現状

 どうにか、本日の執筆で全四章中の第一章を書き上げ。
 とはいえ遅れている状況はかわらず、このまましばらくペースを上げ続けねばなりません。けっこう体力的にキツイんですがw
 今日も朝食兼昼食がインスタントラーメン、夕食がコンビニ弁当という惨状。実家からもらってきた大量のレタスをもりもり食べて無理やり栄養の釣り合い取った気になってるという(笑)。


 ともあれ、こんな状況なので折角の日記も、更新ペース遅めでなんだかなぁという感じ。




 ちなみに、今書いている小説がどんなものかについて。


 アメリカの仕掛けたイラク戦争によって、決定的に死んでしまったなぁ、と実感した単語が一つありました。
「正義」。
 あの戦争は、一面でメディア戦争だなんて言い方がもてはやされたりしたような気がしますが、とにかく、どちらの陣営も正義をうたってて、要するに「俺の方が正しいんだ」って言い合うだけなのが正義なんじゃん、という空気がだいぶ流れたような気がします。
 また、世の中を善と悪の二項対立に分け、その一方である悪を切り捨てるだけで事足れりとする事がいかに安直かも、ちょっと気の利いた思索家や批評家なら口にしている話。
 悪の名の下に相手を断罪する、その行為は悪ではないのか、っていう。


 たとえば。
 身内を殺された被害者が、殺してしまった加害者に対して、「私は被害者なんだ」という主張の元に、あいつを死刑にしろと叫んだとき。
 そこには、被害者と加害者の逆転現象が起こっている、と見ることもできる。
 その人の量刑がすでに懲役何年とか決まっていても、なお死刑にしろと叫ぶとき。その人は被害者の名において加害を加えようとしているわけです。
 実は被害者と加害者ってのは、たやすくグルグル入れ替わるものだったりします。
 これは戦後、ソ連強制収容所に収容されていた日本の詩人、石原吉郎さんの本に詳しく乗っている話。興味のある方はぜひ読んでいただきたいのですが……

望郷と海 (ちくま学芸文庫)

望郷と海 (ちくま学芸文庫)

 絶版で手に入らないかも(汗)。古書店とかで見かけたら是非買ってね、ということで。


 まあでも、戦争で隣の国の少なからぬ民間人を泣かせて、それに対して「戦時中わが国の国民が日本人に色々被害加えられたんだから」って60年たっても未だに騒いでる国があって、さらにそれに対して日本人も嫌韓とか嫌中とか言って相手の国を毛嫌いして。
 こんな風に、被害と加害はくるくるすぐに入れ替わるもんだってのは、いくらでも事例が挙がるわけですw


 話が脇に逸れましたが。
 正義と悪だってこんな風に入れ替わるもんなんだろ、っていう事は、肌で感じてる人もいるんじゃないかな、と。
 少なくとも今、確固として「正義はある」って主張できるやつって、珍しいんじゃないかと。


 そうすると逆に、「正義はあるよ」って、言いたくなるのです。
 この捻くれ根性こそが作家の本分なのですが(笑)。とにかく、正義をテーマに小説を書けないかという着想を持ちました。
 そして、それは私にとっての原点の一つ、幼稚園から小学校の頃に浴びるように見続けた、特撮ヒーローものへの回帰をも促した次第。
 正義が、当然のようにブラウン管の中で輝き、受け入れられていた時代がありました。今、その時代を回顧した人々の「あの時代には正義があった」という呟きも、出版物やメディアの中で多く見受けられるようになった気がします。
 逆に若い方にとっては、その時代の特撮ヒーローの空気は、目新しく映るんじゃないか、とも思いました。


 そう。
 私が今書いているのは……特撮ヒーローものだ!(な、なんだってー!


 今一度、「正義」という言葉に説得力を持たせるために。
 小説のタイトルは――『ヒアイズ、ジャスティス!』