとしたら、それは今の自分の目がその時よりも利くようになったという事なんだ、とか何とか。そんな話をふと思い出していたりして。
 つまり書いた当初は、自分の作品の出来がどうなのか判断がつかないけれど、やがて上達する事によって、過去の自分の作品が真だったか偽だったかの判断もつく……という言い方をすると、なんとなく似ているなぁと。
 もちろんこれは、厳密な数学の話ではなく、イメージの話ですけどね。
 しかしそんなイメージをちょっと照らしてみると、門外漢にはてんで全貌の分からない数学の体系にも、少しは親近感が湧こうというものです。



 とりあえずそんな感じで。いや面白かったです。
 何というか……私の高校時代にも、こういう「学び」がもっと欲しかったなぁ、と思います。高校時代にこういう事をやっていれば、間違いなく私の大学時代の「学び」はもっと充実してたはずなんですけどね。
 今の中学高校の教育に一番足りてないのは、多分そこなんだろうなぁと最近ずっと思ってるわけですが。つまり、大学以降、自力で学問をやっていくために必要なのは、「問題を解く能力」じゃなくて、むしろ「自分にあった問題を探し出す能力」なんですよね。いかに、自分自身を夢中にさせられるような問題、研究課題を見つけ出すか。そういう能力がなければ、大学に入っても何やって良いか分からなくなっちゃう。そして私のように無為に遊び呆ける事になる(ぉ
 そういう意味では、この作品に出てくる村木先生という人はとても素敵です。


 そういった意味も含めて、この本はやっぱり中学高校の生徒さんにより多く読まれるといいなと思います。内容が難しい? いやいや、中学生くらいならもう、大人向けのものにガンガントライできますし、した方が良いんだと思います。完全に理解できなくても、それくらいの時に本物に触れておく事にやっぱり意味があるんでしょう。
 私の友人は中学高校時代にフロイト全集とか読んでたし(ぇ


 ともかく、そんな感じで。
 ああそうそう、この作品の登場人物は皆魅力的だと思いますが、個人的に一番のお気に入りはユーrうわこらなにをするやめうひゃー