宇野常寛は何を祝福したのか Takakazuさんとの対話3

※ http://d.hatena.ne.jp/pratiitya-samutpaada/20100306
  こちらへの返信です。




 こんにちは。たびたびの御返信、まことにありがとうございます。


 そして、今回の返信で、私の応答は最後にさせていただこうと思います。
 何回かのやりとりで、Takakazuさんとある程度議論を突き詰められたと信じるからです。
 宇野の仕事のどこを認め、どこを問題視するかについてはある程度の合意、というかすり合わせが出来たのかなと思います。意見が相違している部分の多くは、私とTakakazuさんとの表現の違い、もしくは細かな程度問題に過ぎないくらいまで至っていると思います。


 具体的に言えば、


何度も繰り返す通り、私は、宇野氏の次の主張には、完全に賛成しています。

 として挙げられた部分は完全に合意を得ており、また


宇野氏の議論の中には、宇野史観だけで論及し切れない部分や、彼自身の決断主義的な排他性が見え隠れすること

 この点について、私も(限定つきで)同意します。彼の議論が、恣意的に彼の選んだ創作作品によって論じられており、そこから漏れ落ちる部分が多々ある事についてはその通りだと思います。
(もっとも、ゼロ年代という、十年単位の長さを扱う以上、話題になったものだけでも作品数は膨大であり、そのすべてに論及する事は難しいという事情もあったでしょう。そうした作品を通じて時代を論じる場合の限界もあったと思います。
 また、直接政治的な内容に言及せず、創作作品をもって論を進めた事は、政治的な部分について論じる場合は用語がどうしても専門化し、また精密で慎重な論議を求められるので内容が煩雑になりがちであることが考えられます。そうなっていたら、『ゼロ年代の想像力』のようなインパクトのある著作にはならなかったでしょうし、反響もここまで大きくなかったと思います)



 彼の言論が排他的である事も、その通りだと思います。
 私はその排他性が、意図的な戦略、ポーズだったのではないかと思っているわけですが、まぁしかしこれは分かりません。どこまでがポーズでどこからが地の彼なのかは他人である私には判断できませんし。
 また、彼が見せる傲岸さについては、特に私がフォローする義理もありませんし(ぇ



 また、これは少々逃げ口上っぽい言い方なので、議論としては反則なのですが、私は趣味で小説を書いているモノカキであり、宇野の「物語論」や「サブカルチャー論」に主要な関心があるので、彼の社会論、政治論、(あるいはオウム事件への彼の見解などについて)には相対的にあまり関心がないという事情も、ここまでの議論でのTakakazuさんとの意見の相違に影響しているかなと思います。
 もちろん、まったく関心がないわけではなく、世間一般程度には問題意識もあるのですが、私の中で殊更に、というほどでもないという、程度問題です。



 その上で、ひとつ問を投げる形で思う所を述べつつ、Takakazuさんへの最後の返信とさせていただきたいと思います。


  問・宇野が前回引用されたインタビューの中で、北風的なスタンスをとっている事について「太陽政策は有効ではないから」と答えていますが、この点についてTakakazuさんはどうお考えでしょうか。太陽的なアプローチは可能とお考えでしょうか、それとも北風でもない太陽でもない、別なアプローチを想定されていますでしょうか?



 たとえば、私が「宇野常寛氏のネオリベぶりについて」を読んで気にかかった部分がもう一つあるのです。それはTakakazuさんが書かれている、


おそらく、そのような行動をとらざるをえないほど、「そうなった事情はあり、屈折もあり、その理由の一端は体制が作り上げ」られた、彼らの境遇に関して「のみ」、ブログ主さんは「可哀想」と言っているのだと思います。ブログ主さんの主張は、ネット右翼やオタクなどがそうなった事情、屈折への理由の理解がない限り、彼の「ダメなやつ」への認識は「排他的な決断主義的」なものになってしまう。

 ……という部分にも感じていまして。
 そうかも知れないけれど、そうした境遇を強調してしまうという事は、「ならば境遇が変わるまで、ぼくらはダメなオタクのままでもよい」、という甘えと表裏一体になってしまう危険性を孕まざるを得ません。
 しかし、宇野にしてみれば、そうした事こそ、90年代で散々繰り返されたセカイ系的な、「世の中が間違っているから引きこもる」想像力だという事ではないでしょうか。


 私は、同人業界からメジャーになった創作家たちの作品を愛好しています。彼らは、オタク的なマッチョイズムが蔓延する同人の中で、自分なりに考え、突き詰めて作品を作り上げ、メジャーな商業作品に負けない知名度とクオリティを備えた作品を世に出しました。


 確かに境遇は、体制は、人を「ダメなオタク」やネット右翼の位置に落としたかもしれない。けれど、実はそこをスタート地点に、我々はどこにでも行ける。それがゼロ年代の発見だったんじゃないでしょうか。
 決断主義には暴力性がついてまわる、そういう危険性はありますが、しかし「境遇や体制のせいにして引きこもる」ことから、とにもかくにもそこをスタート地点にして走り出す事はできるんだという発見でもあったのだと思います。
 宇野が本当に祝福しているのはそこです。


 けれど、そうして走り出すためには、現状の自分が「ダメ」である理由をある程度は直視しないといけません。「安全に痛い自己反省」のような欺瞞で前に進んだフリをしているだけでは、スタート地点につくことすらできないと宇野は認識しているのだと思います。


 彼が決断主義の時代について書いた部分にも同様の記述がありますが、つまり


そのような行動をとらざるをえないほど、「そうなった事情はあり、屈折もあり、その理由の一端は体制が作り上げ」られた

 ことは大前提なのですよ。けれど、だからって、そのままで良いのかよお前ら、と宇野は言っているんじゃないかと、そう私は信じているのです。



 あと、もう一つ。


そのような「安全に痛い」理解を通じてでしか、他者を理解することは出来ないのです。

 そうでしょうかね?
 私は、宇野が「レイプファンタジー」と呼ぶような作品を愛好していましたので、彼が「弱い肉食動物が、ぼくは草食動物だよと言って死んだ少女たちの腐肉をあさっているのだ」と書いたのを読んだ時はものすごく痛かったですが。それはもう、あまりの激痛に悶絶いたしました(笑)。


 弱者を「理解してあげる」という時、それは一面で自分を一段高い所に押し上げた「上から目線」にもなってしまうので。
 しかし一方で、本当に優れた評論などが自分の心に刺さった時には、それは「安全」以上に痛い。私はそういう痛さを与えてくれる優れた評論の仕事をいくつも知っています。
 宇野が、エヴァンゲリオンの最後に出てくるアスカのセリフ、「気持ち悪い」を評価しているのもそのためでしょう。他者の、痛いセリフであればこそあれには価値があると言っているわけです。


 あまりまとまりませんが、宇野が言っているのも、そう言う事なのかなという気がするのです。



 ……以上で、散漫ながら私からの応答を閉じたいと思います。
 私としても途中、ヒートアップしてあらぬ事を書いたかも知れません。御不快を感じられたようなら失礼いたしました。
 そして、長らくのお付き合い、ありがとうございました。



※この記事のあと、id:pratiitya-samutpaada から最後のご返答をいただきました。
 http://d.hatena.ne.jp/pratiitya-samutpaada/20100308


 もしかしたら、宇野の議論の限界がこの辺りにあるのかな、と思わせる興味深い指摘をいただいた気がします。
 ……まぁ私は批評は素人なので、既にその道では周知の見解かも知れませんが、
 私自身が薄々感じていた、『ゼロ年代の想像力』への物足りない感じを初めて言い当てていただいた、鋭い指摘な気もします。
 ぜひどうぞ。