機動戦士ガンダムAGE 第36話「奪われるガンダム」

     ▼あらすじ


 ゼハート、ザナルドの猛攻によって危機に陥るAGE-3。フリットが割って入り、足止めする事で一時は帰還に成功しかけたキオだが、フリットの身を案じて転身、舞い戻ってしまう。そしてザナルドによって捕えられたAGE-3は、そのまま連れ去られてしまったのだった。
 冷静さを失うフリットは、セリックやユノアに諌められて落ち着きを取り戻す。補給のためマッドーナ工房を訪れたディーヴァは、そこでビシディアンのアセムから、キオ奪回の提案を持ちかけられるのだった。




      ▼見どころ




      ▽フリットの惑乱


 この回は、あまり歴代ガンダムへのオマージュや、テーマ的な踏み込みが見られない回です。
 特に大きな進展があるのは次の回以降であり、今回はその準備に徹する回とも言えます。そのため、第36話の解説記事は短めにまとめたいと思います。……大体いつもそう思いつつ、気が付くと長くなってしまうのですが。



 さて、この第36話で最もクローズアップされるのは、戦場で活躍するザナルドでも、連れ去られてしまうキオでもなく、誰よりもフリットであるでしょう。
 キオの危機的状況に割って入ったフリットは、



 たった一人でゼハートとザナルドの足止めを目論み、本当に成功させてしまいます。
 さらっと流してしまってはいけません。これ、とんでもない事です。
 小説『ガンダムセンチネル』で、ガンダムMK-Vのパイロットであるブレイブ・コッドが、MSのあまりの加速度のために奥歯を噛み砕いてしまったという記述があります。それくらい、MSの操縦というのはパイロットの体に負担をかけるはずで、フリットのような老齢でMSに乗り込む事自体が超人的です。年を取ると反射神経なども低下しますし。
 まして、相手は遠隔攻撃端末Xトランスミッターを使いこなすゼハートと、恐らくは機動性も高いだろうザムドラーグを駆るザナルド。AGE-1も性能アップは図られているようですが、それでもとんでもない。宇宙世紀で言えば、ガンダムMk-IIキュベレイとジ・Oの足止めをしているようなものです。
 その上、フリットの操縦テクニックも神業の域。



 ビームサーベルで、ギラーガのビーム攻撃を防いだりもしています。
 劣勢におかれているとはいえ、正に鬼神のような働きぶりです。
(ちなみに、ビームサーベルで相手のビーム射撃を防御するシーンは、『機動戦士クロスボーンガンダム』にあります。多少意識されているかも)


 しかし、そのようにまでしてキオをディーヴァに帰還させようと頑張り過ぎた事が、逆に仇になります。
 ディーヴァの戦域離脱後まで敵を喰い止め続けるというフリットの言葉に、キオが心配をして戻ってきてしまうのでした。



 ここでも、実にフリット・アスノらしい皮肉な展開となったのでした。フリットの努力や配慮や、あるいは家族愛は必ず裏目に出て事態を悪化させます。
 フリットはアセム編でも、



 息子に励ましの言葉をかけて、かえってプレッシャーを与えてしまっています
 この解説記事でもフリット編の頃から縷々眺めて来たように、こうした皮肉な展開が始終フリットにはついて回るのでした。


 そして、孫が連れ去られた事で惑乱したフリットは、



「AGE-3が奪われた。ヤツはディーヴァ後方の艦に向かっている。180度回頭し、フォトンブラスターで阻止しろ!」
 これまで、何があっても冷静な判断を見せ続けてきたフリットが、この時ばかりは感情が勝って無茶な采配をしようとしてしまうのでした。
 第33話に引き続きフリットが理性よりも感情を優先させてしまっている数少ないシーンとなります。彼は、アセム編では因縁深いデシル・ガレットに対しても感情的にならず、連邦軍全体の作戦の進行を優先させる理性的な判断をとり続けるような「理性の人」でした。しかし、キオに関してだけは揺らいでしまう。
 恐らく本放送でもこの頃あたりから、フリットに対して「老害」といった批評をする反響がネット上に増えていきました。その評価自体はあながち間違いでもない。しかし、上記のパイロット能力を見ても分かるように、とにかく何をやっても一流以上の能力を見せるキャラクターが、その能力の高さゆえに非難される事がなかったのは、フリットのこうした人間的な揺れのためでした。
 決して見目の良くない、無様な取り乱し方をする事で、人間離れした能力を持つフリット・アスノというキャラクターがかろうじて共感可能な人間性を保っている、とも言えるのでした。


 そんなフリットの感情的な焦りをセリックが理性的に諌めますが



 激昂を収めるには至らず。



 結局、肉親のユノア・アスノが説得する事でようやくフリットは気を鎮めるのでした。
 こうした辺りに、AGEという作品の人間観がよく出ていると思います。これを是とするか非とするかは見る人によっていろいろあるでしょうが。


 そしてこの直後、



 ウェンディが面倒を見ていた子供たちがMSデッキではしゃぎ始め、



 これを見たフリットが、なんと笑みを浮かべるのでした。
 第33話にて、オマージュ元の初代ガンダムでは活躍していた子供たちが、AGEでは活躍していない、と述べました。なぜ子供たちがキオ編に登場して、ディーヴァに乗っているのか、そのシナリオ上の意味は何なのか……この第36話で、初めてその役割を見せた事になります。
 振り返れば、富野監督の手になるガンダムでは、主人公の乗る艦にかなり高確率で小さな子供たちが乗っていました。ホワイトベースのカツ、レツ、キッカ。アーガマのシンタとクム。スペースアークのリィズやコチュン、ホワイトアークのスージィやカルルマン。
 こうした子供たちがなぜ描かれたかと言えば、前回も触れた疑似家族のテーマを分かりやすくするためでした。小さな子供たちがはしゃぎ回る空間である事によって、軍艦の内部がただの「戦いのための空間」ではなく、まるで家族のような感情豊かな触れ合いを誘発する場になっていた、という事です。
 たとえばZガンダムのウォン・リーのような人物すら、



 シンタやクムと関わる事で、等身大の小父さんの横顔を見せる事になります。


 そして、前回アセムを巡って、「疑似家族」が本物の家族の代替物から、家族と世間の緩衝地帯となる中間的なコミュニティとして読み替えられているのだと述べましたが、ここで子供たちが満を持して役割を果たしたのも、やはり同じなのでした。
 つまり、キオ・アスノの欠落により「本物の家族」の紐帯が危機に瀕した際に、疑似家族的な人間関係が外側から包み込んでフォローする事で、「本物の家族」の決定的な破綻を防いだ、という事なのでした。


 ガンダムは戦争を描いたシリーズであり、テーマ的にもやはり戦争論が中心にはなりますが。しかしこの解説記事をこれまで読んでこられた方なら首肯していただけると思いますが、初代ガンダムの時点からずっと、「家族」といったテーマも重要な問題意識として引き継がれてきたものです。
 AGEは、そうした歴代ガンダムの要素をオマージュとして取り込みつつ、巧妙に組み替える事で問題意識の更新をはかろうとしている、ということです。



 この他にも、つぶさに見ていくと物語の進行や、キャラクターの心情をスムーズに動かすべく為された工夫は随所に見る事ができます。
 たとえば、ロディ・マッドーナが「バカ息子」としてマッドーナ工房に帰るのは、アセムが海賊になって帰ってきたことと相似になっています。そのロディを「良い技術屋だ」とフリットにフォローさせる事で、この後にフリット自身がアセムの提案を受け入れる(アセムの存在を部分的に認める)ことの心情的な伏線になっています。
 このような、展開をスムーズに進めるための工夫は、成功していればいるほど視聴者には意識されないので、案外評価されないものです。が、AGEは明らかに詰め込み過ぎなシナリオを限られた尺に詰め込むために、こうしたシナリオ上の工夫はかなり綿密になされています。この解説の筆者である私は自分でも小説を書いたりした事があるので、AGEのこうした工夫には随所で感心させられるのでした。


 およそこのような経緯で、キオが連れ去られ、アセムが奪還に向かうという展開が描かれました。
 一方の、ヴェイガン側の動きも見ていく必要があります。



      ▽組織の軋み


 AGE-3を鹵獲するため、ザナルド・ベイハートはかなり強引な行動が目立ちました。
 前回の時点で、ディーヴァに対して予定よりも早く接近し始めたり。
 またAGE-3捕獲の際にもゼハートの動きを遮るような形で割り込んだり



 さらにAGE-3確保後、ギラーガを尻尾で弾き飛ばす始末。
 このような一連の行動は、ザナルドの株を下げているように見えます。それにしても目的を共有しているはずのゼハートとザナルドの間に、なぜこのような不和が生じるのでしょうか。
 思うにこれは、ヴェイガンの人材登用法に関わる問題です。


 初代ガンダムの設定などを読んでいると、ジオン公国軍連邦軍に比べ、実力主義の人材登用をしていた事が再三強調されていたりします。そうであるが故に、シャア・アズナブルのような若造が専用機を持ち、尉官や佐官に出世して艦を独自に動かす権限を持つ事もできたのでした。
 しかしこうした方法は利点ばかりではありません。一つには、長幼に関係なく人が採用されるため、若い実力者の出世を良く思わない者が出て来る事。
 そしてもう一つは、登用の基準をしっかりしておかないと、異例の出世などがあった際に味方側にいらぬ不信感が広がってしまう事です。
 結局のところ、同じ目的の元に動いているのに、功績をあげるため「味方を出し抜く」ような動きが出てきてしまうのでした。


 初代ガンダム(TV版)では、このような対抗意識のために、本来作戦指揮などで実力を発揮するタイプと見られるマ・クベ大佐が自らMSに乗り込んでガンダムに挑み、敗れています。
 あるいは、宇宙世紀における初のMS同士の戦闘で犠牲になったジオン兵のジーンもまた、功績を焦ったがために命令違反を犯したのでした。


 ヴェイガンもまた、年功序列によらない、実力主義的な人材登用をしているらしく見られます。ゼハートの度重なる大抜擢がその象徴です。
 しかもヴェイガンにおいては、イゼルカントの一存でかなり人事が動いている様子であり。ゼハートのように少なくない失敗を重ねている人物が抜擢されていれば、味方に不満が募るのは致し方ない所でした。ザナルドがゼハートに、理性的な作戦遂行を忘れさせるほどの対抗意識を燃やしたのも、さもありなん、といったところ。


 連邦側には、このような「味方を出し抜く」行動はあまり見られません。
 たとえば、アセム編の中で、同じウルフ隊のマックス・ハートウェイはアセムに対する対抗意識を燃やしていましたが、作戦中にそうしたスタンドプレーを見せたりはしませんでした(そこまでの実力がまだ無かったという面もありますが)。


 ところが、ゼハートはこのようなザナルドの行動を、すぐに割り切ります。



ガンダムの鹵獲には成功したのだ。問題はない」


 確かにその通りであり、フラムはこうしたゼハートの判断を徐々に信用するようになっていくのですが……しかしこのような物分かりの良さは、事態の好転を促すとは限りません。
 実際、ゼハートのこのような態度は、ザナルドをさらに苛立たせるでしょう。ザナルドにとってみれば、こうした態度は「イゼルカントの寵愛を確信しているからこその余裕」にしか見えないだろう事は想像に難くありません。


 以前にもゼハートは、出世し過ぎたために兄デシルから対抗意識を燃やされ、これを牽制しきれなかったために貴重な戦力であるマジシャンズ8の半数を失い、ノートラム攻略戦を失敗しています。
 ここでザナルドに有効なリアクションを取れなかった事が、後に重いしっぺ返しとしてゼハートに戻ってくる事になるのですが……。
 こういう点で言えば、



「若者をいじめないでいただきたい」
 コンスコンにチクリと言って見せたシャアの方が、処世術の上では幾分か上手のように見えます。


 もちろん、ゼハートの物分かりの良い理性的判断は、結果としてフラム・ナラの実力をストレートに評価する言葉にもなりました。



 撤退間際に行った、フラムの砲撃をゼハートは率直に褒めるのでした。
(なお、Blinking ShadowでさわKさんが指摘していますが、もしフリットの「転進して後方のヴェイガン艦を撃て」という命令をナトーラが受け入れて向きを変えようとしていたら、フラムの放ったこの砲撃がディーヴァを直撃していました。フラムの優秀さを示す砲撃が同時にナトーラの判断の正しさをも示しているわけで、ここでもAGEのシナリオの周到さ(と詰め込み過ぎ具合)が見られます)。


 さて、こうした人間関係の推移を見つつ。
 後々の展開を追うために、もう一つだけ押さえておく必要があります。



      ▽AGE-3オービタルのこと


 前回、初登場したAGE-3の宇宙用高機動ウェア「オービタル」は、シナリオ展開の上で非常に困った位置づけにあります。
 AGEシステムが作り上げたウェアで、一度も勝利する事無くヴェイガンMSに敗れてしまった事になるからです。見せ場が全くなかったわけではありませんが、やはり視聴者としては拍子抜けしてしまう展開でしょう。
 AGEのこうした側面は無論、明確な欠点です。いかにテーマ性の追求が練り込まれていようと、エンタメ作品としての爽快感は決して軽視するべきではありません。富野由悠季監督は、どんなにテーマ的に込み入った回でもロボットアクションとしての見どころを必ず一話ごとに配していたわけですし。


 まぁ、このように新出の装備が大した活躍のないままで終わってしまうといえば、



 V2アサルトバスターという先例が一応、あるにはありますけれども。


 ここでAGE-3オービタルが状況に対処できないのは、フリット編の頃から描かれていたAGEシステムの短所でもあります。そう、AGE-1スパローがファルシアのビットに対処できなかったのと同じ状況です。
 AGEシステムは飽くまでもデータの蓄積に基づいて、最適な装備を案出するシステムです。従って、今までのデータにない状況に一番弱い。この場合はザムドラーグと、ギラーガの新装備Xトランスミッターが初見の相手であったために、オービタルでは対抗できなかったと見るのが正確でしょう。
 とはいえ、ここで(上記さわKさんの記事にもあるように)アスノ家パイロットとAGEシステムという組み合わせが一度、完敗を喫してしまった事には変わりありません。
 この事を、一応踏まえて今後の展開を見ていくのが良いように思います。



 さて。以上の展開を踏まえて、次回いよいよキオ編の核心に入って行く事になります。
 私の考察スタンスでは、言い得る事は実はそんなに多くないのですが……ともあれ、心して取り組みたいと思います。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 かぐや姫の物語


 見てきました。
 元々、『パシフィック・リム』見に行った時にこの映画の予告編を見て、「おぉっ!?」と思った次第で、必ず見ようとは思っていました。
 とはいえ、個人的に高畑勲監督作品には微妙な思い出しかないのも確かで。基本的に見終えた後、釈然としない気持ちで劇場を出た記憶しかない(笑)。『おもひでぽろぽろ』などそれなりに好きな作品もあるのですが、一方で圧倒的に納得いかない作品もちらほらあるわけで。一抹の不安も抱えていなかったといえばウソになります。


 そんなわけで、若干身構えながら見たわけですが。
 結論から言うと、素晴らしい作品でした。
 高畑作品の中では間違いなく一番好きだし、ジブリ映画全体で見ても、その日の気分によってはうっかり五指に入れてしまうかもしれない、くらい良かったです。


 最初にはっきり言っておくと、文芸批評や現代思想の文脈で読み解いても、掬えるところはほとんど無いんじゃないかと思います。フェミニズム的な意味で素晴らしいという評価も一部にあるようですが、そうした観点でも特に新しい内容があるとは思えませんでした。平安時代を舞台にしているせいもありますが、問題意識としてはイブセン『人形の家』と同列くらいじゃないかしら。もしこの作品のフェミニズム的な側面が現在でも有効と読めるなら、それは作品の提示した問題意識が新しいからじゃなくて、この国の女性を巡る環境が全然好転していないせいですw
 他にも、かぐや姫が最終的に是とする庶民的労働賛美とかも、大体思想としてはとうの昔に底が割れてるものじゃないかと思えました。私は思想方面は専門ではありませんが、それでも宮崎や高畑作品への批判としてよく聞かれた指摘から特に外へ出ていたようには、私には見えませんでした。


 しかしですね。
 映画の良さって、作品解釈や考察によって引き出されるものだけじゃないと思うのです。上記のような脚本段階での欠点を差し引いて、なお有り余るほどこの作品は素晴らしかったというのが私の感想です。


 冒頭、まだ姫が赤ん坊である間の、リアルで活き活きとした動き。子供の一挙手一投足を見ているだけで、つい手に汗を握ってしまいそうになる「あの感じ」をアニメで完全に表現して見せる手腕や。
 予告編でも見た、かぐや姫が猛然と走るシーン。静的な平安貴族のイメージを完全に打ち破る、爆発する運動描写、十二単の束縛を振り捨てる女性の身体性の躍動。
 とにかく、全編にわたっての映像の力が素晴らしかった。一秒たりとも退屈しませんでした。


 一方で、かぐや姫に求婚に来る5人の貴公子の成り行きは、いちいちユーモアが冴えていて、可笑しくてずっと笑っていました。帝のデザインも、狙ったのか何なのか地獄のミサワに酷似していて、出ている間ずっと腹がよじれるほど笑っていたw
 面白いシーンは本当に面白い、というのも私はシンプルにこの映画の良さだと思いました。


 私はやっぱり、アニメーションは映像の力がまず何よりも大事だと思って作品を見てきました。宮崎駿作品にしても、作品解釈の深みもありますが、やはり何より映像表現の独創性の面で評価すべき人だと思う。
 やはりある時期以降、スタジオジブリ作品って何か難しい作品テーマ性とかを汲むような見方が当たり前になってしまっていますが、それだけにジブリ作品の鑑賞の仕方(とそれによる世評)にバイアスがかかり過ぎている事には少々不満です。この『かぐや姫の物語』なんかは、難しい思想や文芸批評的な見方ではなく、単純に「まんが映画」として見て良いんだと思う。そのように見られれば、これは力のある、良い作品として楽しめるはずなんです。


 まぁ、もちろん不満点もあったわけですけれど。
 特に『竹取物語』については一時期興味があって調べていたりした事もあって。どうしてもそういう目で見てしまった分で気になったところもありました。
 特に最後、月から来た迎えが、完全に仏教の来迎イメージになってたところは、明らかなチョンボです。「月に都がある」なんてイメージは仏教には無いでしょう。かぐや姫を迎えに来るのは、中国の神仙思想のイメージでなければなりません(神仙思想イメージは、かぐや姫が帝に渡した不死の薬によっても裏付けられるのですが、この『かぐや姫の物語』ではその部分はカットされていましたね)。
 こうした映像作品は後世のイメージ固定に多大な影響を与えるので、こういうところは気を配って欲しかったなあ……。



 あと、気になったのは、この作品が非常に「宮崎駿っぽい」ところでしょうかね。
 終盤になって、かぐや姫と捨丸が気持ちよく空を飛ぶシーンが入っていて、すごく意外に思えました。
 宮崎駿は、『もののけ姫』以降、彼のトレードマークのように言われてきた空を飛ぶシーンについて、かなり抑制をかけるようになりました。気持ちよく飛んでばかりもいられない、というスタンスです。そして引退作となった『風立ちぬ』では今までのファンタジーな設定も捨て去りました。ちょうど、ジブリに来てからの高畑監督が『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』と戦中戦後日本を舞台にした非ファンタジー映画を作っていたように。
 ところが一方、高畑監督は『かぐや姫の物語』で、逆に『風の谷のナウシカ』の頃の宮崎駿作品っぽい傾向に寄ってきているように思えました。上記の空を飛ぶシーンの他にも、たとえば宮崎が『ナウシカ』のモデルとして挙げた「蟲愛づる姫君」を連想させるシーンも作中にありますし、またコミック版『ナウシカ』のように宗教的な救済を否定的に描くメッセージ性もありました。
 宮崎と高畑という両監督が、その作風の面で交差していくのか、というのは色々と感慨も深く、面白いところでもあったように思います。



 もう一つ気になったのは。
 この作品でのかぐや姫の描き方が、見方によっては一種の男性恐怖症というか、奇妙な忌避感を醸している事がちょっと気になったりしました。むろん、求婚者をことごとく拒絶しているからそう見えるわけで、そりゃ『竹取物語』だってそうじゃないか、と言われればその通りなのですが……しかし『竹取物語』のかぐや姫は、あんなにナイーブな描かれ方してないんですよね。燕の子安貝を探す石上麻呂に対して「宝を持ってくると言いながらこんなに待たされて、これでは待っている甲斐(貝)もないわ」みたいな性格悪い和歌を送りつけたりしていて(笑)、さらに石上が亡くなったという知らせを聞いても「少しかわいそうかしら」くらいの感想しか持っていなかったりしますw
 一方の『かぐや姫の物語』では、はるかに繊細な描き方になっている。帝に抱き着かれた時の猛烈な拒絶の表情とか。もちろん好きでもない男にいきなり抱きすくめられたら(時代背景も勘案すれば)当然の反応、とも言えるのですが。それにしても、原作『竹取物語』にあった超然としたイメージ、五人の求婚者を逆に手玉に取ってしまう強さは見られません(そういう意味では、フェミニズム視点ではむしろ後退してるんじゃないか、という気もしないでもない)。
 『竹取物語』のかぐや姫には、なんか清少納言的な勝気な賢さに通じるモノを感じるのですが、日本男性には(女性にも?)そういう勝気さ・賢さはあんまり人気ないからなぁ。
 まぁ、だから、オリジナルとして捨丸とのロマンスを挿入したのかな、とも思いますけどね。あれがないと、本当にかぐや姫が男性恐怖症みたいになってしまう。


 ただいずれにせよ、この作品で描かれた求婚と拒絶の描かれ方のニュアンス、また『竹取物語』では重要人物であったはずの帝の存在感の後退など、なんか結果的に引っかかってしまったところもあったなぁ、という感想も残りました。


 なんだかんだで、考えるところも多い作品なのかも知れません。
 ただまぁ、基本的には映像表現の豊かさを味わうのが良いのだろうと思います。

 昔話と文学



 角川ソフィア文庫柳田國男コレクション、読むのは2冊目。
 上で『かぐや姫の物語』の感想述べた中にちらっと書きましたが、一時期『竹取物語』について興味を持って調べていたことがありまして。いずれ何らかの形で調べた事を出力したいなと思っていたりします。
 その一貫で、柳田國男が『竹取物語』にどんな言及をしているのかが見たくて、少し優先して読み始めた次第。



 先に本全体の感想を言うと、面白かったです。
 伝説とかその辺の、他の口承文芸と比べても、昔話の研究ってどこか捉えどころが無いようなイメージがあって、ちょっと苦手意識があったのですが、柳田のガイドで追ってみるとかなりすんなりと頭に入った感じがします。この辺りはさすが、という感じ。
 また、相変わらず語り口が面白い。『妹の力』よりもさらにリラックスして読んでいました。「桃太郎に日本一の黍団子が出て来るが、一体何が日本一なのか」とかツッコミがいちいち秀逸でw


 そうした形で、昔話の発生と変化を追及していく手際はなかなか面白かったです。
 で、上記の通り竹取物語に関して見ていくと……羽衣説話との関連性を論証する手捌きは見事なもので、私も思わぬヒントを受けてさらにいろいろ考えることが出来ました。
 一方、たとえば月に都が存在するなど、『竹取物語』には明らかに中国神仙思想由来の要素もあるのですが、柳田はそこには絶対触れない(笑)。ただ昔話を少し膨らませて文字化したのが『竹取物語』だというのが彼の主張で、相応の説得力は感じるのですが、やはり柳田の説明だけではカバーできない側面が『竹取』には確実にあると思う。
 全般に柳田は中国由来の要素には冷淡で、その点は注意して読まねばならないのかなとは思いました。民話や昔話ならまだしもですが、古代の文字情報についてはやはり大陸からの影響を過小評価するわけにはいきませんし。
 などなど色々と思うところはありましたが、やはり楽しく読めたというのが一番ですね。少し間は空くかもですが、また読んでみたいと思います。

  生活雑記4



 洞窟内で天井近くの鉱石を採集して、ふと下を見たらこれである。
 ステンバーイ、ステンバーイ。



 またガストさんにネザー拠点の窓割られた。
 もう二度とネザー拠点には窓なんか使わん!w



 露天掘りしに来たら、野良メイドさんが訪問に来ていた。
 癒される……。



 ……いつの間にエンダー先輩に侵入されていたのか……。
 油断も隙もありゃしない。しかもこの地味な嫌がらせ具合である(笑)。



 また君は、こんなニッチもサッチもいかないところスポーンして……。
 仕方ないなぁ、私が上へあがるついでに、外へ出られるようにしてあげよう(←平原を歩いてたら落ちた



 ルーインヒル拠点をTEX-Dテクスチャに変えてみるとこうなります。やはりテクスチャの効果は偉大。
 ちなみに、以前ルーインヒル拠点の建築の模様をお送りした際、いずれインテリアを置くような事を言っておりましたが、その後増え続けるアイテム数にともないチェストばかりが増設され、ご覧のありさまだよ!w



 そして最後に。




 アイテム収集目標、麦の種、コンプリート。
 まぁ、ちまちま進めます。


 そんな感じで。
 次回は新ワールドの開拓記を再開していこうと思います。