機動戦士ガンダムAGE 第41話「華麗なフラム」

     ▼あらすじ


 連邦軍の猛攻を受けるルナベースで、ゼハートはガンダムの勢いを止めるために出撃する。そのゼハートに内心を打ち明けたフラム・ナラもまた、フォーン・ファルシアで出撃、キオと激しい戦いを繰り広げていく。
 本当は分かり合えるはずだと言うキオと、今さら遅いと突き放すフラム。キオの元へ駆けつけたアセムと激しい鍔迫り合いを見せるゼハート。混戦を極める戦場に、さらなる脅威、かつての連邦パイロットだったジラード・スプリガンが現れるのだった。




      ▼見どころ


 ルナベース攻略戦が混迷を深めていく第41話。
 この回の特徴として、他の回に比べて少し回想シーンが多く、また長めにとられている事が挙げられます。キオはセカンドムーンでのルゥとの思い出を、アセムはダウネス内部でのゼハートとのやり取りを回想します。言ってみれば、いわゆる「総集編」、今までの展開を回想形式で流す事でアニメ製作スタッフの負担を軽減する回、にもしかしたら当たるのかもしれません。
 とはいうものの、この回を通しで見た時に、とてもそのような負担軽減回には見えません。むしろ戦闘描写はいつもより激しいくらいで、MS戦は非常に見応えがあります。この辺り、AGEという作品の作画のクオリティが全49話を通して、高水準を維持していた事も地味ながら確かな見どころであるように思えます。『ガンダム00』のように、作画クオリティを維持するためにファーストシーズンとセカンドシーズンの間に半年間のブランクを置いた作品もあったくらいですので。


 そうした制作側の事情を横に置いても、この回は戦闘シーンのメリハリが良く、ロボットアニメとしての見応えを重視しても十分に楽しめると思います。


 とはいえ。この記事の使命はそうしたエンタメとしての楽しさを差し置いて、ストーリーの重箱の隅をチクチクと探る事にあります。例によって細かなオマージュや、セリフの機微を追って行くことにします。




      ▽フォーンファルシ


 この回に新しく登場したMSが、フラム・ナラの駆るフォーンファルシアです。



 名前からも見た目からも分かる通り、かつてフリット編でユリン・ルシェルが乗せられる事になったファルシアの系列に属する機体。
 ここでファルシアが再び劇中に登場することの意味は、AGE全体を通して見ても、決して分かりやすいものではありません。
 本放送中誰もが、ファルシアの再登場によって、かつて因縁のあるフリット・アスノとの何かしらの絡み、イベントが起こるだろうと予測していました。しかし特に三世代編以降、視聴者のそうした「展開予測」はどんどん外れていく事になります。先の展開に言及してしまう事は出来るだけ避けますが、それでも少しネタバレするとフォーンファルシアはそうしたフリットとの因縁を描くために登場したわけではありません。
 では何のためなのか……腑に落ちる明確な答えかどうかは分かりませんが、私が思いつく限りの事はいずれ書くかもしれません。


 とりあえず、シンプルに確認できる事を優先しましょう。フォーンファルシアはフリット編で猛威を振るった遠隔攻撃端末ビットに加え、新たな武装を持っています。



 フォーンファルシアバトンという名前だそうですが。
 そのファンシーで魔法少女なデザインは放映当時、それなりに反響を広げました(笑)。シリアスな副官として働いてきたフラムさん、意外に乙女チックであるらしい。
 とはいえ、これも見過ごすわけにはいきません。第14話の解説で書いたように、ファルシアのビットは花の形をしており、『Gガンダム』に登場するガンダムローズのローゼスビットを連想させるデザインです。フォーンファルシアのビットも同形。となればバトンの方も……



 これのオマージュなのでしょう。
 ノーベルガンダムのビームリボンが、ほぼ確実に意識されていると見られます。
 なんと、フリット編以降なりを潜めていた『Gガンダム』デザインのオマージュが、ファルシアと共にここで復活してくるのです(笑)。


 この解説記事ではこれまで、フリット編を初代ガンダム前後、アセム編を80〜90年代ガンダム、そしてキオ編をゼロ年代ガンダム作品に対照させ、それぞれの時代の機体デザインやテーマ、ストーリーを取り入れつつ進んできたと論じてきました。
 それに対して、この三世代編は呼称の通り、これまでの各世代に登場した要素やテーマが一堂に会するかのような展開になっていくように思えます。言ってみればゲーム作品の『Gジェネレーション』や『スーパーロボット大戦』のように、年代の枠を超えた機体や人物やテーマが戦場で入り乱れる、という事態になっていきます。
 実のところ、フリット編にしか登場しない特徴的なMSというと、AGE1を除けばファルシアくらいしか居なかった、という理由でフォーンファルシアがキャスティングされた可能性も否定できません。連邦、ヴェイガンともに量産MSはその後も同系統デザインの機体が登場し続けていたわけですし。
 また、この回の最後に登場するジラード・スプリガンの乗機ティエルヴァは、設定上Gバウンサーの系列機体という事ですから、これをアセム編からのピックアップと解釈すれば、ルナベース戦の時点でフリット、アセム、キオそれぞれの戦いを彩った機体(やその系列機体)が集まってきている事になる。
 以前にも書いた黒歴史的な想像力としての作品クロスオーバーの感覚を、ここで取り入れようとしていると読むことはさほど無理でもないでしょう。
 もっとも、そうした意図はあまり成功してはいません。むしろファルシアの登場は、視聴者の予想と期待をミスリードした側面の方が強い。成功していたなら、放映当時の反響ももっと違っていたはずです。
 とはいえ、こうした「ガンダム各世代を包摂していく」試みは、後に『ガンダムビルドファイターズ』という形で再度試みられる事になり、少なくともこの記事を書いている段階ではかなり成功しているようです。先鞭をつけたと言ったら、ビルドファイターズのファンに烏滸がましいと叱られてしまうかも知れませんが、あの作品の素地を幾分かでも作ったとは言えるのではないかと思ってもいます。


 フォーンファルシアが登場した理由については、他に地味な演出上の理由もあるのかなと思っていたりするのですが、その点はまた後日、書くことにします。
 さて、一方、フォーンファルシアの乗り手の話。



      ▽フラム・ナラとゼハート・ガレット


 この回、フラムは会話の成り行きから、ゼハートに真情を吐露する事になります。



「わたしは、あなたが部下を道具のように捨てる人間だったなら、その命を奪うつもりでいた。兄のために……けれどあなたは……」
「あなたは、部下たちのことをいつも考えていた」


 兄のドール・フロストの死に疑念を抱き、そしてザナルドがゼハート監視のために潜入させた立場でもあるフラムですが、ゼハートの言動に接するうちに心魅かれていくようになります。回想シーンを入れることで、このフラムの翻意は自然なものとして描かれていると言って良いと思います。
 しかしこのシーンで重要なのは、フラムの気持ちの変化を伝えるこのセリフではありません。フラムに対するゼハートのセリフです。
「あなたの命を奪うかもしれないわたしを、なぜ身近に置き続けたのですか?」と問うフラムに、ゼハートはこのように答えています。



「使える人間ならそばに置く、わたしには、お前が必要だ」


 実に微妙な言い回し。
 この時点で、ゼハートがフラムに特別な感情を抱いていたかどうかは、何とも判断できません。まったくそうした感情抜きに、単にフラムの実務能力を評価してこのように言ったのかも知れませんし、そうでないかもしれません(一応、フラムの感情を見透かして、わざと思わせぶりな言い方をする事で味方につけた――という見方もありはします。もっとも、筆者私はそのようには見ていません。ゼハートにそういう器用さがあったなら、この人の人生はもう少し違っていただろうと思えるからで)。
 いずれにせよ、ゼハートがフラムを(公的な意味でか私的な意味でかは不明ながら)必要としている事は確かであるようです。ただしその意図を伝えるための言いぶりは、良くも悪くもヴェイガンという組織の性格が表れたものでした。


「使える人間ならばそばに置く」。それは実力主義の人材登用をしているらしく見えるヴェイガンらしい評価基準です。そうした評価を、えこひいき無しに実行できるゼハートは誠実だとは言えます。
 しかしこの言い方は、裏返せば「ゼハートにとって必要な存在であり続けるためには、戦場で結果を出し続ける=使える人間で居続けなければならない」事と同義です。現にこのやり取りの直後、フラムは自らもMSで出撃する決意をしたのでした。
 こうしてMSパイロットとして出撃し始めたフラムの動向も、AGE終盤のストーリーに影を落とすことになっていきます。


 また、この回は指揮官としてのゼハートの采配にも同様の問題点が透けて見えます。



ガンダムとは一度戦ってみたかったの。ここは譲ってくれないかしら?」
「ヤツを倒すのはこのわたしだ。任せるわけにはいかない」
「地球連邦から寝返った女に、手柄を奪われるのは面白くないと?」
「お前にはお前の役割がある。それに専念しろと言っているのだ」
「……フッ、まあいいわ。今回はおとなしく従うことにしましょう。けれど……てこずるようならすぐに代わってもらうわよ」
「いいだろう。その時は好きにするがいい」



「ゼハート様、わたしもフォーンファルシアで出ます」
「お前が?」
パイロットとしての経験は浅いですが、わたしのXラウンダーとしての力は、十分通用するはずです。足手まといだと感じた時は、置いていってもらって構いません」
「……いいだろう。ついて来い」


 いずれの会話でも、最終的には相手の言い分を認めて、出撃を許しています。ジラード・スプリガンとの会話は許可というより、ガンダムを討つ自信の表れだったのかも知れませんが、結局この回の最後でジラードが出撃してきてしまうので。
 このように、自発的に出撃を申し出た者を止めないというのは、実力主義のヴェイガンらしい特徴ではあります。連邦軍なら、たとえ自発的な行動であっても、部隊全体の連携を崩す行為は厳しく処罰されていました。たとえば



 アセムのディーヴァ所属後の初戦、華々しく敵を討ち果たしはしましたが、



 命令違反により、営巣入りを言いつけられています。


 ヴェイガン的な方針と、連邦軍の方針、どちらが優れているかはその度合いや状況、組織の規模にもよるでしょう。しかしAGEに関して言えば、能力主義で自発性を重んじるヴェイガンの側により多く組織の弊害を描いているように見えます。
 たとえば、当初、AGE-FXを相手に互角の戦いを展開していたファルシアですが、



 アセムのダークハウンドが登場するや一気に不利になり、収拾のつかなくなったフラムはゼハートの元へ合流します。
 そして(これはこの回最大の笑いどころでもあるのですがw)合流してきたフラムを見たゼハートは、視界にアセムのダークハウンドを見るや否や、



「アセムぅぅっ!」



「ゼハート様!?」
 フラムも眼中にないかの勢いで、アセムの元へ吹っ飛んでいきます(笑)。
 アセム編での二人の因縁を思えば、気持ちは分からなくもないですが。この直前まで、ゼハートはアビス隊の進撃を足止めしていたわけなので。ここで



 二人だけの世界に行ってしまうと、結果的に基地防衛がかなりおろそかになるように思えます。
 事実、アセムとサシで戦っている最中に、フラムから「ゼハート様!敵モビルスーツ部隊接近中です!」の報告で我に返る事になります。


 これはもちろん、直接的にはゼハートの判断ミスです。が、より広く見れば、ヴェイガンという組織の性格がもたらした失策でもあります。
 アセム編を思い出してみましょう。
 連邦軍の中で、アセムのAGE-2やウルフのGバウンサーは押しも押されぬエースパイロットでした。しかしそんなエースも、



 時には敵に翻弄され押される事もあります。
 しかし、ビッグリング攻防戦では、こうしたエースパイロットのピンチを



 名もない一般兵がフォローに入る事で支える事ができました。
 これは何も、フリットの指揮だけに還元される事態ではありません。フリット編でも、UEの新MSバクトに苦戦したAGE-1が新しいウェア「タイタス」に換装されるまでの間、



 ラーガンが体を張ってフォローしていました。
 キオ編においても、ロストロウラン戦でAGE-3がシャナルアを追って勝手に離脱してしまった時に、それが理由で戦線崩壊したりはしていませんでした。
 連邦側には、エースやリーダー格のポジションが何らかの理由で抑え込まれても、チームや組織力でフォローする態勢があるのです。


 しかし、ヴェイガンにはこれがありません。実力主義によって有能な人物を抜擢しているため、個々の兵や将は極めて高い能力を持っていますが、一方でヴェイガン兵はどんな状況に陥っても、個人の裁量と力で(意識高い系の言葉を使うなら“人間力”でw)どうにかするしかない、という事になります。
 このような組織形態になってしまっているために、ヴェイガンでは指揮官の人間的なウィークポイントがダイレクトに作戦の遂行に影響してしまっているのです。ルナベース戦において、ヴェイガン側が連邦の侵攻を許してしまっているという事は、見方を変えればそういうことです。
(ちなみに、これは「だからチーム内の和が大切なんだ」「絆が大事なんだ」とかいうような話ではありません。そういう日本的な職場秩序とは無関係な話です。ビッグリング防衛戦でアセムやウルフをフォローした一般兵たちは、おそらくアセム達とほとんど面識もなかったことでしょう。ここで重要なのは人間関係の機微ではなく、そのような組織的なフォローを可能にしているシステム、組織形態の差なのです


 そもそも、軍事関係に詳しい方なら、この回は初手から納得がいかなかったに違いありません。先に引用したゼハートとジラード・スプリガンの会話にしても、一体ジラードにどんな役割が振られていたのか不明ですが、普通に考えればゼハートとフラムがルナベース内で防衛戦全体の指揮を執り、対ガンダムにはXラウンダーとしての戦力が期待されるジラードをぶつけるのが得策でしょう。少なくともゼハートは残るべきです。41話終了時点でゼハート、フラム、ジラードが全員出撃して来てしまい、戦局全体を見通す場所には元連邦軍の気弱そうな人物(アローン・シモンズ)しか残っていません。
 まぁ、ここで出撃してしまうところが「シャアっぽい」ことは確かなのですが……(笑)。


 筆者もあまり軍事関係に詳しいわけではありませんが、やはり戦局全体を見通す指揮官と、最前線で部下を率いる部隊長や小隊長、まして一介の兵士とは役割もするべき事も全然違う、ということではあるようです。AGEで言えば、「ビッグリング絶対防衛線」でフリットとアルグレアスがしていた指揮、あれが一軍の総大将の仕事ということなのでしょう。
 しかしガンダムという作品シリーズは、その辺りにかなりフィクションを差し挟んできた作品でした。それは初代ガンダムから既にそうなのです。
 第41話の「光る宇宙」で、シャアはザンジバル1隻とムサイ級3隻による艦隊特攻を指揮しています。



 当初はザンジバル内で指揮をしていましたが、ララァ・スンが出撃した際にシャアもMSで出撃。そして、ララァアムロ相手にガンダム史上最も有名な例のやりとりをしている間に、



 ザンジバルホワイトベースのメガ粒子砲の直撃で沈んでしまっているのです。
 ムサイ級やMSも含め、この戦闘で投入した戦力はほぼ全滅しており、後にシャアはキシリアに大目玉を食う事になります。
 この場合、本来ならシャアはザンジバル内で艦隊全体の指揮を統括し、MS戦は他の者に任せていなければならなかった、のでしょう。そのようにしていれば、艦隊全滅は免れたかもしれません。


 こうした傾向は、80年代以降ますます強まっていき、アクシズハマーンティターンズシロッコなど、一組織一勢力のトップがMSに乗って戦場のど真ん中に出てくる、と言う状況が常態化する事になります。
 ガンダムAGEのルナベース戦におけるゼハートの采配も同じようなもので、ミリタリー的なリアリズムに照らせば不自然というか無茶な事、ではあります。ただ、ガンダムへのこだわりから(現場責任者であるにも関わらず)第一線に飛び出してしまうあたり、『逆襲のシャア』も含めたシャア・アズナブルの行動に近くもある。
 そして、そのような指揮官らしからぬ行動はすべて、事態の悪化という形でゼハートに跳ね返っていくのでした。


 以上のように、第22話「ビッグリング絶対防衛線」での連邦軍描写と、この回のヴェイガン描写の比較をしてみると、ガンダムAGEという作品における組織というのは、歴代ガンダムに対する批評的な部分も含めてかなり明確に描き分けされていると言えると思います。このような描き分けがやがてどこに行きつくのか――というのは、当解説記事の重要な力点として最終盤まで注視していく問題です。引き続き、追って行きたいと思います。
 さて、そのほかに。



      ▽「人は分かり合える」


 前回、敵兵を殺さずに戦う決意と共に戦場に出たキオですが、この回ついに禁断のあのセリフを口にします。



「分かり合えるはずなんだ。みんな……!」


 これこそまさに、初代ガンダムが希望として描いた、その核心をなすフレーズでした。



「人は変わっていくのね。私たちと同じように」
「そうだよ、ララァの言うとおりだ」
アムロは本当に信じて?」
「信じるさ。君ともこうして分かり合えたんだ。人はいつか、時間さえ支配することができるさ


「誤解無く分かり合える人々」、それこそがニュータイプという言葉の本来の定義でした。そうであるが故に、この「分かり合う」という言葉は格別の重要さを持って、ガンダムシリーズの中で繰り返し登場して来ます。
 宇宙世紀ガンダムを通して突き詰められてきた重要テーマ、ニュータイプ」をめぐる問題とは、突き詰めれば「人は分かり合う事ができるか」という一点に集約できるテーゼなのでした
 ともすれば見逃してしまいそうな1カットですが、キオがここでこの言葉を口にした、という事実は看過できない重さを持っています。


 既に何度か、過去の解説記事で予告的に書いてきたように、AGEはこの「ニュータイプの意思疎通によって人は分かり合えるのか」という問題を、どう見ても意図的にスルーして来ました。アセム編にて一度はXラウンダーと非Xラウンダーの二項対立を描き、やがてアセムがスーパーパイロットになる事でこの二項対立が解除されるという、宇宙世紀ニュータイプ問題のダイジェストをきちんと追っているにも関わらず、そのニュータイプという言葉の本来の定義であり、希望であった部分は丸ごと抜け落ちていたのでした。
 ならば、その核心部分には踏み込まないのかと言えば、さにあらず、キオがこのセリフを口にした事で、改めてこの三世代編にて、ニュータイプを巡る「人は分かり合えるのか」問題の検証が開始される事になります。既にAGE全話を視聴された方は薄々お気づきかもしれませんが――ジラード・スプリガンという人物は、この問題を改めて描くために配置されたキャラクターです。今後、第42話、第43話の解説で詳しく見ていきますが……。
 どうにも、AGEのシナリオの、テーマ性を突き詰めるためのこういう必然性は、大変分かりにくいのですけれども――しかし目配りしておく必要があります。フリット、アセム、キオ、ゼハート、イゼルカントとついに役者がそろい、これら人物の描き込みが重要になるこのタイミングで、丸々1話を使ってジラード・スプリガンをクローズアップするという脚本は、決してドラマ作りとして上策ではありません。話のテンポも悪くなり、ラストに向けての盛り上がりも阻害され、本放送時の反響も決して芳しいものではありませんでした。
 それでも、私見では次回の第42話「ジラード・スプリガン」は必要な話であったと考えています。第39話の解説で書いたのと、同じ事情です。社会ダーウィニズム問題がゼロ年代ガンダムで再びリバイバルしてきたのと同様に、



「人は分かり合える」問題もまた、『ガンダム00』などで復活してきているからです。
 従ってこの問題は初代ガンダムや、『逆襲のシャア』までの宇宙世紀ガンダムだけに限ったテーマではありません。キオも交え、三世代全員で改めて直面しておかねばならないテーマなのです。わざわざ煩雑なシナリオ上の手続きをとってまで、この問題を先送りにした事情は以上の点にあります。


 さしあたりこの第41話、キオは「分かり合う」ための対話を試みますが、



「僕たちには分かり合える道があるはずなんだ。こんなこと、もうやめようよ……」


 しかし、フラムの返答は取りつく島もありませんでした。



「これまでの戦いでどれだけの犠牲が払われたと思っている!?話し合いなんてもはや不可能なのよ!」
「その犠牲を無駄にしないためにも、戦いをやめなくちゃいけないんだ!」
「そんなことで……死んでいった者たちの命が報われるはずない!!」


 戦ってる相手から突然こんな事言われて、はいそうですか、といくわけもなく、フラムの反応は無理もないものでした。
 ちなみに邪推するならば、フラム・ナラはこの戦争で兄のドール・フロストを失っており、しかも兄のために場合によっては上官のゼハートを殺す覚悟までしていた人物です。ところが、そのゼハートは部下の命をないがしろにする人物ではなかったわけです。ゼハートへの殺意が解消される一方、兄を巡る気持ちは当然、敵である連邦に向くしかなかったと思われ、このシーンでのフラムのセリフはそうした心情も込められているように思えます。
 ついでに言えば、先に指摘した通り、ゼハートに必要とされるためには戦場で結果を出し続けるしかないフラム・ナラです。そういう意味でも、おいそれと戦いを止めるわけにはいかない――のかも知れません。


 いずれにせよ、キオの取り組みは苦いスタートを切った事になります。面白いのは、アセムが息子のこういう意志を積極的に応援している事だったりもしますが……その辺りも含めて、引き続きストーリーを追って行く事にしたいと思います。


 そんなわけで、また次回。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第40話「キオの決意 ガンダムと共に」(2/2)


      ▽AGEの家族描写の危うさ


 『ガンダムAGE』という作品は、三世代にわたるアスノ家、その100年にわたる家族像を描いたという点で歴代ガンダムにおいても非常に特異なコンセプトを持つ作品でした。
 大河ドラマに比すような評も当初ありましたが、いわゆるNHKで毎年放送されているような歴史大河ドラマにおける、時代の激動、国家の動向や戦の高揚に重点を置いて描くような側面はAGEには見られず、その「100年の物語」はもっぱらアスノ家三代の描写に力点が置かれていたと見るよりほかはありません。
 したがって、家族観について論じる事はAGEの中心的なテーマについて踏み込む事であり、非常に重要な事なのですが……そうであるにも関わらず、一般的な「家族論」の観点からアプローチしようとすると、大きく躓くことになります。理由は簡単で、成人後のアスノの女性たち、妻たちが、物語の背景に隠れてしまうからです。
 その事を端的に示すのが、三世代編に入ってからのエンディングでした。




 エミリーもロマリーも、家でアスノの男の帰りを待つ……というように描かれています。
 これまでの解説記事で見てきたように、戦争イメージや「戦う理由」の変遷、組織の形態などについては、その時代時代に合わせた変化が脚本に織り込まれていました。そうであれば、たとえばキオ世代の母は共働きになっているとか、そういう時代ごとの家族形態の変化が同様に織り込まれていても良いはずなのですが、AGEの脚本はそのようになっていません。
 それどころか、このようにヒロインたちが皆「家で待つ女性」になっていく様子は、一見したところ極めて保守的な、というより時代に逆行した家族観を提示しているようにも見えてしまいます。
 かつて、とある国会議員が「女性は産む機械」と発言して盛大にバッシングされた事がありました。女性は家にいて子供を育てていればいい、という単一の価値観は、現在の多様化したライフスタイルや社会の在り方から見ても、もはや通じない観念です。しかしAGEのヒロインの扱い方は一見、「時代に逆行した」描き方に見えます。
 他の部分の描写では時代の移り変わりを鋭敏に作品内に投影していたように見えるAGEが、家族観についてはこのようになっている。この点をどう見るか。



 ……とは言いながら、ガンダムという作品はその性質上、こうした問題は昔からたびたび顔を出していたとも言えます。特に男性視聴者をメインターゲットにしたOVA作品や、模型誌企画の外伝などに顕著でした。
 たとえば『ガンダムセンチネル』は残念ながらその筆頭に挙げられます。この作品は当時のZ〜ZZの作劇に対して、より「リアルな」戦場描写を目標に掲げ、その一環として敵味方のパイロットはすべて男性に設定されました。つまり、戦場は男が行くところ、というスタンスです。
 ところがそうであるにも関わらず、作中の主人公機Sガンダムには、「ALICEシステム」と呼ばれる人工知能が組み込まれています。このALICEは明確に「女性」であると語られ、たびたびSガンダムとそのパイロット、リョウ・ルーツをサポートしました。が――ALICEはリョウ・ルーツの言葉に戸惑い、戦闘を補助しながら逐一反応して思考を重ねるのですが、リョウ・ルーツはALICEシステムの存在自体を知らず、ALICEはリョウへの意思伝達を全くする事ができない、という仕組みになっていました。リョウの言葉を一方的に受け止めるだけで、両者が対話をする事はできないのです
 驚くべきことに、ALICEはリョウという身勝手な男の「わがまま」に初めて接し、そのような環境で戦闘を重ねていく事で「貞淑な妻」になっていくのだ、と本文中に堂々と記載されているのです。
 結局最終決戦でALICEはリョウたちを脱出させると、人工知能の自己犠牲という形で敵と刺し違え大気圏突入時に消滅していく事になります。


 ……以上の脚本について、作品批評の上では辛い点をつけざるをえない事はご了解いただけるかと思います。
 男性しかいない戦場を「リアルな戦場」であると言わんばかりに強調しながら、ALICEという「男性にとってとことん都合の良い女性像」を登場させている事になるわけでした。
 筆者である私は『ガンダムセンチネル』に登場するメカのデザインなどは好きですが、ストーリーラインについてははっきりと低く評価しています。


 一般に、ミリタリー的な戦場ドラマというのは、こうしたホモソーシャルな人間ドラマを構築してしまいがちです。これはガンダム作品と言えども例外ではありません。ガンダム世界を舞台にした外伝作品や二次創作などには、たびたび見られることです。


 一方、富野監督はこうした方面にはかなり意識的であり、上記のようなホモソーシャルに偏った作劇というのは行っていません。むしろ、そうした空気を相対化して取り込む、といった事までやっています。
 以前書いたように、男女雇用機会均等法の成立に前後して放映された『Zガンダム』では、ファーストガンダムの頃に比べて戦場に出る女性の数が増加しました。エリート部隊ティターンズ所属からエゥーゴに宗旨替えしたエマ・シーン、スリルを求めるあまり反ティターンズ運動に参加するレコア・ロンドなど。またエゥーゴの出資者として登場するステファニー・ルオや、複葉機を操縦してエゥーゴのMS運用をサポートするベルトーチカ・イルマなど、この作品には「働く女性」「戦う女性」がかなり登場しています。『ガンダムZZ』では補修艦ラビアンローズの女艦長エマリー・オンスもいます。
 Zは特にセリフにもチクリとくるものが多いようで、エマ・シーン「男って、戦争になると元気で、頭も回るようね」などと皮肉を飛ばしたりしています。
 男性優位の戦場描写に対する強大なカウンターとしてハマーン・カーンが登場し、クワトロ・バジーナことシャア・アズナブル



 屈辱を強いたりする場面もあります。


 とはいえ、Zガンダムはただ「女性の社会進出は素晴らしい、戦場で女性が活躍する時代になったんだ」というだけの作品でもありません。こうした動きに対するカウンターも、また時代を先取りするかのように組み入れています。たとえば、「女が戦場にいるなんざ、気に入らないんだよ!」と言い放つヤザン・ゲーブルは、先に見たホモソーシャル的な立場の代表でしょう。
 フェミニズム界隈では、女性の権利拡張運動に対する反発・反動を「バックラッシュ」と呼びます。日本でこうした動きが表面化したのは90年代とのことですから、ヤザンのようなキャラクターはある意味で時代を先取りしていたとも言えます。
 また、そのような女性を「新しい時代を導く」と言って味方につけるパプテマス・シロッコのような人物も現れました。さらに面白い事に、身を挺して反ティターンズ運動に参加していた、いわば「活動する女性」の典型だったはずのレコア・ロンドが、このシロッコに吸い寄せられ個人的な感情から寝返った挙句「今の私は女として充実しているの」などと、フェミニストが聞いたら噴飯モノのセリフを言ったりするのです(笑)。
 またベルトーチカ・イルマにしても、ホンコンシティにて、二児の母親となった専業主婦ミライ・ヤシマにその言動をたしなめられたりもしています。
 このような複層的で様々な見解、立場が入り乱れる群像劇と化していくのが、ガンダムという作品を批評する際の面白さなのでした。


 翻って、AGEという作品もZガンダムほどではないにせよ、こうした自覚を見出す事は不可能ではないと私は考えています。少なくとも、アセム編以降、ミレースやナトーラといった女性艦長、アリーサのような女性パイロットは出現してきていますし、ヴェイガン側にも優れた副官としてフラム・ナラが登場してはいます。


 それでも、ヒロインが成人とともに表舞台から消えて行ってしまうという点は、やはり際どいですし、実際に視聴していく上でも物足りなさを感じる部分でもあります。
 たとえばこの第40話でも、10年以上ぶりにアセムとロマリーが再会を果たし、



 とりあえずは感動の御対面となるのですが。
 しかし一方で、尺の都合だろうとも思いますが、アセムが海賊などという身分になって帰ってきた事について、ロマリーからもユノアからも何のリアクションも無いままです。家族ドラマを強調するのであれば、そうした会話シーンがもっとあっても良かったような気はします。


 家族をテーマにしながら、妻や母との会話は極端に削られているAGE。では、この作品が家族をテーマとする事で浮き上がらせようとした事は、一体何なのか。もう少し突っ込んで見ていくことにします。



      ▽かつての「家族ドラマ」のパスティーシュとして


 この第40話では、地味ながら見逃せないシーンがいくつかあります。その一つが、



 ここです。
 ディーヴァに同乗し、ウェンディが面倒を見ていた子供たちが、避難していた親の元に引き取られていったのでした。
 以前書いたように、初代ガンダムであれば「小さな防衛線」でジャブローに仕掛けられた爆弾を撤去するなどそれなりの活躍をしていたのに比べ、ディーヴァの子供たちには特に活躍というほどのシーンはありません。キャラクター同士の会話のきっかけを作ったり、場を和ませる効果すらほとんどあがったかどうか定かではありません。唯一、キオが連れ去られて取り乱したフリットに、冷静さを取り戻させるシーンで役立っただけです。
 これでは一体なんのために登場させたのか、という疑問が湧いてきますが、ここにきて「親元に帰る」という場面が挿入された事は、些末なように見えて重要なのではないかと思います。


 ファーストガンダムのカツ、レツ、キッカも、Zガンダムのシンタとクムも、親を持たない孤児でした。そうであればこそ、同じく親と決別あるいは死別したアムロカミーユたちと共に、ホワイトベースアーガマの乗組員たちを「疑似家族」へと移行させる重要な役を負っていたわけです。
 AGEにおいて、同様に主人公たちの艦に乗っていた子供たちが、本来の親の元に帰って行くという事は、疑似家族を巡るテーマが後退し、本来の家族が中心命題になっていく事の宣言というように読み取れます。
 否、それだけではなく、こうした変化は富野ガンダムにおける家族描写、あるいは家族への断念と登場人物たちの孤児化傾向に対する、カウンターでもある。AGEの家族テーマは、先行する富野ガンダムの家族観に対するカウンターであると見た方が良いように思います。


 現代において、たとえば『サザエさん』のような形態の大家族は極めてマレになりつつあります。それどころか、『クレヨンしんちゃん』のような両親プラス子供という家族形態すら、実は少数派に過ぎません。たとえば、東京23区の世帯のうち約50%は一人暮らし世帯と言われています。統計などで「標準世帯」とされる夫婦と子供二人の4人暮らしの家というのは、実はたったの10%弱しかありません(参照)。
 また、いわゆるシングルマザーの家というのも、全世帯数の3%近くを占めています。


 富野監督のガンダム作品に登場する主人公の家族像というのは、こうした傾向を敏感に予見していたと言っても良いでしょう。富野ガンダムに登場する主人公の親は、多く仕事に夢中で子供を顧みなかった、とされています。『Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンは両親が戦闘の最中に死んでいくのを見た後、



「でもね、僕は両親に親をやってほしかったんですよ! そう言っちゃいけないんですか、子供が! 父は、前から愛人を作っていたし、母は父が愛人を作っていたって、仕事で満足しちゃって。 そんな父を見向きもしなかったんです。軍の仕事ってそんなに大切なんですか! 「エゥーゴティターンズだ」って、そんなことじゃないんです! 子供が無視されちゃ、たまんないんですよ!」
 ……と述懐しています。
 また、既に見たように、『ガンダムF91』の主人公、シーブックの母親モニカ・アノーもまた、これまで疎遠だった事を子供たちに責められて「仕事が面白かったのよ」と吐露しています。
 そしてカミーユは両親を失い、シーブックもコスモバビロニア戦争の最中に父親を失っています。ジュドー・アーシタは登場時点で孤児ですし、『Vガンダム』のウッソも戦闘の最中に母親を失い、父親はいつの間にか雲隠れしてしまいます。


 こうした、富野ガンダムに流れている濃厚な「家族への不信と絶望感」は、その後のガンダムの歴史にかなり強い影を落としてきました。それは『サザエさん』的な大家族が時代と共に縮小・希薄化してきた現代の社会事情とパラレルだった(あるいは予見していた)のです。端的に言って、これは正しい。未だに「標準世帯」の基準を両親と子供二人といったイメージに置いている方がおかしいと言わねばなりません。
 ただし――それだけがすべてではありません。


 確かに『サザエさん』的な家族観はもはや現代の事情に則してはいません。しかし、先日永井一郎さんが亡くなったというニュースが流れた際、磯野波平役の声が変わった事に世間の大きな関心が集まった事からも分かるように、『サザエさん』は未だに大きな存在感を持ってもいます。
 あるいは、田舎の親戚一同を含む大家族が、ネット空間で起こったトラブルを力を合わせて解決する『サマーウォーズ』が好評をもって迎え入れられた事からも、同様のことが言えます。創作の機能は「現実認知」だけでもない、という事です。もちろん、『サザエさん』にも『サマーウォーズ』にも批判されるべき点が多々ありますが、そのような家族像を提示する事に対する需要はあると示してもいます。
 少なくとも、弱体化した家族像というガンダム一連のイメージにアンチテーゼをぶつけて相対化する、という道はあり得た。ガンダムAGEの家族観というのがまず第一に、そうした富野的家族イメージへのカウンターであると言うのはそういう意味です。



 実際問題として、AGEの日常パートには、まるで大昔の家族ドラマや映画のような場面が散見されます。たとえば、



 ここ。
 海賊となって生還したアセムフリットが詰問するこのシーン。アセムのふんぞりかえった座り方がいかにもコミカルで、大昔のドラマのようです。ここはさながら、「かつて父と同じ会社に入ろうとして挫折した放蕩息子が、東京に出てロックスターになって帰ってきた」といった風情で、どこかガンダム作品らしからぬ空気が流れています(笑)。ソファやテーブルもSFっぽいものではなく、現代の会社の応接室のような品物で、一見したところガンダム作品の1シーンには見えません。


 若い視聴者には分かりにくかった事でしょうが、こうした場面は、昔の、昭和の頃の家族ドラマのパスティーシュのようになっているのではないかと思います。
 実際、AGEのスタッフのインタビューでも、フリットを「昔の家族ドラマの頑固親父」のようなものだといった発言が見られます。意図的に、こうした時代がかった家族ドラマの要素を引き入れて来たと見られます。ガンダムの歴史において、主人公がこのような大所帯の一員であった事はありません。


 ただし。これは単に、懐古的な意図で繰り込まれたものではありません。
 フリットを「昔のドラマの頑固親父」にたとえるにせよ、その「頑固」っぷりは不良息子を許さないといったレベルのものではありません。敵性勢力ヴェイガンを根絶やしにするまで許さないという、極めて剣呑な「頑固」さです。
 実のところ、AGEは「大家族」のイメージをかなりアイロニカルに作中に取り込んでいます。この点を見誤ると、この作品における「家族」の意味付けが上手く掬えなくなってしまいます。



 先ほどまで、私は富野ガンダム作品における家族観の希薄化について述べていました。しかし実は、富野監督の作品にも、現代的な希薄化にさらされていない「家族」は描かれているのです。
 たとえば、そう。



 初代ガンダムのザビ家とか。
 デギン・ザビとその子供たち4兄弟、さらにドズルの娘でデギンにとっては孫にあたるミネバ・ザビまで。三世代にわたる大家族ですね。
 実際このザビ家の血筋は、その後も十数年にわたって宇宙世紀を騒がせる事になるのですから、ある意味強力な紐帯に結ばれた家といえるでしょう(もちろん、皮肉で言っています)。


 また、『ガンダムF91』に登場するロナ家もまた、マイッツァーとその息子のドレル・ロナ、市井に落ちていたのを連れ戻されたベラ・ロナ、そして入り婿のカロッゾを迎えるなどという形で規模を大きくした(ちょうど『サザエさん』のマスオさんが入り婿だった事が思い出されます)大家族でした。



 実のところ、歴代ガンダムにおいて、希薄化・分散化していない大家族と言うのは、もっぱら敵側に設定されるファクターなのです。主人公が両親と死に別れたり生き別れたりという形で「家」が臨界を迎えた先を生きねばならなかったのと対照的に、ガンダムにおける敵側の家はその結びつきの強さゆえに、あるいはデギンとギレンの対立となり、入り婿としてのコンプレックスから性格を歪ませたカロッゾとなり、という具合に苦悩する事になっていきます。
 ……そのように見ていくと、AGEにおけるアスノ三代の「大家族」のイメージはだいぶ違って見えてくるのではないでしょうか。



 ガンダムというシリーズは、それまでの「倒されて当然の悪」から離れて、敵側にも事情や理由がある、敵も人間だという事を描いてきた作品でした。ランバ・ラルの戦う理由が部下やハモンの生活のためだったりするように。
 しかしそんなガンダムシリーズにも、「これをやったら無条件に倒される敵認定される」という最低限の倫理基準があります。それが、「無差別大量虐殺」です。ジオンのコロニー落としティターンズの毒ガス作戦、ネオ・ジオンコロニー落としアクシズ落とし、カロッゾ・ロナのバグ、フォンセ・カガチのエンジェルハイロゥ、などなど。
 明らかにアナベル・ガトーのカッコよさを描くことが主題だったように見える『0083』ですら、地球へのコロニー落としを敢行する側である以上、ガトーは倒すべき敵であり、主人公は連邦側の士官コウ・ウラキでした。OVAや非宇宙世紀作品まで含めて、歴代ガンダムシリーズが共有している数少ない価値観です。


 その価値観に照らすなら、「ヴェイガンの根絶やし」を最終目標にしているフリット・アスノは、ガンダムの倫理基準的に半ばアウトです。特にキオの目で火星圏の実情が示され、ヴェイガンもまた人間だという事が示された後なら、なおさらでしょう。
 これが、敵勢力に属する他人ならば、排除する事でお話を終わりにする事もできます。しかし、そのような者が身内にいたら、どうするのか?


「人類の十分の九を抹殺」する粛清を行った父カロッゾ・ロナを、ベラ・ロナ=セシリー・フェアチャイルドは自ら殺しに行きます。


 一方で、ガンダム作品の主人公格の一人で、こうした強硬派な肉親に対して対話を挑んだ者もいました。
 ガンダムSEED』のアスラン・ザラです。彼はキラやカガリたちと一度合流したのち、父の説得をするためにザフトに一度帰って行きます。そしてその口から、ナチュラルの殲滅を意図したセリフを聞いて、愕然とする事になります。



「そうして力と力でただぶつかりあって、それで本当にこの戦争が終わると、父上は本気でお考えなのですか!?」
「終わるさ! ナチュラルどもがすべて滅びれば戦争は終わる!」



 結局、アスランの説得は失敗に終わりました。
 最終決戦であるヤキン・ドゥーエ戦において、アスランは父パトリックの元に向かいますが、



 たどりついた時には、既にパトリックは味方に撃たれてしまった後でした。
 ここでは結局、「身内が強硬派の無差別大量殺戮を目論む人だった場合に、主人公はどうするのか」という最終的な結論は、出ないまま終わってしまったのです。


ガンダムAGE』は、この問題を引き継ぎます。キオにとって、フリットは「やさしいじいちゃん」です。その祖父が、倒すべき敵に値するほどの意志を持っていた時に、さぁどうするのか、という問い。
 AGEの家族を巡る描写は、この問いに取り組むために構築されている、と筆者は考えています。


 AGEが「100年の物語」でなければならない理由も、そこに見るべきでしょう。普通の大家族ドラマと、AGEの違い、それは「頑固親父」にも若いころの苦悩と葛藤があったという事を、視聴者と共に追ってきた、それが重要なのだと思います。
 フリットという、過激な言動を繰り返す人物を「他者」にしないために。ただ排除して終わりにする、という以外の結論を探すために、やはり重要だったのでしょう。


 とはいえ、その道は決して平坦ではありません。



      ▽キャプテン・アッシュの立場


 この回、フリットを相手に、キャプテン・アッシュ、すなわちアセムは自分がこれまでしてきた戦いの意図を語ります。



「俺はみんなを守るために戦ってきたし、これからもそうするつもりだ。だが、どちらか一方について戦うことが、本当にみんなを守ることになるのか?俺は思った。戦いが避けられないものなら、両者の力を均衡させればいい」
「ヴェイガンや連邦軍から作戦に必要不可欠な重要物資や情報を奪い、大規模な戦闘を阻止する。それが宇宙海賊として俺がやってきたこと。地球とヴェイガンの均衡を保つことができれば、戦争はこう着状態となり、大きな犠牲が出ることはない」


 連邦側の非、そしてヴェイガンの実情も知ったアセムの選択が、これだったのでした。
 対立している陣営のどちらにも参加せず、発生する戦闘行為自体を解消しようと目論む。こうした中立のあり方は、どちらかというと『ガンダム00』ファーストシーズンの頃のソレスタルビーイングに似てもいます。
 ただし、ガンダム00のCBと決定的に違うのは、持てる戦力。00ファーストシーズン当初のガンダムマイスターたちが、GNドライブの性能も合わせて圧倒的な戦力を持ち、戦闘している両軍を相手にする事も出来た一方で、宇宙海賊ビシディアンにはそんな飛び抜けた戦力はありません。いきおい、物資を奪うなど小規模な活動に終始せざるを得なかった、という事のようです。
(『ガンダム00』はキオ世代、ゼロ年代に放映されたガンダム作品であり、アセムたちの世代とは別のようですが、ここで私がアセムを00ファーストシーズンのソレスタルビーイングに比したのには、私なりの読解の意図があります。これはいずれ……第45話の解説で書くことになるかと思います)


 しかし一方で、アセムのこうしたやり方は「戦争根絶」などというには程遠く、本人も言っているようにせいぜい「膠着状態」を造り出せる程度。根本的な解決にはならない事は明白です。こうした事に、失望した視聴者も少なくなかったでしょう。


 だからといって、



「お前の考えは甘過ぎる! 殺戮を繰り返すものたちを撲滅しなければ、真の平和は訪れん!この戦争に勝利し、ヴェイガンを根絶やしにするのだ!」
 ……というフリットの結論もまた、極端すぎるところでしょう。


 前の回、すなわち第39話で、イゼルカントの思想もまたとてもまともとは言い得ない事が判明しています。つまり、この時点で、大人たちは誰一人として、少年キオに有効な未来のビジョンを提示できていないのでした。


 そうした中で、これからしばらくキオを含め、各キャラクターたちの迷走が続くことになります。
 AGE脚本の力点をたどりながら、引き続きストーリーを追って行きたいと思います。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第40話「キオの決意 ガンダムと共に」(1/2)

     ▼あらすじ


 無事地球圏に戻ったキオは、フリットやウェンディ、母ロマリーと再会。そしてアセムもまた、13年ぶりに家族との再会を果たす。
 しかしキオとフリット、アセムフリットはヴェイガンを巡って意見の対立を深める。破滅的な結末を避けるため、両軍の補給を断って戦端を膠着させるというアセムのやり方を、フリットは甘いと叫びヴェイガンの根絶やしを主張するのだった。
 そんな中、ヴェイガンに寝返ったルナベースの奪還作戦が開始される。新しく生まれたAGE-FXで出撃したキオは、その性能を最大に活かしてヴェイガン兵を殺さずに戦う道を選んでいく……。




      ▼見どころ


 いよいよ、『ガンダムAGE』のストーリーは三世代編に突入していきます。
 物語はクライマックスへ……と言いたいところなのですが、本放送時の色々な人の感想を眺めても分かるように、ここから展開される物語にはなかなかカタルシスと呼べる盛り上がりがなく、登場人物が皆、状況の中で迷走していきます
 主人公たちの気持ちの良い活躍シーンがなかなか描かれないバトルシーン、物語のテンポを損ねてまで挿入されるジラード・スプリガンのエピソード……いったいどうしてこうなったのか、という事を私なりに解説していくのがこの記事の主旨という事になります。
 先に基本的な観点だけ述べておくならば……この三世代編が上記のような脚本になっているのは、フリットに代表されるファーストガンダム世代、アセムに代表される80〜90年代ガンダム世代、そしてキオに代表されるゼロ年代ガンダム世代について、それぞれの目論見とその失敗を描くことが、一連の物語の目的になっているから、だと考えています。各ガンダム世代の大反省会になっている、という事ですね。
 話を追いながら、確認していきたいと思います。
 とりあえずこの第40話は、前半がキオとアセムの帰還を巡る家族のエピソード、そして後半がルナベース攻略戦の始まりを描いています。とりあえずこの前編では、先にルナベース戦とメカについて書いていきたいと思います。
 ……お茶でも準備してゆっくりと、休憩でも挟みつつお読みください。



      ▽AGE-FXと「不殺」


 三世代編のスタートを告げる何よりの画期は、AGEシステムが新しく生み出したガンダム、AGE-FXです。



 ご覧の通り、AGE-3とはうって変わったスマートな機体です。
 デザインのオマージュ元については、もちろんνガンダムが筆頭に挙げられます。これまでAGE-1がファースト、AGE-2がZガンダム、AGE-3がZZガンダムを意識してデザインされてきたのですから、当然の流れです。このAGE-FXもAGEシステムが生み出したガンダムとしては初の遠隔攻撃端末Cファンネルを搭載しており、νガンダムと対応しています。
(ちなみに言いますと、ここで遠隔攻撃端末の名前がいきなり「ファンネル」になっているのは、実は変です。ファンネルというのは「漏斗」の事で、宇宙世紀ではキュベレイのビットが漏斗の形であった事から「ファンネル」と呼ばれ、それが遠隔攻撃端末の通称として浸透した結果、「放熱板形のファンネル=フィンファンネル」というネーミングになったという経緯があります。AGEにはここまで漏斗型の攻撃端末は出て来ていないので、このネーミングは浮いてしまっています。
 こういうところを抜け目なくフォローしているのが小説版で、ウットビットが「何故ファンネルという名前なのか」をセリフでわざわざ補完する一幕があったりしていますw)


 そうではあるのですが、例によってAGE-FXはνガンダムだけを意識した機体デザインではありません。特にCファンネルは



 それ自体が実体剣として敵を切り裂く事も出来、



 またビームを弾くシールドとしても使用できます。
 このような機能から見れば、当然連想されるのは、



 劇場版『ガンダム00』、ダブルオークアンタのソードビットであり、ケルディムガンダムのシールドビットです。
 機体のカラーリングも青系統でダブルオークアンタに似せられていると見られます。
 ゼロ年代代表のキオに相応しい、AGE放映時点で最新のガンダムのデザインをオマージュしていると考えて良いでしょう。


 ちなみに、『逆襲のシャア』つながりで、劇中さりげなくこんなオマージュも入っています。
 ヴェイガンのMSが連邦軍の艦隊に対してコロニーデストロイヤーを発射、これを



 AGE-FXのCファンネルが撃破するシーンですが。これは




 ギュネイのヤクト・ドーガや、シャアのサザビーロンドベルの核ミサイルを撃破するシーンのオマージュかと思われます。立場は逆ですが。


 ……と、このように過去作品を多分に意識したデザインが見られる一方で、AGEのストーリー展開からも考えてみる必要があります。
 前回の解説で書いたように、AGE-3のデータとEXA-DBの技術(=ヴェイガンの技術)を合わせて作られたガンダムレギルスの前に、AGE-3は全く歯が立たない事が強調されました。代替パーツにより復活したにも関わらず、さらに負けるというのは余程念入りな事です。
 AGE-FXはこうした状況からAGEシステムが新たに生み出した機体でもあります。そしてそれ以上に、キオ自身の姿勢や願いも託される機体でもあります。
 そこで、筆者私が気にしているのは、AGE-FXの顔のデザインです。



 特に、この機体の口元の辺り。
 顔面部の下半分のこうしたデザインは、過去の機体ではあまり例がないように思います。
これまでAGEのガンダムの顔を並べてみると……





 このように、AGE-FXとは違ったデザインです。
 では。口元に波線のように入っているライン、何かに似ていないかと考えてみると……



 どことなく似ていませんか、これに。


 もしそのように見て良いのだとすれば。ガンダムレギルスがヴェイガンMSのデザインにガンダムの意匠を取り入れているように、AGE-FXもまたガンダムのデザインの中にヴェイガンMSの意匠を密かに引き入れている事になります。
 キオがAGE-FXを知ったのは完成後だったようですが、それでもこの意匠はキオが今後の戦いでガンダムに託すものを的確に表している、と言えるでしょう。 
 そして、この両陣営の意匠を合わせ持つ2機のガンダム、AGE-FXとガンダムレギルスが、その後の戦いの中でどのような道を進むのか……というのも三世代編の重要なテーマです。


 さて。一方で、そのキオ・アスノです。
 キオもまた火星圏でヴェイガンの実態を知り、フリットがヴェイガンを殲滅すると主張しているのに対して明確に反対の意志を持つようになっています。
 そして同時に、「ヴェイガンも人間」である事を知ったキオは、AGE-FXの高い性能によって、自分なりの戦い方を選択するのでした。



「敵だって人間なんだ……だから! だから、僕は僕なりのやり方で戦い抜くよ。父さん……じいちゃん……!」



「もはや正体を隠す必要のなくなったヴェイガンは自爆することもない……キオ、相手を殺さずに戦うというのか!?」


 ――不殺(ころさず)。
 敵を殺さずに戦うというこのテーマもまた、ガンダムの歴史を総まくりするなら当然欠かす事の出来ないファクターとなります。
 この、敵を殺さないという主人公のポリシーがエンタメ作品の大きな潮流として浮上してきた画期になったのは、どうやら90年代の少年ジャンプ連載作品『るろうに剣心』であったようです。下記の記事が、非常に詳しく、一読の価値があります。


http://satetsuginokikakuha.hatenablog.com/entry/20051105/p1
http://satetsuginokikakuha.hatenablog.com/entry/20051108/p1
http://satetsuginokikakuha.hatenablog.com/entry/20051114/p1
 この記事の続きが書かれなかった事は非常に残念なんですけども。今となっては貴重な90年代エンタメを巡る証言です。


 このような「不殺」をめぐる問題系は、やがてガンダムシリーズにも持ち込まれる事になりました。
 そもそもガンダムという作品は、それまでのアニメの常道に戦場のリアルを導入する事で展開されたシリーズであり、倒すべき敵のメカにも人間が乗っており、それを倒す事で主人公がおののく事もまた重要な通過儀礼となってきました。カミーユ・ビダンが「無駄な殺生をまたさせる!」と苛立ち、シーブック・アノーが「パイロットは、死んだ……!?」と愕然と呟く、それがガンダムという作品のリアリズムでした。
 しかし90年代を境に、ガンダムシリーズにもこの問題系が入り込んできます。そもそも『るろうに剣心』連載開始とほぼ同時期に放映された機動武闘伝Gガンダム』が、国家間戦争の代わりに武闘大会で覇権を競うとした設定自体、極めてこうした時代の流れを反映したものでした(余談ながら『Gガンダム』は意外にも、あの時代の問題系を鋭敏に先取りし、その上でベタな王道ストーリーを展開するために慎重に時代性を避けて通るような、計算ずくのクレバーさが随所に垣間見える作品でした。いずれ第45話の解説あたりで詳細に書く予定ですが、ガンダムシリーズが、『エヴァンゲリオン』が世間に与えたショックから直接の影響を受けずに済んだのは、Gガンダムのお蔭です)。
 そして、続く『ガンダムW』に至っていよいよこの問題が表面化。



「地獄への道連れは、 ここにある兵器と戦争だけにしようぜ」
 というように、敵パイロットを極力殺さない戦いというコンセプトが描かれる事になります。
 さらにゼロ年代に入っても、『ガンダムSEED』シリーズで主人公キラ・ヤマトがこうした戦闘を実行する形で、否応なくシリーズに「不殺」の問題系が導入される事になりました。
 また、『ガンダムUC』でも、小説版では第5巻で主人公バナージ・リンクスが極力敵兵を殺さない戦闘を実行しようと試みるシーンがあり、近年のガンダム作品にまで確実にこの「不殺」を巡る倫理の問題は後を引いていると言えます。


 もちろん、戦争描写のシビアさが元々のガンダムシリーズの原点であった以上、このような「不殺」はリアリズムを失いテーマ性を歪めるコンセプトであるとして批判されたりもしました。
 その軋轢が一番顕在化したのが、コミック版『機動戦士ガンダム戦記』の「撃つなラリー」事件です(知っている方からは「おいやめろ」という声が聞こえて来そうですがw)。
 敵兵を殺さずに戦うという信念を持った部隊の隊長マット・ヒーリィが、部下に対して「その状況で撃ったら敵兵を殺してしまう、撃つなラリー!」と命令。その結果部下の方が敵兵に殺されてしまうというストーリーで、そのあまりにも本末転倒な主人公の姿勢がガンダムファン界隈で盛大にバッシングされたのでした。


 言ってみれば、ガンダムにおける不殺というのは賛否両論巻き起こる一種の炎上案件だったわけで、避けて通る事もできました。現に、『ガンダム00』の主人公刹那・F・セイエイは終盤に至って、敵とも意思疎通をはかり分かり合う事を目指したいという意向が強く表明されるキャラクターになっていきましたが、「不殺」的な行動や発言は慎重に回避されています。


 こうした中、キオが「不殺」を信念として戦い始めるのは、やはりAGEの作品テーマ、脚本意図と密接な関連があるからだと考えます。実際、AGE作中で示された様々な思想や意見や意志がそうであったように、キオの「不殺」もまた周囲から批判され相対化されていきます。主人公の意志といえど無批判に是とされるわけではない中で、このテーマが作中どのように発展するかについては、ストーリーを辿りながら追々見て行こうと思います。
 さて。



      ▽ルナベース攻略戦


 三世代編冒頭から始まる、ルナベース攻略戦。基地司令がヴェイガンに寝返り、現在はヴェイガン側の拠点として機能している事が語られます。
 元々ロストロウランを発したディーヴァは、その時点では寝返っていなかったルナベースを目指していた事が第33話の時点で言われていました。ルナベースが寝返った経緯などは例によって尺に余裕のないAGE脚本の中では語られません。
 そうまでして作られたシチュエーションである事を念頭に置いて考えてみる事にします。AGEの脚本はここまで、さまざまな歴代ガンダムシリーズのオマージュをストーリーに埋め込んできました。この月面基地をめぐる戦闘もその一つであるとすると……一体どの作品のどの場面のオマージュなのでしょうか。
 ガンダム作品に、月面での戦闘というのは多数あります。宇宙世紀でも非宇宙世紀でも。しかし、月面の拠点を巡る攻防戦で、なおかつ「降下作戦」となると、あまり多くありません。
 映像作品で近いのは、Zガンダムフォン・ブラウン市を巡る攻防でしょうか。シロッコの指揮するドゴス・ギアフォン・ブラウン市へ降下する展開があります。
 が、個人的に、AGEのルナベース攻略戦により近い状況を描いた作品があって、そちらが気になっています。
ガンダムセンチネル』の、エアーズ市攻略戦です。
 月面都市エアーズ市がニューディサイズと共鳴して連邦政府に対して蜂起、これを鎮圧するために連邦軍が、明確に降下作戦を展開しています(その降下の途中に、ニューディサイズが連邦側MSのシステムに仕込んでいた論理爆弾ロジックボム)が発動して連邦側が苦境に立たされるという展開なので、降下作戦である事が殊更に強調されています)。攻略対象が連邦に反旗を翻し敵方に寝返った拠点である事、それに対する(ガンダムを伴う)降下作戦ですから、Zのフォン・ブラウン戦よりもこちらの方が近いと言えるでしょう。


 もし、この脚本が『ガンダムセンチネル』を意識したものだと認めて良いならば、これはAGEの射程の長さを示しているという意味で少し強調しても良い事象です。これまでの解説で見たように、AGEは『クロスボーンガンダム』のような非映像作品をもストーリーに取り入れてきましたが、さらにそのフォロー範囲は模型誌発の小説媒体の作品にまで及んでいるという事ですので。


 さて。ヴェイガン側はゼハートがルナベース基地に合流しており、その指揮を執っています。
 どうもゼハートという士官は、ザナルドのような戦闘専門の将というわけではなく、各種工作活動を専門にしていたような節が見えます。トルディアへの潜入、ロストロウランにも潜入工作のために動いていましたし、そのロストロウラン基地の発見が遅かった事についてザナルドの副官は「ゼハート隊の工作員の質も落ちましたな」と言っています。今回もまたルナベースの寝返りに関わっていたようです。
 そのゼハートは、どうやらビシディアンのキャプテン・アッシュアセム・アスノである事もつかんでいるようで、



「アセム、隠れておけばよかったものを……」
 と内心で呟いていたりします。
 この辺りも、ゼハートがアセムの生存に気づくといったドラマチックなシーンが用意できたところなのですが、そこに尺が割けないのがAGEという作品のつらい所。こうしたところも、小説版では逐一改善されているので、見比べてみると面白いと思います。
 一方、連邦側。
 フリット・アスノは、ナトーラ艦長にプラズマダイバーミサイルの準備を指示。これを巡って二人の間に不穏な会話が交わされます。



「今回の出撃で疑問に思っていたのですが……あれは使用が認められていない兵器です。なぜ搭載して発進できたのですか?」
「アルグレアス総司令の許可は得ている」



「ええっ? そんなはずは……! それに、あれは威力が大き過ぎて……まさか、基地ごと破壊するおつもりですか!?」
「わたしは規定の手順を踏んでいる。疑うというのなら調べてみてくれ」
「……」


 この短い会話の中からだけでも、興味深い点がいくつも指摘出来て、相変わらずの濃縮された脚本にめまいがしそうになります。
 まず、プラズマダイバーミサイル。非常に高威力の兵器である事が会話から察せられます。基地を丸ごと破壊出来るほどの威力となれば、これはいわゆる大量破壊兵器という事になりますが……興味深いことに、ここでAGEは「核ミサイル」というアイテムを登場させません。
 ここまで見てきたように、AGEは歴代ガンダムで取り上げられた重大なテーマは大体網羅して来ています。で、ガンダム作品において「核兵器」もまた無視しがたい重要なモチーフの一つでした。初代ガンダムではオデッサ防衛戦でマ・クベが水爆ミサイルを使用。Zガンダムではエゥーゴへの奸計としてジャブローが核爆弾で破壊され、0083では核兵器搭載のガンダムがメインモチーフでした。Vガンダムではタイヤ戦艦アドラステアの進撃を止めるためにウッソがMSの核融合炉を爆発させて核爆発を起こすシーンがあります(あれは技術的には間違いで、核融合炉ならばあのような爆発は起こらないそうですが)。
 また、∀ガンダムにおける核兵器も重要なモチーフで、核兵器がどういうものかを忘れてしまった人々がそれをぞんざいに扱った結果「夜中の夜明け」が起こり、ギャバン・グーニーが犠牲になるという展開を描き、劇場版では前半を締めくくるエピソードにもなっていました。そしてもちろん、『ガンダムSEED』においては「核は持ってりゃ嬉しいただのコレクションじゃあない」という名言と共に作中で実際に飛び交う事になりました。
 というわけで、ここで出てくる兵器が「核ミサイル」という事もあり得たかと思うのですが、直接そのような言葉を出す事は避けています。一つには、真空である宇宙空間で核爆発が起こっても大気圏中ほどの威力は発生しないため、という事ももしかしたらあるかもしれません(大気圏中では地表の空気が熱量で急膨張して爆風が生じるが、真空中では熱線と放射線の影響しか受けないのだそうで)。
 しかしそれよりも何よりも、やはり核ミサイルを発射する意図を見せたとなると、フリット・アスノの視聴者への心証が決定的に悪くなり過ぎる、という事なのでしょう。この言葉は、日本人にとってやはりその威力以上の意味を持ってしまいます。
 一方で、そんなプラズマダイバーミサイルの持ち出し許可を出したアルグレアスの判断も非常に興味深いです。
 この前のシーンで、フリットはルナベース攻略のための作戦会議らしい



 この場面に同席しています。
 まだこの段階ではフリットは「ただの退役軍人」、つまり立場上は民間人と同じなはずなので、フリットが会議に同席しているこの状況は限りなくアウト、であるように見えます。しかもルナベースの叛乱をナトーラがこの時初めて知った様子であるのに、フリットは既に把握しているらしく背後状況の説明までしていますから、明らかにアルグレアスから直接情報をもらっていると見えます。
 こうしたアルグレアスの判断をどう見るか。やはり人によって違ってくるように思いますが……私の見解を述べるのは、やはり少し後になるかと思います。


 それよりも、先の会話シーンで面白いのは、ナトーラ・エイナスでしょう。お気づきの方もおられると思いますが、ここで彼女は、フリットに対して自分の意思で疑問をぶつけています。これは言うまでもなく、キオ編冒頭での彼女からしたら、大きな成長です。
 そして……重要なのは、ナトーラにこのような判断力と自主性を持つよう導いたのは、他ならぬフリット・アスノだったという事です。度重なる指導に加え、第33話ではナトーラ自らがクルーに指示するよう仕向けてもいます。
 そのようにして成長を促されてきたナトーラだからこそ、ここでフリットのプラズマダイバーミサイル持ち込みについて疑義を呈することが出来たのでした。


 フリットという人物の奇妙な律義さが、ここから垣間見えるように思います。
 キオ編の当初から、フリットはディーヴァのブリッジでクルーに指揮をしていましたし、クルーたちもこれを特に怪しまずに従っていました。言ってしまえば、ナトーラがずっと未熟なままであったならば、事実上ディーヴァの戦力をフリットが意のままにコントロールできたはずなのです。彼が目的としているヴェイガンの殲滅も、より実現の可能性が高まったはずでした。
 しかし、ヴェイガン殲滅という強烈な意志と、かつて連邦軍司令を務め事実上のクーデターを成し遂げたほどの実行力を持ちながら、フリットはナトーラを傀儡にするような狡猾さを持ち合わせていません。キオも、ナトーラも、(そしていずれ見るようにアルグレアスも)自分の頭で考え、判断する自主性をフリットの指導の下で獲得しています。
 そして皮肉なことに、そのようにナトーラが(フリットの意思に疑いを持てるほどの判断力をもって)育ったおかげで、第36話にてキオが拉致されるという事態に直面したフリットが錯乱して誤った指示を行った際、自軍に大損害を出さずに済んだのでした。


 こうした、フリットの立場や性格の奇妙な二重性を、ナトーラ・エイナスは上手く表現しています。通常、敵の殲滅・根絶やしを主張するような過激派は短絡思考な人間に描かれてしまいがちですが、フリットは生真面目で思慮深く、人を育てて良さを引き出す機微も備えている。従ってAGEという作品を真摯に読解する上では、フリットをただの無思慮な他者として、「老害」のような言葉で退けて事足れりとするわけにはいきません。
 AGEという作品は、過激な言動を繰り返すフリット・アスノを、徹底して「身内」として描き通していくのです。


 そして……この「身内」という事の内実を、注意深く見ていく必要があるでしょう。
 ここまでで40話解説の前半を終えた事とし、次回後編として、『ガンダムAGE』という作品が描く「家族」とその問題提起、射程について書いていきたいと思います。
 例によってくどくどしい内容になるかと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次