サロメ


サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)


 グリム童話集の次に何を読もうかなと思って、深く考えずに手に取って読んでみたら、そういえばこれ19世紀に書かれた作品でしたな(気づけよ
 というわけで、いきなりオスカー・ワイルド


 まぁね、去年後半、ホメロスから順番に古典を読んできて、一応それなりに時系列順を意識してきたわけですが、しかし当方こう見えても、西洋文学史の大枠もろくに頭に入っていないわけで。ローマ時代を抜けたあたりから、さっぱりです。どの作品がどの時代のどこの国の文学かとか。
 そんなわけで、これ以降は時系列無視で、手あたり次第という事になるかと思いますが……。


 そんなこんなで、サロメですよ。
 ビアズリーの挿絵と、「なんか王女が、恋した男の首を欲しがる話」程度の認識しかなかったわけですが。そもそも戯曲である事すら読んでみて初めて知ったというレベル。
 そんな体たらくだったわけですが、読んでみたら、王女サロメの恋情や狂気よりもむしろ、登場人物すべてに隠然とした支配力を発揮していると見える「月の狂気」の方が強烈に印象に残りました。
 特に狂気に傾いた言動をする登場人物が、いずれも月を凝視してそれを賛美するセリフを言っていて、さらにその人物が別な主要人物を月にたとえて、そしてやはり凝視する。一方、その凝視する人物の傍らに、「見てはいけない」と再三にわたって忠告・懇願する人物がいて。
 同じ構図、同じセリフが何度となくリフレインしていくという、やたらとテクニカルな作品で、びっくりしたのでした。
 そういう目で見てみれば、サロメがヨカナーンの首を「銀の皿にのせて」欲しいと言った、その銀の皿も月の暗喩でしょうし。なるほどこういう話だったのか、と。


 ギリシャ悲劇を読んでた頃に書いた、「悲劇」というのは個人の自業自得や因果応報を超えて、神々の意志や運命のような超越的なものに翻弄される人物を描く劇なのだろうという予測がずっと念頭にあったわけですが。
 おそらくはシェイクスピアの悲劇にもそういう「悲劇」の構造は弱まりながらも貫流していて、訳者の福田恒存さんが「宇宙感覚」なんて言葉で表していたのかなと思ったりもしますが。
 同じ構造がこの『サロメ』にも流れていて、それが恐らく「月」なのでしょう。物語の中に、明確に登場人物の自業自得・因果応報だなと思えるような要素はほとんど見受けられません。月を凝視した人物から、あれよあれよという間に自体が悲劇化していくわけで。
 一本調子な読解かもしれませんが、こういう読み解きの鍵、コードが見つかったというのはやっぱり嬉しいもので、読んでる甲斐もあるというものです。


 個々の人物像について思うところもありますが、やはり作品全体から受けた印象の強さが勝った感じがありました。リフレインを多用する技巧の部分、そうしたテクニックによって何も起こらないうちから場の緊迫感や不穏な空気をガンガン高めていくところとか、素朴に感心して読んだという感じです。
 これはやはり、劇として上演されてるのも見てみたいという気分になりますねぇ。


 ともあれ、ちょっと寄り道的な読書になってしまいましたが。気にせずどんどん読んでいきたいと思います。