若きウェルテルの悩み


若きウェルテルの悩み (岩波文庫)

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)


 ホメロスから始めておいおい進めて来た古典読み強化期間も、ついにゲーテに到達。
 正直、ほんの数年前まで、自分がこの作品を手に取って読むとは実は思ってなかった(笑)。
 まぁ、およそ色恋沙汰には疎いままこの歳まできてしまいましたのでね。恋に悩む小説だというのは知っていたし、だからこそ自分の関心に沿って読む本を選ぶなら絶対手に取らないだろうと思っていたわけです。


 実際、私の関心はウェルテルとロッテとアルベルトの三角関係、みたいなところにはあまり向きませんでした。むしろ、話の筋が本題である恋の悩みから一旦離れたように見える第二部冒頭部分がけっこう印象深かったり。
 何かって、ウェルテルは一度、明らかに行き場のないロッテへの恋から身を引いてるわけですよね。間違いを起こす前に撤退することに成功している。そのウェルテルが、一転して仕事で気を紛らわそうと宮仕えを初めて、それが挫折する事で結局、見込みのないはずの三角関係に戻らざるを得なくなるわけでした。
 これがやっぱり、こう、身につまされるというか、しみじみ感じ入る部分だったわけです。私生活で行き詰ってる人が、公の社会生活の方でも圧迫されたりストレス加えられたりしたら、逃げ場がない分ツラいよねぇ、と(笑)。


 そして実際、その「宮仕え生活における不満」の描写に、なんだかすごく鮮烈な印象を受けたのでした。
 以前、『北北西に進路を取れ』を見た時に、それまで古典映画を見て来たのが、ここにきて急に自分が見慣れたハリウッド映画っぽさが出て来たぞ、と感嘆した事がありましたが。あれと近い感慨がありました。ホメロス以降の作品をここまで色々読んできたのですが、この『若きウェルテルの悩み』まで来て急に、私が学生時代から目にしていた小説っぽさが感じられたのです。それは、人物の内面の描き方、そして社会への距離感。
 なんだろうな、古代ギリシャの戯曲とか、プラトンとかも、あるいは中世叙事詩アーサー王とかも、「運命(神々)がコントロールできない」とか「個人がコントロールできない」事は描かれるのだけれど、「社会がコントロールできない」という事態はあまり想定されてなかった気がするんですよね。プラトン『国家』からトマス・モア『ユートピア』まで、人をガチガチに律して善に導く社会が肯定的にイメージされてたのを考え併せても。これが『ウェルテル』にきて、「嫌な上司とウマが合わないけど一緒に仕事はしなきゃいけない」とか「階級差があって親しみを感じてる人と上手く近づきになれない」とかいう、個人でも最高権力者でもない、両者の中間にある「社会のしくみ」のままならなさに個人がイライラするという構図を初めて見たような気がしたのでした。
 これはやっぱり、ここにきて主人公の内面描写の描き方が一つのエポックを迎えた事と関連してるんだろうな、と思いつつ。


 まあそんなわけで、あまり一般的な読み方じゃなかったかもですけれど。私なりに、この作品からいくつかインスピレーションを得た部分はあったので、読んで良かったです。


 古典読みも、だらだらやっていると何年かかるやら分からんのでかなり急ぎ足でやる予定ではあるのですが、しかしゲーテは他の作家より少しじっくり当たって見ようかな、と思っていたりもします。ここは少し深く掘っておこうという、まぁカンですね。
 そんなわけで、次の本を手に取るのでした。