コクリコ坂から


 見てきましたよ。
 前評判が意外に良さそうだったのと、ニコ生での岡田斗司夫氏のコメントがちょっと気になったのと、その他もろもろで。
 で、見てみたら、いろいろと思うところが出てきて、珍しく感想を書く気になったので、軽くブログにアップしてみることにしました。


 なお、注意事項として。
 単なる批判記事と思われるのは心外なので先に書きますが、私はこの映画、楽しみました。好きか嫌いかで言えば、明確に好きです。
 その上で、その楽しんだ点をつづるために、最初にこの映画のダメなところを列挙します。まあつまり、私のいつものやり方です。その点、ご了承を。
 それから、私は宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』は未見です。その点ご理解の上、お読みください。
 そして、激しくネタバレ注意。
 では。



 とりあえず、最初の十分ほどの感想はというと、「ジブリ作品なのに、食べ物がおいしそうじゃない」でした(ぇ
 特に、最初の朝食シーンに出てくる納豆が、映画館の大画面で見るとひどすぎた。
 肉屋で風間くんが買ってたコロッケも、コロッケっぽく見えなかったなぁ。
 やっぱりこう、食べ物が必要以上に美味しそうに見える、というのがジブリアニメの伝統のように思っているので、まぁちょっと残念ではあった。


 ほかにも、細かな動きとか演出とかでも、「宮崎駿なら……」っていう見方はやはりどうしてもしてしまいます。基本的に父親と同じ絵柄で作品作ってるわけだから、細かな違いがやっぱり意識されちゃうんですねぇ。
 冒頭近くのコンロの火とかも、たぶん宮崎(父)なら、あれよりはるかに「それっぽく」見せられたんだろうな、と思ったりはします。
 まあでもね、そこは仕方ないといえば仕方ないわけです。日本中探したって、そういうところで宮崎駿に匹敵できる人ってそうはいないんでしょうし。吾郎監督は、まだルーキーの部類でしょうしね。


 作品の舞台設定は、東京オリンピック前夜の「昭和」日本。個人的には、この辺を作品の時代設定に持ってこられるとやはり警戒感が先立つというのが正直なところ。つまり、「その年代だけがノスタルジーで盛り上がるだけ」の作品なんじゃないか、と。
 たとえば作品中に坂本九とか長嶋茂雄とか出されても、当時を知らない観客はどうしようもないんで、結局スルーするしかない、という。
 まあそれでも、演出というか、背景の一部になってくれているから、まだ見られるという感じで。その辺、高畑勲監督作品より、幾分マシではあります。『となりの山田くん』での月光仮面のシーンとか、見ててどうしようかと思ったもんね(笑)。リアクションに困るというか。
 ただ、坂本九の『上を向いて歩こう』が何度か作中BGMとして流れるんですが、「ひとりぼっちの夜〜」って歌詞が流れるタイミングで、必ずヒロインのウミと風間君がカップルで映ってて、「ちっとも“ひとりぼっち”じゃないじゃん!」って突っ込みながら見てましたがw 重要なテーマ曲として使ってるのに、作品内容と全然シンクロしてないじゃん、という。



 しかし、何よりもストーリーなわけですよ。問題は。
 公式サイトのあらすじにも出てるみたいだけど、ガールミーツボーイがあるんだけど、そのガールとボーイが実は血のつながった兄妹っぽいという話になって……という。
 で、それが発覚した時点で、ボーイである風間くんが「安っぽいメロドラマみたいだ」と感想を述べるシーンがあるのですが……何がびっくりするって、本当に最後まで「安っぽいメロドラマ」だった事に驚くわけです(笑)。その恋路の邪魔になる事情が解消されるなりゆきとかも、全然目新しさとか感じられないし。それこそ昭和時代の恋愛映画とかでちらほら見かけそうな筋、という感じでした。
 ぶっちゃけ、これで実写映画だったら、私「金返せ!」って叫んでたと思う(笑)。


 ここで問題になってくるのが、スタジオジブリ作品だって事なんです。
 先ほど、細かな演出では宮崎駿に比べて見劣りするという事を書いたのですが、とはいえやっぱり、そこはスタジオジブリなわけで。技術力も、持ってるノウハウも半端じゃないし、凄いところは凄いわけです。ふと夜空の月が映るところの質感とか、下宿してる絵描きのお姉さんの部屋の背景とか、もう溜息出るくらい凄いわけですよ。
 作中、頻繁に登場する船の動きとかも、本当にすごい。アニメーションを作る能力という意味では、やっぱり日本有数の実力持ってるな、という事を見せつけられもしたわけで。
 だからこそ、異様な画面になってるわけです。宮崎駿という天才の、どんな荒唐無稽な想像力も受け止めて、映像作品として仕上げてきた技術力と表現力。それをフルに稼働させて、「安っぽいメロドラマ」が展開されてるという、何かすごい異様な画面が展開されてる(笑)。


 ここは、意見の分かれるところなのかな、とは思うわけです。
 せっかくの技術力やノウハウが全然活かされてない、とも見られる。実際この作品には、そういう「イマジネーションで魅せる」ようなシーンは一つもありません。
 でもね。私はむしろ、そういう部分も含めて、面白く見たのでした。


 正直、これは作品そのものの出来への評価じゃないんですけどね。「スタジオジブリがこれを作った、というのが面白い」という感想です。



 宮崎駿と比較した時に、出来が相対的に稚拙になるのは、それはしょうがない。
 しかし一方で、この『コクリコ坂から』には、宮崎駿が作品を作っていたら絶対見られなかっただろう人物像や、場面がいくつもある。
 たとえば、風間君と行動を共にしている、水沼というメガネの貴公子とか。ああいう知性派っぽくて、メインキャラと並立して存在できる少年像って宮崎駿作品には出てこない。
 あるいは、ヒロインがやってる下宿に住んでる絵描きのお姉さん。あのお姉さんの無気力っぽくて、色気を纏おうとしてるわけでもなく、かといって宮崎少女キャラ的な無垢とも違う、文化系女子のキャラというのも宮崎駿作品には、たぶん出てきたこと無かったハズ。『魔女の宅急便』に出てきた絵描きのお姉さん(ウルスラ)と比べるとわかりやすいと思います。パーティーで周囲の会話に見向きもせず、食べ物だけモリモリ喰い続けるという「女性像」は、宮崎駿の中には無いんじゃないかしらw 男キャラにはたくさんいそうだけどね。
 あるいは、カルチェラタンにたむろする男子学生の集団群像。『もののけ姫』の中では、タタラ場の男たちという形で出て来ていましたが、ああいう「馬鹿騒ぎする男ども」というのは宮崎駿は基本的にネガティブな印象で描く。『もののけ姫はこうして生まれた』で宮崎駿自身が言っていたはずですが、ああいうモブの「馬鹿騒ぎする男ども」は、宮崎駿にとっては「自分自身見たくないし、出したくないんだけど、出さないと逃げたことになるから仕方なく描く」ものだったようで。しかし、『コクリコ坂から』では、それが肯定的に描かれている。


 スタジオジブリの絵柄で、今までジブリが描いてこなかったキャラクターが動いているという、正直それを見るだけでも、映画館にお金を払う価値はあるんじゃないかと思ったりします。少なくとも私にとってはね(笑)。
 結果として、そういう「宮崎駿作品では見られなかった」要素が、「宮崎吾郎監督としての味」なんじゃないかと思うのです。もしそうなら、私は評価していいと思う。
 あの立場で、あの売り方を前提にして作っているのです。「宮崎駿の縮小再生産」にならないだけでも立派だよ。「空を飛ぶシーンを何が何でも入れなくちゃ」みたいな無理な作り方をしてないだけでも、十分すごい。
そして、独自のカラーが出せるなら、それを突破口に次へ行ける可能性もあると思う。



 個人的にこの映画で好きだったのは、「カルチェラタン」という空間と、そこにたむろしている部活の男どもでした。作中の女子生徒諸君には大変申し訳ないが、大掃除される前の汚いカルチェラタンの風景の方が、見ててワクワクしました(笑)。あそこだけは、宮崎駿的な想像力のダイナミズムが、少しだけ垣間見られたと思う(『千と千尋』の油屋みたいなね)。
 で、そこで思い思いに、楽しそうに文科系部活動をやってる連中の、描き方が好きだった。考古学部とかね、もう超ネクラな連中なんです(笑)。でも、そこに変なコンプレックスもないし、伸び伸びとネクラに自分の好きな道に邁進してる。そういうのが肯定されてるのを見ると、やっぱりネクラな文化系男子としては嬉しいわけですw


 そして、彼らが集まって行う言論大会。その様子は滑稽で、バカバカしくて、だからこそ良かった。
 今、現代において、学生運動とかいうのを振り返って語られる際、それはもう過激な側面と、「保守か革新か」みたいなスタンスの話でしかなくて。同時に現代の若者においては、「政治を語る」「政治的に語る」ことは、身構えて避けられるか、ヒステリックなバッシングの形をとるか、どちらかでしかない。
 でも、本当は、政治を語る事ってもっと、バカバカしくて、そうであればこそ闊達な、ああいう場であっても良いものなのかもね、っていう。
 そういう空気のために、作中年代をあの時代にしたという事なのかもしれない。そうなら、意外に奏功してる部分もあるのかな、という気もします。
 まあもちろん、あれはあれで、美化された描写なんだろうけどね。


 ……いや、まあ、そういう難しい話抜きにしてもさ。
 小学校の教室みたいなね、そういう居心地の良さは感じたのですよ。「男の子のバカさ」みたいなものに、クラスの女子たちが呆れつつも、でも居場所はある、みたいなね。オトコノコはハタ迷惑で馬鹿なものなんだよ。でも、最近はその馬鹿さの居場所が無いから、けっこう息苦しく感じる事もあるからさ。


 そんな感じで。
 正直、アラはいくらでもあるよ。
 主人公たちの恋愛について、『耳をすませば』では一番最後の作品の〆になってた、「好きだ」って告白して思いが成就する場面が、この作品だと中盤の最後あたりで。結局、親の世代にお話してもらって、承認を得ましたってところで終わるという構造になってるけど、恋愛ものとしてその辺どうよ、という部分もあり。まあ、昭和のあの時代ならそこがゴールだったかもしれないけど(笑)。
 でも、そうやって突っ込みを入れつつも、私は好きになれた映画でした。だから良かったと思う。
 今後も、父親と適度な距離を保って、「吾郎監督ならでは」の作品が作れるようになっていけば良いね、と思います。


 そんなところで。