宇野常寛は何を祝福したのか Takakazuさんとの対話2


※ http://d.hatena.ne.jp/pratiitya-samutpaada/20100305
  こちらへのお返事です。



 懲りずに長文を失礼いたします。


 まず、ご紹介いただいた、宇野がネオリベではないか、という記事について。


宇野常寛氏のネオリベぶりについて
http://enemyofthesun.blog111.fc2.com/blog-entry-39.html



 こちらも、端的に私の理解との相違を感じました。もちろん、この記事の執筆者が「ジャスコ」的な郊外について、実感として不満を抱えている事は分かるのですが、それを差し引いても若干恣意的に読み過ぎているような印象を持ちました。


 たとえば、この記事の方は、宇野が「寂しい人間が肩を寄せ合うような共同体」と言っているのを、「コミュニティ」であると理解しています。


「コミュニティ」としての役割を果たさない集まりという理念自体が、「企業」的だと思うが。

 しかし、宇野がそのように言っている共同体を、端的に「コミュニティ」の意味だと読んで良いものでしょうか?


 そして、(あくまで個人的な印象ですが)この部分も本質を外して理解していると感じます。


私は「テキストサイト」やブログの問題は、それがコミュニティであったこと自体ではなく、コミュニティとしての規模があまりに小さすぎたために、結局ただの「蛸壺」のひとつとして社会に吸収されてしまったからではないか


 恐らくこの記事を書いた方は、ネット上でのコミュニティというのに親しんだ経験が、あまりないのかなという印象を持ちました。それゆえに、そこをこそ問題として取り上げている宇野と見解の相違が出ているのかなと。


 ネット上というのは、「自分の見たいものだけ見る、聞きたい話だけ聞く」という事ができてしまう場所なのです。それこそが問題なのですよ。
 それは、日本全国どこにいようと、必ず同行の士を見つけられる(ですから地域コミュニティとは一概に比較できません)反面、都合の悪い、不快な話にはアクセスせずにすませる事が出来る場でもあります。
 だからこそ、宇野はジャスコの話で「誤配」があること、つまり都合の良い情報ばかり選別している中に、意図しない情報が紛れ込む事の重要性をわざわざ言及しているのです。


 従って、この記事を書かれた方の


こうした「セクト」は恐らくそうした小規模なコミュニティを(その「柔軟性」とやらで)取りまとめ、指導していく役割を担うことになるのではないか。


 というのは、宇野の狙いを完全に読み違えていると思えます。
 こうしたコミュニティ(=島宇宙)を取りまとめる事は、事実上無理です。宇野がしようとしている事は、そうしたコミュニティに風穴を開け、誤配を起こさせる事です。



「資本主義」のような現行の「体制」を支えている根本的原理に対する批判が無い限り、彼らが取りまとめるだろう多数の「島宇宙」とともに、容易く「体制」に取り込まれてしまうのではないかと思う。

 あー、まぁ、体制か反体制か、という二元論ですよねぇ。いやもちろん重要な視点ではあるんですけど……。
 しかし宇野が問題にしているのは、その「体制」がいろいろと揺らいでいる事で、体制を支えているはずの資本主義を体制が御しきれず、リーマンショックを起こして大混乱に陥っているというのが現在の実情でもあり……。
 だからといって、ネグリ、ハートの『帝国』のような問題がなくなったわけではないのですが、その一視点だけで状況を切って済ませられるほど、現在の世界は、そしてゼロ年代は単純でもないのかな、という気もします。


 最初から、「体制かリベラルか」という観念ありきで読んでしまうと、何でもそのどちらかに引き寄せてしまうもので、けど宇野のスタンスを正確に理解するために、この記事を書いた人の引いた図面が本当に有効なのか?  まぁ私もこうした評論は耳学問の域を出ておらず、詳しくはないので適当な感想を言っておりますが……うーん。
 勝手な印象だけで言うなら、この記事を書いた人が宇野の見解を正確に読み取れているという気があまりしません。



 というか、まぁ何よりも、この記事を書いた人の


可哀想なネット右翼

 という表現には端的に呆然とせざるを得ませんが。
 もちろんそこに色々と鬱屈する事情はあるにせよ、そうした自身の鬱屈を解消するために、「一まわり大きな立派な自分」としての国家を幻想して過激な発言や罵倒を振りまく行為に対して、「可哀想な」と表現するセンスは私にはありません。
 確かに、ダメなオタクにも、そうなった事情はあり、屈折もあり、その理由の一端は体制が作り上げたかも知れませんが。オタクが二次元美少女を使って(世間では認めてくれない)自己のマッチョイズムを慰めるような、乱暴なロジックを「体制」を理由にして憐憫したり肯定したりするようなら、それが宇野の言う「安全に痛い自己反省」以外の何だというのか、という気もします。


 宇野の論及に漏れがあるというのなら、それは議論の瑕疵として認める必要があるでしょうが、この記事を書いた人は正に宇野が書いた通りの「自己憐憫」、宇野が指摘した通りのダメなパターンを最後の最後で晒してしまっているので、これでは宇野の主張を裏付けているとしか……というのが正直な感想です。



北風を吹かせて「ダメな人間を有効活用するためには、見せしめにすること」というのは、「バトルロワイヤルをすると言っても、自分の好きな作品以外はクズだと言うばかりのもの」 と同じ、自閉した決断主義者のメンタリティを感じてしまうのです。(彼のいう)ダメな人間がなぜダメなのかを理解しようとせず、「見せしめ」にしようというのは、自らがリンクの外部(北風を吹き付けるものの側)に立つことで、バトルロワイヤルを回避しているようにしか思えないのです。

 繰り返しますが、私の認識はまったく逆です。
 宇野はむしろ、積極的にバトルロワイヤルを仕掛けようとしています。
「『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために」を書いた方や、今回ご紹介いただいた記事を書いた方は、宇野の売ったケンカを買ったという意味で、正に宇野主催のバトルロワイヤルに参戦したのです。
 しかしここで、宇野は非常に意地の悪いトリックを仕込んでいます。
 宇野はわざと挑発的な、嘲笑的な言葉で読者が腹を立てるように仕向けています。
 しかしそこで宇野の思惑どおりに腹を立て、その感情をそのまま理論武装して文章を書くと……宇野が『ゼロ年代の想像力』であらかじめ指摘した通りの構図をなぞり、宇野の論旨を補強してしまうのです。いわく「バトルロワイヤル」「動員ゲーム」、いわく「安全に痛い自己反省」。


 個人的な解釈ですが、宇野が引用されたインタビューで「ダメな人間」という言葉で本当に指し示しているのは、この宇野の仕掛けたロジックの罠に、何も考えずに頭から突っ込むような、不用意な発言者です。



「『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために」という記事の名前を見て、変だと思いませんか? 腹が立ったかどうかと、論理的に正しいかどうかは全然別の事じゃありませんか。たとえ腹が立とうと、論理的に正しいなら、その正しい事は認めるのが筋です。
 しかし上記の記事は、「腹を立てた」事を立脚点に宇野の論理的瑕疵を見つけようとします。感情的反発を理論武装しようとしているだけで、本来の論述の姿勢ではありません。


 議論というのは、お互いにフェアにやらなければ、不毛な水かけ論になるに決まっています。しかしネット上では、そうしたフェアさを知らない論者が実に溢れています。
 自分が腹が立ったかどうかと、論理的に正しいかどうかの区別もつかないような、それでいて批評家顔して論陣を張っているような、そういう論者をこそ、このインタビューでの宇野は「ダメ」と言っているのだと私は理解しています。
 そういう論者ほど、宇野の仕掛けた罠にあっさりかかって、自分から「見せしめ」の舞台に立つのです。たとえばブログという舞台で、自分から進んで「見せしめ」になってしまう、そういう風に宇野は仕向けているわけで。


だから作り手意識だけが肥大してしまった人たちが、過剰な反応をしているというのは結構狙い通りなんですよね。

 正に、釈迦の手の中、じゃありませんか。



 まぁそういうわけで。
 私は宇野の術中にハマるのが癪に障るので、「宇野信者」「アンチ宇野」のどちらの動員ゲームにも参加しないように、どちらの御神輿も担がないようにしています(笑)。まぁ、ネットではどちらかというとアンチ宇野の方をよく見かけるので、宇野の仕事を評価する発言の方が多くなるのですが。


とりあえずそんなところです。