文語訳旧約聖書


文語訳 旧約聖書 IV預言 (岩波文庫)

文語訳 旧約聖書 IV預言 (岩波文庫)


 今年読む予定だったものとして一番の大物、と年初から言っていた旧約聖書ですが、どうにか読み終えました。さすがに難物だったものの、『ローマ帝国衰亡史』ほどではなかったので、まぁどうにか(感覚がマヒしてきたとも言う)。


 旧約聖書には大昔一回トライしてたんですよね。新共同訳のものだったんですが、なにせ字が細かいんで、けっこう頑張ったけど士師記の辺りで力尽きてたのでした。数年越しのリベンジマッチに成功した次第。いやしかし、文語訳なせいもあって、疲れました。


 創世記や出エジプト記なんかも読み返してみるといろいろ発見があって面白かったわけですが、その後のダビデ、ソロモンの逸話なんかにも気になるところが多く。
 そして何よりすごかったのはやはり「ヨブ記」でした。これはもう、読んでいくうちに自然と背筋が伸びていくような、緊張感のある内容でした。事前にいろいろと聞いてはいたのですが、それにしても想像以上の、何とも言えない迫力があった。
 正しい者は報われ、律法を守らぬ者は報いを受けると言いつつ、世の中では義人がひどい目に遭い悪人がはびこっている、なんでだ? ……というのは疑問として当然起こるわけですが、そこに真っ向から挑むヨブと神とのやりとりに、さすがに色々と考えさせられました。
 構成が上手いですよね。冒頭で神様自身に、ヨブが極めて善良な義人であることを保証させているわけで、だからヨブに詰め寄る友人たちの「ひどい目に遭ってるなら何か悪い事したんだろ、気づいてないだけで」という、ある意味意地の悪い指摘が実際には的外れである事が読者には分かってるわけですよね。だからこそヨブの苦悩を読者も共有できるようになっている。で、その苛立ちが最高潮に達したところで、ついに神様と対話することになるのでした。
 その返答も実に奮っていて、圧倒されつつ読んだわけですが……。こういう理解で正しいのかどうか分かりませんけれども、要するに善人でなければ救われないけれども、だからといって善人だから必ず救わなければならない義務は神様には無いわけですね。神様に義務の履行を迫れる存在なんて存在しない。そして、“だからこそ必死に祈って努めなければならない”、と。
 個人的に、親鸞の「善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を思い出していました。自分は善行を行っているから間違いなく救われる、という慢心こそが信仰にとっては一番のボトルネックで、だからどれほど善に努めても救われるという保証がないこと、保証がないからこそ必死に祈り続けることが重要なのかな、という理解です。
 まぁでも、ヨブ記はもう一度、現代語訳ででも読み直してみたいなとも思いました。それだけ気になる存在になりました。


 他にも、ヨナ書なんかも刺激的で面白く読みました。基本的に同じような神様賛美と、神様からの不信への糾弾が中心だったりするのですが、時たまヨナ書みたいな思わぬ変化球が来るのが面白く、油断できない本だなと。
 全般的に殺伐とした内容が続く中で、時に後世のキリスト教につながる萌芽のようなものが見えたりとか。さすがにいろいろ示唆的でした。


 そんなわけで、苦戦しましたがそれに見合った発見もあって、なかなか充実した読書だったと思います。
 それに、こいつをクリアしたことで、ようやくミルトンの『失楽園』とかダンテの『神曲』あたりにも手を出せるかなと思えたのも嬉しいところ。この辺が未読だったのもずっと引っかかってたんですよね。
 とはいえ、その前にもう少し読んでおきたいものがありまして。