宇野常寛は何を祝福したのか Takakazuさんとの対話1


id:pratiitya-samutpaada さんとのTwitterでのやりとりから派生した議論を、この場に再掲します)


 引き続き長文を失礼いたします。


 とりあえず個別の発言で、気になったことを軽く。


彼の言説をみると、彼の言説を批判するものをベタ「決断主義者」とし、自己をメタ「決断主義者」としている節があります。このように、他者を捉えてしまうと、構造的に、同じバトルロワイヤルのリンクに氏自らが立つということが不可能なように思えるのです。

 この部分、私の理解と相違があると感じます。
 宇野が、自分自身の発言や見解(だけ)は決断主義でない、それを克服していると記述しているくだりが具体的にありましたでしょうか? まぁ、この本読んだのも結構前なので、実は細部はあまり覚えてないなかったりしますけれども(ぇ
 むしろ、誰もがバトルロワイヤルの場に立たなければならないという認識は、宇野自身もそうであるという事を当然に含むと思いますし、それは本人も認識しているのではないかなと私は思っていて。
 事実、そちらのブログでも紹介されているように、「『ゼロ年代の想像力を読んで腹を立てた人のために』」といった記事が書かれ、それがブログ上で賛同者を集めてはてなスターを集めたりブックマークを集めたりしている、つまり動員ゲームが起こっています。あれこそ宇野の言うバトルロワイヤルでしょうし、「アンチ宇野」がバトルロワイヤルのリングに乗っているなら、当然その対戦相手の宇野もリングに乗ってはいるでしょう。
 もちろん、たかがブログで何を書こうが、商業で書いている宇野がそれに律儀に相手してくれるわけもなく、従って直接の論争は起こりません。けど、宇野の著作があり、それに反対するブログ記事があり、互いに賛同者を増やそうとしているならこれはまぎれもなく動員ゲーム、バトルロワイヤルです。宇野はしっかりとリングに乗っていると考えます。


 宇野がメタ「決断主義」をしているように見えるのは、現状宇野だけが、まとまった形で「決断主義」を論じている人(少なくとも管見では)である事。そして意地悪い言い方をすれば、現状宇野を向こうに回して、しっかりと説得力のある宇野批判をまとまった形で書ける評論家が見当たらないからでは?
 自ら決断主義を論じ、なおかつ決断主義者を演じているなら、それはメタな決断主義になるのは当然です。しかし、メタであるから反論不能であるとは必ずしも思えません。
 まぁ確かに、宇野はこの「メタ決断主義者」として振る舞う中に、意地の悪い罠というか、引っかけを潜ませている節はあるので、それを(私の知り合いの言葉を借りれば)不誠実であると言うことは可能かと思いますが。ただ、そのような意地の悪いやり方をとったのは、彼なりの苛立ちがあっての事ではないかとも思います。これについては後述。



彼の思想では、グローバリゼーション、アメリカ帝国の支配、ネオリベオウム真理教などの宇野史観を超えたものや、「終りある(故に絶望的な)日常」という実存的問題が抜け落ちてしまうように思えるのです。


 グローバリゼーションについてはクドカンドラマについて書いた中の、郊外や特定の場所、ローカルな場所を舞台にした話を作る事について触れた部分で。ネオリベは正に決断主義の一つの表れ方として。それぞれ彼の論の中に組み込まれていたような記憶があります。
 オウムについては、ゼロ年代的な事よりも、その前、90年代的な世相の正に象徴として存在しているので、深くは論じていないのかなと思います。実際、オウムとエヴァをからめて論じたような記事ならプロアマ問わず、けっこう膨大にあるはずです。
 なお、宇野自身のオウム真理教観については、以下の記事が参考になります。
機動戦士Ζガンダム回顧録」#50 宇宙を駆ける
http://zgundam2nd.exblog.jp/m2005-09-01/#766785


 以上の点より、宇野の論からグローバリゼーションやネオリベ、オウムなどが抜け落ちているとは私には思えません。
「終りある(故に絶望的な)日常」というのは、少し宇野の論点から離れた切り口かな、という気がします。この点については、むしろtakakazuさんならではの切り口として、深めていかれると良いのかなという気もします。もしかしたら、ここから宇野批判の突破口が開く可能性もあるのかもしれないなとも、思わなくはありません。この論点から捉えた、takakazuさんの宇野論というのが組めるなら、面白いかも知れないなと思ったりもします。



だからこそ、彼の社会的弱者への想像力の欠如や、リバタリアン的な自己への自覚の欠如、国家体制への甘さというものが、気になって仕方が無いのです。それが危険な方向を向かうのではないのかということが、心配でならないのです。


 ここもなのですが、宇野が社会的弱者について抑圧的な事を書いた部分があったでしょうか? ちょっと、現在の私のおぼろげな記憶では該当する箇所が思い当りません。オタクなどのマイノリティ的島宇宙へは最大限の嘲りを表明してはいらっしゃいますが(苦笑
 むしろ「決断主義」の一番分かりやすいモデルとして夜神月を挙げ、そうした決断主義の暴力性の克服を問題にしているわけです。また、そうした決断主義の政治における象徴として小泉改革を挙げてもいます。小泉改革の一環である規制緩和により派遣労働が増えて、格差社会が広がったという認識が特に問題ないなら、そうしたところの暴力性をも宇野は間接的に問題視しているわけで、これは弱者へのまなざしと考えても別に問題ない気もしますが。


 しかし、宇野が直接「社会的弱者」に優しいそぶりを見せないのは、現代社会においてマイノリティ、弱者、被害者というのは、ある意味で最も「強い」人たちだからです。
 たとえば昨今の、禁煙を広げていく運動を見ても分かるかと思います。受動喫煙者、つまり喫煙の被害者たちが、その被害者である故に最も強力な発言者たりえるという事。先日見たニュースでは、喫煙を容認する喫茶店主に対して、公共の場で堂々と「人殺し!」と罵倒する人の姿が映されていました。
 国家間でも似たようなもので、中国や韓国は未だに戦争被害を持ち出し、一方日本は拉致被害をもって北朝鮮に対しています。


 弱者を責めるのは社会的に反道徳である故に、被害者は攻撃を受けることなく、大義名分を持って加害に及ぶ事ができる。今や誰もが、積極的に弱者になろうと躍起になっている時代です。



 ……いきなり飛躍したと思われたかも知れませんが、これはサブカルチャーにおける島宇宙においても似たり寄ったりな状況だったのです。
 それこそ、冬ソナで泣くおばさんたちを嘲笑しながら、自分たちは『Air』で大泣きするような状況があったわけですが。それは要するに、「自分たちはマイノリティである故に正しい」というアイデンティティの、価値観の立て方が普通に見られたわけです。
 僕らは世間で流行ってるような、あんな軽薄なもので感動する奴らとは違う、ホンモノを知っている少数の目利きなんだ、という島宇宙が、サブカルファンの界隈にはごろごろしているわけです。


 で、そうした島宇宙同士でのバトルロワイヤルもあるのですが、それはもう、互いに互いが支持する作品をこき下ろすばかりの、それはそれは凄惨なものです。私はいくつかそういうのを見てきていますが、金輪際関わり合いになりたくないような戦いです(笑)。


 宇野が『ゼロ年代の想像力』を書いたのには、そういう背景があるというのは念頭においておいても良いような気がします。
 そうした島宇宙の状態では、バトルロワイヤルをすると言っても、自分の好きな作品以外はクズだと言うばかりのものでした。たまに外部を取り込む際にも、それはあくまで「安全に痛い」範囲で、自らのあり方には支障をきたさない程度で行うばかりというのが常套であったのでしょう。


 かといって、そういった争い、バトルロワイヤルを止めようという運動や発言をしても無駄です。巨大掲示板などでは「自治厨」などと言われますが、要するに争いを止めようとするのも、それ自体が決断主義化してしまうので、結局上手くいかないのです。
 ではどうすれば良いか。私の推測ですが、宇野は「ならバトルロワイヤルの質を高めてやれば良い」と思ったのではないかなと。



「安全に痛い自己反省」を避けようにも、自分が許容できない程他者を呼び込むのは簡単ではない。」というのも同意出来ます。しかし、その克服がどうしてバトルロワイヤルでなされるのでしょうか?その論理的なつながりが今一理解出来ないです。

 バトルロワイヤルがただの罵倒に終始しているなら、それはどうにもなりませんが。
 しかし、たとえば宇野の議論に対して反論を立てる、という事をしたように、それが議論の体をなしてくればどうでしょうか。自分が許容できる範囲で、あらかじめコントロールできていた「安全に痛い」領域を超えて、思いもしなかった反論がやってくるかもしれない。そこから本当に他者を取り込むことが出来るかもしれない、というほどの意味です。


 takakazuさんがおっしゃるように、宇野は『ワンピース』や宮崎駿ゼロ年代の作品など、重要な作品のいくつかを論じていません。その点を指摘する事は宇野批判の面で非常に有効だと思います。
 おそらく宇野は、特にそういった島宇宙化が顕著な領域に的を絞って、わざと論陣を張っているのだと思います。明らかに宇野の狙いの一つは、そういうところで決断主義化して、自分の島宇宙を安い方法で守ろうとしている連中を引きずりだす事です。


ゼロ年代の想像力』に、まったく付け入る隙、反論可能性がないかといえばそうではありません。他作品の批判に終始している宇野ですが、中間の三か所でだけ、彼自身が「是」とする方針を述べた部分があります。工藤官九郎、木皿泉よしながふみを論じた各章です。
 この三つの章に異を唱えるならば、私たちは宇野に対して反論する事が可能です。ここでわざと、宇野は弱点を晒しているのです。
 しかしその弱点を突くためには、ギャルゲープレイヤーなどの信者たちは、普段は触れた事のないドラマや少女マンガの世界に接してみなければいけません。その上で、それなりの言葉を自分なりに探さねばなりません。その時点で、彼ら決断主義者たちの保持している島宇宙が多少とも相対化される事を、宇野は実は狙っていたのではないかと私は勘ぐっています。



 一方で、そうして言葉を探りながら発言していく事は、バトルロイヤルの質を多少なりとも高めます。


 takakazuさんはきっと、同人シューティングの東方という作品をご存知でないこととは思いますが……『ゼロ年代の想像力』を読んだ時、私が思い浮かべていたのはその作品の事だったりしまして。


ゼロ年代の想像力としての東方project
http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20090111/1231620176


 バトルロワイヤルから上手く暴力性を緩和する事が出来れば、その上で様々な多様な島宇宙出身の、いろいろな人々が積極的にバトルロイヤルに集まれば、そこには多様で豊饒なやりとりが生まれるんじゃないかという、これは私の夢想のようなものですが、宇野の言葉の中にそんなメッセージを読み取ったりしたのでした。


より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。

 宇野のこの記述は、その後の議論の中にあまり大きく取り上げられず、工藤官九郎、木皿泉よしながふみを論じたパートでも論旨は別を向いてしまいます。
 宇野が示した時代への処方箋は工藤、木皿、よしながを論じた各章の、この3つだったわけですが、しかし上に引いた「自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法」という記述は、もう一つの答えでありえると私は思っていますし、もしかしたら宇野の本当の狙いも……? とも思っていたりするのでした。



 長々と書きましたが、とりあえず以上のように私は件の書籍を読んだ次第です。
 特に、バトルロワイヤルの暴力性を上手くすかして、その上で優雅に、目いっぱいバトルロワイヤルと楽しめばいいのだという宇野のメッセージは、『ゼロ年代の想像力』全体の苛烈な批評のイメージに反して、非常に明るく希望に満ちているし、だからこそこのメッセージを受け取らずに、「宇野自身だって決断主義者じゃん」で読みを終わらせてしまうのはもったいないと思って、つい見かけると口を出してしまうのでありました。


 突然の長文で大変申し訳ないです。でも、叶うならば、宇野のそういうメッセージにももっと目が向けられればいいな、と思う次第でありました。
 ご退屈様。