『魔術 理論篇』

魔術 理論篇

魔術 理論篇


 東洋の魔術はけっこう齧っている私ですが、西洋魔術は今までほとんどノータッチでした。なので今回、気が向くにまかせて読んでみた次第。
 高校時代、友人たちが盛んにこの辺の話をしてて、やれYHVHだの、テトラグラマトンだのって言ってたのをいつも横で聞いてたから、何かちょっと懐かしさも感じながら読んでました。


 中盤くらいまでは結構ついていってました。著者も自然科学的な見地と可能な限り齟齬をきたさないように、慎重に筆を運んでいましたし、「なるほど、それは確かに一理あるね」っていう感じで途中まではついていけてたんですが……。
 話が「アストラル界」という、精神世界の事へ行ってしまった段階で、見事においていかれました(笑)。
 まあ結局オカルティズムの話なので、どっかで、実証主義を飛び越えてしまう瞬間ってのがあるんだろうな、っていう事でしょう。本からの知識として取り入れるだけの私のような人間は、その断絶を飛び越えるほどの度胸も必要も持ちませんのでね。


 とはいえ、有意義で楽しい本ではあります。
 著者の方も間違いなく理知的で頭の回転の早い人でしょう。それでいてジョークの才もなかなか。思わず笑ってしまうことが何度もありました。さすが魔術に関する本だけあって、ジョークもブラックな感じ(笑)。
 少なくともこれの前に読んでいた『パンセⅡ』の排他性よりは居心地もいい。


 本書は二分冊のうちの理論篇。主に原理とか大まかな心構えの説明という段。
 特にその中で、呪文を唱えるにあたっての言葉の重要性みたいな事を語るくだりを読んで、今まで自分の中でなんとなく掴んでいた「呪文・詠唱の意味」的な部分がおおよそ的外れでないことを再確認できたかな、という点で面白く。
 ファンタジー小説で出てくる呪文について友人に話した事だったんですが、要するに呪文ってのは詩的な言葉遊びであってはならない、という話。あれはたとえるなら、言葉によって、世界を動かしているシステムにハッキングして、そのプログラムを書き換えようという意図でなされる所作なんだということ。ミサの祭儀で、司祭が聖餅にむかって「これは我が体なり」と唱える、そうする事によって、その「聖餅」が「体」であるという情報に書き換えられる。基本的な仕組みはそういう事なのである。
 これは日本だろうと東洋だろうと西洋だろうと基本的に変わらないように思える。アブラカタブラだろうと急々如律令だろうと、原理としてはほぼ同じで、そういうシステマティックな発想のものなのだ、という話。
 京極が良く言ってる「式神の式は数式の式」っていうのも、そういう意味だろうしね。


 さて、これから二分冊のもう一方、実践篇を読み始めます。具体的な呪文とかお札とか出てきて楽しそうですよ?(笑)