機動戦士ガンダムAGE 第40話「キオの決意 ガンダムと共に」(2/2)


      ▽AGEの家族描写の危うさ


 『ガンダムAGE』という作品は、三世代にわたるアスノ家、その100年にわたる家族像を描いたという点で歴代ガンダムにおいても非常に特異なコンセプトを持つ作品でした。
 大河ドラマに比すような評も当初ありましたが、いわゆるNHKで毎年放送されているような歴史大河ドラマにおける、時代の激動、国家の動向や戦の高揚に重点を置いて描くような側面はAGEには見られず、その「100年の物語」はもっぱらアスノ家三代の描写に力点が置かれていたと見るよりほかはありません。
 したがって、家族観について論じる事はAGEの中心的なテーマについて踏み込む事であり、非常に重要な事なのですが……そうであるにも関わらず、一般的な「家族論」の観点からアプローチしようとすると、大きく躓くことになります。理由は簡単で、成人後のアスノの女性たち、妻たちが、物語の背景に隠れてしまうからです。
 その事を端的に示すのが、三世代編に入ってからのエンディングでした。




 エミリーもロマリーも、家でアスノの男の帰りを待つ……というように描かれています。
 これまでの解説記事で見てきたように、戦争イメージや「戦う理由」の変遷、組織の形態などについては、その時代時代に合わせた変化が脚本に織り込まれていました。そうであれば、たとえばキオ世代の母は共働きになっているとか、そういう時代ごとの家族形態の変化が同様に織り込まれていても良いはずなのですが、AGEの脚本はそのようになっていません。
 それどころか、このようにヒロインたちが皆「家で待つ女性」になっていく様子は、一見したところ極めて保守的な、というより時代に逆行した家族観を提示しているようにも見えてしまいます。
 かつて、とある国会議員が「女性は産む機械」と発言して盛大にバッシングされた事がありました。女性は家にいて子供を育てていればいい、という単一の価値観は、現在の多様化したライフスタイルや社会の在り方から見ても、もはや通じない観念です。しかしAGEのヒロインの扱い方は一見、「時代に逆行した」描き方に見えます。
 他の部分の描写では時代の移り変わりを鋭敏に作品内に投影していたように見えるAGEが、家族観についてはこのようになっている。この点をどう見るか。



 ……とは言いながら、ガンダムという作品はその性質上、こうした問題は昔からたびたび顔を出していたとも言えます。特に男性視聴者をメインターゲットにしたOVA作品や、模型誌企画の外伝などに顕著でした。
 たとえば『ガンダムセンチネル』は残念ながらその筆頭に挙げられます。この作品は当時のZ〜ZZの作劇に対して、より「リアルな」戦場描写を目標に掲げ、その一環として敵味方のパイロットはすべて男性に設定されました。つまり、戦場は男が行くところ、というスタンスです。
 ところがそうであるにも関わらず、作中の主人公機Sガンダムには、「ALICEシステム」と呼ばれる人工知能が組み込まれています。このALICEは明確に「女性」であると語られ、たびたびSガンダムとそのパイロット、リョウ・ルーツをサポートしました。が――ALICEはリョウ・ルーツの言葉に戸惑い、戦闘を補助しながら逐一反応して思考を重ねるのですが、リョウ・ルーツはALICEシステムの存在自体を知らず、ALICEはリョウへの意思伝達を全くする事ができない、という仕組みになっていました。リョウの言葉を一方的に受け止めるだけで、両者が対話をする事はできないのです
 驚くべきことに、ALICEはリョウという身勝手な男の「わがまま」に初めて接し、そのような環境で戦闘を重ねていく事で「貞淑な妻」になっていくのだ、と本文中に堂々と記載されているのです。
 結局最終決戦でALICEはリョウたちを脱出させると、人工知能の自己犠牲という形で敵と刺し違え大気圏突入時に消滅していく事になります。


 ……以上の脚本について、作品批評の上では辛い点をつけざるをえない事はご了解いただけるかと思います。
 男性しかいない戦場を「リアルな戦場」であると言わんばかりに強調しながら、ALICEという「男性にとってとことん都合の良い女性像」を登場させている事になるわけでした。
 筆者である私は『ガンダムセンチネル』に登場するメカのデザインなどは好きですが、ストーリーラインについてははっきりと低く評価しています。


 一般に、ミリタリー的な戦場ドラマというのは、こうしたホモソーシャルな人間ドラマを構築してしまいがちです。これはガンダム作品と言えども例外ではありません。ガンダム世界を舞台にした外伝作品や二次創作などには、たびたび見られることです。


 一方、富野監督はこうした方面にはかなり意識的であり、上記のようなホモソーシャルに偏った作劇というのは行っていません。むしろ、そうした空気を相対化して取り込む、といった事までやっています。
 以前書いたように、男女雇用機会均等法の成立に前後して放映された『Zガンダム』では、ファーストガンダムの頃に比べて戦場に出る女性の数が増加しました。エリート部隊ティターンズ所属からエゥーゴに宗旨替えしたエマ・シーン、スリルを求めるあまり反ティターンズ運動に参加するレコア・ロンドなど。またエゥーゴの出資者として登場するステファニー・ルオや、複葉機を操縦してエゥーゴのMS運用をサポートするベルトーチカ・イルマなど、この作品には「働く女性」「戦う女性」がかなり登場しています。『ガンダムZZ』では補修艦ラビアンローズの女艦長エマリー・オンスもいます。
 Zは特にセリフにもチクリとくるものが多いようで、エマ・シーン「男って、戦争になると元気で、頭も回るようね」などと皮肉を飛ばしたりしています。
 男性優位の戦場描写に対する強大なカウンターとしてハマーン・カーンが登場し、クワトロ・バジーナことシャア・アズナブル



 屈辱を強いたりする場面もあります。


 とはいえ、Zガンダムはただ「女性の社会進出は素晴らしい、戦場で女性が活躍する時代になったんだ」というだけの作品でもありません。こうした動きに対するカウンターも、また時代を先取りするかのように組み入れています。たとえば、「女が戦場にいるなんざ、気に入らないんだよ!」と言い放つヤザン・ゲーブルは、先に見たホモソーシャル的な立場の代表でしょう。
 フェミニズム界隈では、女性の権利拡張運動に対する反発・反動を「バックラッシュ」と呼びます。日本でこうした動きが表面化したのは90年代とのことですから、ヤザンのようなキャラクターはある意味で時代を先取りしていたとも言えます。
 また、そのような女性を「新しい時代を導く」と言って味方につけるパプテマス・シロッコのような人物も現れました。さらに面白い事に、身を挺して反ティターンズ運動に参加していた、いわば「活動する女性」の典型だったはずのレコア・ロンドが、このシロッコに吸い寄せられ個人的な感情から寝返った挙句「今の私は女として充実しているの」などと、フェミニストが聞いたら噴飯モノのセリフを言ったりするのです(笑)。
 またベルトーチカ・イルマにしても、ホンコンシティにて、二児の母親となった専業主婦ミライ・ヤシマにその言動をたしなめられたりもしています。
 このような複層的で様々な見解、立場が入り乱れる群像劇と化していくのが、ガンダムという作品を批評する際の面白さなのでした。


 翻って、AGEという作品もZガンダムほどではないにせよ、こうした自覚を見出す事は不可能ではないと私は考えています。少なくとも、アセム編以降、ミレースやナトーラといった女性艦長、アリーサのような女性パイロットは出現してきていますし、ヴェイガン側にも優れた副官としてフラム・ナラが登場してはいます。


 それでも、ヒロインが成人とともに表舞台から消えて行ってしまうという点は、やはり際どいですし、実際に視聴していく上でも物足りなさを感じる部分でもあります。
 たとえばこの第40話でも、10年以上ぶりにアセムとロマリーが再会を果たし、



 とりあえずは感動の御対面となるのですが。
 しかし一方で、尺の都合だろうとも思いますが、アセムが海賊などという身分になって帰ってきた事について、ロマリーからもユノアからも何のリアクションも無いままです。家族ドラマを強調するのであれば、そうした会話シーンがもっとあっても良かったような気はします。


 家族をテーマにしながら、妻や母との会話は極端に削られているAGE。では、この作品が家族をテーマとする事で浮き上がらせようとした事は、一体何なのか。もう少し突っ込んで見ていくことにします。



      ▽かつての「家族ドラマ」のパスティーシュとして


 この第40話では、地味ながら見逃せないシーンがいくつかあります。その一つが、



 ここです。
 ディーヴァに同乗し、ウェンディが面倒を見ていた子供たちが、避難していた親の元に引き取られていったのでした。
 以前書いたように、初代ガンダムであれば「小さな防衛線」でジャブローに仕掛けられた爆弾を撤去するなどそれなりの活躍をしていたのに比べ、ディーヴァの子供たちには特に活躍というほどのシーンはありません。キャラクター同士の会話のきっかけを作ったり、場を和ませる効果すらほとんどあがったかどうか定かではありません。唯一、キオが連れ去られて取り乱したフリットに、冷静さを取り戻させるシーンで役立っただけです。
 これでは一体なんのために登場させたのか、という疑問が湧いてきますが、ここにきて「親元に帰る」という場面が挿入された事は、些末なように見えて重要なのではないかと思います。


 ファーストガンダムのカツ、レツ、キッカも、Zガンダムのシンタとクムも、親を持たない孤児でした。そうであればこそ、同じく親と決別あるいは死別したアムロカミーユたちと共に、ホワイトベースアーガマの乗組員たちを「疑似家族」へと移行させる重要な役を負っていたわけです。
 AGEにおいて、同様に主人公たちの艦に乗っていた子供たちが、本来の親の元に帰って行くという事は、疑似家族を巡るテーマが後退し、本来の家族が中心命題になっていく事の宣言というように読み取れます。
 否、それだけではなく、こうした変化は富野ガンダムにおける家族描写、あるいは家族への断念と登場人物たちの孤児化傾向に対する、カウンターでもある。AGEの家族テーマは、先行する富野ガンダムの家族観に対するカウンターであると見た方が良いように思います。


 現代において、たとえば『サザエさん』のような形態の大家族は極めてマレになりつつあります。それどころか、『クレヨンしんちゃん』のような両親プラス子供という家族形態すら、実は少数派に過ぎません。たとえば、東京23区の世帯のうち約50%は一人暮らし世帯と言われています。統計などで「標準世帯」とされる夫婦と子供二人の4人暮らしの家というのは、実はたったの10%弱しかありません(参照)。
 また、いわゆるシングルマザーの家というのも、全世帯数の3%近くを占めています。


 富野監督のガンダム作品に登場する主人公の家族像というのは、こうした傾向を敏感に予見していたと言っても良いでしょう。富野ガンダムに登場する主人公の親は、多く仕事に夢中で子供を顧みなかった、とされています。『Zガンダム』の主人公カミーユ・ビダンは両親が戦闘の最中に死んでいくのを見た後、



「でもね、僕は両親に親をやってほしかったんですよ! そう言っちゃいけないんですか、子供が! 父は、前から愛人を作っていたし、母は父が愛人を作っていたって、仕事で満足しちゃって。 そんな父を見向きもしなかったんです。軍の仕事ってそんなに大切なんですか! 「エゥーゴティターンズだ」って、そんなことじゃないんです! 子供が無視されちゃ、たまんないんですよ!」
 ……と述懐しています。
 また、既に見たように、『ガンダムF91』の主人公、シーブックの母親モニカ・アノーもまた、これまで疎遠だった事を子供たちに責められて「仕事が面白かったのよ」と吐露しています。
 そしてカミーユは両親を失い、シーブックもコスモバビロニア戦争の最中に父親を失っています。ジュドー・アーシタは登場時点で孤児ですし、『Vガンダム』のウッソも戦闘の最中に母親を失い、父親はいつの間にか雲隠れしてしまいます。


 こうした、富野ガンダムに流れている濃厚な「家族への不信と絶望感」は、その後のガンダムの歴史にかなり強い影を落としてきました。それは『サザエさん』的な大家族が時代と共に縮小・希薄化してきた現代の社会事情とパラレルだった(あるいは予見していた)のです。端的に言って、これは正しい。未だに「標準世帯」の基準を両親と子供二人といったイメージに置いている方がおかしいと言わねばなりません。
 ただし――それだけがすべてではありません。


 確かに『サザエさん』的な家族観はもはや現代の事情に則してはいません。しかし、先日永井一郎さんが亡くなったというニュースが流れた際、磯野波平役の声が変わった事に世間の大きな関心が集まった事からも分かるように、『サザエさん』は未だに大きな存在感を持ってもいます。
 あるいは、田舎の親戚一同を含む大家族が、ネット空間で起こったトラブルを力を合わせて解決する『サマーウォーズ』が好評をもって迎え入れられた事からも、同様のことが言えます。創作の機能は「現実認知」だけでもない、という事です。もちろん、『サザエさん』にも『サマーウォーズ』にも批判されるべき点が多々ありますが、そのような家族像を提示する事に対する需要はあると示してもいます。
 少なくとも、弱体化した家族像というガンダム一連のイメージにアンチテーゼをぶつけて相対化する、という道はあり得た。ガンダムAGEの家族観というのがまず第一に、そうした富野的家族イメージへのカウンターであると言うのはそういう意味です。



 実際問題として、AGEの日常パートには、まるで大昔の家族ドラマや映画のような場面が散見されます。たとえば、



 ここ。
 海賊となって生還したアセムフリットが詰問するこのシーン。アセムのふんぞりかえった座り方がいかにもコミカルで、大昔のドラマのようです。ここはさながら、「かつて父と同じ会社に入ろうとして挫折した放蕩息子が、東京に出てロックスターになって帰ってきた」といった風情で、どこかガンダム作品らしからぬ空気が流れています(笑)。ソファやテーブルもSFっぽいものではなく、現代の会社の応接室のような品物で、一見したところガンダム作品の1シーンには見えません。


 若い視聴者には分かりにくかった事でしょうが、こうした場面は、昔の、昭和の頃の家族ドラマのパスティーシュのようになっているのではないかと思います。
 実際、AGEのスタッフのインタビューでも、フリットを「昔の家族ドラマの頑固親父」のようなものだといった発言が見られます。意図的に、こうした時代がかった家族ドラマの要素を引き入れて来たと見られます。ガンダムの歴史において、主人公がこのような大所帯の一員であった事はありません。


 ただし。これは単に、懐古的な意図で繰り込まれたものではありません。
 フリットを「昔のドラマの頑固親父」にたとえるにせよ、その「頑固」っぷりは不良息子を許さないといったレベルのものではありません。敵性勢力ヴェイガンを根絶やしにするまで許さないという、極めて剣呑な「頑固」さです。
 実のところ、AGEは「大家族」のイメージをかなりアイロニカルに作中に取り込んでいます。この点を見誤ると、この作品における「家族」の意味付けが上手く掬えなくなってしまいます。



 先ほどまで、私は富野ガンダム作品における家族観の希薄化について述べていました。しかし実は、富野監督の作品にも、現代的な希薄化にさらされていない「家族」は描かれているのです。
 たとえば、そう。



 初代ガンダムのザビ家とか。
 デギン・ザビとその子供たち4兄弟、さらにドズルの娘でデギンにとっては孫にあたるミネバ・ザビまで。三世代にわたる大家族ですね。
 実際このザビ家の血筋は、その後も十数年にわたって宇宙世紀を騒がせる事になるのですから、ある意味強力な紐帯に結ばれた家といえるでしょう(もちろん、皮肉で言っています)。


 また、『ガンダムF91』に登場するロナ家もまた、マイッツァーとその息子のドレル・ロナ、市井に落ちていたのを連れ戻されたベラ・ロナ、そして入り婿のカロッゾを迎えるなどという形で規模を大きくした(ちょうど『サザエさん』のマスオさんが入り婿だった事が思い出されます)大家族でした。



 実のところ、歴代ガンダムにおいて、希薄化・分散化していない大家族と言うのは、もっぱら敵側に設定されるファクターなのです。主人公が両親と死に別れたり生き別れたりという形で「家」が臨界を迎えた先を生きねばならなかったのと対照的に、ガンダムにおける敵側の家はその結びつきの強さゆえに、あるいはデギンとギレンの対立となり、入り婿としてのコンプレックスから性格を歪ませたカロッゾとなり、という具合に苦悩する事になっていきます。
 ……そのように見ていくと、AGEにおけるアスノ三代の「大家族」のイメージはだいぶ違って見えてくるのではないでしょうか。



 ガンダムというシリーズは、それまでの「倒されて当然の悪」から離れて、敵側にも事情や理由がある、敵も人間だという事を描いてきた作品でした。ランバ・ラルの戦う理由が部下やハモンの生活のためだったりするように。
 しかしそんなガンダムシリーズにも、「これをやったら無条件に倒される敵認定される」という最低限の倫理基準があります。それが、「無差別大量虐殺」です。ジオンのコロニー落としティターンズの毒ガス作戦、ネオ・ジオンコロニー落としアクシズ落とし、カロッゾ・ロナのバグ、フォンセ・カガチのエンジェルハイロゥ、などなど。
 明らかにアナベル・ガトーのカッコよさを描くことが主題だったように見える『0083』ですら、地球へのコロニー落としを敢行する側である以上、ガトーは倒すべき敵であり、主人公は連邦側の士官コウ・ウラキでした。OVAや非宇宙世紀作品まで含めて、歴代ガンダムシリーズが共有している数少ない価値観です。


 その価値観に照らすなら、「ヴェイガンの根絶やし」を最終目標にしているフリット・アスノは、ガンダムの倫理基準的に半ばアウトです。特にキオの目で火星圏の実情が示され、ヴェイガンもまた人間だという事が示された後なら、なおさらでしょう。
 これが、敵勢力に属する他人ならば、排除する事でお話を終わりにする事もできます。しかし、そのような者が身内にいたら、どうするのか?


「人類の十分の九を抹殺」する粛清を行った父カロッゾ・ロナを、ベラ・ロナ=セシリー・フェアチャイルドは自ら殺しに行きます。


 一方で、ガンダム作品の主人公格の一人で、こうした強硬派な肉親に対して対話を挑んだ者もいました。
 ガンダムSEED』のアスラン・ザラです。彼はキラやカガリたちと一度合流したのち、父の説得をするためにザフトに一度帰って行きます。そしてその口から、ナチュラルの殲滅を意図したセリフを聞いて、愕然とする事になります。



「そうして力と力でただぶつかりあって、それで本当にこの戦争が終わると、父上は本気でお考えなのですか!?」
「終わるさ! ナチュラルどもがすべて滅びれば戦争は終わる!」



 結局、アスランの説得は失敗に終わりました。
 最終決戦であるヤキン・ドゥーエ戦において、アスランは父パトリックの元に向かいますが、



 たどりついた時には、既にパトリックは味方に撃たれてしまった後でした。
 ここでは結局、「身内が強硬派の無差別大量殺戮を目論む人だった場合に、主人公はどうするのか」という最終的な結論は、出ないまま終わってしまったのです。


ガンダムAGE』は、この問題を引き継ぎます。キオにとって、フリットは「やさしいじいちゃん」です。その祖父が、倒すべき敵に値するほどの意志を持っていた時に、さぁどうするのか、という問い。
 AGEの家族を巡る描写は、この問いに取り組むために構築されている、と筆者は考えています。


 AGEが「100年の物語」でなければならない理由も、そこに見るべきでしょう。普通の大家族ドラマと、AGEの違い、それは「頑固親父」にも若いころの苦悩と葛藤があったという事を、視聴者と共に追ってきた、それが重要なのだと思います。
 フリットという、過激な言動を繰り返す人物を「他者」にしないために。ただ排除して終わりにする、という以外の結論を探すために、やはり重要だったのでしょう。


 とはいえ、その道は決して平坦ではありません。



      ▽キャプテン・アッシュの立場


 この回、フリットを相手に、キャプテン・アッシュ、すなわちアセムは自分がこれまでしてきた戦いの意図を語ります。



「俺はみんなを守るために戦ってきたし、これからもそうするつもりだ。だが、どちらか一方について戦うことが、本当にみんなを守ることになるのか?俺は思った。戦いが避けられないものなら、両者の力を均衡させればいい」
「ヴェイガンや連邦軍から作戦に必要不可欠な重要物資や情報を奪い、大規模な戦闘を阻止する。それが宇宙海賊として俺がやってきたこと。地球とヴェイガンの均衡を保つことができれば、戦争はこう着状態となり、大きな犠牲が出ることはない」


 連邦側の非、そしてヴェイガンの実情も知ったアセムの選択が、これだったのでした。
 対立している陣営のどちらにも参加せず、発生する戦闘行為自体を解消しようと目論む。こうした中立のあり方は、どちらかというと『ガンダム00』ファーストシーズンの頃のソレスタルビーイングに似てもいます。
 ただし、ガンダム00のCBと決定的に違うのは、持てる戦力。00ファーストシーズン当初のガンダムマイスターたちが、GNドライブの性能も合わせて圧倒的な戦力を持ち、戦闘している両軍を相手にする事も出来た一方で、宇宙海賊ビシディアンにはそんな飛び抜けた戦力はありません。いきおい、物資を奪うなど小規模な活動に終始せざるを得なかった、という事のようです。
(『ガンダム00』はキオ世代、ゼロ年代に放映されたガンダム作品であり、アセムたちの世代とは別のようですが、ここで私がアセムを00ファーストシーズンのソレスタルビーイングに比したのには、私なりの読解の意図があります。これはいずれ……第45話の解説で書くことになるかと思います)


 しかし一方で、アセムのこうしたやり方は「戦争根絶」などというには程遠く、本人も言っているようにせいぜい「膠着状態」を造り出せる程度。根本的な解決にはならない事は明白です。こうした事に、失望した視聴者も少なくなかったでしょう。


 だからといって、



「お前の考えは甘過ぎる! 殺戮を繰り返すものたちを撲滅しなければ、真の平和は訪れん!この戦争に勝利し、ヴェイガンを根絶やしにするのだ!」
 ……というフリットの結論もまた、極端すぎるところでしょう。


 前の回、すなわち第39話で、イゼルカントの思想もまたとてもまともとは言い得ない事が判明しています。つまり、この時点で、大人たちは誰一人として、少年キオに有効な未来のビジョンを提示できていないのでした。


 そうした中で、これからしばらくキオを含め、各キャラクターたちの迷走が続くことになります。
 AGE脚本の力点をたどりながら、引き続きストーリーを追って行きたいと思います。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次