Gレコ読解キーワード1:タブー

            (1)はじめに
『Gのレコンギスタ』は、様々なテーマや問題意識が織り込まれた、複雑なお話です。
 毎回、モビルスーツ同士による戦闘シーンなど必ずアクションが組み入れられ、ストーリーが把握できなくても視覚的に楽しめる作品になってはいますが、やはりそれだけでは落ち着かないという方もおられるかと思います。


 本記事は、Gレコのテーマや問題意識を筆者なりに読み解き、分かりやすく提示する事を目的に書いていますが、唯一絶対の正解を提示するものではありません。多くの登場人物、様々な舞台、多くの場面を持ったこの作品には無数の切り口、観点がありえますし、どれが正解という事もないでしょう。
 ただ、差し当たって暫定的に補助線を引いてみる事で、あまりにも多くのテーマが混然一体となったGレコのストーリーについて、考える取っ掛かりにはなるのではないかと、そのような効果を目論んでいます。
 この記事そのものが、あるいはこの記事を読んで違和感を感じたところがあるならば、そこからでも、『Gのレコンギスタ』という作品をより深く読み解く一助になれば、幸いです。


 ……と、少々堅苦しい始まりになってしまいましたが。どうかお茶でも飲みつつ、気軽に読み進めていただければ。



            (2)スコード教のこと


 さて、最初のキーワードは「タブー」です。
 特に前半において、Gレコの物語には様々な「タブー」の存在が語られ、各登場人物の行動を大きく制約していました。



 軌道エレベーター(キャピタルタワー)



 その終着駅であるザンクトポルト



 トワサンガでは、フォトンバッテリー運搬に使われるカシーバ・ミコシなど。


 これらはいずれも、傷つけたり付近で戦闘を行ってはならない「神聖な」ものであって、作中人物たちもこうしたタブー化した物に危害を加えかねない行動に対しては「バチ当り」という言葉でしばしば非難しています。
 このようなファクターは、過去の歴代ガンダム作品においてはあまり登場して来なかった要素でした。比較的近いのは、『Vガンダム』のジブラルタル戦にてマスドライバーが「人類の宝」と呼ばれていたところ、あるいは『∀ガンダム』の冬の宮殿あたりでしょうか。しかしどちらも、それらを傷つけてはいけない/近くで戦闘をしてはいけないとされているのには明確な理由が示されていて、戦闘中止を呼びかける人々もその理由を理解した上で呼びかけていました。『Gレコ』作中の各種タブーのように、明確な合理的理由がないまま「神聖だから」という扱われ方はしていなかったと思われます。


 こうしたタブーという要素のバックボーンとしてスコード教という宗教が設定されており、そのトップである法王は劇中の重要人物です。しかし、このように「宗教」を前面に押し出すというのも、ガンダムシリーズの辿ってきた道から見ると少し傍流な関心に見えます。


 そもそも、『機動戦士ガンダム』(以下ファーストガンダム)に始まる宇宙世紀という世界観においては、宗教的な要素が極めて希薄化した未来世界が舞台になっていました。既存の国の名前は物語の表面に現れず、様々な人種が混ざり合った世界で、「地球連邦」「ジオン公国」という新しい架空の国家同士の戦いが描かれていました。
 これは恐らく、この物語が構想された時代の空気を色濃く反映していたという事でしょう。ファーストガンダム当時に思い描かれた未来像では、個々人にとって宗教・信仰の問題が変わらずあるにしても、社会や世界情勢の前面にそれらが浮上するとは、思われていなかったのだろうと思います。


 『Vガンダム』になって、マリア・ピァ・アーモニアによる宗教国家という異様な体裁をとるザンスカール帝国が描かれはしましたが、どちらかといえば90年代的なカルト宗教の問題を先読みしたような内容でした。


 おそらく、20世紀の時点でなんとなく想像されていた未来というのは、そうした「徐々に宗教色が薄れていく」ビジョンだったのだろうと思いますが……しかし、では現実にやってきた21世紀はどうだったかといえば、これは改めて言うまでもないと思います。
 2001年、新しい世紀はアル・カーイダによるアメリ同時多発テロで幕を開けたのでした。
 挙句、ブッシュ政権下で始まったイラク戦争に至っては、「十字軍」になぞらえるような発言まで出る始末。


 結果として、東西冷戦というイデオロギーによる対立の時代が終わると同時に、世界を二分していた対立軸が消失してしまって、かわりに民族や宗教の違いといった昔ながらの不和要因が浮上して来てしまったり、といった状況がここ十五年の間にいろいろ噴き出してきていたのでした。


 事実上、21世紀に入ってからのガンダムシリーズは、上記のような問題を取り扱いあぐねていた一面があります。ファーストガンダム以来の「宇宙世紀」の世界観は、前述の通り意図的に既存の民族や宗教を脱色した、「人種のサラダボウル」な未来像を強固に描いていたからです。
 そこで無理して宗教に絡んだここ十数年の問題を物語に取り入れようとした結果、小説版『機動戦士ガンダムUC』では連邦議会ダカールを襲撃するシャンブロの操縦者たちをかなり露骨なムスリムとして描き、さらに本文中にさりげなく「貿易センタービル」が破壊されたなどと記述してみたり、といった、かなり露骨な描き方をしていました。
 また『機動戦士ガンダム00』においても、主人公の一人刹那・F・セイエイは中東出身であると設定され、



 ファーストシーズン中盤には、拉致された宗教的指導者を取り戻す、などという展開まであるのでした(#13「聖者の帰還」)。



 『Gレコ』で描かれた時代、リギルド・センチュリーに「スコード教」という宗教が大きな位置を占めて描かれるのは、上記のような経緯と時代の推移を受けての事だ、と見る事はできるでしょう。
 とはいえ、『Gレコ』作中には、『UC』や『00』に描かれたような、現実の世界で起こった事件をそのまま取り入れたような脚本はありません。むしろ、そうした事態の背景にある、より一般化されたテーマを作中に持ち込もうとしているように、私には見えます。


(半ば余談になりますが、このような方法は、ファーストガンダム以来、富野監督が一貫してとってきた戦略です。
 「アメリカと日本」ではなく、「東側と西側」でもなく、「地球連邦とジオン公国」。第二次大戦について発言するには、否応なく政治的な意味が付き従ってきますが、架空世界の、架空の戦争であれば発言者自身の立場を離れて、「戦争」そのものについての思考や意見表明をより俯瞰的に、客観的に行う事ができます。
 『Gのレコンギスタ』において、こうした富野監督の戦略が最も先鋭的に見えるのは、被差別民「クンタラ」でしょう。現実に存在する差別用語は、取扱いに最大の配慮が必要になりますし、うかつに口に出せないが故に、差別問題そのものの話をする事にも多大な面倒さと苦労が付きまといます。しかし、現実に存在する人を一切指し示さない「架空の差別用語」であれば別です。我々は堂々とこの言葉を用いて、差別というものの構造や問題について俯瞰的に考え、語る事ができます。
 これが、架空の物語、フィクションが持つ力の一つです。富野監督はおそらく意識的に、こうした形での問題提起を仕掛けているものと私は考えています)



 そこで、スコード教という設定が、Gレコの物語に大きく影響を与えている要素を考えた時に、やはり無視できないのがこの「タブー」なのでした。
 



            (3)「タブー」の内実


 現代の日本に暮らしていると、タブーというものに関わる事はあまりないかも知れません。あったとしても、「受験生の前で落ちるとか滑るとか言ってはいけない」程度のものでしょう。
 そうした事もあって、タブーといえば「不合理なのに信じられている迷信」といったイメージを持っている方も、あるいは多いかもしれません。


 そしてGレコでも当初は、軌道エレベータ付近での戦闘を忌避し「バチがあたる」などと表現されている事が、単なる迷信であるかのように見えます。過去のガンダム作品において、合理的な理由のないそうした思い込みの類いが、肯定的に描かれた事はあまりなかったからです。
 ところが、Gレコではこうした構図が徐々に覆されています。ベルリたちがビクローバーやザンクトポルトに至った時点ではそこまではっきりしていませんが、舞台がトワサンガに移り、カシーバ・ミコシが登場する頃には、そうしたタブーを生んでいる神聖さが、実際にフォトンバッテリーという、地球で暮らす上でも無くてはならないエネルギー資源の運搬という合理的な理由に根差している事が分かってきています。
 つまり、軌道エレベーターカシーバ・ミコシは、不可欠のエネルギー運搬のために重要なので、これらを危険にさらす行為を「タブー」として抑止するのは合理的な事なのです。


 同様の事は、話の舞台が金星圏、ビーナス・グロゥブに至ってからも見られます。



「そうか、ビーナス・グロゥブの中では、ビーム戦はやらないんだ。やれないんだ! タブーってことか!」(第20話「フレームのない宇宙」)
 ベルリが言い当てたように、ビーナス・グロゥブのオーシャンリングのフレーム付近では飛び道具の仕様は禁忌であると語られています。が、これはすぐ後に判明するように、



「ダメだ! これはダメだぁっ! これはやっちゃならんことだぁっ!」 (第20話「フレームのない宇宙」)


 オーシャンリングを傷つけることは、そのまま内部の水と空気を失う事であり、下手をすれば万単位の人が死ぬような事態を呼びかねないわけで、そういう意味では実に合理的すぎるくらい合理的な「タブー」だったのでした。


 このように、『Gレコ』においては、タブーを尊重することを「合理的」な行為であるというスタンスで始終描いています。


(これも余談ですが、一見不合理に見えるタブーの類いが、実は合理的だったという事はわりとありえます。「雷が鳴ったらおへそを隠さないと雷様に取られてしまう」というのが、雷雨の際には急激に気温が下がりやすいので、へそ=お腹を出していると風邪を引きやすいという隠れた合理性があったり、という類い。この手の言い伝えが、合理的な説明を欠きつつも、長い年月の中で自然と形成された隠れた合理性を秘めていたりする事は、わりとよくある事です)


 こうしたメッセージは、別な側面からも有用であるように思います。単一の価値観の中であれば、タブーをむしろ打ち破る事が状況を突破するというケースもあるでしょうが、異文化との間で、特に異なる文化に属する人々が奉じるタブーを(それがたとえ合理的でなかったとしても)安易に破ってしまう事は、時に深刻な摩擦を生じかねないというのは、たとえば先日起こったシャルリ・エブド襲撃事件を巡る喧々諤々の議論を眺めていても、分かる事です。


 そう、私見では、『Gレコ』において「タブー」が大きくテーマとして取り上げられたのは、他でもない「異文化との接触」という状況が大きく念頭にあったがゆえではないかと思えるのです。



            (4)「地雷を踏まない知恵」として


 筆者はあまり詳しくありませんが、世に「ポストモダン」などと言われて久しい状況です。
 世界的にも、東西冷戦が終わってからこちら、分かりやすい「東側と西側」という対立軸が無くなったと同時に、それぞれ別々の主張と体制と事情を持った国や組織が世界情勢に個別に影響を与えあうような状態が続いています。
 また我々の生活レベルでも、「国民の誰もが好意を持つヒットナンバー」「みんな見ている映画やドラマ」といったものは減る一方であり、それぞれ好みがバラバラなので相手によって話題を変えなければならない状況というのも当たり前になりました。


 それはつまり、相手が嫌うこと、相手の怒りに触れること――会話の「地雷」のありかも、接する相手によって千差万別であるということです。


 誰もがだいたい同じような好みを持っているのなら、「地雷」を避けるのにもあらかじめ警戒すべき話題を先回りしておくことが出来ます。たとえば、かつては飲み会の席では「政治と宗教と野球」の話題を避けておけば大体安泰だった、なんていう話も聞きます。今はそんな単純では済まないでしょう。ゼロ年代ガンダム好きなガンダマーと、宇宙世紀ガンダム至上主義なガンダマーとでは、それぞれに別々で固有の「触れてはいけない地雷」を持っています(笑)。


 世界情勢でも同じで、既に決まりきった相手であれば、避けるべき事をあらかじめ決めておく事も可能です。条約とか、そういう形で。
 しかし、突発的に関わりを持ってきたテロリスト、といったようなのが相手になるとどうでしょうか。その対応において「何をすべきでないのか」は手探りにならざるをえません。


 同様に我々の人間関係においても、相手が何を好んで、何を嫌っているのかがあらかじめ予測しにくい今という時代にあっては、それは実地に会話を交わす中で、徐々に「踏んではいけない地雷」の位置を探って避けていくしかありません。



 ガンダムの世界で言えば、宇宙世紀には「南極条約」という取り決めがありました。生物化学兵器核兵器コロニー落としなどの大量破壊兵器を用いてはいけないというルールが、連邦とジオンの間で交わされていたわけです。これはつまり、「やってはいけないこと」があらかじめ明文化されていたという事です。
 ところが、『Gレコ』の世界で出会う相手は、それまで直接の交渉をほとんど持ったことのない月の、あるいは金星の人々です。そこに、あらかじめ明文化された「禁止事項」はほとんどありません。


 だからこそ、『Gレコ』においては、そうした「明文化されていない、けれどやってはいけないこと=タブー」をいち早く察する能力を、最大限重要なものとして描いているのでした。上に引用したベルリのセリフを見ても分かるように、主人公たちは「やってはいけないこと」を素早く察して、これを避けます。そのような能力が、21世紀という今の時代に「元気で」いられるための重要な能力である、というメッセージを、ここから読み取っても良いと思えます。
 一方で、自分たちが住んでいる場所のタブーなのに、それをうっかり破ってしまったキア・ムベッキのような人もいます。金星のオーシャンリングの底を割ってしまった彼がどういう末路を辿ったかは、劇中でご覧になった通りです。


 さらに言えば、このような「タブー」を介して、



 戦闘状況が収束した事例もありました。(第17話「アイーダの決断」)
 カシーバ・ミコシという神聖な「タブー」が、事実上その場にいる全員にとって合理的にも重要なものであった事から、戦闘が隕石掃除に移行し、深刻な事態が回避されるというこの展開、タブーを巡る『Gレコ』のポジティブな描き方を象徴しています。


 ……と、このように『Gレコ』作中の特に前半戦において、小競り合いが起こりつつも戦闘が大規模化・悲壮化しなかったのは、タブーというものが抑止力として働いていたからという面がかなりあります。そういう意味で、『Gレコ』が新たにガンダムシリーズに持ち込んだ、様々な問題解決のためのパースペクティブの一つとして念頭に置いて見る事は無駄ではないかと思います。
 ただしこの物語は、このような「タブー」を、まったく手放しに問題解決手段として描いているわけではありません。その事が、後半の展開に見て取れます。



            (5)抑止力としての「タブー」の限界


 スコード教の法王、ザンクトポルトカシーバ・ミコシといった神聖な存在による「タブー」は、上述のように物語前半において戦闘を抑止する力として大きなスポットをあてられていましたが、後半になるとその影響力が激変しています。特にベルリたちが金星から地球圏に戻ってきたところ。



「ノウトゥ・ドレッドは法王様を人質にして、カシーバ・ミコシに押し込めたのですよ?」




「我らがマスク大尉が、カシーバ・ミコシを占領してくれましたので、一件落着しました」 (第22話「地球圏再会」)


 法王が人質扱いされ、本来なら傷一つつけることもタブーであったカシーバ・ミコシが争奪戦に晒されています。
 そしてこの22話以降、タブーの類いが抑止力として効果を発する事はほとんどなくなります。ベルリの母ウィルミットは「タブー破りはさせない」と言っていますが……



ザンクト・ポルトから、この低軌道まで戦ってきた艦隊同士が、停戦するなんてこと、あるんですか?」
「あのカシーバ・ミコシを返すというのであれば、可能でしょう。カシーバ・ミコシには、そういう力があるのです
「そのような存在を無視する時代になったと、ラ・グー総裁はおっしゃっていました」
スコード教やタブーの成り立ちが忘れられるようになったことを、お二人のご両親はおそれていました」(第24話「宇宙のカレイドスコープ」)


 スコード教の法王は、こうした発言を最後に物語から退場していきます。
 そしてその事と入れ替わりに、バララ・ペオールの搭乗したMAユグドラシルがドレッド艦隊、アメリア艦隊を急襲、多くの艦船が撃破されます。それまでの戦いからははるかに桁の違う死者が出た事になり、一気に戦いは激しさの度合いを増していくのでした。


 タブー・禁忌はある段階までは戦いへの抑止力として機能しますが、ある一線を越えてしまうと、なし崩し的に無効になっていってしまう。『Gレコ』ではそういう現実も、シビアに描いていきます。何が怖いって、この「なし崩し」が一番怖いわけで。



 ……と、以上のように、とりあえず『Gレコ』前半で目立つキーワードの1つ「タブー」を概観してみました。


 ガンダムの、シリーズ通してのテーマとして「戦いをどうやって終息させるのか」があり、ファーストガンダムからしばらくはその可能性として「ニュータイプ」という、人類が進化して相互理解ができるようになっていく過程が模索されたのですが、AGE解説の第43話でも述べたように、このような「人は分かりあえる」という可能性への探索は挫折したわけで、∀ガンダム以降の富野作品は、ニュータイプに代わる「戦いを終息させる方法」への模索でもありました。
 『Gレコ』で示された解決モデルの一つとして、「タブー」を巡る描写が挙げられるのですが、上記のように作中で既にその限界をも描かれています。では、それ以外に何か描かれた方法があったのかどうか。
 次回、その話をしてみたいと思います。

 殺人狂時代(岡本喜八監督)



 チャップリンの同名映画じゃなくて、こちらは邦画。まぁいずれチャップリンも見るけど。


 とりあえず、久しぶりにゲテモノな感じのものが見たくなったのです(笑)。それでTSUTAYAを物色してたら、いかにもヒドい感じのあらすじを掲げる本作品を見つけたもので、ウキウキしながら借りた次第。
 ……で、そしたら想像以上のゲテモノぶりで、若干食傷しました(笑)。


 いや本当、すごいんですよ道具立てが。冒頭から、不適切な表現てんこもりの昭和風精神病院描写に、ナチス残党、狂気の暗殺集団、スピリチュアル、催眠術、拷問、その他その他、よくもまぁこんなにゲテモノばっかりそろえたなぁと感心するような具合。昭和という時代のバッドテイストがてんこ盛り。
 そこに仲代達也の正体をつかませない演技と、天本英世の堂々たる怪演が加わって、ななだかすごいことになっちゃっているわけで。なんだこれw


 いやでも、ね、これが面白かったのですよ。ものすごく。あまりにもあまりなB級テイストがするんだけど、にもかかわらず、というかむしろそれ故に底抜けに面白いのね。
 やっぱりさ、日本でハリウッド的なスペクタクルアクションやっても、アメリカには勝てないわけですよ。日本であれに匹敵するスタイリッシュさって、やっぱり限界がある。
 しかし逆に、そこに自覚的になって、むしろゲテモノやイカガワシイものをてんこ盛り状態にして、「何でもアリ」な空間にしてしまう事で、ハリウッド的スペクタクルが混ざり込んでも違和感なくなるんですよ。火薬による爆発とかアクションシーンを「日本人がやってる」事に違和感がなくなるの。これは、計算してやってるとすれば、やっぱりすごい。
 実際、不覚にも終盤になって、仲代達也演じる主人公がだんだんとカッコよく見えてくるんです。ド近眼で水虫持ちの、ダサさMAXな人物だったはずなのに。そこが凄い。


 実際日本人の想像力って、正統派にスタイリッシュを目指すよりも、あえてジャンクなもの、ゲテモノ、猥雑なもの、カオスなものを取り入れた方が活性化するような気もする。
 いずれにせよ、このぬけぬけとした味は悪くないです。いっぺんで好きになりました。


 なんか最近は忘れられかけてる気がしますが、昭和エログロナンセンスとその系譜って、ずっとあったんですよね。今だと大槻ケンヂとかが辛うじて継承してるような。私は以前たまたま、戸川純のアルバムを、特に何の心の準備もないまま聞き始めてしまって、あまりの衝撃に「うぎゃー! うぎゃー!」ってなったんですけど(笑)。けど実は今日のアニメとかオタク文化にもかなり影響与えた分野だったハズだし、あの辺もいずれ余裕があったら掘り返したい感じもしています。まぁ、そんな余裕ないだろうけど(笑)。


 そんな感じ。実のところ、邦画については黒澤明監督作品、あと小津安二郎作品くらいしか見るもの思いつかなくて、他に何見たらいいんだろうかと迷ってたんですが、岡本喜八監督の作品は見ても良いかなと思えました。ようやく邦画を巡る端緒を掴んだ感じです。
 というような。

 オズの魔法使


オズの魔法使 特別版 [DVD]

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 これも前から見ようかなと思ってた作品の一つ。
 正直、今の時期はお仕事が忙しくて体力的に余剰があまりないので、あまり重くない、気軽に見られるものを選んだつもりだったのですが、実際に見てみたら、なんか色々考えてしまったというわけで。


 まず総評として言えば、ものすごく面白かったわけです。映像表現として、随所に見どころや面白さがありました。特殊撮影や効果なんかも今日から見れば技術的にははるかに出来ることが少ないはずなんですが、見せ方が上手いので気になりません。西の魔女初登場シーンとその退場とか、普通にびっくりしてのめり込んで見てしまいました。
 随所にちりばめられている小ネタとかも面白く、退屈せずに見終えられました。


 そういう、表現の素晴らしさの面で、とかくさすが名作という感嘆もあったのですけれど、同時にどこか、違和感を感じる部分もあって、そのことでけっこう考え込んでしまったのでした。


 一番感じたのは、やっぱりあれですよね、大魔王オズの正体ですよね。あれ見た瞬間の私の中の動揺は相当なものでした。そんなちゃぶ台返しありかよ、って(笑)。
 要するに、あれって「ミッキーマウスの中の人見ちゃいました」って展開なわけじゃないですか。もちろん、それはオズに限った事で、西の魔女とかの魔法は本物なのだって事でしょうけれども……それでも、本物の魔法や不思議な住人たちが住んでるファンタジー世界の人たちが、機械仕掛けのハリボテを支配者として仰いでた事は変わらないわけで。あの、いわゆる一般的なファンタジー世界にわざと亀裂を入れるような展開が、やっぱりすごく気になったというのが第一のこと(まぁこれは、原作の絵本でもそのようになっているようですが)。


 そうして話の展開を反芻しているうちに、どうもこの作品が全体的に、すごくソフィスティケートされている、つまり都会的な感性で作られている事が、違和感の原因なんだという結論になりまして。


 たとえば西の魔女の城に行く過程で、脳がない(=知恵がない)ハズのカカシが、明らかに知恵の回った機転によって事態を打開していったり、また勇気が無いはずのライオンが勇気を見せたりしている事が描かれていますけれども。それを踏まえて、化けの皮のはがれたオズが、カカシやブリキ男やライオンに与えるのは、証書とか勲章とかなのでした。つまり「知恵も勇気も、自分で無いと思ってるほど実際に欠けているわけじゃない、ただそこで自信を持てるようなよすががあれば良いんだよ」っていうわけで……分かるけど、童話世界の出す答えにしちゃあまりに現代的だよね(笑)。なんか心理カウンセラーみたいじゃないですか、これ?w


 また、ドロシーは冒頭で東の魔女を結果的に殺し、またオズに言われて西の魔女のホウキを奪うため(これは実質殺さねば手に入らない事が劇中明言されますが)に城に出向きますし、実際ドロシーによって西の魔女は殺されるのですけれど、劇中で、一貫してドロシーの「殺意」は否定されるんですよね。あくまで、カカシに燃え移った火を消すために水をかけたら西の魔女にかかっちゃっただけで、「殺すつもりはなかった」とわざわざセリフでまで明言させている。
 それってつまり、西の魔女がどれほどの悪人であっても、「子供が見る童話の世界で、主人公が明確に相手を殺そうとするなんてよくない」という、極めて現代的な倫理問題に配慮されている事が明確です。うちのブログでたびたび話題にしている言い方で言えば、日本で1990年代『るろうに剣心』以降顕在化した、「不殺問題」ですね。
 たとえば、今私が読んでる『グリム童話』なんかで言えば、悪い魔女とか継母とかは当然のようにグロい殺され方をされるわけであり。『オズの魔法使』でこうした点に配慮がされているというのは、やはり明らかに感性が都会的なのでした。


 「大事なものは遠くへ取りに行くんじゃなくて、実は身近にあるんだよ」っていう結論めいたメッセージも、ある意味すごい都会的ですよねぇ。学校や会社がある現代人にとって、どんなに遠出してもせいぜい数週間から数か月、結局は社会生活の中に戻るしかないっていう現実に沿ったメッセージでもあるわけですよ。


 で、やっぱりそこが、違和感として引っかかるんですね、私みたいな人間には。こう、私の中の童心が不満を述べるわけです(笑)。未だに子供なもんで、「ファンタジーな世界は君の心の中にあるんだよ」じゃなくて、「ファンタジーな世界は、どこかは分からないけれど世界のどこかにきっとあるんだよ」って言ってもらいたいんだな(笑)。
不思議の国のアリス』も夢オチだけど、「お前が赤の王を夢見ていると思っているかも知れないが、逆に赤の王がお前を夢見ているのかもしれない、赤の王が目覚めたらお前は消えてしまうのかもしれないぞ」っていう逆襲もしてくるような、もっとアイデンティティを揺さぶってくる世界なわけです。それくらいの存在感というか、緊張感が異世界には欲しいんですよね。


 まぁそんなわけで、色々と述べましたが、そういう違和感の部分も含めて興味深く見た、といったところです。やはり一見はしておいてよかったと思えました。
 さてと、次は何を見ますかね……。

 神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集


新編 日本古典文学全集42・神楽歌/催馬楽/梁塵秘抄/閑吟集

新編 日本古典文学全集42・神楽歌/催馬楽/梁塵秘抄/閑吟集


 職場の休憩時間にちまちま読んでいた本をようやく読了。購入時のレシートを見たら、なんと2013年9月からずっと読んでいたのでした。


 まぁ、以前から何度も書いている通り、私は韻文は比較的苦手で。この本も、どれくらい読みこなせたかは正直自信がありません。が、注釈部分だけでも、面白い情報や知識はいろいろとあり、それらを拾うだけでもわりと有意義だった感じはありました。


 神楽歌と催馬楽は、当時の神事なんかと深いかかわりがある歌謡ですが、そのわりに非常に大らかというか何というか。「神事に関わる巫女さんにこっそり手ぇ出しちゃった、てへぺろ」みたいなとんでもない歌もあって(笑)、古代の日本人って本当、こういうところユルいよなぁと感心するやら呆れるやら。
 梁塵秘抄はさすがに色々と感じる所も多く。自分に仏教的な素養が全然ないのだなという事を痛感させられて頭を抱えたりもしましたが、全体的には伸びやかで読んでいて大変楽しかったです。多分ベタなんだろうけど、やはり「遊びをせんとや生まれけむ」とか、「舞へ舞へ蝸牛」とかの、稚気を感じさせる歌が強く印象に残ったかな、と。たまにそういうのに出会うと、仕事の疲れが抜けていくような良い気分になったりして。
 また編纂した後白河法皇が、今様に関するあれこれを綴った「梁塵秘抄口伝集」もありまして、まぁ徹夜で今様歌いまくったとか、歌い過ぎて声出なくなった、とかいう事を延々と書いており。よくやるよ、と呆れる反面、一介のカラオケ好きとしては若干好感を持たざるを得ない部分も(笑)。
 閑吟集については、室町時代禅宗系文学の、世をはかなむ感じは正直あんまり響いてこなかったのですが。ただ、謡曲からとられた小唄も多くて、むしろそちらにはけっこう関心が向いたりしました。いずれ謡曲にも目を通してみようかな、という気分になったり。


 そんな感じで、断片的な印象ばかりですが、それでも読んだ甲斐はあったかな、という感じです。
 大体こんな感じ。