かぐや姫の物語


 見てきました。
 元々、『パシフィック・リム』見に行った時にこの映画の予告編を見て、「おぉっ!?」と思った次第で、必ず見ようとは思っていました。
 とはいえ、個人的に高畑勲監督作品には微妙な思い出しかないのも確かで。基本的に見終えた後、釈然としない気持ちで劇場を出た記憶しかない(笑)。『おもひでぽろぽろ』などそれなりに好きな作品もあるのですが、一方で圧倒的に納得いかない作品もちらほらあるわけで。一抹の不安も抱えていなかったといえばウソになります。


 そんなわけで、若干身構えながら見たわけですが。
 結論から言うと、素晴らしい作品でした。
 高畑作品の中では間違いなく一番好きだし、ジブリ映画全体で見ても、その日の気分によってはうっかり五指に入れてしまうかもしれない、くらい良かったです。


 最初にはっきり言っておくと、文芸批評や現代思想の文脈で読み解いても、掬えるところはほとんど無いんじゃないかと思います。フェミニズム的な意味で素晴らしいという評価も一部にあるようですが、そうした観点でも特に新しい内容があるとは思えませんでした。平安時代を舞台にしているせいもありますが、問題意識としてはイブセン『人形の家』と同列くらいじゃないかしら。もしこの作品のフェミニズム的な側面が現在でも有効と読めるなら、それは作品の提示した問題意識が新しいからじゃなくて、この国の女性を巡る環境が全然好転していないせいですw
 他にも、かぐや姫が最終的に是とする庶民的労働賛美とかも、大体思想としてはとうの昔に底が割れてるものじゃないかと思えました。私は思想方面は専門ではありませんが、それでも宮崎や高畑作品への批判としてよく聞かれた指摘から特に外へ出ていたようには、私には見えませんでした。


 しかしですね。
 映画の良さって、作品解釈や考察によって引き出されるものだけじゃないと思うのです。上記のような脚本段階での欠点を差し引いて、なお有り余るほどこの作品は素晴らしかったというのが私の感想です。


 冒頭、まだ姫が赤ん坊である間の、リアルで活き活きとした動き。子供の一挙手一投足を見ているだけで、つい手に汗を握ってしまいそうになる「あの感じ」をアニメで完全に表現して見せる手腕や。
 予告編でも見た、かぐや姫が猛然と走るシーン。静的な平安貴族のイメージを完全に打ち破る、爆発する運動描写、十二単の束縛を振り捨てる女性の身体性の躍動。
 とにかく、全編にわたっての映像の力が素晴らしかった。一秒たりとも退屈しませんでした。


 一方で、かぐや姫に求婚に来る5人の貴公子の成り行きは、いちいちユーモアが冴えていて、可笑しくてずっと笑っていました。帝のデザインも、狙ったのか何なのか地獄のミサワに酷似していて、出ている間ずっと腹がよじれるほど笑っていたw
 面白いシーンは本当に面白い、というのも私はシンプルにこの映画の良さだと思いました。


 私はやっぱり、アニメーションは映像の力がまず何よりも大事だと思って作品を見てきました。宮崎駿作品にしても、作品解釈の深みもありますが、やはり何より映像表現の独創性の面で評価すべき人だと思う。
 やはりある時期以降、スタジオジブリ作品って何か難しい作品テーマ性とかを汲むような見方が当たり前になってしまっていますが、それだけにジブリ作品の鑑賞の仕方(とそれによる世評)にバイアスがかかり過ぎている事には少々不満です。この『かぐや姫の物語』なんかは、難しい思想や文芸批評的な見方ではなく、単純に「まんが映画」として見て良いんだと思う。そのように見られれば、これは力のある、良い作品として楽しめるはずなんです。


 まぁ、もちろん不満点もあったわけですけれど。
 特に『竹取物語』については一時期興味があって調べていたりした事もあって。どうしてもそういう目で見てしまった分で気になったところもありました。
 特に最後、月から来た迎えが、完全に仏教の来迎イメージになってたところは、明らかなチョンボです。「月に都がある」なんてイメージは仏教には無いでしょう。かぐや姫を迎えに来るのは、中国の神仙思想のイメージでなければなりません(神仙思想イメージは、かぐや姫が帝に渡した不死の薬によっても裏付けられるのですが、この『かぐや姫の物語』ではその部分はカットされていましたね)。
 こうした映像作品は後世のイメージ固定に多大な影響を与えるので、こういうところは気を配って欲しかったなあ……。



 あと、気になったのは、この作品が非常に「宮崎駿っぽい」ところでしょうかね。
 終盤になって、かぐや姫と捨丸が気持ちよく空を飛ぶシーンが入っていて、すごく意外に思えました。
 宮崎駿は、『もののけ姫』以降、彼のトレードマークのように言われてきた空を飛ぶシーンについて、かなり抑制をかけるようになりました。気持ちよく飛んでばかりもいられない、というスタンスです。そして引退作となった『風立ちぬ』では今までのファンタジーな設定も捨て去りました。ちょうど、ジブリに来てからの高畑監督が『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』と戦中戦後日本を舞台にした非ファンタジー映画を作っていたように。
 ところが一方、高畑監督は『かぐや姫の物語』で、逆に『風の谷のナウシカ』の頃の宮崎駿作品っぽい傾向に寄ってきているように思えました。上記の空を飛ぶシーンの他にも、たとえば宮崎が『ナウシカ』のモデルとして挙げた「蟲愛づる姫君」を連想させるシーンも作中にありますし、またコミック版『ナウシカ』のように宗教的な救済を否定的に描くメッセージ性もありました。
 宮崎と高畑という両監督が、その作風の面で交差していくのか、というのは色々と感慨も深く、面白いところでもあったように思います。



 もう一つ気になったのは。
 この作品でのかぐや姫の描き方が、見方によっては一種の男性恐怖症というか、奇妙な忌避感を醸している事がちょっと気になったりしました。むろん、求婚者をことごとく拒絶しているからそう見えるわけで、そりゃ『竹取物語』だってそうじゃないか、と言われればその通りなのですが……しかし『竹取物語』のかぐや姫は、あんなにナイーブな描かれ方してないんですよね。燕の子安貝を探す石上麻呂に対して「宝を持ってくると言いながらこんなに待たされて、これでは待っている甲斐(貝)もないわ」みたいな性格悪い和歌を送りつけたりしていて(笑)、さらに石上が亡くなったという知らせを聞いても「少しかわいそうかしら」くらいの感想しか持っていなかったりしますw
 一方の『かぐや姫の物語』では、はるかに繊細な描き方になっている。帝に抱き着かれた時の猛烈な拒絶の表情とか。もちろん好きでもない男にいきなり抱きすくめられたら(時代背景も勘案すれば)当然の反応、とも言えるのですが。それにしても、原作『竹取物語』にあった超然としたイメージ、五人の求婚者を逆に手玉に取ってしまう強さは見られません(そういう意味では、フェミニズム視点ではむしろ後退してるんじゃないか、という気もしないでもない)。
 『竹取物語』のかぐや姫には、なんか清少納言的な勝気な賢さに通じるモノを感じるのですが、日本男性には(女性にも?)そういう勝気さ・賢さはあんまり人気ないからなぁ。
 まぁ、だから、オリジナルとして捨丸とのロマンスを挿入したのかな、とも思いますけどね。あれがないと、本当にかぐや姫が男性恐怖症みたいになってしまう。


 ただいずれにせよ、この作品で描かれた求婚と拒絶の描かれ方のニュアンス、また『竹取物語』では重要人物であったはずの帝の存在感の後退など、なんか結果的に引っかかってしまったところもあったなぁ、という感想も残りました。


 なんだかんだで、考えるところも多い作品なのかも知れません。
 ただまぁ、基本的には映像表現の豊かさを味わうのが良いのだろうと思います。