「クラスメイトが死んだんだが」について


http://nullpo.2log.net/home/sevenstar/archives/blog/vipoir/2006/01/16_155926.html


 あちこちで「壮大なネタだろう」という言説が散見されて、かえって違和感。
 私としては……こういう風な感じ方はアリだと思ってるから。
 ……なんて書くと、私も薄情者の仲間入りなんだろうけど(苦笑


 私が尊敬するネット上のモノカキさんに、じょうのさん、という方がいる。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/
 ここの人。この方の過去の文章で、今でもずっと繰り返し読み返している文章の一つにこんなのがあって、上記の葬式に関する話し合いを見て咄嗟に思い出した。
 長いけど引用する。

 鉄道事故で自己犠牲によって死んだ留学生を人々が褒め称えている。かれは立派だ。だれもそんなことに文句をつける気はない。しかし同じように立派な人々は無数にいるだろう。立派な行為を手柄顔に触れ回り、聖人としてまつりあげる行為の陋劣さをわたしは云いたいのだ。田中真紀子がテレビの前で泣いて見せた。だが、見知らぬ他人の死がかなしい筈はないではないか。悲しみはそのひとと具体的に触れあった結果として生成されるものだ。悲しみはわたしがそれによって失ったものによって裏打ちされる。他人はいわば悲しむ権利などないのであり、それが死者への礼儀の筈である。現に悲しくないのに、その場で悲しくなるのは単なる感情移入の成せるわざにすぎない。そうした見せかけが悼みとして正当だとでもいうのだろうか。政治家の涙は他者の死を搾取しようと云う愚劣だとしか私には思えなかった。立派な死など無い。死はいつも下らない。かれは死なずに助けることが出来たらもっとすばらしかった。死んでしまったのは残念なことだ。死に繋がるかも知れない行為をすることは勇気ある行為であり、尊敬に値する。しかし、それによって死が尊敬に値するものになるわけではない。彼は立派だが彼の死は残念だ。それがまっとうな態度ではないか。他者の死について、軽薄に、たとえ賞賛であれ意味を与えることには、わたしは為にするものを感ぜずにいられない。あたかも彼があなた方のために生け贄の羊として死んだかのような聖別や罪責感を、感じることこそ、傲慢ではないか。他人の死のまえで絶句する礼節をなぜ人々は持たないのだろうか。


 強調部分は私の手になるもの。
 とはいえ思うのは、「悲しみはわたしがそれによって失ったものによって裏打ちされる」というのを筆者私がうなずく限り、大して親しくなかったクラスメイトの死は、それに応じた悲しみと重みしか私にもたらさないだろうと、そう思うのだ。
 上記のリンク先の、クラスメイトの葬式を悲しがらないスレ主への批判でよく見られる「遺族の気持を考えろ」的な言説も、的外れなもののように思える。そりゃあ、遺族から見られた時に失礼に当たらず、見苦しくないように「死の前で絶句する」ことはする。儀式である以上、神妙な顔で出席はする。けれど、それ以上を求められても困るのだ。遺族の悲しみを自分も感じるような気になるのは、それこそ感情移入だろう。
 感情移入による、錯覚の悲しみはそれ自体は別に、他人がどうこう言うたぐいのことではない。けど、そういう悲しさを「正しい」ものとして振りかざすような批判は、個人的に非常に息苦しくて、やりきれない。そのクラスメイトの死は、その人との距離や関係によって周囲の人に、それぞれの大きさの悲しみや重さや意味を振り分ける。肉親は悲しいだろう。親友も悲しいだろう。親友というほどでもない友人は、それよりちょっと少なく悲しいだろう。
 彼をまったく知らない人は、まったく悲しくないだろう。
 それが、それぞれの立ち居地から真摯に向き合った、「その人の死」という重さではないのだろうか。私はそう思うのだけれど。


 このリンク先のスレ主への批判を読めば読むほど、「愛国を憲法に明記すべきだ」という話を聞いたときと同じ息苦しさを覚える。
 いとしいという気持ちを、愛するという行為を強制する事なんてできないだろう。
 同様に悲しいと感じることを、悲しむことを強制しようとする言説も、間違っていると思うのだ。
 そうした感情は常に、あるがままに生起して、そして去っていく。
 少ししか悲しくなかったなら、亡くなったクラスメイトと私との間に、それくらいの距離が開いていたのだ。だからといって、彼の死が貶められるわけではない。
「悲しがるべきだ」と言わんばかりのことを、私は書けない。そういうのを見ると、怖くなる。